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のんべ について

1971(昭和46)年 青森県生まれ。弘前市在住の青森県職員。 プリンスとビールと豆腐とラーメンを愛する。安いカメラでいかに安っぽくない写真を撮影するかに興味あり。 ブログの内容の多くは、いつの間にか趣味となった「走ること」がメインです。

2024.3.11

2011年4月某日。宮古市新里地区の宿営先で迎えた朝。

東日本大震災から13年。

10年ひと昔とは言うが、実際10年以上経過していく中で、忘れてしまったこと、忘れてはならないこと、色々あるだろう。

特に今年は元旦早々から能登半島地震が発生し、半島そして過疎地で起こる災害対応がいかに困難であるかという現実に直面したことは、大きな衝撃だった。

能登半島地震から3か月。

2024年初日に発生した大災害。連日にわたり被災地の様子が詳細に伝えられたのは約1か月間ぐらいだっただろうか。あとは、節目となる月初めに一気に増える報道と、毎日お昼のニュースで現地から伝えられる状況をちらりと見るぐらい。現地の情報は徐々に減っているような気がする(ただしそれは、いい方向にも捉えられるわけだけれど)。

もちろんそれでも、被災地は毎日、復旧・復興・再生に向けて必死に動き続けているはずだ。被災地に対して、頑張ろうとか頑張れとかいうのは、僕は禁句だと思ってる。所詮「頑張れ」なんて言葉は、他人事。みんなもう充分頑張り過ぎているんだから、もう頑張らなくていいよ、と声を掛けてあげたいけど、頑張らない代わりにお前は何をしてあげられるんだ?と言われると、返す言葉に詰まる。

能登半島地震から3か月。

「想定外だった。」

いつか災害が起こると頭の中ではわかっていても、人々にとっては、突然起こる災害そのものが想定外。「まさか」「うそだろ?」が現実に起こるということ、災害は時間も場所も選ばず発生するということを東日本大震災以降、何度も突き付けられた。誰も自分の身に災いが降りかかるなんて考えたくないですよね。でも、それが起きた時にどうするか。冷静さを保てるかといえば、全く自信がない。

東日本大震災から13年。

3.11に近づくと、防災に関する記事や報道がどんどん増える。「防災モード」「伝承モード」への切り替わり。もちろん伝えることは大切なこと。そして被災地に想いを馳せることも大切なこと。しかし3.12が過ぎると、再び何事もなかったかのように「平常モード」へと切り替わっていく。記録は残っていても、記憶は薄れていく。そうやって風化していくのが怖い。

東日本大震災から13年。

生まれたばかりの子供は、中学校に入学する。小学生だった子供は、社会人になる。あの時陣頭指揮を執っていた人たちは第一線から退き、後進に道を譲る。どこでどんな生活を送ろうとも、流れる時間はみな平等、同じ数だけ歳を重ねるのだ。

東日本大震災から13年。

東日本大震災の後も、各地で大きな地震が発生した。北海道胆振東部の時も、熊本地震の時も、そして能登半島地震でもだが、「東日本大震災の教訓は生かされたか?」という問いかけがなされる。

まるで教科書にでも書かれているような「東日本大震災の教訓」という言い回し。言うのは簡単だが、教訓って一体なんだ。被災していない外の人たちが、易々と口にしてもいいのだろうか。それを知っているのは、やはり東日本大震災の被災者に他ならないのではないか、と。

自然には逆らうな。自分の身は自分で守れ。過信するな。周りを気にせず、まずは逃れろ。

被災者でもない外野の一人として言えるのは、それぐらいしかないが、正しいかどうかはわからない。災害対応に関しては、本当に正解がわからない。

東日本大震災から13年の節目。

あの日のこと、覚えてる?覚えてるよね?忘れられないよね?忘れてないよね?あの時、こうしなければならない、ああしなければならないと、色々考えたよね?

どうですか。その思いに、今も変わりはありませんか。

東日本大震災から13年の節目。

…なんて偉そうなことを言っているけれど、じゃあお前はどうなんだ?と言われると、正直、言葉がない(だからこうやってつらつらと言い訳みたいな言葉を並べているわけで)。

そういえば、青森県庁北棟1階で毎年開催されるパネル展の紹介、そして、東京都汐留ジオサイトで開催されている「東日本大震災風化防止イベント ~復興・その先へ 2024~」を紹介することをすっかり忘れていた。パネル展、風化防止イベントともに本日(3/11)まで。イベントにおける青森DAY(3/9)の紹介を失念したことは痛恨の極みだが、最終日は岩手県DAYを開催しているので、お近くの皆さん、空き時間がありましたら足を運んでみてください。

東日本大震災から13年。そしてこれからも。

ということで、ちょっと辛辣な言葉も並べてしまったかも知れない。ここまで読んで気分を害したなら、それは本当にごめんなさい。

でも、もう一つ言わせて。
みんな平静を装っているけれど、誰にも言えない、言いたくない色んな闇を心の中に抱えながら生きている。

何も我慢する必要はない。

皆さん、時には人知れずそっと、時には人目も憚らず思い切り、涙を流してもいいんじゃないかと思います。

熊本地震で支援に入った益城町の名物「いきなり団子」がたまたま弘前で販売されていました。とても嬉しい。

そうだ、『防災ポーチ』を作ろう。

令和6年1月1日に発生した能登半島地震。
地震の規模もさることながら、被害の規模も甚大で、ほとんど被害のなかった自分の身に置き換えた時に、果たして何ができただろうか、あの難局を乗り切ることができるのか。そう考えると、改めて普段からの「備え」を認識させられることとなった(と思っている)。

万が一の避難先と、その避難先に向かうルートは複数考えておくこと、いざという時に連絡を取れる手段を考えておくこと、家庭内備蓄や非常用持ち出し袋の中身を確認すること、など。
阪神淡路大震災の際は、発生時点で亡くなられた方が約8割だと言われている。
そして、大地震が発生した際にどういった行動を取るか。わずか8秒間の判断でその人の生死が決まる、とも報じられていた。

その一方で、どこで被災するかは誰にもわからない。今回の能登半島地震は、発生が元旦の夕方4時過ぎということで、家の中で被災された方が非常に多かったと思われる。
東日本大震災の発生は金曜日の午後3時前。自宅だけではなく、オフィスや学校で被災した方もたくさんいたことだろう。あるいは出張先、旅行先で被災することだって考えられる。

出張先や旅行先では、宿泊施設の避難口や避難経路は確認しても、その後どこに行けばいいか、ということまで考えが及ぶことは少ないのではないだろうか。もっとも、その施設の方が誘導してくれればそれに越したことはないが、それだってどうなるかわからないのだ。
結局のところ、「自分の身は自分で守る」という最低限の鉄則みたいなものだけが、虚しく叫ばれることになるのかも知れない。

非常用持ち出し袋も、あくまで「非常用」であり、普段から常に持参、つまり「常用」しているわけではない。各自治体でも、非常用持ち出し品の例を示しているが、例えば自分のロッカーに非常用持ち出し品を備えている、ということをしていなければ、いざという時にすぐに持ち出せるかといえば、恐らくよほど用意周到でない限り難しいのではないだろうか。
そう考えると、外出の際に日頃からカバンに忍ばせておけるような、そんな「防災ポーチ」を持っておいた方が、万が一のためになるはずだと、ふと考えるようになった。

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支援活動備忘録(令和6年能登半島地震)

(色々書きたいことがあり過ぎて今回も原稿用紙10枚分の長文となります。スイマセン。)

2024年1月1日16時10分。最も起きて欲しくなかったタイミングで発生した能登半島地震。最大震度7を観測したほか、日本全国で揺れを感じ、津波に関する警報、注意報が発表された。大津波警報は、東日本大震災以来の発表だった。程なく全国各地から被災地への支援が始まり、総務省や全国知事会が調整を行う対口(たいこう)支援もスタート。

※対口支援とは:大規模災害で被災した自治体のパートナーとして特定の自治体を割り当て、被災自治体の復旧・復興の支援をするもの。その内容は、被災自治体の運営マネジメント支援、避難所運営、罹災証明書の発行、災害廃棄物の処理など、多岐にわたる。

役所は年末年始で休み、事業所や店舗も休業で、初動対応が遅れたことは否定できない。
一方で、予期せぬ災害はいつどこで起きてもおかしくないという現実を突き付けられた。

青森県は8道県(北海道、東北6県及び新潟県)で応援協定を締結しており、当初、液状化による被害が大きかった新潟市に対する対口支援団体として充てられる予定であったが、その後の調整が二転三転した結果、富山県射水(いみず)市へ支援に入ることが決定した。

さて、これはなんでしょう。

…射水市?

漢字は見たことがあるが、読み方がわからなかった。更に、富山県のどこにあるのかも知らなかった。大阪府和泉(いずみ)市、同じ富山県の氷見(ひみ)市と混同してしまいそうだ。
まあそれはともかく、派遣職員の調整を行った結果、自分も第2班のリーダーとして射水市に行くことが決定した。ある程度予期していたので特に驚きはなく、むしろ被災地に寄り添った支援をする、それが自分に課されたミッションと自負した。

ただ、富山県との相性の悪さを自負する身としては、一抹の不安もあった。

富山市内を走る路面電車。

【因縁の地・富山県】
(1)初めて富山県を訪れたのは一人で出張した25年以上前。河川敷にある空港への着陸にビビった。バスで移動し、富山駅の近くにある宿に向かうと「予約がありません」と言われる。慌てふためきながら聞くと、系列の「別館」に予約を入れたらしい。まだスマホのない時代。距離感がわからず、渡された地図を頼りに、結局そこから荷物を抱えてとんでもない距離(約2km)を歩く羽目に。
(2)数年前、富山市へ上司と2人で一泊二日の弾丸出張。ホテル近くに美味しい店があると知り入店したところ、隣の店に入ったことにすぐ気付くが、店から出るに出られず、会話も食事も全く弾まなかった。ちなみに店から提供された「富山の珍しい山菜」は青森で言うところのミズ、「イカ」はホタルイカではなく、普通の生干しイカだった…。
(3)3度目の正直は立山町。しかも、念願の黒部ダム視察まで組み込まれている。嬉々として出張の準備を終えた出発前日、各地に大きな被害をもたらした東日本台風が上陸。出張当日にテレビから流れて来たのは、北陸新幹線が水没している様子。当然出張は中止になった。

色々ケチが付く富山県への出張。今回の富山県入りは、3度目の正直のやり直しだった。2度あることは3度ある、にならなければいいのだが。

「令和6年能登半島地震」と命名された今回の地震は、実際に能登半島での被害が甚大であったため、報道では石川県内の被害が大きく取り上げられているが、隣接する富山、新潟の各県でも被害が発生している。実のところ、射水市に足を運ぶまでその被害の程度は全くといっていいほどわからなかったのだが、現地に足を運び、被害の状況を目の当たりにして、言葉を失った。

密集した建物が傾いているのがわかる。ちなみに建物の間に隙間はない。

所有者の了解を得て撮影。束石が傾いている。

とにかく道が狭い。軽自動車一台でこの状況。そして建物が軒並み古い。

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Round 53

今日で53歳を迎えました。
こうして誕生日を迎えられたのは、支えてくれた皆さんのおかげであり、家族のおかげであり、両親あってのこと。ホント感謝しかありません。ありがとうございます。

正月早々に今年の目標を掲げているので、今、何をしたいとかここで綴ることはやめておきます。
ただ、新年早々のアレで富山県に足を運ぶこととなりましたが、22人を統率しながら色んなことを学ぶ機会となりました。そのことについては、既に下書きを終えていますが、まだ支援が続いており、報告も終わっていないので、諸々が終わったらこちらにアップしたいと思います。

改めて言いますが、災害対応に正解はありません。
防災減災。あの地震でも見せつけられたように、災害を防ぐことはできません。しかし、予期せぬ災難を減らすことは、できるのではないかと思います。

だから、僕たちは遅かれ早かれやって来る災害に向け、その時に被るかもしれない災難を減らすために、色々備えなければならないのだと思います。

まあ、とにかく今は五体満足で日々を過ごすことができれば、それでいいです。
心身の健康に、もう少し気を配りたいと思います。…気が向いたら。

今日の投稿はこれぐらいに。次回投稿する報告は、この9倍程度の長さになる予定なので。

53歳になっても、なんも変わらないですよ。もはや変えられるわけないじゃないですか。次のラウンドに向けて、スタートです。

納豆まみれ。もっと粘り強く。ネバーギブアップ。 秋田の #二代目福次郎 最高。(奥に控える「どらい」「ほし」は福次郎でなありません)

改めて2024年もよろしくお願いします。

(昨日の続き)
青森県では1月1日に津波注意報の発表、県外での震度6強以上の地震の発生を受け、災害警戒本部と応援本部を設置、津波注意報の解除を受け警戒本部は2日に廃止、応援本部は継続中。

中には少しでも被災地を応援したいという気持ちから、個人的に救援物資を送りたい、ボランティアに入りたい、と思っている方もおられると思うが、被災地の受入体制がまだ整っていないようなので、被災地の状況を確認してから判断されるようお願いします。
特に、現時点で被災地に対して闇雲に救援物資を送りつけることだけは絶対にやらないで。
物資ではなく義援金に切り替えてください。

令和6年(2024年)能登半島地震に係る災害義援金の受付について(石川県)
「令和6年能登半島地震災害義援金(富山県被災者支援分)」の受付について
令和6年能登半島地震に係る義援金の受付について(新潟県・準備中)

SNSで拡散したいとか、被災状況を見たいとか、興味本位だけで能登半島に向かうことなんて論外ですからね!!

弘前市愛宕地区、神社へと続く先の見えない参道

さて、このタイミングでのこの投稿を少し躊躇する気持ちもあるのだが、自粛ではなくなるべく普段の日常を過ごすというスタンスを保つため、こうした投稿を行うことを御理解ください。

2024年が始まり間もなく1週間が経過するが、毎年抱負のようなものをこのブログに掲載しているので、今年も小さな目標を掲げてみたい。
といっても、基本的に昨年とあまり変えるつもりはなく、中期計画の2年目みたいな感じ。

・大勢の人たちとリアルに会う(継続)
昨年は、いつものメンバーをはじめ、公務に携わる多くの方々、高校の同期、ランニング仲間など、たくさんの方々と出会い、再会することができた。
新型コロナが5類へ移行し、徐々に人と交わる機会を増やしたが、今年は更に大勢の人たちとお目に掛かりたいと考えている。
実際、人に会わないことで「話す」ことが下手くそになり、対面でパッと返す言葉が出てこない、ということがあったのも事実。

人に会って話をする。これ、凄く大事なことだということを、最近痛感している。単に来青される方々を迎えるだけではなく、こちらから出向くということもしなければならないだろう。もう少しアクティヴになろうかな。

・自分が楽しいと思うこと、楽しめることに積極的に関わる(継続)
県内外で開催されるアーティストのライブ・コンサートに幾度となく足を運んだ2023年。今年もタイミングが合えば、色んなところに足を運びたい。
そして、ようやく昨年12月から再開したマラソン大会への参加。今年はもう少し幅を広げて、県内外の大会にも参加してみようかと思っている。

・10%減量セール(継続)
昨年達成できなかったことの一つ。というか、達成する気配すらなく、むしろ増加に転じてしまった。
ちょっとだけ減らすのは簡単だけれど、それを持続しながら減量に向けるということが結構大変になってきた…という言い訳。
無理のない範囲で、と言いたいが、自分の意志の弱さに何度も挫けているので、まず今年は63キロまで減量することを目指したい。(今の重量は言えません。)

・公私のメリハリをつける(新規)
昨年は年始から気が滅入ることが続いた。今年も似たような状況からスタートしている。
極力プライベートには仕事を持ち込まず、気落ちしたり塞ぎ込んだりしない。もっと素直に。ある意味これ、今年最大の目標かも知れない。

・新しいことへの挑戦(新規)
何をするというわけではないけれど、自分自身の楽しみを広げるため、夏頃からちょっと新しいことに挑戦してみようかと考えている。
もっとも、他人様のためになるものではなく、あくまでも自分自身の娯楽や余暇のためなので、それが何なのか今は伏せておく。(形になりそうであれば報告します。)

大変な状況からのスタートとなった2024年だけど、無理せず我慢しないで気楽に生きます。
関係者の皆さま、私の無駄な悪あがきにもう少しお付き合いください。

どうぞ本年もよろしくお願いします。