増田の内蔵


先日、会議に出席するために秋田県横手市を訪れました。翌日は横手市周辺を視察したのですが、その時にとても荘厳なところを訪れたので、今日はその訪問記を。

横手市は、平成の大合併により、1市4町2村が合併、現在は秋田県内で秋田市に次ぐ第2の人口規模(9万2千人程度)となりました。(僕の記憶の中では、かつては大館市が秋田県内第2の市だと思っていたけど、合併を経て横手が第2の市になっていた模様。)
横手市と合併する前の旧・増田町は、古い時代から日本海側と太平洋側を結ぶ交通の要衝に位置していました。二つの街道が交差する近くに位置していたこと、肥沃な土地や水にも恵まれていたことから、米はもちろん酒造りや葉たばこ、養蚕も盛んに行われ、農業や商業で栄えた町だったようです。実際、北都銀行の前身となる旧・増田銀行がこの地に設立されたほか、水力による電力業を営む者が現れるなど、町の規模からは想像できないほど商業や農業が盛んだったことが窺えます。

この辺りは、積雪が2メートルを超えることがあったほどの豪雪地帯。
ここに、「内蔵(うちぐら)」と呼ばれる、いわゆる「建物内建物」が建てられるようになりました。「内臓(ないぞう)」じゃくて、「内蔵(うちぐら)」です。「内蔵(うちぐら)を内蔵(ないぞう)した建造物」みたいな感じでしょうか。「内蔵内蔵建造物」って、意味がわからないですね。すいません。
通りに面した「主屋」からは見えないところ、商売を営む空間や居住空間、生活空間の更に奥の場所に建てられ、「鞘(さや)」と呼ばれる上屋で覆われたのが、「内蔵」なのだそう。完全にプライベートな空間だったため、地元の人ですら隣の「内蔵」がどんなものなのかは知らなかったようです。

「蔵」といえば普段あまり使うことのない調度品や家財道具などを所蔵するためだけの空間だと思っていたのですが、この「内蔵」に関しては、収蔵を目的とした「文庫蔵」のほか、商売が隆盛を極めるとともに居住空間が減ることとなり、座敷間が置かれた「座敷蔵」としても利用されていたようです。例えば、要人を招き入れる応接間のような形で使われたり、結納が行われたり、亡くなった身内を安置したり。そういう意味では、家族にとって非常に大切な、そして神聖な場として利用されていたようです。

横手市内で会議が行われた翌日、この増田地区を視察する機会を頂きました。
一見すると何の変哲もないというか、どこにでもありそうな街並み。語弊があるかも知れませんが、市町村合併の煽りを受けて衰退の途を辿った、田舎町の小さな商店街、といった感じ。平日の日中だったということもあるとは思うのですが、街は閑散としていました。

ところが街並みをよく見ると、建物が並ぶ中に屋根の高い木造の建築物がちらほら紛れているのです。横手市が開設しているHP上には、この一帯を上空から撮影した写真が掲載されており、この一角だけ建物の大きさが違うのが一目瞭然です。


(路上のマンホールには、この町出身の漫画家・矢口高雄氏の「釣りキチ三平」が描かれていた)

増田~内蔵のある町~

間口はさほど広くないのですが、一歩中に入ってみると建屋がずーっと奥まで続いており、とてつもなく巨大な長屋といった感じ。豪雪から自分の生活を守るための知恵なのでしょうか、家の中に掘られた「井戸」があるのも驚きでした。

増田町が合併する直前の町長で、現在は(一社)増田町観光協会の代表理事会長を務める千田さんのお話に耳を傾けながら、予備知識も何もなくこの地を訪れたことを激しく後悔していました。

なぜかここ最近、生活感溢れる古い建物や鉄道の廃線跡等(線路が残っているのが望ましい)など、昭和やそれ以前の名残を残すような建造物や構造物に対する興味が湧いていて、今回の視察はまさに打って付けの内容でした。

建物の奥にどーんと現れた黒漆喰の蔵。蔵の周囲には、荷物などの出し入れの際に蔵を傷つけないよう、漆が塗られた手の込んだ建具が施されているほか、煌びやかな屏風などが置かれています。

最初は「これ、わざわざ観光用にセットしたのかな」と思ったのですが、実はありのままの姿だったらしく、この地域で商売を営む方々が、普段は質素な生活を送りながらも、いわば秘密基地のような大事な空間を保有していたことを示しています。

更に、蔵の扉(女戸、男戸)の前には、板で蓋のされた穴があり、そこには「味噌」が隠されているとのことでした。なぜこんなところに味噌が?実は火災が発生した時、閉めた蔵の扉の隙間を味噌で埋め、内部の延焼を防ぐという防御策。もちろん普段は食用として利用していたとのことです。そういった生活の知恵が隠された、いかにも観光地慣れしたというか、垢抜けたところが全く感じられない、普段通り飾り気のない一つ一つ(もちろんそれなりに装飾しているところもあるのですが)が美しく、とにかく興味をそそられるようなものばかり。何が飛び出すかわからない、玉手箱みたいな空間といえばいいのかな。まさに「宝庫」のような空間でした。

増田地区にある「内蔵」は昭和以前に建てられたものが多く、これまで見たこともないその重厚かつ豪華な存在感に圧倒されてしまいました。更に、その蔵に据え付けられた一つ一つの建具に光る匠の技に、すっかり気持ちが吸い込まれることに。それ以外にも、懐かしい看板や装飾品の数々に目を奪われることとなり、TDLとかUSJなんかより数十倍楽しい!と思ってしまいました。いや、楽しいというのとはちょっと違いますね。

最初は「インスタ映えしそう」とかいう、いかにも安易な気持ちでスマートフォンを掲げていたのですが、家を管理される方からお話を聞いているうちに、よく考えてみるとこの行為自体がプライバシーの侵害だし、非常に失礼だな、ということを痛感しました。
実際その姿を目の当たりにすると、一つ一つの建物や装飾品、建具に、歴史や重みを感じるはずです。


「銀杏仕上げ水切り」という技術が施された蔵。「鞘」の中に収まっているため、雨に当たることはないのですが、わざわざこうやって建具や蔵が雨に濡れないような手法を施しているあたりに、当時の左官技術のこだわりが垣間見えます。

その土地の歴史とか、発展していった背景を知ることも大事ですが、特にこの「内蔵」に関しては、できれば現在管理されている方から、その家の歴史や、蔵の造りのことなどを直接伺うことで、きっと見聞が拡がると思います。

「増田の内蔵」は、ここ数年脚光を浴びているようなのですが、認知度からすればまだまだ低いのかも知れません。秋田県内だと、「角館の武家屋敷」が有名ですからね。

増田町内には、「内蔵」「外蔵」を持つ家屋が100軒近くも点在するそうです。そういえば津軽地域にも「蔵の街」があったな、とか、家の近所にも「内蔵」のような造りの建物があったな、とか、いろんなことを思い返していました。
ちなみに現在も、蔵の存在を明かしつつも展示には応じていないところがあるのだそう。その理由としては、この蔵そのものがあくまでもプライベートな空間に特化されたものだから、なのだそうです。

横手市に寄贈された建造物もある中、一部は個人所有となっており、普段通りの生活や営みが行われている中で展示が行われていることから、有料での見学や事前予約が必要となるところも複数あります。今回は僅か1時間しか視察の時間がなかったため、見学したのは伝統的建造物群のある「中七日町通り」ある約20軒のうち、4軒程度のみでした。
最初は「カメラ持参でまた訪れよう」なんてことを安易に考えていたのですが、よく考えてみると、入館料を支払うとはいえ、各家に土足で踏み入れることには変わりありません。

更に、増田のことを調べれば調べるほど、歴史の積み重ねによって今の姿があるのだ、ということを強く感じることとなりました。そういうことからも、家屋(内蔵)を公開している皆さんに感謝しながら拝観するような気持ちで訪問しなければならないな、と思いました。
でも、やっぱりいつかまたゆっくり、じっくり時間を掛けて拝観してみたいなあ、と思った次第です。何だか厳かで、本当に見応えのある、素晴らしい地域でした。

増田地区への交通アクセス
・湯沢横手道路「十文字IC」から約10分
(東北自動車道「北上JCT」→秋田自動車道「横手IC」→横手湯沢道路「十文字IC」)
・JR奥羽線「十文字駅」からバスで約10分
(秋田新幹線「大曲駅」から奥羽線「十文字駅」までは所要時間約30~40分)


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「返報性の原理」 ~見返り美人は、何処へ?


僕が内省的なことについて投稿するときは、大体テンションが下がっているとか気分がネガティヴになっているとか、そういう時が多いです。今日も何となくそういう気分の中、投稿したいと思います。

「返報性(へんぽうせい)」という言葉をご存じでしょうか。

昨年11月に都内で行われた会議で、恥ずかしながら初めてこの言葉を知りました。

人は他人から何らかの施しを受けた場合に、お返しをしなければならないという感情を抱くが、こうした心理をいう。この「返報性の原理」を利用し、小さな貸しで大きな見返りを得る商業上の手法が広く利用されている。(Wikipedia)

昨年は「忖度」という言葉が突如現れ、意味もよく理解していない中で言葉だけが一人歩きすることとなり、世間を席巻しました。(→「せけん」を「せっけん」、密かに韻を踏んでいます。どうでもいいことですが。)

今年は「返報性」が流行語大賞の候補に…なるわけがないか。
喜怒哀楽、悲喜交々は、それぞれ相関関係にあって、人によってそれなりにバランスが取れていると思います。

(明と暗のバランスを保つのも結構難しい。)

因果応報は自分自身の振る舞い、行いが良くも悪くも自分の身に降りかかるという趣旨の一方で、返報性は、自分自身の振る舞い、行動の見返り(報償)を他人に求めるという趣旨と捉えるといいのでしょうね。
スーパーに行くと、返報性の原理の応酬が繰り広げられています。

(1)夕方の割引シール

「うわぁ…この肉食べたいけれど高いなあ。とてもじゃないけど買えないや。」

ところが店内を1周してきたら、その肉に30%値引きのシールが貼られていた。ここで手を伸ばすか、半額になるまで待つのか。でも、半額になるまで待っていたら売れてしまうかも知れない。妥協する程度の線を上下する葛藤。ええい、買ってしまえ!…というこれ、まさに返報性の原理。

(2)試食販売

スーパーの中で繰り広げられる試食販売。中にはこの試食だけを目的にスーパーを訪れる強者(馬○者?)もいるようだが、買い物に連れてきた子どもが親の制止を振り切って試食に手を伸ばすこともしばしば。別に買いたい訳ではないのだけど、試食までさせてもらって何となく気が引ける…ま、一つぐらいならいいか、と購入してしまうこれも、返報性の原理。

店側の「譲歩」に対してこちらも「譲歩」しなければという心理。これがまさに返報性の原理。


テレビショッピングなども典型的な返報性の原理。「通常価格1つ2万円のところを、今日は半額の1万円、更にこれだけのオプションも付いてお値段据え置き!今から30分のみの受付!」という触れ込みに、心躍らされることはありませんか。

「通常価格1つ2万円」という刷り込み、そこからあたかも「譲歩」しているかのような販売手法。「通常価格」と「実売価格」は違うよね、ということは誰も指摘しません。だから、矢継ぎ早に販売者が示す「譲歩」にどんどん気持ちが傾き、そこまで安いなら…とついつい「譲歩」、気がついたらオペレーターセンターに電話していた、などということありませんか。

高額な布団販売も似たような感じなのでしょう。1枚80万円の布団なんて買えるわけないだろう!と最初は思うけれど、5割引、6割引、いやいや7割引!と「譲歩」されると、「そこまで安くしてもらえるなら…」とついつい「譲歩」して、気がついたらとんでもないローンを組んでいた…なーんてね。(実際この「返報性」、詐欺の手法でも使われるらしいです。)

そんなことを考えると、この世には良くも悪くも「返報性の原理」つまり「見返りの応酬」が溢れているようにも思えてきます。穿った見方をするならば、オイシイ話には裏がある、みたいな感じにも受け取れるわけですが。

人は、怒っているときには怒りの程度の線があり、それに対して謝罪を試みる場合は、その線を越えなければ許してもらえないと思います。例えば、謝罪しようにも、謝って済む話じゃない、とか、そんなの謝罪になっていない、とか。その線を越えるまで謝罪を続けることでようやく許しを得るような気がします。そこまで謝ってもらうなら、こちらも許さなきゃ。

また、人は、悲しんでいるときには悲しみの程度の線があり、それに対して慰めを試みる場合には、悲しみの線を越えなければ慰めにはならないと思います。私の悲しみは誰にも理解できるものではないし、周囲をこの悲しみに巻き込みたくないし、同情もいらない、みたいな。けれど、誰かの慰めによって、その悲しみから開放されることがあるのではないでしょうか。そこまで自分に寄り添ってくれるならば、いつまでも悲しんでいるわけにはいかない。

そう考えると、「返報性の法則」ってゴロゴロ転がっているような気がしませんか。でも、一つ履き違えると大変なことに。

因果応報が自分自身への「戒め」だとするならば、返報性は他人への「期待値」。

ただ、その「期待値」を上方に設定する(他人からの「見返り」を過度に期待する)ということは、それ相応に自分自身も対応する、ということになります。ハイリターンには当然、ハイリスクが伴うわけですから。

勘違いしてならないのは、「俺が、私がこんなに頑張っているのに、何で誰にもわかってもらえないんだ!」という、「自意識」。それは「返報性の法則」云々ではなく、多分その頑張りが、周囲にとっては思ったほどではない、早い話が周囲にとっては全然大したことない、ということ。こういう勘違いというか自意識過剰が、周囲との意識や感覚のズレを生み出すこともあるので、気をつけましょう…という自分自身に対する戒め。

…さて、皆さんは周囲に何か期待していることはありますか?

何よりも、その期待に答えられるような振る舞い、行動(言動)を取っていますか?
何か最近、そういうことを考える気分にもならないかな、僕の場合は。
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荒れる成人式、今年も #fakenews


【荒れる成人式、今年も】 2018年1月9日21時00分発信

●●県××市では昨年、成人の集い(成人式)の最中に逮捕者が出たことから、800人が出席する予定の今年は警備員を4倍の80人に増やしたほか、市職員を含む係員を150人に増強。新成人はもちろん親族にも、クラッカーをはじめとする鳴り物や酒類の持ち込みを禁止し、飲酒していると認められる場合は、酔いの程度に応じて入場を断ることとした。

また、暴れる新成人が壇上に登らないよう、高さ約3メートルの鉄柵を設けたほか、万が一の事態に備え、麻酔銃を手にした猟友会のメンバーを舞台の袖に待機させるなど、徹底した対策を講じることとなった。

××市の成人の集いは毎年「荒れる成人式」として知られており、昨年は犬飼市長の挨拶中にクラッカーや爆竹が打ち鳴らされたほか、一部の集団が壇上に登ろうとする行為が続き、開始からわずか10分で中断。15分後に再開したものの、数名の新成人が壇上に登り、来賓に近づくなどの行動に出た。その際、制止しようとした警察官の腕に噛みつくなど職務を妨害したとして、公務執行妨害容疑で1名が現行犯逮捕された。その一方で会場にいた親族と見られる女性が「一世一代の息子の晴れ舞台をなぜ制止するのか」と激高、係員に詰め寄るシーンも見られた。

市ではこれまでも「市長と来賓の挨拶を一人当たり10分から3分に短縮する」「全くウケないお笑い芸人を登壇させない」などといった対策を講じてきたが、効果はほとんど見られなかった。今後も「荒れる成人式」が続くようであれば、「同じ集団が1か所に固まらないようあらかじめ座席を全席指定にするなど新たな対策を検討しなければならないし、場合によっては開催の意義そのものを再考しなければならない(市関係者)」という。

このことから、市では「苦渋の選択」として今回の奇策に打って出たが、参加者からは「動物園じゃあるまいし」という苦言や失笑の声も聞かれることとなった。

ところが厳重な警戒が続く中、今年は誰もが予想だにしなかった「新成人」が姿を見せた。昨年暮れ、神奈川県や東京都内での目撃が相次いだ、あの「はぐれ猿(推定年齢19歳・牡)」だ。

白の羽織袴姿で突然会場に現れた猿は、新成人に紛れて二足歩行のまま堂々と会場入り。パンダのようなメイクを施した女性の集団が「だからここ、上野動物園じゃないんだけど」と猿に詰め寄るが、全く意に介した様子はない。猿は、落ち着き払った様子で図々しくも最前列に席を陣取り、隣で騒ぐ集団には目をくれることもなく、式が始まると微動だにせず壇上をじっと見つめ、時折メモを取る熱心ぶり。その落ち着いた立ち振る舞いを目の当たりにした関係者は「暴れる新成人よりよほど利口」と口を揃えた。

事情を知る関係者によるとこの猿は、昨年暮れに都内での目撃情報が途絶えた直後、××市の成人の集いに出席するため、月光猿軍団に自ら志願して入門。昼夜問わず徹底的に訓練を受け、「新成人よりも落ち着いた振る舞いを会得した(軍団関係者)」という。ただし、この猿が××市の出身かどうかは不明とのこと。

一方、市が設置した鉄柵の効果は乏しく、鉄柵を難なく乗り越えて壇上に登った新成人の集団は、警備員やスタッフの制止を振り切り、壇上で大立ち回りを繰り広げることとなった。集団の大半はあらかじめ仕掛けられていたワナによって捕獲されたが、ワナに掛からなかった一部の新成人が会場から逃走を図ろうとしたため、猟友会の手によって麻酔銃が撃ち込まれた。やがて麻酔が効いて動けなくなった新成人はスタッフによって捕獲され、動物愛護センターに引き渡された。その後、背中に発信器を装着された新成人は、麻酔が切れる前に郊外の山へと放たれた。

犬飼市長は「色々あったが、今年は一名の逮捕者も出すことなく式を終えることができてよかった」とコメント。一方、市関係者からは「反省だけなら猿でもできるというが、暴れる新成人は反省すらしていない」と嘆きの声が挙がった。
また、猿が何事もなく会場入りできた理由については関係者も首をかしげており、事情に精通する者が事前に情報提供を行っていた可能性があるとして、今後、内部調査を行うこととしている。なお、当の猿は壇上での騒動の最中に忽然と姿をくらませ、その後の目撃情報も今のところ寄せられていない。
一方、山に放たれた新成人は、既に市街地での目撃情報が相次いでいるほか、近所に住む老人の背中に発信器が装着されているのが確認されており、実効性がほとんどないことを裏付ける格好となった。

壇上で暴れる新成人については今後、「少しでも良識ある大人になって欲しい」との思いから、捕獲した後に月光猿軍団へ強制的に送致することを検討したいという。しかし、軍団の関係者は「聞き分けの良い猿より質の悪い人間を、簡単にしつけられるはずがない」と受け入れに消極的だ。

今年も一部の心ない新成人によって式を台無しにされたと憤る他の新成人は「ワイドショーなどのマスコミがこぞってこのネタを取り上げるから、みんなが調子に乗る。でも今年は、貸衣装屋にみんな持って行かれましたね。色んな意味で。」と、晴れの日なのに曇った表情を浮かべた。

××市では来年も成人の集いを開催することとしているが、高さ約3mの鉄柵でも抑止効果がなかったことに衝撃を受けており、一部の関係者は「もはや有刺鉄線か電流爆破装置の導入しかない」と語気を強める。その一方で来年は、先頃7度目の引退を果たした元プロレスラー・O氏を成人の集いに招待することが内定していることから、今後の対応に苦慮することになりそうだ。


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2018年は、平常心で。 #ランニング #マラソン


2018年も早いもので残り360日となりました。
ここ最近何となく避けていたランニングの話を、そろそろ再開したいと思います。

ランニングを始めて10年以上の月日が流れ、フルマラソンに挑戦してから5年目に突入しました。年が改まったのを機に気持ちも改め、練習を再開しています。
初めてフルマラソンに挑戦したのが2013年10月、42歳の時。この時に叩き出した3時間34分50秒というタイムが、僕にとってマラソンの一つの基準となっています。
どうせ走るならもっと速く走りたい!思うのは人間の性ではないでしょうか。僕自身、フルマラソンにはこれまで16レースに出場(うち3レースはペースランナーとして出場)し、最初の記録からこれまで25分ほどタイムが縮まりました。

昨年1月の勝田全国マラソンで、走り始めた頃には夢にも思わなかった3時間15分の壁を越え、更に8月の北海道マラソンで3時間8分を切る怪走(快走ではありません)。しかも北海道の時は、後半に余力を残してのタイム、想定通りのネガティヴスプリットだっただけに、まだまだ行けるんじゃないかという勘違いをした結果、なぜか迷走状態へと陥り、フォーム、体調、その他いろんなものを崩す(壊す)こととなり、現在に至っております。敢えて言うならば、スクラップ・アンド・ビルドの時期に突入したんでしょうね、いろんな意味で。

さて、毎回の走行記録を残しているサイトで調べてみたら、2016年は通算で約2,320.9km、2017年になると約2,739.6kmを走っていたようです。2017年に関しては月間平均で約228キロ。そんなに走っていたという気がしないのですが、屋内外、練習、レースを全て合わせると、結構走っていたようです。僕は走行距離よりも内容を重視、といつも嘯いているものの、やはりこれぐらいは走らないと次の目標には届かないのかな、という思いもあります。

ところで、「プラトー」という言葉をご存じでしょうか。
【Plateau】
一時的な停滞時期を指す言葉で、主に筋力トレーニング時の停滞期のことを言うそうです。
昨年1月までは、何となくこの「プラトー」状態に陥っていたというか、記録が伸び悩んでいました。正しく表現するならば、一進一退を繰り返しながらも少しずつ記録が伸びているんだけれど、かといって劇的に伸びているわけでもなく、感覚的には初完走した時よりも酷い状況というか、何というか。
初フルからサブ3.5を達成するまでは、出場レースの数が少なかったとは言え、たった5分タイムを縮めるのに約1年を要しました。
そこから3時間20分を切るまでには、実に2年を要しました。僕の中では、この時期がまさに「プラトー」の真っ只中だったのではないかと思っています。しかし一旦そこから抜け出すと、3時間10分を切るまで1年もかかりませんでした。

この間で何があったのかといいますと、一つだけ思い当たる節があります。
多分皆さんもやられているとは思うのですが、昨年は、練習やレースの内容を記録する(ウェブ上だけではなく、紙に書いて残す)ということを1年間通してやりました。特に冬場の青森は、外走りするのもままならないことがあるので(冬場のランを全く苦にしない方もたくさんいますが、僕はかなり苦手です)、改めて読み返すことで、この時期にどんな練習をしていたのかを見直す一つのきっかけにもなります。
以前は「Number Do」という雑誌に付いていたランナーズ手帳を愛用していました。ほぼ日手帳の監修だったものが、2017年版は、高橋尚子さんも監修に参加した手帳となり、非常に使い勝手が良く、本当にスラスラと練習内容やレース結果を記していたのですが、2018年版は今のところ同梱される気配がありません。
まあ、普段使っている手帳に書くのもいいのかも知れませんが、仕事の内容もランニングの内容もゴチャゴチャと手帳に書き込まれたものはあまり見栄えがいいものではありません(仕事の内容がたくさん書き込まれることもないのですが)。
今、代用品を探しているのですが、なかなか手頃な大きさのものが見つからず、最後は自分で作るしかないのかな、と考えているところです。

さて、どうせ走るんだったら、1秒でもいいから速く走りたいと思うのは、先ほどもお話したとおり。でも、毎回毎回それを狙うには、レースとレースの間隔が少し短すぎるようです。これから先もずっとマラソンを楽しむためには、走る時期やレースなど、ある程度の取捨選択はやむを得ず、そこからターゲット(勝負レース)を絞っていく、ということも必要になってくると考えています。いや、もちろんそれなりのお金を払って出場する以上は、結果を出さないと、とは思うのですが、裏を返せば、結果を出すためにどれだけ練習を積んでそのレースに臨むか、ということになるのかな、と。
「レース出場も練習の一環」と捉えることもあるのでしょうけれど、色んな意味でそんな余裕ないんですよね…。

昨年、バースデーランとなった勝田全国マラソンへの出場は、今年は見送りました。実はこれ以外にも、出場したいと考えていた幾つかの大会出場を断念しています。一番大きな理由は、「4月から新たに配属となった業務の中身が見えないから」でした。しかし、結果的には無理に断念する必要もなかったようです。今となっては失敗したな、という思いも強いです。

今月末には47歳を迎え、いよいよ50歳の足音が聞こえて来ます。
ひとまず昨年からの積み残し(宿題)は何とか消化しないといけないな、と思っていますし、やらなければならないことの消化に向けて、レースや練習などをどう組み立てて行くかが大事になってきます。嗚呼、なんかすっかりランナー気取りですね。どうもすいませんね。

そんな中、実は既に幾つかの大会にエントリーしておりまして。

まずは3月の「古河はなももマラソン」。初出場の大会です。
開催される日が東日本大震災から7年目の節目となる3月11日だということ、虹の橋を渡ったうちの愛犬が「ハナ」と「モモ」だったということ、これだけで出場を決めました。…って、理由が安易でしょ?
ただ、出場する以上は、それなりの結果を求めたいと思っています。
2017年は「北海道マラソン」の後の「田沢湖マラソン」で大失速をやらかしてしまい、それから走りに迷いが出始めました。
あの時の反省を踏まえ、まずは一定ペースで走りきることを念頭に置きたいと思います。イメージは北海道マラソン。最低限(表向き)の目標は、安定の3時間15分切りということで、3時間14分59秒。これを達成するためには、やや強めのトレーニングを積まなければならないところではありますが、強めと考えるトレーニングが、いつしか平時のトレーニングになるよう、少しでも目標に近づくために頑張りたいと思います。

4月の「イーハトーブ花巻ハーフマラソン」は、今回で5回連続出場となります。このコースは、これまで3度ハーフの自己ベストを更新している相性のいい大会。しかし、この驕り、勘違いが大失敗を生むということもあるので、そうならないよう慎重に走りたいと思います。(実際、残り1度は脚の痙攣で大失速しているので。)

この他にも、5月に五所川原市で開催される「走れメロスマラソン」はハーフでエントリー済み。
「メロス」の2週間前、昨年自己ベストを更新した「仙台国際ハーフマラソン」は、陸連登録の部が来週9日からエントリー開始となりますが、久し振りに八戸市の「うみねこマラソン」に出場しようかと、ちょっと悩んでいるところ。
「北海道マラソン」は今年8月26日に開催されますが、エントリー開始が3月4日(日)と例年より1か月早くなっているので要注意。
昨年残念な結果に終わった「田沢湖マラソン」は、大会の間隔を睨みながらどうしようか思案することになりそう。

ざっと挙げるとこんな感じでしょうか。この他、昨年は出場を見送った「さいたま国際」をどうするか、思い切って「NAHA」に高跳びしようか、「勝田」はどうしよう、10キロのレースも何本か出場したいな、などとプランを練り始めると止まらなくなってしまいます。

とりあえず、いかなる場合も平常心で、冷静にレースに臨めるような姿勢で挑む。
そう考えると今年は、フィジカル面よりもメンタル面の強化が重要になってきそうな気がします。

昨年の北海道マラソンみたいに、激しい動揺にも打ち勝つ強靱な精神力でレースを迎えたいものです。でも、あの精神状態であのレース運びができるなら、もうちょっと上を目指せると思うんだけど、逆にあの精神状態まで追い込まれるのだけは、もう勘弁して欲しいなあ(笑)。


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祖母と茶碗蒸し


津軽の正月は、事実上大晦日の夜から始まる、といってもいいんじゃないだろうか。正月を迎える、というよりも、正月を待ちきれず、年越しを楽しむみたいな感じで。

小さかった頃は、家族揃ってその年の出来事を語り合い、レコード大賞を見ながらああだこうだと苦言を呈し、その後紅白歌合戦を見ながら歌に衣装にケチをつけ、母がこしらえたたくさんの料理に舌鼓を打ち、22時過ぎ、無理矢理年越しそばを流し込み…。
除夜の鐘の音が聞こえる頃には高校の友達と連れだって初詣に出かけたこともあったが、大学生となり、年末年始のアルバイトを始めるとともに終了。その一方では、僕自身も台所に立つようになり、母をサポートするようになった。

そしていつしか、年越しには欠かすことのできない「なまこ酢」と「茶碗蒸し」の製作は、材料の下準備から味付けまで、全て僕が担当するようになっていた。更には、まるでオードブルか盛皿かといった大きな容器に料理を盛りつけるようになり、妻の実家や妹夫婦、更には北秋田にある母の実家などへ、うちからのお歳暮のような形で届けるようになった。

(昨年暮れに製作した一つ。もちろん非売品です。)

今年も例年同様、30日の午後から料理の製作を開始したが、何とも言えない物足りなさを感じていた。それまで毎年欠かすことのなかった新年の北秋田訪問を、今回は見送ると母が突然宣言したためだ。


(昨年暮れのナマコはちょっと小ぶりだったらしい。税抜きで1kg 3,980円。)

ひょっとして何か関係を悪化させるような事態が発生したのだろうか?
余計な詮索をしたくなるところだったが、どうやら毎年母に同行していた妹と甥が同行できないかも知れないということで、母自らハンドルを握って北秋田へ向かうことが億劫になったらしい。

考えてみると母は今年古希を迎える。いくら道路事情が良くなったとは言え、冬に長距離を一人で運転するのが面倒になる、そういう年代になってきたということなのだろう。
ただ、例年であれば年明けとともに喜び勇んで出かける準備をしていたのに、180度方針転換とも言える母の心境の変化には、こちらがちょっと戸惑った。

しかし、これに異を唱えたのは妻だった。毎年恒例のルーティンとも言える行事を、こういう形でやめてしまうことが、どうも腑に落ちなかったらしい。
結局、元旦の朝早々に初詣を終えた後、妻の発案で北秋田に向かうことになった。
ただし、日帰りで。

更に、妹も甥も僕の車に同乗することになり、結果的にはいつもの新年より人数の多い状態(しかも我が家の愛犬チョコまでも同乗)で北秋田へと向かった。(新年、僕は不定期で北秋田を訪れているが、妻は毎年決まって留守を預かるのだ。)

東北道を利用し、1時間20分ほどで北秋田市にある母の実家に到着すると、伯父が一人でテレビを見ていた。従姉は出かけたという。
かつては大きなテーブル2つでも足りないほどの人数が集まった新年の光景は、そこにはなかった。今は伯父と従姉の二人暮らしとなった母の実家に、弘前から5人で押しかけてはみたものの、どこか一抹の寂しさを感じながら、祖父母と伯母の仏壇に手向け、1時間ほどで北秋田を後にした。

考えてみると新年の北秋田訪問は、祖母への新年の挨拶、そして祖父と伯母に手向けることが主たる目的だった。年末年始のバイトで疲れていた時でさえ、僕だけ別行動で北秋田に向かったことがあった。
自分が結婚し、やがて生活のペースが夫婦主体となり、初めて僕が北秋田に行かないことを告げた時は、母が僕と一切口を聞かなくなるぐらい険悪な雰囲気に陥った。逆に、「行かない」と言っておきながら奥羽線の特急電車に乗ってこっそり後追いし、年始のドッキリと称して電撃訪問したこともあった。(ところが、訪問したら家には鍵が掛けられていて人の気配がなく、逆にドッキリさせられたけれど。)
それぐらい、新年の北秋田訪問は「当たり前」の行事だったのだ。

そして、北秋田での新年の恒例行事と言えば、「誕生祝い」であった。
僕の妹が1月2日、祖母が1月3日に誕生日を迎えるということで、いつも合同での誕生祝いを、母方の親戚一同で行っていたのだ。

「いくちゃん、ばあちゃん、おたんじょうびおめでとう」とチョコレートで描かれた大きなケーキが用意され、二人でロウソクの火を消すのが毎年目にする光景だった。こうやって妹は、新年と誕生日を一緒にお祝いされてしまうため、ちょっと可哀想だな、と思う反面、親戚みんなから祝ってもらってちょっと羨ましいな、と思うこともあった。

しかしその祖母も病には勝てず、5年前の6月に享年96歳で他界。それから約10か月後には、妹に長男が誕生した。うちの母にとっては初孫だったが、祖母はその曾孫の顔を見ることもなく、旅立った。でも、まるで祖母の生まれ変わりみたいなタイミングでの誕生に、親戚一同が湧いた。

閑話休題。
当番を任された新年の「茶碗蒸し」は、しばらく品質が安定しなかった。卵スープみたいな出来映えになってしまったり、いわゆる「巣が通る」状態になってしまったり。それでも北秋田の親戚は、「美味しい」と口にしながら食べてくれた。恐らくお世辞もかなり含まれていたんだろうけれど、食べてもらえること自体がちょっと嬉しかった。(…まあ、茶碗蒸しは味付けさえ失敗しなければ食べられない、ってことはないから。)
自信を持って製作できるようになったのは本当にここ数年のこと。もっとも、電子レンジのなせる業、と言ってしまえばそれまでだけれど。


(2017年暮れの茶碗蒸し)

僕の作る「茶碗蒸し」の具材は、鶏のささ身、栗、百合根、三つ葉、舞茸、糸こんにゃく、なると。銀杏やエビは入れない。
出汁は鰹節と昆布、干しシイタケから取り、酒、砂糖、塩、醤油、みりんで薄めに味付け。
溶き卵と出汁の割合は、概ね1:3.3。この「0.3」の加減で、出来具合が大きく変わる。溶き卵は一度網杓子をくぐらせて濾し、余計なモノが入ってダマにならないようにする。

器には具材を先に入れ、よく攪拌した溶き卵と出汁をゆっくり器に注ぐ。その際、表面に巣が立たないよう、もう一度網杓子で濾しながら注ぐ。
あとは、電子レンジでお任せ調理。大体18~22分で完成。

鶏のささ身ではなくエビを投入することもあるし、昨年はエビの頭で出汁を取ったスープに片栗粉でとろみをつけ、あんかけ風茶碗蒸しにするといったバージョンも。いちご煮のスープをベースにして作ることもある。
年に1~2度しか作らないけれど、その分、作るとなればいつになく気合いを入れて作る。
甥っ子は、「なると」を切ると現れる「の」の字に「おじちゃんの「の」だね。」と喜色満面。

(2016年暮れの茶碗蒸し。柚子の皮が入っていない。)

そんな茶碗蒸しといえば、祖母との思い出が忘れられない。
祖母が施設に入る直前の正月だったと記憶している。
年老いた祖母に少しでも美味しいものを食べて欲しいという一心だけで「茶碗蒸し」をこしらえ、大成功に仕上がったそれを持参。
ところが、その茶碗蒸しを口にした祖母が発した強烈な一言に、僕は凍り付いてしまった。

「ワイ!この茶碗蒸し、何も甘ぐネジャ!」

祖母は、「赤飯」然り「茶碗蒸し」然りで、いわゆる「砂糖甘いおかず」を好んで口にしていた年代。
そのことをすっかり忘れていた僕は、全く甘くない(というか、ごく普通に出汁を利かせた)茶碗蒸しを作って持参したのだ。しかも、栗を入れ忘れるという失態。

何の悪気もなく発せられた祖母の一言に周囲は爆笑。
「そんなことないよ!甘くなくても美味しいじゃない!」と、懸命にフォローしようとする親戚。それが逆に僕の心を深く傷つけてしまったというか、何というか…。

しかしながら、結局その後も「サドアメ(砂糖甘い)茶碗蒸し」は一度も作って持参しなかった。せめて祖母の分だけでも「サドアメ茶碗蒸し」にすれば良かったかな、と今更ながら後悔の念も。ただ、祖母が僕の茶碗蒸しを口にしたのは、その後1度ぐらいしかなかったのかな。祖母の「名言」は、未だに語り継がれているけれど。


(祖母と両国国技館にて。今、色んな意味で話題の貴乃花親方がまだ横綱だった時代だったと記憶。)

毎年、茶碗蒸しの製作に取りかかるたびに思い出す、僕にとってはちっとも甘くない、むしろ「ほろ苦い」茶碗蒸しの思い出でした。


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