Author Archives: のんべ

About のんべ

1971(昭和46)年 青森県生まれ。弘前市在住の青森県職員。 プリンスとビールと豆腐とラーメンを愛する。安いカメラでいかに安っぽくない写真を撮影するかに興味あり。 ブログの内容の多くは、いつの間にか趣味となった「走ること」がメインです。

FM アップルウェーブ「I WANNA ROCK」収録記

Asylumの主宰であり、弘前の音楽番長とも言われている齋藤浩さんがパーソナリティを務めるFMアップルウェーブの音楽番組「I WANNA ROCK」(火曜21時00分~)。

浩さんとはプリンスの命日が近づくと、「ラジオでプリンスの特集やりたいねえ」という話題が出たものの、なかなか実現することはなく、考えてみると一般人がそんなラジオ番組の企画に乗っかろうとするなんて、図々しいにも程があるというもの。それでも、いつか叶うかもしれないそんな企画のために、密かに妄想を温めていたことは今だから明かそう。

そんな妄想が現実となることとなったのは、本当にひょんなきっかけからだった。
3月下旬、浩さんが営む隠れ家的なミュージックバー「Asylum」を訪問した際、たまたま隣り合わせたお客さんとプリンスの話題になったところ、浩さんが「ああ、そういえば来月だなあ。番組やるか。」と何気なく呟いたのが発端。「21日が命日だから…23日の放送だな。」
そこから、あれよあれよと話が進み、番組収録に参加することとなった。
4月12日には、事前に自分で選曲した9曲を収めたUSBメモリと、それらの曲の簡単なメモを持参し、簡単な打ち合わせ。その結果、14日13時から収録を行うことが決まった。

録音に向けて調整中の浩さん

収録当日にAsylumを訪れると、マイクがセッティングされ、既に録音の体制が整っていた。
マイクに向かって声を発し、音量を調整。
「じゃあ、始めますか。」
リハーサルやシナリオはなく、曲を流しながらエピソードを引き出し、それを次の話題にする、浩さんとの掛け合いのような感じで収録が進む。事前にメモを用意しておいてよかった…。

僕が選曲した楽曲については、事前のメモの内容と合わせてこの後紹介するとして、なぜこれらの曲を選択したかというと、プリンスと言えば「パープル・レイン」、というイメージの払拭と、日本との関わりや様々なアーティストとの関係を紹介しながら、プリンスを知らない人、聴かず嫌いの人に知ってもらおうという思惑があった。あと、個人的な思いもあり、といった感じで。

この日の聴衆。寝ているのもいますが…。

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#弘前さくらまつり #2024 一期一会のさくらに会いに来て。

新型コロナの影響で自粛自粛だった数年間が明け、数年ぶりにフルスペックで「弘前さくらまつり」が開催されています。

ちなみに今年は開花予想が早まったため、会期を12日から前倒し、5月5日までの約3週間にわたる開催となりますが、会場となる弘前公園内には50種類以上の種類のさくらがあり、開花するタイミングも早咲き遅咲きさまざまです。ソメイヨシノがメインではあるものの、期間中、皆さんがこれまで出会ったことのないさくらに出会うことができるかも。

そんな一期一会に期待しつつ、是非弘前市に足を運んでくださいね。…でも、市内の宿泊施設は全て満室らしいです。
ちなみに本日(4月20日)は気温が低めの上、ちょっと風が強くなっており、ソメイヨシノは散り始めとなるかも知れません。ということは、世界に誇る花筏もそろそろ見ごろが近づいている、ということに。

いやいや、青森県の弘前市になんてそんな簡単に行けるわけないじゃん、とお嘆きの方もおられると思います。私、4月19日の夜(20時過ぎ~21時30分頃)と、4月20日の早朝(5時頃~6時過ぎ)に弘前公園を散策してきましたので、その時に撮影した園内のさくらを掲載します。ちなみにうちから弘前公園(追手門)までは徒歩約10分。世界に誇るさくらの名所が至近距離にあるというのは、ちょっとだけ自慢です。にもかかわらず、夜桜見物はとても久し振りでした。

それはともかく、まずは夜の弘前公園からどうぞ。

続いて、早朝の弘前公園。
5時過ぎだというのに、結構な人数の方が散策にいらしていました。

早朝はまだ風がそれほど強くなく、埃も舞い上がっていません。お堀にさくらが映り込むので綺麗です。撮って出しで加工していない画像なので、多少ブレがあるかも知れませんが、ご容赦ください。

The Street Sliders 40th Anniversary Special GIG 「enjoy the moment」 at 日比谷野外大音楽堂

2024/04/06 14:30
10時前に新青森駅を出発した東北新幹線は、13時過ぎに東京駅到着。その足で皇居へ向かった。ジョギングでもして少し身体をほぐしておこうと思ったが、皇居周辺は春うららかな陽気に誘われて散策する人が多く、とてもジョギングなんて状況ではなかった。そこで急遽コースを変更し、日比谷公園へ。夕方からライブが開催される日比谷野音の場所を確認しようと思ったのだ。会場近くまでやって来ると、既に長蛇の列ができている。先行のグッズ販売に並ぶ人たちだった。しまった!と思ったが後の祭り。着替えを終えて会場に到着すると、ちょうど先行販売が終了したところだった。

日比谷野音は「日比谷野外大音楽堂」が正式名称です。

2024/04/06 17:00
16時30分過ぎに開場。気付くと開演30分前。徐々に観客で席が埋まっていく。僕の席はかなり後方だが、ステージは充分見渡せる。雰囲気を楽しむという点では絶好のポジションかも知れない。黙して語らず、開演をじっと待ち続ける。ステージの背後に立つビルがまた、なんとも言えぬ異空間的な雰囲気を醸し出している。右手には霞が関の省庁が立ち並ぶ。土曜日の夕方にもかかわらずいくつかの部屋に明かりが灯っているのは、どこの行政機関も変わらない光景。日が傾き始めると、ちょっとだけ寒くなってきた。雨が降らなければいいのだが。

申し訳なさそうに置かれた祝花

2023/05/05 17:00
二度と見ることはできないだろうと思っていたThe Street Slidersが、デビュー40周年を迎えてまさかの再結成。あの日、日本武道館に足を運んだ時の何とも言えぬ高揚感と緊張感、そして終演後の何とも言えぬ虚脱感。てっきり一夜限りの特別なライブだと思っていたのに、全国ツアーやるゼ、って…何だよそれ。しかし、これも一期一会なのだと自分に言い聞かせ、40周年ツアーに足を運ぶことは諦めた。

2024/04/06 17:10
ところが、40周年ツアーの一環として特別公演を日比谷野音で行うと聞き、我慢できなくなった。
「enjoy the moment」というタイトルもそそられた。まんまとやられたな、と思いつつもチケットをゲットすることができた。ただし今回は独りで足を運ぶと決めていた。人生初めての野音が、一生に一度でいいから野音で観たいと思っているエレカシではなく、スライダーズというのも何かいいじゃない。 Continue reading

新たな始まりのための幕引き

怒涛の令和5年度が幕を下ろす。いや、ここ数年は毎年が怒涛だったかも知れない。
平穏無事に一年を過ごすことは理想ではあるけれど、無風の一年ほどつまらないこともないだろう。

僕の所属する課は、2つの課が同じ部屋に同居しており、仕切りもない。7年間に渡り、部屋の端から反対側へと向かって3度席替え(異動)してきた。そして令和6年4月からは、違う部屋にある課へ異動することが決まり、これで危機管理局内の執務室は、局次長室を除きすべて「制圧」することとなる(…といっても同じフロアに3つしかないが)。

2年前。災害対策本部、そしてコロナ対策本部を所管するグループのマネージャーから離れるとき、「少しは楽になるかな」と淡い期待を抱いたが、それは脆くも崩れ去った。事務職なのに、とある橋梁架替工事の業務を抱えることとなり、ルートの選定、構造の検討等を行った。1か月が経過した直後、大型連休が明ける頃には県内各地で相次いで林野火災が発生、その結果、防災航空隊との関係が強固となった。夏には大雨災害が発生し、県内消防の応援協定が初めて発動。
8名いたはずの職員が、色々な事情が重なって3名欠けることになり、人繰りに苦慮したことも。マネージャーとは名ばかりで、プレーヤーを兼務すること数知れず。この2年間、前職より楽だと思ったことは一度もなかった。

2022年、8年ぶりに青森県で開催された緊急消防援助隊北海道東北ブロック合同総合訓練に集結した、赤い車。

その一方で、本県での開催が8年ぶりとなるブロック訓練に当たったり、自分自身がコロナに感染したり、こっそり沖縄に行ってきたり、消防大学校で1週間自己研鑽に努めたりと、人生経験を積むきっかけも頂いたし、悪いことばかりではなかった。

役人人生も30年を過ぎれば、色々ある。
将来になって過去を振り返った時に、「いやあ、あの時は大変だったなあ」と笑えればいいけれど、この2年については笑えないことも色々あって、実のところ正直振り返ることができる自信がない(少なくとも今は振り返りたくない、ということだ)。

コロナ本部で対応した職員に配布された感謝状。この約2か月後にコロナ感染。

4月からは、同じ危機管理局内とはいえ、これまでとは全く異なる毛色の業務に従事する。
考えてみると47都道府県すべてで取り組んでいる業務ではなく、県内でもこの業務に従事するのは限られた自治体のみ。裏を返せば、選ばれた人しか従事できない業務だということも言えるわけで。

この年齢になれば、楽な仕事なんて一つもないんだから、置かれた状況を少し楽しむぐらいの気概を持って明日を迎えようと思う。

皆さま、令和6年度もよろしくお願いします。

2024.3.11

2011年4月某日。宮古市新里地区の宿営先で迎えた朝。

東日本大震災から13年。

10年ひと昔とは言うが、実際10年以上経過していく中で、忘れてしまったこと、忘れてはならないこと、色々あるだろう。

特に今年は元旦早々から能登半島地震が発生し、半島そして過疎地で起こる災害対応がいかに困難であるかという現実に直面したことは、大きな衝撃だった。

能登半島地震から3か月。

2024年初日に発生した大災害。連日にわたり被災地の様子が詳細に伝えられたのは約1か月間ぐらいだっただろうか。あとは、節目となる月初めに一気に増える報道と、毎日お昼のニュースで現地から伝えられる状況をちらりと見るぐらい。現地の情報は徐々に減っているような気がする(ただしそれは、いい方向にも捉えられるわけだけれど)。

もちろんそれでも、被災地は毎日、復旧・復興・再生に向けて必死に動き続けているはずだ。被災地に対して、頑張ろうとか頑張れとかいうのは、僕は禁句だと思ってる。所詮「頑張れ」なんて言葉は、他人事。みんなもう充分頑張り過ぎているんだから、もう頑張らなくていいよ、と声を掛けてあげたいけど、頑張らない代わりにお前は何をしてあげられるんだ?と言われると、返す言葉に詰まる。

能登半島地震から3か月。

「想定外だった。」

いつか災害が起こると頭の中ではわかっていても、人々にとっては、突然起こる災害そのものが想定外。「まさか」「うそだろ?」が現実に起こるということ、災害は時間も場所も選ばず発生するということを東日本大震災以降、何度も突き付けられた。誰も自分の身に災いが降りかかるなんて考えたくないですよね。でも、それが起きた時にどうするか。冷静さを保てるかといえば、全く自信がない。

東日本大震災から13年。

3.11に近づくと、防災に関する記事や報道がどんどん増える。「防災モード」「伝承モード」への切り替わり。もちろん伝えることは大切なこと。そして被災地に想いを馳せることも大切なこと。しかし3.12が過ぎると、再び何事もなかったかのように「平常モード」へと切り替わっていく。記録は残っていても、記憶は薄れていく。そうやって風化していくのが怖い。

東日本大震災から13年。

生まれたばかりの子供は、中学校に入学する。小学生だった子供は、社会人になる。あの時陣頭指揮を執っていた人たちは第一線から退き、後進に道を譲る。どこでどんな生活を送ろうとも、流れる時間はみな平等、同じ数だけ歳を重ねるのだ。

東日本大震災から13年。

東日本大震災の後も、各地で大きな地震が発生した。北海道胆振東部の時も、熊本地震の時も、そして能登半島地震でもだが、「東日本大震災の教訓は生かされたか?」という問いかけがなされる。

まるで教科書にでも書かれているような「東日本大震災の教訓」という言い回し。言うのは簡単だが、教訓って一体なんだ。被災していない外の人たちが、易々と口にしてもいいのだろうか。それを知っているのは、やはり東日本大震災の被災者に他ならないのではないか、と。

自然には逆らうな。自分の身は自分で守れ。過信するな。周りを気にせず、まずは逃れろ。

被災者でもない外野の一人として言えるのは、それぐらいしかないが、正しいかどうかはわからない。災害対応に関しては、本当に正解がわからない。

東日本大震災から13年の節目。

あの日のこと、覚えてる?覚えてるよね?忘れられないよね?忘れてないよね?あの時、こうしなければならない、ああしなければならないと、色々考えたよね?

どうですか。その思いに、今も変わりはありませんか。

東日本大震災から13年の節目。

…なんて偉そうなことを言っているけれど、じゃあお前はどうなんだ?と言われると、正直、言葉がない(だからこうやってつらつらと言い訳みたいな言葉を並べているわけで)。

そういえば、青森県庁北棟1階で毎年開催されるパネル展の紹介、そして、東京都汐留ジオサイトで開催されている「東日本大震災風化防止イベント ~復興・その先へ 2024~」を紹介することをすっかり忘れていた。パネル展、風化防止イベントともに本日(3/11)まで。イベントにおける青森DAY(3/9)の紹介を失念したことは痛恨の極みだが、最終日は岩手県DAYを開催しているので、お近くの皆さん、空き時間がありましたら足を運んでみてください。

東日本大震災から13年。そしてこれからも。

ということで、ちょっと辛辣な言葉も並べてしまったかも知れない。ここまで読んで気分を害したなら、それは本当にごめんなさい。

でも、もう一つ言わせて。
みんな平静を装っているけれど、誰にも言えない、言いたくない色んな闇を心の中に抱えながら生きている。

何も我慢する必要はない。

皆さん、時には人知れずそっと、時には人目も憚らず思い切り、涙を流してもいいんじゃないかと思います。

熊本地震で支援に入った益城町の名物「いきなり団子」がたまたま弘前で販売されていました。とても嬉しい。