2010年1月29日

折り返し地点

人生を「マラソン」に例える人がいる。
そして、決まってその「マラソン」には、「折り返し地点」が存在している。
「人生の折り返し地点」、なんて言葉もよく耳にする。

でもよく考えてみると、人生に折り返し地点なんてあるわけがない。何故なら折り返しということは、元の道をまた戻ることになるからだ。

ということは、また高校生~中学生~小学生と遡り、最後のゴールは生まれた時?お母さんの子宮の入り口?まさか。
そんな人生の例えは、何となくイヤだと思う。

もしもこの世に別れを告げる時がゴールだとするならば、僕はそのゴールテープは切りたくないと思うし、ゴールの手前で途中棄権して、次のレースに備えたいぐらいだ。

「あいつ、ゴールの目前で途中棄権したんだよな。ははは。」
単に「戸籍謄本」という記録に残るのではなく、いつまでもみんなの記憶に残るような、そんな人生を歩んでみたいものだと思う(そういう意味においては、父の生き様は凄いと最近思うようになった)。

今日、39歳の誕生日を迎えた。いよいよ不惑へのカウントダウンがスタートした。人生のスタートは39年前に始まっているが、本当の意味で人生を謳歌するスタートは、実はまだ切っていないのかも知れない。

僕には人生のゴールがどこにあるのかわからない。
いや、わかるはずがもない。
記録を競うようなマラソンよりも、日々暗中模索しながらゆっくりと、ダラダラかも知れないが、一歩一歩しっかりと踏みしめていくのが、性に合っているような気がする。

僕の人生のスタートとゴールは、全く違うところにあるはずだ。だから、僕の人生には折り返し地点なんてないのだ。

いい年扱いたオッサンの誕生日にあたり、いろいろメッセージを頂きありがとうございます。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
気張らない程度に、頑張ります。

2010年1月28日

介護の大変さ

チョコの突然の下半身不随から4日が経った。いろいろ調べてみると、発症から2~3日で呼吸困難を起こす...ということで、家族一同それ相応の覚悟を秘めながら毎日を過ごしているのだが、様子を見ていると一進一退といった状況だ。

まず、排尿について。医師からはこれが一番気がかりということだったのだが、火曜日の朝に微量ながら排尿しているのを確認して出勤、その後母が、抱きかかえたチョコの下腹部を撫でてあげたら、大量に排尿をしたそうだ(ちなみにペット用シートを敷いていたので、そういう意味での被害はなかった)。この日の午前、再度病院に行ったところ、「良くもなっていないし悪くもなっていない。」という、我々にしてみれば全く期待外れの診察の後、自発的な排尿ができないため、導尿カテーテルを通して貰った。
火曜日夕方には血尿(それもかなり赤い)が確認され、いよいよか...と覚悟を決めたのだが、翌朝には再び元の尿の色に戻っていた。
排便も自発的ではないため、我々が処理してあげなければならない。実は今朝も急にガタガタと震え始めたため、何事かと心配したのだが、何ということはない排便したということを知らせたかっただけのことらしい。早朝からこういう作業をしなければならないのは、決して楽なことではない。だが、我々がしてあげなければならないことというのは、こういうことなんだということを感じながら、処理が終わる間、チョコを抱きかかえていた。

続いて食欲について。水は頻繁に飲む。最初は牛乳に混ぜて薬を飲ませていたのだが、医師から「腎臓などの負担になるので牛乳はやめるように」と、火曜日になって指導されたそうだ。

まったく、そういう話は全く聞いていなかったし、考えてみるとこちらの不安を煽るばかりでインフォームド・コンセントも全然なっていない。
今はどこの病院とは言わないが、次回はちょっと突っ込んだ話を医師に聞いてみて、それを録音したものをネタに訴訟にでも持ち込みたい気分だ。

一方、固形物は、昨日になってわずかではあるが口にするようになったそうだ。それもあってようやく排便するようになったのだろう。ただし、肛門のあたりに出血が見受けられたのが気になるところだ。

何せ相手は犬なので、どこが痛いとか何をしたいとかいうことが、ほとんどわからない。いくら5年一緒にいたからって言葉が通じ合うわけではないし、チョコの考えていることも残念ながら我々には伝わってこない。あの日以来チョコは、「ワンワン」と鳴くことはなくなった。しかし、頻繁に「クンクン」と愚図るように鳴く声が、我々に何を求めているのか、なかなか理解しがたく、苦労しているというのが実態だ。

特に酷かったのが一昨日の夜で、何せチョコ自身がほとんど睡眠を取っていないため、よほど疲れが溜まっていたのか、目を開けたまま寝てしまうといった状態、しかも真っ赤に充血した目は瞳孔が開いているようにも見えて、いよいよ「その時」がやって来たか、と僕自身がおののく始末。
妻や母にいわせると、「誰かさんも同じように目を開けたまま寝るよね」と一笑に付したが、僕は何か胸騒ぎがして、結局寝たり起きたりの繰り返し。寝た心地がしなかった。一方のチョコはずっと起きていて、可哀想な鳴き声をずっとあげていた。結局それも杞憂に終わったわけたが、その間「2~3日中に...」という医師の言葉が頭の中をずっと駆け巡っていた。

そういう意味においては今回、犬とはいえ「介護の大変さ」を、身をもって知らされることになった。まだ(いや、もう?)4日目ではあるが、日中は母が面倒を見て、夜は我々が面倒を見るという役割分担も、自ずと出来つつあるし、少なくとも我々の生活のペースは今、チョコを軸にして動いているといっても、過言ではないかも知れない。

「オラ、年取ればアダッって、毎日毎日「イック(妹の名前)、ションベ(小便)、ババ!」って叫ぶんだ。」と冗談交じりに話していた、生前の父のことを思い出す。
父は結局介護どころか、あっという間にこの世から去ってしまったが、今こうやってチョコに対して行っている「介護」が、実は父が我々に与えた「宿題」の一つなのだろうかと、都合の良い解釈をしてチョコと向き合っている。

「余命」といわれた一週間まで、あと3日となった。
正直見たところでは、そんなに悪くなっているという印象はない。
そして、何故かわからないが、「もう駄目かも知れない」という意識は薄れ、「このままでもいいかな」という受容の気持ちが生まれつつある。この先どうなるかなんて誰もわからない。でも、まずは自分の中にある不安を取り除くことが、チョコを不安に陥れない方法の一つなのだろうと、考えている。

偶然見つけたある獣医師のサイトに、こういう言葉が羅列されていた。

・余命宣告をされると、飼い主さんがカウントダウンをはじめる
・想いが現実に反映される様になる
・『××はイヤ』という思いは、『××になれ!』と同じ意味
・余命なんて神様しかわからない
・最期の最期まであきらめない気持ちで取り組もう
・しかし、結果は甘んじて受け入れよう
・結果に執着せず、現在にベストを尽くそう!
・不安・心配は知ることで軽減されることを知っておこう!
・不安・心配は愛情ではない!
・生物は何が起こるかわからない。だから、あきらめない!
・獣医師の言葉は、言葉足らずのことがある

なるほどなぁ...。一番上の項目なんて、まさに今の僕の状態。
これだけ読んでも、ちょっと前向きになれそうです(笑)。
でもこれは動物に限ったことではなく、人間の介護にも当てはまるような項目がいっぱいあるのかな、とふと思った。

2010年1月25日

僕たちがしてやれること

何でこんな辛い目に遭わされなければならないのだろう。いずれこういう日が訪れるということは、頭の中ではわかっていたつもりだった。でも、何もチョコじゃなくても、いいじゃないか...。

我が家の愛犬チョコ(ミニチュアダックス♀・5歳)に対する突然の「余命宣告」から1日が経った。

あまりに唐突すぎて、正直何をどうしていいのかわからないのが現状だ。

まず昨日、何が起きたかを整理すると...。

昼食と買い物を兼ねて妻と母、僕の3名で外出。家にはチョコ、そしてハナ(雑種♀・9歳)とモモ【ポメラニアン♀・9歳)が残されることになった。チョコは最近、外出についてこようとする癖を出し始めていた。家の中からはキャンキャンという鳴き声が聞こえることもしばしば。
この日は僕が車のエンジンを暖めるために先に出ていたので、当時のチョコの状況はわからない。いずれにせよ、普段と変わらぬ日常の出来事として、外出した。

15時頃帰宅。
母と妻が先に家に入ると、例のごとく3匹の無駄吠えが聞こえた。ところが、チョコの声だけが金切り声のような叫び声になっている。
玄関に入ると、チョコは匍匐前進のような姿勢で絶叫しながら、自分の腰のあたりをしきりに噛もうとしていた。
...何が起きた!?
最初、何か傷でもついたのかと思ったが、出血している様子も見られない。抱きかかえようとすると、後ろ足から力が抜けているのがわかった。
これは!?

チョコの身体にただならぬことが起きていることを察知した我々は、すぐに動物病院に連絡。ところが先方は冷たいもので、「診察は16時からなので、それまでにいらして下さい。」とのこと。緊急も何も関係ないらしい。

車に乗っている間、妻に抱きかかえられたチョコは、苦しそうな声を上げながら身体を反らしている。後ろ足は全く動いていない。頭をよぎったのは椎間板ヘルニアか、骨折か...。でも、両足骨折って考えられないか?

動物病院に着いたのは15時30分過ぎ。しかし玄関には「午後の診察は16時からです」と札が下げられ、鍵がかかっている。車に乗ったチョコはブルブルと震え、自分の身に何が起きているのか理解できていない様子。でもそれは、こっちも一緒だ。

16時5分前。ようやく札が外され、鍵が開いた。一目散に受付に向かい、症状を説明。すぐに診察するので待合室で待っていて欲しいとのこと。

程なく診察が始まり、診察台の上に乗せられたチョコ。体重6.5キロは少し重いので、減量が必要だということを言われた。妻はうわの空で「そうですね...」と呟く。
「体温は...平熱ですね。」
おもむろに医師は背骨のあたりをゆっくりと押し始めた。下半身の力は抜け、後ろ足の肉球やその他の部位を押しても、反応がない。
「レントゲンを撮りましょう。」

待合室で待たされること10分。再度医師に呼ばれる。
「これはですね...。背骨の部分が圧迫されて神経が麻痺してますね。」
「ヘルニア?」妻が呟いた。
「いや...。」医師は言葉を濁すように遮った。
「このあたりの背骨の間隔が狭まっていますよね。」
確かに写真を見ると、胸部のあたりの背骨の間隔が狭まっている。いや、もはやくっついていると言ってもいいだろう。
「...ちょっと待って下さいね。院長を呼んできますので。」

程なく厳つい顔の院長が登場。
レントゲンを見るなり「何だ、完全に潰れてるじゃん。」と呟いた。
その後院長から突きつけられた現実は、僕たちが想像していた範疇を遙かに超える悲しいものだった。

脊髄軟化症を発症していると思われること、症例そのものの数は昨年でも2~3体しかなかったこと、生存率は微々たるものであること、仮に症状を抑えたとしても下半身の麻痺は残ること...。
そして、最も聞きたくない、辛辣な事実を言い渡された。

「下半身に全く反応がないんですよね。ハッキリ言ってここ1週間が勝負です。今起きている脊髄の炎症が延髄まで達すると、呼吸困難に陥り...残念ながら...ということになります。早ければ2~3日中にその症状が現れます。ハッキリ言って、その危険は非常に高い。
一番の問題は尿なんですよ。尿が排出されるか、注意深く見守って下さい。1週間分の薬を処方しますが、火曜日の午後、再度いらして下さい。取りあえず様子を見ましょう。」

診察台の横には注射器が置かれていた。さっきは、「炎症を抑えるために注射します。」という説明をしていたのに、その注射器がしまわれた。
「あ、あの...注射とかは...。」

慌てて僕が聞くと、医師は「薬でも同じ作用がありますから...。」ときわめて事務的に言い放った。
まるで手の施しようがないんだよ、とでも言いたげに。医者が匙を投げるって、こういうことなんだな、きっと。
この時点で僕は、チョコの余命が残り1週間であることを悟った。

チョコは、自分の身に何が起きたのかをようやく悟ったのか、家に帰るとおとなしくなった。
まさかこれほど深刻な状況に陥っていたとは...。
留守していた母に医師から伝えられた症状を説明すると、激しく泣き崩れた。妻も泣いていた。僕はグッと涙をこらえた。

あの時、恐らく思い思いの胸には、後悔の念が渦巻いていたことだろう。ソファを撤去すれば良かった。椅子なんて置くんじゃなかった。跳ねる癖を止めさせれば良かった...。でも、そのいずれもは、後悔先に立たずという一言で片付けられてしまうということを、それぞれ理解していたし、横たわりながら苦しむチョコを目の当たりにして、どうすることもできないというが現実なのだ。

今、チョコは見えない恐怖と戦っている。相変わらず身体は硬直し、自由の利かない自分の身体をどうしたらよいのか、わかっていないような状況だ。

家族として僕たちができることを、チョコのために何ができるのかを必死になって考えた。

妻は、セカンドオピニオンを求めるべきだと言い、ネットであれやこれやと検索を始めた。県内に動物用のMRIがあるのは、十和田市の北里大学獣医学部付属動物病院のみ。そこまで連れて行きMRI検査を受けて、手術すれば、助かる見込みがあるのでは...と。
しかし、検索すればするほど、この症状が非常に深刻であり、助かる見込みのない病気であることを思い知らされることになった。

「嗚呼...。これは助からないんだって...。」

画面を見つめる妻の目からは、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

恐らくチョコは、日に日に衰弱していくだろうし、近いうちにお別れしなければならないのだろう。
どうにもならないことは頭の中ではわかっているつもり。でも、何もしてやれない自分に対する歯がゆさと苛立ちが渦巻いている。
チョコはほとんど食事を取っていない。薬を含ませた牛乳を飲んでくれたことだけが、気休めとはいえ、せめてもの救いだ。
僕らもまともに食事が喉を通らない。チョコを見ていると、胸を押しつぶされそうな感覚に陥り、食事どころではないのだ。

結局僕らには、チョコの最期を静かに看取ってあげること以外、方法はないらしい。
悲しいけれど、これが僕らにとってチョコのためにしてあげられる唯一のことなのだ。

多分今頃は、母のそばでまたそわそわしていることだろう。最後の最後にこういう役割を母に押しつけなければならないということも、非常に辛いし、母に対して申し訳ない気持ちで一杯だ。
切ない。本当に切ない。やりきれないこの思いを、僕はどこにぶつければいいのだろう...。

2010年1月23日

DOWNLOAD TO DONATE

DOWNLOAD3HAITI.jpg

music for relief.

Music for Relief has brought together an incredible album of artists who have all generously donated original songs to support the Haiti relief effort. Artists include: ALANIS MORISSETTE, THE ALL-AMERICAN REJECTS, DAVE MATTHEWS BAND, ENRIQUE IGLESIAS, HOOBASTANK, KENNA, LINKIN PARK, LUPE FIASCO, PETER GABRIEL AND SLASH.

ハイチで起きた大地震の被災者救済のため、海外の10組のアーティストが立ち上がり、チャリティアルバムを完成させました。メンバーは上記の通りですが、個人的には武藤敬司...じゃなくてPeter GabrielとSlashが参加している時点でDonate決定。

Paypal経由で1ドル以上の寄付をすると、登録したメールアドレスにアルバムのダウンロードサイトのアドレスが送信されてくるという仕組みです。

幾らDonateするのは個人の意志ですが、金額の大小ではないと思います。まずは手をさしのべるという善意が大事なのではないでしょうか。

それにしても日本って、こういうのが全く不得手ですよね。国内の一流アーティストが2~3組でも声かけしてこんなのを作れば、結構参加する人が増えるだろうし、賛同する人もいると思うんですが...。なんかこういうチャリティ的なものを表現するのが下手なんでしょうか。
ガッチャマンではありませんが、地球は一つ。対岸の火事だと思ったら大間違い。明日は我が身だということを、肝に銘じなければならないと思います。

追記。
ちなみにアルバムの音源はMP3形式でビットレートは320kbps。悪くありません。

2010年1月22日

断酒・断サプリ

僕は、妹から呆れられるぐらいサプリをたくさん飲んでいる。ビタミンミネラルをはじめ、コエンザイムだリポ酸だフォースリーンだ、この他にもブルーベル-だニンニク卵黄だ野菜だ果実だと、一体どれだけ飲むんだ?というぐらいサプリを多用している。
ここまで来ると依存症にも近い状態なのだろう、毎日飲まなければ何か気が済まないような状態に陥っていた。
これはサプリに限ったことではなく、毎晩の飲酒も一緒。帰りの電車の中で「今晩何飲もうかなぁ」なんて考えるあたり、中毒とまではいかないにしても、かなり酷い状態になっていたらしい。

10月の人間ドックで肝機能障害を疑われ、先日病院で再診を受けた時のこと。

「一昨年より数値が悪くなってるねぇ。」
「...はい。」
「休肝日、設けてる?」
「...えーと...今は...ほとんど毎日飲んでます。」
「うーん...。」
「...。」
「取りあえず今日は血液検査しましょう。その結果を見てからだね。ウィルス性の肝炎を起こしてたら、大変なことになるからね。」
「...はい。」

血液検査の結果は、どういうわけか人間ドックの時より数値が改善。
どうやら冬前まで週一ペースで軽く走っていたことが功を奏したようだ。
幸いウィルスの感染もなく、肝炎の恐れもないらしい。

「一応火曜日午後に電話して。その時もうちょっと詳しい検査の結果を踏まえ、飲んでもいいか教えるから。」
「...はい。」

........え?ちょっと待って。ということは火曜日までは「飲酒厳禁」ということ?
しかしそれは無理。明日は大学時代の友人と久し振りに集まることになっていて、飲まずにはいられない。まぁ、明日だけは大目に見て貰おう。

しかし、サプリメントがどれだけ肝機能に悪影響を及ぼすのかは、正直よくわからない。ただ、いわゆるダイエット系のサプリがどうも肝臓にはあまりいい影響を及ぼさないという話は、何かで見聞きしたようなしなかったような。

ということで、肝臓の正常化を目指し、一昨日からサプリも一旦停止。サプリというのはあくまで「補助食品」であって、必要な栄養分は主食から摂ればいいだけの話だから。

ちなみに医師からは「前回指摘された脂肪肝が今回指摘されなかったのは、おまけだろう。」と笑っていたが、血液検査の簡易結果を見て、どうやら偶然やおまけではないことを理解して頂いたことが、せめてもの救いだった。

しかし、不思議なことに飲酒とサプリを抑え始めたら、気のせいか少し目覚めがよくなったような...。
明日は仕方ないにせよ、これまでの生活習慣を少しずつ変えながら、ぼちぼち始まる四十路へのカウントダウンを待ってみようかと思う。

2010年1月19日

村上春樹 東京奇譚集

昨年は『1Q84』がベストセラーとなり、今年春に発売される続編でも、恐らく今年のベストセラーの座を奪ってしまうのではないかと思われる村上春樹。

『海辺のカフカ』に見られた同時並行的な全く異質な次元で繰り広げられる二つの話が、徐々に融合していく過程。『1Q84』も、似たような描写で物語が進んでいくが、両者に共通するものは、何かこう、物が喉につっかえたままの状態、いや、もやしの髭が歯間に挟まったままになっているような違和感、居心地の悪さだった。

この『海辺のカフカ』と『1Q84』の間には短編が発表されていたことも知っていたし、実際『アフターダーク』については購入して読破したのだが、結局ここでも何とも言えぬ後味の悪さばかりが残った。村上ワールドの懐の深さ、引き出しの多さを思い知らされた、といった方がいいのかもしれない。

ただ、一つハッキリしていることは、僕にとって村上春樹の作品は非常に「面白い」のだが、その域を超えないということである。つまり、読んでいる最中は夢中になれるものの、読み終えた後の感動、胸に刻まれるような感銘、そういったことを感じたことがないのだ。

単に僕の読解力が不足しているに過ぎないだけなのかも知れない。

何かネガティヴな感じになってきたが、決して村上春樹が嫌いだということではない。
むしろその逆であり、普段ほとんど文学書を読まない僕にとって唯一といっていいほど読み続けている作家だ。

さて、『1Q84』発表の前に発売されていた『東京奇譚集』。今から5年も前の作品である。
『アフターダーク』の後に出た作品ということ、さらには短編集ということで正直購入を見送っていたのだが、先日書店に立ち寄り、たまたま文庫化されている本書を発見し、購入してみた。というか、07年末には文庫化されていたようだが...(苦笑)。

ここに出てくる5つの作品は、いわば『1Q84』や『海辺のカフカ』とは全く趣が異なる。
それぞれの作品に登場する主人公に起こる奇妙な時間軸のねじれが、ある時を境に突然事態が異なる方向に進んでいく、というものだ。ここでいう「ある時」とは、そのほとんどが「受け入れたくない現実を受け入れる時」である。物語はどれも、決してポジティヴな内容ではない。

しかし、そこに繰り広げられる悲哀を受け入れることでポジティヴになっていく過程が、ひょっとしたら初めて村上作品を読んで「心に残る」作品として、僕の中で受け入れようとしているような気がする。

案外それは、自分の置かれている(あるいは勝手に思い込んでいる)身を、それぞれの主人公に投影しているからなのかも知れない。

冒頭、村上氏のジャズクラブでの出来事に関する行がある。「この物語は実話です。」と書かれてある。しかし実際「実話」だったのはジャズクラブで起きた「偶然」であり、その後の物語はフィクションであるはずだ。
奇譚集ということで、ちょっと奇妙な話ではある。奇妙というより、奇遇なストーリーが続く。
しかし、いろんなレビューでも述べられているが、村上春樹の作品そのものは全て「奇譚」なのだ。ただここで繰り広げられる5つの話は、現実に起こりうる話でもあると、僕は思った。
恐らく2時間もあれば、一気に読み終えることができるだろう。しかし、『アフターダーク』の時に感じた何とも言えぬ嫌悪感というか、二度とこの本は読まないだろうという複雑な気持ちは、微塵も起きてこなかった。
むしろ、何かの拍子にもう一度読んでみてもいいな、そう思わせる作品だった。

彼の「長編」だと疲れる人というには、お勧めの作品である。


2010年1月18日

大学は人生のバケーション?

先日のナンの話には若干名から好反応があった。気が向いたらまた近々続きの話を披露しようと思う。若干名の皆さん、お楽しみに(笑)。
さて、今日は続・続編というわけではないが、大学の頃を振り返ってみようと思う。

僕の出身大学は地元の国立大学だ。自宅からだと自転車で10分ほどの距離にある。高校の頃も自宅から至近距離にあったため、遠距離通学をしていた同級生からは「お前の家は学校の庭にあるようなものだ」と言われたが、大学も同じようなものだった。しかも大学内を歩くと、必ずといっていいほど高校時代の同期の連中と顔を合わせる。僕にとっての大学は、何か高校の延長みたいで、新鮮味の欠片も感じられなかった。

今思い返せば、どちらかと言えば理系肌だったのかも知れないが、迷うことなく文系に進み、日々研鑽を続け...るはずだった。ところが実際は連日バイトやデートに明け暮れ遊び呆ける始末、勉強の「べ」の字もしなかった。
高校時代の同期が「大学って、人生のバケーションだよな!」と言っていたが、なるほど確かにそういわれてみればそうだ。
教育学部に在籍していた彼、バケーションの度が過ぎたのか、結局教員にはならなかったけれど...。

僕が在籍していたのは経済学科。高校の時に政治経済の授業を一つも受けなかったのにこの学科を選択したのは、入学のしやすさがあったことは否定しないが、それ以外に、就職の際に何かと有利だと思い込んだからだ。

気がつくと既に卒業年次。何故か専門の単位数は既に取得しているのに、残ったのは教養の単位だけ。学科によってはこの時点で留年なのに、僕は大学4年の後期まで、まだ初々しい1年に紛れて教養の単位を取るのに必死になっていた。

このことについては未だに夢に出てくることがあって、「単位が足りないので再度講義を受けて下さい」と、大学内をウロウロする自分の姿。しかも、大体受講票の提出を忘れて、単位が取れなくなるというオチ。何度ハッと目が覚めたことだろう。

それはともかく、大学4年の途中でゼミの担当教官の海外留学が決まり、その時点で卒論の提出がなくなった(レポートの提出のみで単位取得)。なので、大学4年の後期は週一回教養学部に通った程度。今思えば凄いゼミにいたものだ。
結局、他の人たちが必死になって卒論の作成に勤しんでいる頃、僕はといえば、のほほんとバイト三昧。バブル崩壊直後ではあったが、大した就職活動もせず、何も考えずに受験したところ、運良く合格した職場に就職、結果今の僕がある。ちなみに余談ではあるが、僕はもう一つ同じ業種を受験していて、そちらも一次試験はクリア。10倍を軽く超える難関だったようだが、後で聞いた話では、一次試験の成績は片手に入るぐらいの順位だったらしい。ちょっとした自慢ではあったが、関係者から又聞きした話なので、それがホントかウソか知る術もなく、結局そちらの業種については二次試験を辞退した。
そして実は、もう一つ民間企業の内示も頂いていたのだが、後にこの会社は事業整理に追われることとなった。
なので、今となってはこの取捨選択は間違いではなかったと思うし、もしも選択を変えていたならば、僕の労苦というのは想像を絶するものになっていたことだろう。

今勤めている業種には、同期の輩が10人ぐらい受験していたのだろうか。その中で、たまたま同じ部に配属になった3名は、今も当時のままの縁で結ばれているし、そのうち一人は、現在同じ課の同僚でもある。

本当はもう一人いたはずなのだが、思い半ばで断念せざるを得なかった輩もいる。

続きを読む "大学は人生のバケーション?"

2010年1月16日

iTunes Storeでハイチ地震救援活動寄付受付中

米国赤十字社に救援金を寄付して、ハイチ地震の被災者の方々を援助しましょう。

募金受付
http://bit.ly/5doygq


iTunes でハイチ地震救援活動への寄付ができます。

米国赤十字社からのメッセージ
2010年1月12日に発生したハイチ地震災害に対し救援活動を行う米国赤十字社に対し、皆様からの寄付金をいただくことで迅速な救援活動、長期に渡る復旧活動のサポートなどをより効果的に行うことが可能となります。ご協力よろしくお願いいたします。

募金受付
http://bit.ly/5doygq

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

iTunes -Mac と Windows 用ダウンロード http://www.apple.com/jp/itunes/download/

Copyright (c) 2010 iTunes K.K 東京都新宿区西新宿3丁目20番2号東京オペラシティタワー

#ブログ用に一部URLを短縮しています

死者が20万人を超えるのではと言われているハイチの大地震。現地での救護活動も難航しており、現地の人たちのフラストレーションは日に日に溜まっていることだろう。日本政府は金銭的援助を表明しているが、どうなんだろう。こういう時に自衛隊を派遣して、瓦礫の撤去作業を進める、なんてことは無理なのだろうか。いずれにせよ政府の決めることだから、何ともいいようがない。

さて、いろんなところで復旧活動への支援、寄付等が始まっているが、iTunes Storeでもアカウントから米国赤十字社への寄付が可能となっている。ちなみに金額は500円、1,000円、2,500円、5,000円、10,000円、20,000円の6種類。この手を利用するのも一つの支援の方法かもしれない。何もしないよりはいいと思うが、どうだろう。

2010年1月15日

大学受験

明日から大学のセンター試験が始まる。受験シーズンの到来とともに、受験生にとってはこれまで培ってきた力を発揮する時がやってきた。天候はあまり良くないようだが、受験生の皆さん、全力を出し切れるよう頑張って下さい。

僕が受験生だった頃からもう20年以上の月日が流れた。ちょうど僕が受験したのは、昭和天皇が崩御し、年号が平成に変わってすぐのことだった。それも、共通一次試験最後の年の受験だった。

翌年から試験制度がセンター試験に変わることが決まっている。しかもどういった内容に変わるのか全くわからない状況。なんとしても一次でそれなりの点数をはじき出さなければ、新しい試験制度の波に飲み込まれる...そんな危機感を抱いていた。
しかしこの年の共通一次は、僕にとっても悲惨だった。なんと理科の試験で、科目間の平均点数があまりに離れてしまったために、得点調整を行うという信じられないことが行われた。
ちなみに僕の受験科目は「地学」だったのだが、物理・生物の平均点が化学の平均点と比較して極端な乖離が生じたため、30~40点の得点調整が行われることになったのだ。しかも、加配方式で行われたために、白紙答案だった生徒であっても、40点ぐらい上乗せされるという方式だった。
勿論物理や生物を受験した人にしてみれば、こんな難解な問題を出されることが不公平。でも、なんの関係もない科目を受験した僕らは、もっと不公平感を覚えていたものだった。まぁ、それでもなんとか自己採点で目標点数まで手が届いたことで、第一希望の大学は受験できることになったのだけれど、二次試験で敢えなく撃沈。結局すべり止めだった地元の国立大に合格した。

同級生に言わせれば、これさえも奇跡だったかも知れない。捨てる神あれば拾う神あり。だって高校時代の成績といえば、360人中200番そこそこ、酷い時は330番台まで落ちぶれた輩が、現役合格しちゃったんだから。

ちなみに受験といえばどうしても避けて通れない、決して忘れ得ぬエピソードがある。

僕の周囲では「伝説」とも言われている(?)「ナン事件」。
幾度となく語り草にしてきたこの「どんだんず」級の事件を、久し振りに検証しようと思う。

共通一次試験から約1ヶ月。僕は、仙台の某私立大も受験することになっていたのだが、たまたま弘前からの高速バスで同級生二人と居合わせ、3人で東北新幹線に乗車することになった。当時はまだ東北新幹線が盛岡止まりの時代。ちなみに彼らが目指すのは東京。

僕が持っていたのは盛岡から仙台までの指定席だったのだが、一人の友人が持っていた切符は自由席。「どうせなら一緒に...」ということで自由席に乗り込んだものの、これがまた異常なほどの大混雑。しかし、そんなこととはお構いなしに、座席を回転させてボックスにし、それぞれ赤本やら対策本に目を落とす。3人なので、一人分の座席が空いているのに、誰に譲る気もナシ。今思えば、本当に酷いことをしたものだ。

で、互いの健闘を祈り、僕だけ仙台で下車。既に時計は14時を過ぎていた。

そういえば昼ご飯、何も食べてなかったなぁ...。

仙台駅前に降り立つと、歩道橋が張り巡らされている。目の前に飛び込んできたのは、ams西武(現在のLoft)。
腹減ったなぁ。最上階に行けば、何か食べ物屋があるだろう...。
思いのままエスカレーターで最上階へ。
最上階まで行くと、予想通り飲食店が並んでいた。

ええと、腹ごしらえの前にまずはトイレトイレ...。

小便器と向かい合わせになりながら鼻歌を歌っていると、プゥ~ンと漂うスパイシーないい香り。
カレーか...。カレーもいいな。よし、カレーに決定!

トイレを出ると、すぐ隣にその店はあった。何の疑いもなく店に入ると、客は誰もいない。そりゃそうだ、もう15時近くなんだから。

「イラシャイマセ。」

続きを読む "大学受験"

2010年1月13日

大雪と新年会

昨晩見た夢は何かいろんな意味で後味の悪い変な夢だった。
夜中に一人家を飛び出し、戦後っぽい雰囲気を醸し出している鉄製の自転車に乗り込む。
向かった先は、実在しないラーメン屋。どうやら僕は、腹が減っていたらしい。その界隈は、家から車で5分ほどの場所なのだが、みたことのない道路や長屋が建っていた。その一角にあるラーメン屋の前に自転車を停める。赤色の暖簾をくぐると、何とも言えない匂いが漂っている。店内は、厨房を囲むカウンター席のみ。愛想の悪い店員が、コップに入った水を目の前にドンと置き、細麺?太麺?と聞く。じゃ、細麺で。
あっという間に目の前に出されるラーメン。ところが細麺の正体は、ラーメンではなく素麺。スープに口を付けると、お湯に醤油が注がれただけ。しかもやたらとしょっぱい。美味というにはほど遠いラーメン...を一口食べたところで、あまりの不快さに目が覚めた。

時計を見ると5時だった。
あ、雪積もったかな?

玄関に出てみると、まだ仄暗い筈の空にはオレンジっぽい色に染まった雲が広がっていて、雪がちらついている。大雪の前兆だ。ただ、まだそんなに積もったという感じではない。

もう一度布団に潜り込み、惰眠を貪ろうとするも、一度醒めてしまった頭はなかなか切り替わらない。結局5時30分に起床。

しかし、あのラーメンは一体何だったんだろう。普段見る夢はいつも白黒なのに、久し振りに色のある夢だった。赤い暖簾、白い麺、琥珀色の醤油が妙に頭から離れない。

6時50分、家を出る。5時の頃にはまだなかったはずの雪が積もっている。それでも積もった量は3センチぐらいだろうか。
弘前駅から7時21分発の快速に乗り青森へ。遅延もなく、順調に青森駅に到着。青森はそれほど雪が降っていないような感じ。

僕の携帯には、弘前市から24時間での積雪量が10センチを越えた時には、1時間おきにメールが届く。そのメールが、午前8時から毎時間送信されるようになった。8時の時点では、何と積雪量が46センチ。この時点で、僕が家を出た時から10センチ積雪が増えたことになる。更に、9時には49センチ、10時には56センチと、時間を追う毎にどんどん積雪量が増えていく。
結局午後3時にメールが届いた時点での積雪量は66センチ。昨日と比較して30センチも積雪量が増えたことになる。その後小康状態になったようだが、正月以来の大雪だ。ここに来て天気予報が当たってしまった格好に。

こうなると、今晩のボーリングと送別会を兼ねた(ややこしい)新年会も気が気ではない。何せ我が家は男手が一人減った。力仕事は僕の手に委ねられる。妻も帰宅は早くない。しかし、還暦を過ぎた母の手一つでこの雪を掻き出すのは容易なことではない。

電車は動いているのか、無事に帰れるのか、家に入ることはできるのか...。それとも、新年会をキャンセルすればいいのか。うーん...今日は早く切り上げよう!

そうそう、ボーリングを早く終える一番手っ取り早い方法、知ってます?

全部ストライク(爆)。

2010年1月12日

自己表現

最近、自己表現が物凄く下手になったと思う。
ついでに言えば、何かの壁にぶち当たって、萎縮してしまっているような感じ。
眼光鋭い猛獣に睨まれ、行き場をなくした小動物のような...。

父が亡くなった直後から僕は、表面上は他人事のように平静を装いつつ、内面では父への思いを巡らせては塞ぎ込んでいたのだが、どうも未だにその殻を脱ぎ捨てることができずにいるらしい。

亥年生まれの父は、自分の行動を都合よく「猪突猛進」と称していた。要するに向こう見ずで、他人の助言には耳を傾けようとはせず、とことん我を通そうとするスタイルだったし、その中にあっていつも余計な一言が多いタイプだったので、その分理解も得られず、敵も多かった。

同じく亥年生まれの僕も、少なくとも柳のように、あっちへフラフラこっちへフラフラというタイプではなく、どちらかと言えば我を曲げないタイプ。更に、父同様根っからの天の邪鬼で、肝っ玉が小さい。
こんな調子なので、世渡りが下手くそ。上司からすれば物凄く扱いにくいタイプなのだろう。
一人出世街道の裏通りで、迷走を続けている。

強者と弱者がいれば、強者に荷担するのではなく、弱者に手を差し伸べたくなる。長いものには巻かれたくない。持論を押しつけられるのはとにかく苦手。圧倒的過半数で物事が決められた時は、少数に目を向ける。
群れで行動するのはどうも苦手。右手をご覧下さいと言われると一斉に右を向いて「ほほー!」と驚嘆の声を上げる観光バスなんて、もってのほか。群れからちょっとだけ距離を置いて、全体を眺めているのが好きだった。かといって、社会のルールも守れないような連中は大嫌い。
組織という大きな器の中では、社員は一つの歯車であるということを言われるが、僕みたいなヤツは居ても居なくても歯車が狂い出すことなんてないし、組織なんて所詮そんなものなんだと、妙に醒めた目で見てしまう。

父と僕が大きく異なる点は、父が率先していろんなことに取り組んだのに対して、僕はどちらかと言えば取りあえず静観するという姿勢にあることだ。

僕にとって父は「反面教師」であり、一生追いつき、追い抜くことのできない存在だった。
いい意味でも悪い意味でも「ああいう生き方はしたくない」と思わせるような男だった。
ただ、生前の父のことを「男らしい」と思ったことは、よく考えてみると一度としてなかったような気がする。でも、父の生き様を振り返ると、自己を犠牲にしてまで他人に尽くし、一貫して信念を曲げなかったこと、その中において父という存在をきちんと自己表現していたことは、男らしいと感じさせるに十分だった。

この世に別れを告げた父は、今どんな思いで僕のことを見ているのだろうか。
今年に入り、僕は自問自答を繰り返している。
ぶち当たっている壁は自分が作ったものではないのか。睨みをきかせている眼光鋭い猛獣は、実は自分自身ではないのか。結局自分自身の殻を破れない、いや破らないだけではないのか、と。

どうやら雪解けの頃には、得体の知れないビッグウェーヴがやって来そうな気がする。
ただ、その波が乗るべき波なのか、あるいは飲み込まれてしまうような大津波なのかは、今のところわからない。

このまま僕は自己表現もできず、悶々と裏通りで迷走を続けるのだろうか。
あるいは、敷かれたレールの上を黙々と走り続けるのだろうか。
ただこれは、一番楽な方法でもあり、この先も特段苦労することはないだろう。
しかし、敷かれたレールそのものは、僕の意志とは違う方向へと誘っているのかも知れない。
そのことに気づいた時、果たして僕は軌道修正できるだろうか。

『THIS IS IT』 microSD & USBメモリー版が登場

マイケルファンなら既に御存知のことと思いますが、昨年空前の大ヒットを記録し、今月にはDVDの販売を控えるマイケル・ジャクソンの映画『THIS IS IT』に、microSDとUSBフラッシュメモリーのバージョンが登場しました。
microSDは容量が1GBで、ワンセグ録画対応の携帯電話での再生を前提としている他、USBフラッシュメモリーはPCでの再生を前提にしているようです。
ただ、DVDに収録されている特典映像はなく、本編のみの収録となっているそうです。ちなみに、携帯電話の動作確認機種は、以下のサイトに掲載されています。

http://www.hscjpn.co.jp/mobile/help/taiou_qr.html

ジャケットはレコードサイズを採用している他、展示台も付属しているそうです。AmazonやHMVでは、現在定価の20%オフで予約受付中。

ちなみに僕の携帯電話(SO905iCS)は対応不可。
うーん、PSPで再生できないかな、これ。

2010年1月 7日

茶碗蒸し

昨年の大晦日は、前日(30日)の晩に友人たちと記憶をなくするほど飲んでしまったことが災いし、午後まで廃人のような姿を晒していた(ちなみに二軒目以降、タクシーを下車するまでの記憶が全くなし)。

おかげで家族(女性陣)からは大顰蹙を買ってしまった。しかし、二日酔いで動けないのだから仕方がない...と開き直ってみたものの、非常に居心地の悪い時間を過ごす羽目になった。

津軽地方では、大晦日から豪勢な料理が食卓を飾る。正月前日から「おせち料理」が並ぶような感じだ。どうやらこれはあまり見られない風習らしいということを、地元のタレントである黒石八郎が話しているのを聞いて初めて知った。

ちなみに今回、おせち料理の腕を振るうはずだった僕は、ずーっとトイレで頭を振っていた...。
結局最後、茶碗蒸しを作ることだけが僕のお役目となった。茶碗蒸しに関しては僕の好物料理の一つで、だしも前日から用意するぐらい意気込んでいたのだが、結局大晦日の夕方になってようやく取り組む始末だった。

茶碗蒸しの具材も、地域で全く異なるという。

うちの場合、鶏肉(ササミ)、椎茸、なると、三つ葉といったシンプルな具材。あと忘れちゃならないのが糸こんにゃく。これも、茶碗蒸しに使うものとしてはレアな具材であるらしい。ホントは栗とか銀杏とか彩りに入れればいいのかもしれないけれど、我が家では好みが半々に分かれるため、敢えて入れない。

今回は、強力な助っ人としてスチームオーブンが登場(といっても別に茶碗蒸しのために購入したわけではない)し、12月上旬に試作してみたところ、これが大成功。今まで幾度となく茶碗蒸しを作ってきたが、恐らく後にも先にも最高傑作といってもいいぐらい完璧な出来だった。

しかし、なかなかうまくいかないのが茶碗蒸し。一度として同じ味、仕上がりになったことがない。
結局、自信満々で作った今回の茶碗蒸しも、半熟の卵スープに近い、ゆるーい仕上がりになってしまった。
写真に収めるのを忘れてしまったのだが、味が上々だっただけに何とも悔やまれる出来となってしまった。
まぁ、分量さえしっかり把握すればいい、という意見もあるだろう。しかし実際、器の大きさや形、厚みの違いでも仕上がり具合は変わってくるはずだ。

それにしても茶碗蒸し、奥が深いっす。
ちなみに皆さんのお宅では何を茶碗蒸しの具材に?

2010年1月 5日

先祖再考

昨日は我が家にとって、いろんな意味で非常に意義のある興味深い一日だった。

何があったのかは、詳細について説明することができないのが非常に歯痒いところではあるが(文脈から何とか読み取って下さい)、自分の先祖のルーツを辿りながら、先祖を敬い、家族に感謝する、そういういいきっかけになった。

ルーツの話をするならば、今の我が家の血筋は、亡父が幼い頃、養子縁組で貰われてきた時点で一度途絶えている。そのこともあってなのか、僕はあまり先祖というものを意識したことがなかった(というか、意図的に避けていたのかも)が、昨日の出来事は、その考え方を払拭させるものであったことだけは間違いない。

そして、昨日の話は何となく、今年のテーマに掲げた「動」と繋がっているような感じだった。
この間始まった大河ドラマ「龍馬伝」を家族で観ながら、酷いことをする人たちも居たものだ、とブーブー言っていたのだが、これも何となく伏線があった感じ。

母が嫁に来てから見聞したことと話を結びつけると、これがまた面白いほど繋がっていく。

話を整理すると、どうやらうちの先祖は徳川家や朝鮮とちょっとした関わりがあったようだということ、我が家のあった場所は元々山だったこと、亡父はまだ我が家のすぐそば(家の中?)にいるらしいこと、それぞれの先祖が今回のことに非常に感謝しているということ、我が家の3匹の犬は、それぞれ我が家にやってきたことが良かったと感じていること、そんな中なぜか一匹だけ「生肉喰いたい」と考えているヤツがいること等々...。

聞いたこともない話ばかりだったので、興味津々。でも、何よりも一番興味深かったのは、僕の心底を探られたことだった。

何か忘れかけていたことにハッと気づかされたような、そんな昨日の出来事だった。

今年の初売り

結局、Appleの福袋は店頭販売のみでネットでの販売がなく、寂しい思いをしました。
弘前市内にある某百貨店では、ここ数年バーバリーのソックスとトランクスがセットになった福袋を販売していたのですが(しかも必ず売れ残りがある)、こればかりを楽しみにして3日に某百貨店に行ってみると、何かホントにしょぼい福袋ばっかり並んでいて、今年はバーバリーの出番なしだって。がっくり。

折角意気込んで行ったのに、初売りでは何も購入せず、妻と母がそれぞれ購入したレシートでできるという抽選をやったら、何と3等!これは初春からめでたい!...と思ったら、何と「切り餅」のつかみ取りだって...(ちなみに一等は「現金つかみ取り」だったけど、恐らく1~10円玉硬貨だらけか取り口がとっても小さいか、いずれかと見た)。
頭に来たので11個も掴んでやりましたよ。ええ。
続いて挑戦した妻と母はそれぞれ残念賞で、ポケットティッシュのつかみ取り(苦笑)。
母は2度で計20個のポケットティッシュを掴んだのに対し、妻は何と1度で19個もポケットティッシュをゲット。それを見た店員、妻に小声で「今日一番の量です。」だって。

そんなこと言われても、ちっとも嬉しくないし(笑)。

2010年1月 4日

新年あけましておめでとうございます

遅ればせながら皆様あけましておめでとうございます。今年もまた、箸にも棒にもかからないような、くだらないことをグダメギながら一年を過ごして参りますので、よろしくお願いします。

それにしても年末年始の雪は想像を絶するものでした。本当に、こんなに降るのかよ!おい!ってぐらいに降り積もりました。どれぐらい凄かったかというと、昨年仕事納めを終えた頃の弘前市内の積雪が9センチ。31日には23センチまで積もり、年が明け、昨日までに最大で61センチの雪が積もりました。これはあくまで「積雪量」であり、恐らく降雪量は更に多かったものと思われます(雪の重みで積雪量が沈むため)。
1日から2日に掛けては、祖母の顔を見るため母の実家に出かけていたのですが、留守を預かった妻から「家に車を停める場所がない」というメールが届いたのが2日の朝。元旦も朝7時前に起床して雪かきしたのに、2日の午後には、家がスッポリと埋もれてしまうほど雪が積もっていました。道路の除雪も行き届かず、あちらこちらで渋滞が発生。
県道から自宅までの通路もすっかり雪に埋もれ、誰かがやって来た気配も出た形跡もなく...。
結局約1時間30分をかけて雪かき。
まぁ、年末年始の暴飲暴食を解消するにはちょうどいい運動になったかな...。

そして昨日。
初詣に出かけた後、今度は母の会社(=僕が普段車を置かせてもらっているところ)へ。
これがまた半端ではない雪の量で、約2時間ミッチリと雪かき。これでほぼ、年末年始の暴飲暴食分は消費されたはず(笑)。
しかし予想通り筋肉痛に襲われており、今朝は腕があまり上がりません。腰にもやんわりと痛みが走っています。

暮れに上司から、「今年を表す漢字一文字は『新』が選ばれたが、皆さんにとっての今年の漢字一文字が何なのか、そして来年を迎えるに当たり抱負を漢字一文字で表すとしたら何なのかを考えてみて下さい」という謎かけみたいな挨拶をされましたが、まず真っ先に浮かんだ今年を表す漢字一文字は『停』でした(『停』と『静』ばかり浮かんだ)。

ということで今年の抱負。
いつまでも停止・滞留しているわけにもいかないので、そろそろ『動』で行きたいと思います。暴走しない程度に動き出しますので、よろしくお願いします。