防災に対する意識、持っていますか。


日本海中部地震から35年、十勝沖地震から50年という節目の年、今一度「防災」を考えるきっかけ、そして、自分の見識を深める機会になればいいと思い、弘前大学理工学部で開催された「地震災害軽減に関するシンポジウム」を聴講してきました。地球環境防災科の教員によるもので、専門的な話に特化してしまうのかな、と危惧しておりましたが、全くそんなことはなく、むしろ頭の中に入りやすい内容でした。

以下、走り書きのメモから概要をピックアップ。

▼小菅正裕教授「あれから35年―変わったこと,変わっていないこと」

50年前の十勝沖地震。気象庁が地震発生当日に発表した震源が十勝沖だったことから、その日に十勝沖地震と命名した。

ところが、震源の位置が違っていたことが後日判明。実際は十勝沖ではなく、三陸沖北部の青森県東方沖であることがわかった。地震の観測地点が少なく、位置の特定が難しかったことが要因。

35年の日本海中部地震。当初、秋田沖が震源とされた(活断層のズレが最初に起こったのは秋田沖だった)。しかしこちらも後日の調査で、青森県の西方沖(青森県岩崎沖)約90km、深さ約20kmが震源であることが判明。

「秋田沖地震」ではなく「日本海中部地震」と命名されたのは、青森県選出代議士が深く関与。「十勝沖地震」の際、被害が甚大だった青森県ではなく、北海道に対して補助金や救援物資が回されたという苦い経験があったから。

当時の地震観測計では、S波(地震の主要波。最初のカタカタがP波、その後のグラグラがS波)を観測することができなかった。青森県内の気象台、測候所は青森、八戸、むつ、深浦の4か所のみ。

2001年の論文で、仙台平野への津波到達の危険性が指摘されていた。10年後、東日本大震災で現実となった。

*地震の観測地点が一気に増えたのは、阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)が契機。

未だにできていないこと。まずは地震の前兆観測や発生予測。大震災(サンプル数)が少ないので、シミュレーション、検証ができない。

そして、「災害への心構え」。震災の経験を後世に伝えることが萎んでいき、地震を知らない世代となり、経験が忘れ去られる。そのタイミングでまた同じことが起こる。この連鎖を絶つことが必要。

マスコミ報道への違和感。震源の位置を示す三陸沖の×印の横に、「東日本大震災」の文字。

×印で起きたのは、東北太平洋沖地震。この地震によって人々が暮らす陸地で起きたのが、「東日本大震災」。

防災リテラシーの向上のため、命を守る教育の場が必要。長周波の揺れが発生したら、「とんでもないことが起こっている」という認識を。大津波警報が発令されたら、「必ず津波がやってくる」という認識を。


▼上原子晶久准教授「台湾の地震に学ぶ」

台湾で発生した2つの地震。1999年の地震はM7.3。震源が8kmと非常に浅かった。活断層のズレが最大約10m発生し、断層変位が地表に現れたところでは、ダム本体や橋脚といった構造物が破壊された。熊本地震の阿蘇大橋も、断層変位によるものと考えられる。

2018年2月6日に発生した花蓮地震、M6.4。これも断層変位が地表に現れ、構造物が被害。地震被害はいつも発生するが、特効薬的処方箋はないのか。県の防災計画、これまでも何度も更新。「その取組に終わりはない。」という県幹部。これがまさに、答え。

だからといって対策を講じることをやめてはならない。


▼前田拓人准教授「津波発生研究と即時予測技術の最前線」

津波から地震を観測するという手法。地震発生から津波到着までに地震を調査。S―netという津波の観測網を、岩手~福島の太平洋に張り巡らせた。世界でも前例のないケース。津波の現在地がわかるようになる。将来は、台風の進路予測のような、津波天気図(津波予報)に繋げたい。

地震も津波も、なくすることはできない。備えも避難も決断次第。


▼片岡俊一教授「次の地震にどう備えるか」

自然現象×人間社会=災害(被害)
自然現象はどこでも起こる。そこに人間社会が絡んで初めて、災害が発生する。

自然の力>人間の作ったものの強さ →災害が起こる。
人間の作ったものの強さ(例えば構造物の強度?)は自然の力には敵わない。だから災害が起こる。

が、災害は軽減できる。何を守るか。

震度5強以下の地震(構造物に被害が出る規模ではない)で、室内での死亡例3件。
本棚から崩れた書籍の下敷きになり、圧死(窒息死)したというケース。(しかも亡くなったのは40代の方ばかり)

各市町村の地域防災計画は、それぞれの市町村で完結。隣接の市町村まで踏み込んで書けない。

県内だと津軽、南部、下北、それぞれの相互・広域的なサポートが必要。

20時頃にシンポジウムが終了し、大学の外に出ると、雨脚が更に強くなっていました。弘前市には暴風と大雨の警報が発令されたまま。明朝は久しぶりにAさんの伴走を予定していましたが、そのAさんから連絡があり、練習を中止することに。

明日の予報も「雨」。警報は夜遅くまでの予想ではありましたが、安全面を考慮すると、弘前公園ランニングクラブ定例の朝練習も怪しいところです。

そこで、キャプテンにメッセージを送り、初めて「練習の中止」をFBページにアップ。

今回の「練習中止」のアナウンスは、もちろん仲間の安全を第一に思ってのことではありましたが、もちろん、そうは言っても何人かが練習にやって来ることは織り込み済み。ただ、それが何人なのか、気になるところではありましたが…。


47都道府県を見ると、青森県の防災意識は、太平洋側に位置する各県と比べても低いそうです。恐らく、青森県の中で見ても、特に津軽地方の人たちはその意識が低いのではないかと考えています。というのも、地震に関してだけ見ると、直接的に甚大な被害を受けた日本海中部地震から35年、この間には東日本大震災のほか、阪神淡路大震災の20日前に発生した三陸はるか沖地震など、県内で震度5強以上を観測する地震が発生していますが、津軽地方においては、直接的な被害を受けていないからです。むしろ、平成3年の台風19号の方が印象として強いのではないでしょうか。


朝4時。慣れというのは不思議なもので、土曜日にはこの時間に目が覚めます。

きっと雨がぱらついているんだろうな、と外を見て、唖然としました。

雨が、上がっている!

なんと、天気予報「雨」に騙されました。前日夜の大雨を考えても、まず間違いなく朝方まで雨は降り続いているのだろう、と確信していたのに。

しかも、予定通り警報は解除されており、もはや普段の「曇り」と変わらない天気。

グラウンドの状況を考えれば、恐らく運動会は中止になるでしょうが、「警報解除」の条件付きでの練習中止にすれば良かったのかな、と悶々としつつ、もう一度布団に潜り込みました。

まあでも、川の水は増水しているだろうし、万が一何かがあってからでは遅過ぎるし。

防災は空振りを恐れてはならないんだから、これでよかったんだ、きっと…うん。

誰も練習に来ませんように、と祈りましたが、結局7人が集まったそうです。(これが多いと思ったか少ないと思ったかは、ご想像にお任せします。)

こんな天気になるんだったら「中止」なんてぶちまけなければ良かったと、本当に猛省しています。関係各方面の皆さま、申し訳ありませんでした。

ということで予告。

6月下旬に、弘前文化センターで「防災啓発研修」を開催します。テーマは、「命をまもるために、いま、できることは何か」。

講師お二人をお呼びし、風水害・火山災害への備えと、国民保護に関する講演を行っていただく予定です。

防災意識が低い津軽、という印象を払拭するためにも、たくさんの方々のご参加をお待ちしております。(詳細はまた改めて!)

最後に皆さん、こんな時どうする?

  • 大雨が続いているのに、河川の水位が少しずつ下がっているような気がする
  • 暴風雪警報が発令される中、幹線道路が急に渋滞し始め、車が動かなくなった
  • 田んぼの中の一本道を車で走っているときに、突然Jアラートが鳴りだした

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これ以上、何をけずり出せ、と? – #仙台国際ハーフマラソン


【今日はいつになく長文駄文です。】

5月13日(日)、昨年に引き続き仙台国際ハーフマラソンに出場した。

初めて出場した昨年は、グロスで1時間28分02秒(ネットは1時間27分38秒)だった。自己ベストを叩き出したとはいうものの、この結果に満足することはできなかった。でも、当時の自分の力を悟ったつもりだったし、だからこそ来年の大会で「3秒の借り」を返そうという想いも日に日に強くなっていった。

昨年、僅か3秒で逃した1時間27分台。確かにこの壁を叩き壊すべく1年間取り組んで来たのは事実だが、それが最終目標ではない。更にその先を目指して、オッサンはオッサンなりに地道に努力してきた…つもりだった。

備忘録として、ざっとおさらいをしておこうと思う。

今年も陸連登録ランナーとしての出走となり、スタートラインに程近いAブロックからのスタートとなった。
昨年はAブロックの中にBブロックのランナーが紛れ込んでいて憤慨したが、今年は入場口でのチェックがそれなりにされていたようで、少なくとも自分の周囲にそういう不届き者の姿はなかった。

早朝4時に起床して仙台にやってきたが、眠気よりも緊張感に押しつぶされそうになる。…って、何をそんなに緊張しているのだ。平常心、平常心。

10時05分に号砲が鳴らされ、レースがスタート。
昨年は雨模様だったこともあって路面状況がよろしくなく、歩を進めるのにも苦労したが、今年は比較的スムーズな走り出しとなった。

周囲のランナーとの接触に気を配りながら時計に目をやると、4分台前半、それも一桁台のペースを指していたので、うまく流れに乗ることが出来たのだろう。あとは最後まで大崩れすることなく、テンポ良く走って行くことを意識するようにした。そして、なるべく周囲に目を配ることなく、自分の走りに集中することを考えた。いや、考えたというよりは、何も考えず走ろうと決めた。

3キロ過ぎで、既に相当発汗していることに気付く。
給水ポイントは幾つか飛ばすつもりだったが、後で何があっても困るので、ひとまず全てのポイントで何かを口に入れることにした。

「テンポ良く」を意識しているとはいえ、上りもあれば下りもあるコース。多少の乱れは覚悟していたものの、思ったほど乱れてはいなかったらしい。…ただし、終盤に現れる貨物線の跨線橋以外は。

10kmを41分台で通過したのは想定通りだった。しかし、11km手前で高橋尚子さんとハイタッチした後で一瞬ペースが上がったのがまずかった。多少テンポが乱れた後、何も考えていなかったはずの脳に邪念が降臨して囁きを始めたのだ。

「無理しなくても良いんじゃないの?」「少しぐらい力を抜いても、誰も見ていないって。」「やめる、という選択肢もあるんだよ。」「ほら、足裏が痛くなっているんじゃない?」

矢継ぎ早に飛んでくる囁きで、迷いが生じる。

そんな囁きを一刀両断したのも、脳の中に現れた自分自身だった。
「今日ぐらいは自分を信じようよ!」

危ない危ない。脳と身体が完全にバラバラになって、自分の身体を赤の他人にしてしまうところだった。
もう一度気を取り直して、体制を整える。

時折沿道から聞こえて来た「マカナエさん、頑張って!」の声に驚きながら、いよいよ貨物線の跨線橋が近づいて来る。ちなみに声を掛けてくれたのは、AさんとTくんだった。(応援、ありがとうございました。)

15キロ通過が1時間2分ちょっと。何も考えないはずだった脳の中で、つい逆算を始める。
残り6キロを28分で走れば1時間30分か。キロ5分を切るペースを、最後まで維持できるだろうか。

跨線橋を上りきったとき、思わずふと時計に目を配る。ペースは4分20秒に落ちていた。
そして、ここまでの疲労の蓄積から、フォームがかなり崩れ始めていることも悟った。急に足音がうるさくなったのだ。
トップランナーは、静かに、本当にスゥッと駆けていく。まるでハイブリッド車のようだ。それに比べたら今の僕は、さながらマフラーの壊れた軽トラといったところだろうか。

程なく、路側帯を歩き始める人たちがちらほらと現れ、更には、脚の痙攣で倒れ込む人も。
ああ…自分もここで脚が痙攣したら、「今日はダメでした」って言い訳できるのに!

20キロ地点手前で、再びこの跨線橋が立ちはだかる。ここが本当の意味での「難関」となる。無心のまま周囲には一切目も配らず、最後の折り返し地点へと向かう後続の仲間から声を掛けられたりしたようだが、反応する余力がほとんどなかったし、視界に入ってこなかった。それぐらい、イッパイイッパイだった。後で聞いたら、フォームがかなり小さくなっていたらしい。

それでもまっすぐ前だけを見据え、いよいよカウントダウンを始める。

最後の上り。一気にペースが落ちていくのがわかる。もはや時計には全く目をくれなかった。いや、時計を見るのが怖かっただけだ。

当初想定していた、20キロの下りからのラストスパートは、不発に終わった。
上半身を揺らし、ドタバタと足音を立てながら、陸上競技場のトラックへと進む。前を走っていた女性ランナーがよろけて転倒する。「大丈夫ですか!」の声すらも掛けることもできず、最後の直線へ。ようやくゴール横の電光掲示板に視線を送ると、1時間27分20秒を過ぎたところだった。どうやら、目標としていた昨年の「3秒の借り」を返すことができるらしい。
両手で小さく拳を握りしめながら、ゴール。
時計を止めると、1時間27分43秒を指していた。
振り返って深々と頭を下げる。90分近くにわたる自分との戦いが、ようやく終わった。
脚が痙攣する気配も、張っている感覚もなかったが、いつになく荒くなった呼吸を整えようとその場に立ち尽くした。

タオルを手に、完走証を受け取る。速報値で、1時間27分40秒(ネットは1時間27分22秒)だった。
結果的にはこのコースで、2年続けての自己ベスト更新となった。

コースとの相性なのかも知れないが、若干湿度が高めだという以外は、曇り空にさほど上がらなかった気温、風もそんなに強くないという、天候を言い訳にできない、走るには絶好のコンディションだったと言えよう。
昨年の「借り」を返し、やっと27分台に到達できたという安堵感がある一方で、この1年間で、たった22秒しか縮めることができなかったという複雑な心境が渦巻いていた。正直、ハーフマラソンを走るのがこんなにキツいと思ったのも久し振りだった。

たかが22秒、されど22秒。

元々余力を残してゴールするつもりはなかったし、この大会に関しては、今年出場するハーフマラソンの中でも最も力を発揮したい大会と位置づけていた。しかし実際のところ、持てる力の何割を発揮できたのだろう。

練習不足を補うべく、それなりに追い込んだつもりだ。マラソンは一夜漬けでどうにもなるものではないことは重々承知している。
「その1秒をけずり出せ」とは、東洋大の陸上競技部が掲げるスローガン。
1年間で22秒短縮という結果に、僕はこれ以上何を削り出せばいいのだろうか、と思案した。

コンマ何秒で世界が変わるトップレベルの短距離と違って、マラソンは分単位で記録が変わることもざらにある。
特に市民ランナーだと、マラソンを走り始めた翌年に1時間も記録が縮んだ、ということは耳にする話だ。

自分の持ちタイムが縮んだからといって何か賞品を頂けるワケでもないし、元々タイムを意識するつもりはなかった。だからこそ、この手の話は完全に自惚れの領域だということはわかっている。事実、別に僕のタイムがどうだろうと、皆さんには何の関係もないんだから。

…嗚呼ごめんなさい。何だかまた面倒くさい話で終わりそうな気配。

その中の一つだけ光明を見いだすならば、思ったほど後半のペースは落ち込んでいなかったということ。いや、ネガティヴスプリット(後半ペースを上げる走り方)を理想している僕としてはダメダメな走り方だけれど、この程度で収まったのはせめてもの救いだった。(…まあ、15キロ~20キロだと10~15キロと比較して30秒も落ち込んでいるので褒められたものじゃないけど。)

(赤色の点がピッチ、青色の連続線はペース)

帰りの新幹線の出発時刻まで、ラン仲間3人とともに仙台駅でお疲れさまの乾杯。
ジョッキを掲げながら、ふと思い出した。

そういえば、体重2キロ増のまま大会に臨んでしまった。
そうか…削りだすべきは、この腹回りに程よくついてしまった、ぷよぷよだったのか。

今回のこの結果を見ると、いよいよ天井が見えてきた感も否めない。しかし、色々あった中でここまで結果に繋げられたのであればいいじゃないですか。ということで若い皆さんには申し訳ないけれど、もう少しだけ悪あがきしてみようと思う。


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理想の形は綺麗な多面体 #ランニング


昨年に引き続き、GW期間は「集中講義」と称し、とある練習に出向いていた。
足りないものを探りに行くというか、補いに行くというか、確認しに行くというか、打ちのめされに行くというか、何というか。

連休最終日の日曜日、練習を終えて帰宅すると母が半ば呆れたような口調で呟いた。
「毎日朝からご苦労さん。よく続いてるねぇ…」

熱しやすく醒めやすい、そんな僕の性格を見越してのことだったのだろうか。
「まあな…確かに。うん…。」と思わず語尾を濁していた。

早いもので、ジョギングからランニング、そしていつしか一端(いっぱし)のマラソンランナーとなってから6年目のシーズンに突入した。既に今季最初のレースを終え、今週末の仙台国際ハーフマラソンに照準を合わせている他、その後も既にほぼ毎月のように10km~ハーフの大会にエントリーしている。

母が呟いたように、確かに醒めやすい僕の性格を持ってすれば、既にランニングの世界から「足を洗っていても」おかしくないのだが、珍しく長続きしているという状況にある。

親戚一同が無言になるぐらいの圧倒的な運動音痴で鳴らした自分としては、それを見返したいという気持ちが47歳の中年になった今も、心の中に燻っているということもある。

多分、親戚が住んでいる地域の大会にばかり出場するのは、双方の「生存確認」はもちろん、自分だってそれなりに運動することができるんだということを認めて欲しい、という欲というか願望がどこかにあるからだと思っている。

そして何よりも、これが健康を維持していると思えば、なかなか止めるワケにはいかない。止めた途端に、ほら見たことか。と言われるのもイヤだし。

「50歳までにはフルマラソンで3時間切り」という目標を掲げている以上、最低あと3年は続けなければならないな、と考える一方で、願わくば一刻も早くその目標に近づきたい、と思うこともある。かといって仕事や家のことを疎かにしちゃならない(もう充分疎かにしているのかも知れないけれど)。

なかなか走る時間が割けずにイライラしてくることもあれば、時間があるのに何だか走ることが面倒だな、と気乗りしない時もある。まあ、所詮は素人ランナーだし、そういう日があって当たり前なのだが。

「心技体のバランスが取れている。」

最近、よく耳にする言葉だと思う。特にスポーツの分野では使われがちな言葉だと感じるのは、多分海を渡った二刀流の選手の活躍があるからだろう。

ランニングにおいて、(いや、ひょっとしたらランニングのみならず仕事や家のことも含めて)僕が思い描いていた理想型は、かつては正三角形のようにバランスの取れた「心技体」だった。例えばどこかが極端に突出したり、逆にどこかがベッコリと潰れることで、歪(いびつ)な三角形にならないように、それなりに注意を払ってきたつもりだった。
しかし、今まで綺麗な正三角形の状態で走ることができたのは、一度もなかったし、生活面においてもそれは同じことだ。正三角形どころか、二等辺三角形すらも形づくられていなかったんじゃないだろうか。。

というか、多分そんな正三角形の状態で走っていたら、とっくにフルマラソンで3時間を切るようなエリートランナーになっていたことだろう。大体にして、そもそも箸にも棒にもかからないような運動音痴の中年が、エリートランナーになりたい、なんて放言するんだから大したモノだと思いませんか。…思わないですよね、ハイ。

どこかに故障を抱えていたり、気乗りしなかったり、そもそも体調が万全ではなかったり、なかなかうまくいかないところがマラソンの難しいところであり、面白いところでもある妙味。人生をマラソンになぞらえる人もいるけれど、所詮人生もマラソンもそんなもんですよ。どうですか、皆さん。

さてこの心技体、正三角形が理想型ではないということをふと考え始めている。なぜなら、心・技・体それぞれが異なる多面体を持っていると思うから。


(そうそう、今年のハートは形が悪かった)

つまり、こういうことだ。

心の面でいえば、端的に表すならば喜・怒・哀・楽。これだけで既に4面あることになる。
技の面だって、短距離走がやたらと速い人が長距離も得意だとは言い切れず、腕の振り方だったり着地だったり脚の運び方だったり、色んな技術を総じて鍛えなければならない。
更に体の面となれば、体幹や筋肉、骨格、更には内臓にまで気を配らなければならないことは、言うまでもなく。

そう考えると、一言で心技体といっても、実は色んな点が結び合って線となり、それが面を形成して複雑な多面体になって初めて、心技体のバランスを保つ、とは考えられないだろうか。


(さくら以外の枝でハートが作られている感じ。これって…)

ちなみに、点と線、線と面の関係は、これまでも何度か持ち出してきた話。

…何かまた七面倒くさそうな語駄句が始まったぞ。と思った方もいることだろう。

いいんです。

47歳の運動音痴は、日々こんなことを考えながら、この先の戦況を踏まえ、どういう言い訳に結びつけようか思案しているのだから。

ここ数年恒例となっていた弘前城リレーマラソンへの不参加が決まり、10月に開催される弘前・白神アップルマラソンへの出場も微妙な状況となりつつある昨今。

限られた時間と機会の中でいかに効率良く、かつより効果的なパフォーマンスを発揮するか、今はそちらの方に意識がかなり向き始めている。

どうやら今シーズンも、メンタルを鍛える機会が増えそうだ。理想とするような多面体を作り上げるまで、わずか3年という時間では到底足りなさそうな気がしてきた。


(独りとはいえ桜吹雪の舞う中を走るのは、何だか感動的だった。)


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賑やかだった弘前の春空


桜前線が一気に北上した4月。弘前公園のソメイヨシノは4月20日に開花し、23日には園内、外濠ともに満開となった。県内外はもとより、今年は海外からも大勢の観光客が訪れたようで、例年のことながら幹線道路や公園周辺の道路における慢性的な渋滞が発生したようだ。

ソメイヨシノはGW前半を迎える前に散り始め、GW突入の頃には綺麗な花筏を楽しむことができた。
とはいえ弘前公園にはソメイヨシノ以外にもたくさんの種類のさくらがあり、今日5月4日時点でも遅咲きのさくらの花を楽しむことができる。ちなみに、弘前市公園緑地課が発表したさくらの開花状況は、こんな感じ。

ソメイヨシノ
■園内(全体)
開花状況  :葉桜

ヤエベニシダレ
■園内
現在の状況:散り始め

弘前雪明り(原木)
■ピクニック広場
現在の状況:散り始め

その他の品種の開花状況・予想
■鬱金 (本丸・二の丸・ピクニック広場) :満  開
■関山 (二の丸・ピクニック広場・四の丸):7分咲き~満開
■東錦 (二の丸・ピクニック広場)    :満  開
■松月 (北の郭・追手門)        :満  開
■寒緋桜(ピクニック広場)        :満 開
■ひよどり桜(ピクニック広場)      :7分咲き
■普賢象(本丸・ピクニック広場)     :3~6分咲き
■須磨浦普賢象(北の郭・ピクニック広場) :2分~7分咲き

弘前城植物園のサクラ開花状況
満   開 :一葉、鬱金、大寒桜、カスミザクラ、御衣黄、釧路八重
松月、手毬、福禄寿、水上、ヤマザクラ
5 ~7分咲き:関山、兼六園菊桜、琴平、紅時雨
咲き始め  :数珠掛桜、須磨浦普賢象、普賢象、松前紅玉錦

見たことも聞いたこともない名前があるかも知れないが、これ、ぜんぶ「さくら」の種類なのだそう。ちなみに、弘前公園で開催されるのは「弘前さくらまつり」であって、「弘前桜祭り」でもなければ「弘前桜まつり」でもない。なので、どういうわけか「桜」と漢字表記することにちょっとした抵抗というか違和感があって、この投稿でも「さくら」と表記しているのは、そういう趣旨です。

今年は、「弘前さくらまつり」の前身である「弘前観桜会」が開催されてから百周年を迎える。
これに合わせて関連するイベントも開催されていて、弘前公園は中も外も、そして上空も賑わいを見せた。

4月21日は、弘前さくらまつりの開幕日。この日に合わせ、「弘前観桜会100周年事業」として、航空自衛隊松島基地第4航空団所属の第11飛行隊6機が飛来することとなった。
言わずと知れた「ブルーインパルス」の展示飛行である。

前日、デモンストレーション(訓練飛行)を弘前市上空で行った際も、口をあんぐりしながら上空を眺める市民の姿が多数目撃されたらしい。
僕は昨年5月、八戸市の市制88周年記念事業としてブルーインパルスの展示飛行を見ており、今回は2年連続2度目となるブルーインパルス観覧の機会となった。
どうせならば岩木山や弘前城とのコラボを撮影してみたいと考えたが、弘前公園内はもとより、高い建物は撮影の機会を伺うカメラマンや航空ファンで混雑必至。
しかも「ブルーインパルス」がどの方角から飛んでくるのかはわからないし、その時その時で飛んでくる方角が変わることを知っている。恐らく弘前公園内で解説を聞かないとわからないだろう。
しかも、白神山地は世界自然遺産で飛行禁止区域となっている。そうなると、平場で飛行を観ることができる、ある程度の高台ならちょうどいいということか。

あ。他に観覧している人がいない、絶好の場所があった。
10時過ぎ、自宅の2階から屋根に上る。
多少木々が邪魔になりそうだが、ここなら遠くから機体を確認することができるはずだ。
…ふと見ると、近所でも同じことを考えている人がいたようで、双眼鏡片手に空を眺めている近くのオジさんの姿を確認、思わず苦笑する。
10時30分、予想通り北の方向からやってきた6機の機体。飛ぶ鳥を追いかけるかの如くその行方を追いかけながら約20分にわたって撮影した画像が、こんな感じ。

この日はあいにく上空の風が強く(ちなみに午後には暴風警報が発令されるぐらいだった)、ハートや五輪(さくらの花)は煙が風に流されてうまく出来上がらなかったのが残念。でも、一番残念だったのはレンズにゴミが付着していたことに気付かず撮影していたことだった。

さて、昼の上空が賑わった約10日後、今度は夜の上空が賑わうことに。
こちらも弘前観桜会100周年記念として、5月3日の夜に弘前城植物園内で花火が打ち上げられた。

以前も弘前公園内で(季節外れの)花火が打ち上げられたことはあったが、花火の大きさの問題なのかそれとも打ち上げ場所の問題なのか、ほとんどその姿を見ることはできなかった。しかし今回は、自宅から直線で約1キロしか離れていない植物園。これはひょっとして…とまたも2階へ。ただし今回は屋根には上らず、部屋の電気を消灯し、窓枠にカメラをピタリと固定しての撮影(なので、三脚は使っていません)。
シャッターの開放を5秒にしたら、次から次へと花火が打ち上がるために花火が輻輳する羽目に。
しかも、ISOの設定を200のままで撮影してしまったのが心残りではあったが、ほぼ正面に近い位置から撮影することができたので、これはこれでヨシとしよう。

花火の打ち上げとともに、公園内で休み始めていたと思しきカラスが一斉に飛び立ち、大騒ぎしていたのにはちょっと笑ってしまったが、こんな感じで弘前の春空は非常に賑やかだった。

しばらくカメラには触っていなかったので、久し振りに撮影する機会が得られたのは何よりだったけど、レンズの件といい設定の件といい、何だかあまりにも初歩的なミスで何も言えません…。


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約35年ぶりの「山登り」


小学校4年の時に、僕はボーイスカウトに入隊した。
先に従兄が入隊していて、心身ともに軟弱な僕を見かねた伯父から「お前はもっと強くならなきゃならん」と強い勧めがあってのことだった。

それから約6年間にわたり、週末はボーイスカウトの活動に従事することが多かった。

二度と思い出したくない、苦々しい思い出が多々ある一方で、印象に残っているイベントも幾つかあって、その中でも、母の生まれ故郷でもある合川町(現:北秋田市)大野台への自転車でのキャンプ遠征と、目屋ダムへの夜間歩行訓練、そして高校1年の時に宮城県白石市(通称「裏蔵王」)で行われた「日本ジャンボリー」は、忘れることのできない思い出となっている。
忘れられない思い出については、機会があれば今後明らかにすることにしたいと思う。

ボーイスカウトのキャンプは弘前市郊外で行われることがほとんどで、自転車を使って移動することが多かった。ただし、参加人数が多くなった時の大きな荷物、例えばテントとか調理器具などは、リーダーや隊長の車に積んで運んでもらうこともあった。
場所は大体決まっていて、弘前市南西に位置する久渡寺山か、岩木山麓にある高長根山、この2か所だった。

久渡寺山に関しては僕の中学校の学区内にあり、自宅からは約6.5キロのところにある。
行きつく先が久渡寺の駐車場という一本道の県道は、延々かつダラダラと上り坂が続く。あの頃はまだ川沿いの自転車道も歩道も整備されていなかったので、時々車にクラクションを鳴らされながら、まさに隊列を組んで怖々自転車を漕ぎ続けたものだった。それが駐車場まで残り2.5キロほどになると完全に農家集落となり、車の数もまばらとなる一方で、上り坂も徐々に勾配を増すようになる。

やがて残り1キロとなると、更に勾配は増し、自転車を漕ぐのもやっととなり、自転車から降りて手押しで坂を上ることもしばしばあった。

しかし、ようやく終点の駐車場に到着しても、ここから更に山の中腹にあるキャンプ場までは、自らの足で登る必要がある。ハイキングといえばそれまでだが、キャンプ用の道具や寝袋の入ったリュックサックを背負って登るのは、ひ弱な少年にとってはなかなか至難の業だった。

「こどもの森」を標榜する久渡寺山のキャンプ場は比較的整備されている方で、飲料水(だったのかどうかは今となっては謎)の蛇口や炊事用の竈などがあったし、平場だったのでテントを張るのも難儀はしなかった。
ただし、夜になると完全に明かりがなくなるため、早い段階で夕食の準備をすることは必須だった。

夕食のメニューはカレーか豚汁と決まっている。理由は簡単。材料がほとんど同じだから。
味噌を入れるかカレーのルーを入れるかで、味が変わるというだけの話。
ただ不思議なのだが、翌朝に何を口にしていたかについては、記憶が全くない。

それはともかく土曜日の午後、キャンプ場に到着すると、テントを設営する係と薪を集めて火を熾す係に分かれ、早々に寝食の準備をする。ロープの結び方や手旗の振り方を年長者から年少者に伝授するという訓練を間に挟み、飯盒で米を炊き、極端に薄いカレーを口にしながら、晩ご飯をみんなで食べる。こういったことが、中学3年になる頃まで続いた。
今みたいにケータイもスマートフォンもなかった時代。単3電池一本で動くトランジスタラジオが、宵闇の静寂をかき消す唯一のアイテムだった。

翌日は、天気が良ければ山に登ることもあるし、悪ければ早々に下山する。
前述のとおり久渡寺までの行きは延々上りが続いてキツいが、帰りは下りなので、楽々スイスイと自転車を転がし、午前中のうちに弘前市内へ戻って来る。
1泊2日の野営は、大体こんな感じで行われていた。
今思えば、サバイバル感覚は確かに養われた…ような気がするし、ひ弱も多少は改善されたのかも知れない。

ただ、奉仕といえばいいのか、困った人を助けたいという精神が養われたこと、そして、料理の腕が上がったことだけは紛れもない事実だ。

あの時以来、久渡寺山を訪れる機会なんてほとんどなかったのに、つい先日、35年ぶりに久渡寺山頂を目指してみようという気になった。

約6.5キロの道路、自転車ではなく自分の脚で何度も休憩を挟みながら久渡寺の駐車場を目指す。
実はこの日、駐車場で折り返すつもりだったのが、あまりに不甲斐ない自分の走りっぷりに立腹していた。
そして、その立腹をどう収めればいいのかわからぬまま、久渡寺山へと足を踏み入れていた。
これが事の発端だった。

…いや、正直言うともう一度久渡寺の山に登ってみたいという思いはどこかで燻っていたのだ。実は昨年も一度登ってみようとアタックしたのだが、登山道が全く思い出せぬまま、すぐに引き返してきた。

取りあえず目指すところは、約35年ぶりのキャンプ場。
道の記憶は相変わらず全く思い出せないのだが、ひとまず登れば何とかなるだろうというノープラン。ある意味、非常に危険な発想だけで山を駆け上がり始めた。

しかも、長袖のランシャツにショートパンツ、ふくらはぎを覆うコンプレッションサポーターといういで立ち。実は、水も持ち合わせていなかった。山を舐めてかかって遭難する軽装者よりも酷い格好だった。本当にごめんなさい。

上り始めて程なく現れた急勾配で、息は完全に上がることに。「久渡寺山頂」と書かれた方向案内板だけが頼りだった。息も絶え絶えで太腿をさすりながら、文字通り歩を進める。縦走というには程遠く、縦歩といった感じ。

馬鹿と煙は高いところへ上る

というが、ジョンがって狼煙を上げた馬鹿が、今まさに久渡寺山を黙々と上っているわけで…嗚呼!そうか、この気持ちは2日前の飲み会「ジョンガルナイト」で焚きつけられたんだな、と思い始めた。

ちなみに「ジョンガルナイト」の模様はFerokieさんが投稿してくださったので、そちらをご覧ください。

話を戻して。
程なく、縦走にピッタリの道と合流。さて、野営の設営に当たり、僕はどっちの道を上ってきたんだろう。視界の開けた中腹にある合流地点に辿り着いたとき、キャンプ場の場所の記憶が蘇った。嬉しくなって駆け上がる。雪に隠れていたフカフカの落葉と枯れ枝がクッションの役割を果たす。5分も上らないうちに、かつてキャンプを行ったそこが現れた。

な、懐かしい…!

今は「お弁当広場」という名前がついているらしい。昔はなかった木製のテーブルと椅子が備え付けられている。
キャンプファイヤーも行えそうなスペースもあるし、更には仮設トイレまで置かれている。昔と全然違うわ…。

妙に感慨深い気分を味わいながら、馬鹿は更に高いところへ上りたくなった。
ハイキングにやってきたと思しき人たちが時々姿を見せる。徐々に道が険しくなり、幅が狭くなる。斜面に辛うじて残ったような道もあり、ちょっと身の危険を感じるな、といったところも。そういえば高いところが苦手なのに。急にそのことが頭をよぎり、途端に足がすくみ、ジョンがっていたものがキュッとなる感覚。

更に山道を上ると、残雪が現れる。やがて残雪の量は、行く手を阻むぐらいの量になっていた。「山頂まであと1キロ」という看板を見てから、どれだけ進んだんだろう。しかし、山頂は未だに見えない。

久渡寺山って、こんなに高い山だったっけ?

35年前の記憶なんて全く当てにならない。
やがて斜面と登山道の残雪で完全に行く手を阻まれ、進むべき道がなくなった。静寂に包まれた森の中で身の危険すら感じたため、「登頂」を断念。急に寒さを感じたのは、残雪のせいだろうか。それとも…。

上って来た道を引き返す。景色に目をくれる余裕もなく、腰の引けた格好で恐る恐る下りながら、これまでの道中をほとんど画像に収めていないことに気がつく。残雪の量も、どれぐらい道が険しいのかも、僕の頭の中にインプットされたのみだ。

結局、中2の気分で山登りを始めたはいいが、47歳という運動音痴の中年にとっては、過酷以外の何物でもなかった。アホだ…アホ過ぎる。

そして、今回記録として残したもう一枚の画像が、これ。下山後、息も絶え絶えの姿。

ちなみに久渡寺山の標高は662.9mだそうな。…色んな意味で山を舐めてはいけません、いやホントに。
いつかまた山頂を目指す…気持ちになるまで考えます。


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