Category Archives: 地域社会

地域再生をちょっとだけ考える。 #地元がヤバい本

今から20年近く前のこと、僕がまだ20代の頃だった。
父が弘前に持ち帰ってきたのは、東京都内にある商店街でのある取組が記録された約30分のビデオテープ。一緒に観た(いや、観せられた)記憶があるが、正直言って内容はほとんど覚えていない。
その後、父は何かに駆り立てられたかのごとく奔走し、「土手町に空き缶回収機を置く。」という形にしてしまった。

概要は2015年9月の記事の冒頭で触れているので、興味があればご参考に。

一つ言えることは、このことが契機となり僕自身が何となく地域づくり等の分野に興味を持ち始めた、ということだろう。そう考えると、やはり父は僕の反面教師…いや先生であり、礎だった。

数年後僕は、商工関係の業務に就いた。
ここで商工会議所や商工会等といった関係機関の方々と接し、さまざまな地域の取組があることを知り、更にはそこで実を結ぶもの、結ばないもの、色々事例があることを改めて知ったのもこの時だった。
実際に現地へ足を運び、そこで人を知り、地域を知ることの重要性、何となくそんなことを学んだような気がした。業務に就いたのは僅か3年間だったが、僕にとってとても充実したものだったし、今だから明かすと実は、残留を希望したぐらいだった。

一言に地域振興といっても、その背景にあるもの、例えばその地域の地理的な要因や歴史、更には人間関係といったさまざまな要素が相まっている…と、まるで知ったような口を利いているが、所詮僕は単なる凡人。別に地域振興や地域活性化に対する造詣が深いわけではなかった。

最たる例は、まだ「十和田バラ焼き」が今ほど知名度を高めていたかった頃、商工会議所が「十和田バラ焼き」をB級グルメとして売り込もうとしていた時に、「そんな、バラ焼きなんて何が珍しいんですか?」と反応してしまったことだ。地域の特性や歴史、文化を全く知らないままこういった発言をしてしまったことは、恐らく地元で嘲笑の対象となったことだろう。思い出しただけでも赤面してしまうが、裏を返せば同じ青森県内ですらそれだけ知らないことがたくさんあった(いや、今もある)ということだ。

ましてや日本国内に目を向ければ知らないことだらけ。そう考えると、極端な例だが国が音頭を取りつつ、同じ切り口、同じ着眼点で堰を切ったように「地域活性化」を声高に叫んだところで、本当に反響があり、そして未来志向の結果を生み出すところなんぞ、片手に余るかどうかではないだろうか。

冒頭で紹介したビデオテープの内容に携わっていた方が、木下斉さん。その木下さんの書籍「地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門 」は、恐らく地域振興、活性化という名目の何かに携わったことがある方はもちろん、そういったことに興味を抱いている方であれば、誰もが共感する部分が必ずどこかにあるはずだ。 Continue reading

「ジョンガルナイト vol.2」の夜

もともとアラフィフの4人が集まって始まった「ジョンガルナイト」。
発端は、僕の誕生日の際に、同い年で来年年男、更に同業でもある平川市の怪童NZM氏が寄せてきたコメントだった。

「近々飲むぞ。」「OK、やろう。」

このやり取りに加わってきたのが、平川市の孤高のグルメこと桃尻男爵NRK氏。
「ワもカデデ(加えて)。」
「もちろん!」
更にもう一人、弘前のファッション界を長年にわたり見守り続けてきたカメラ番長HNM氏からも、「オラも混ぜで!」と。

それぞれ繋がり方に濃淡はあったけれど、職業も趣味も年齢も微妙に異なる4人が一堂に会したら、化学反応的な何か面白いことが起こるんじゃないかな、と朧気ながら思った。単なる異業種交流会では終わらない、何かがあるに違いない、と。
鉄は熱いうちに打て、ということで、2月に入り早速日程調整を開始。ところが、なかなか日程の都合が合わない中、例の小川原湖の事案が発生するなど、更にズルズルと開催は伸びていった。

雪が解け、芽吹き始めた頃にようやく開催が決まったその集まりは、なぜかいつの間にか「ジョンガルナイト」と名付けられていた。
…さて、ひょっとしたらこの投稿をご覧になっている多くの方は、「ジョンガル」が何を意味するのか分からないと思う。広辞苑にも載ってないから。

ジョンガル【じょん・がる】(動ラ変)勃起すること。津軽の一部の地方のみで使われるスラング。転じて、いきり立つこと。奮い立つこと。

今の世代の子たちは、この言葉を使うのだろうか。僕らの世代でも、せいぜい中学生ぐらいまでしか使わなかったし、いい年を扱いた大人がこの言葉を使っている光景に出会ったことはなかった。

しかし、四十路を過ぎたあたりから、僕らの周りでこの言葉を再び耳にする機会が増えた。いや、自ら発し始めたのかも知れない。
一つのきっかけは、NZM氏の地元でもある平川市碇ヶ関地区で開催される「たけのこマラソン」に挑むことを、「ジョンガル」というようになったことからだった。その前後から、僕とNZM氏の間では普通に「ジョンガル」という言葉を使っていたし、それは決してスラングのような使い方ではなく、あくまでも「頑張る、奮い立つ」という本来からはかけ離れた意味で使うようになっていた。

ということで、4月27日、ついにこの4人が揃い、第1回の「ジョンガルナイト」が開催された。
詳細は、カメラ番長HNM氏の投稿をご覧いただこう。
FEROKIE BLOG【ジョンガルナイト】

第1回ということで、あまり深いところまでの話には及ばなかったと記憶しているが、心も体もおなか一杯にして帰ったことを覚えている。

それから半年以上が経ち、そろそろ第2回目を開催してみようかと思い立ち、声を掛けてみた。
自分で言うのもおかしな話だけれど、役人二人が結構疲弊しているな、と思ったのも一つの要因だった。カンフル剤を注入しなければ。

日程調整は、今回はすんなりと決まった。
場所も、弘前駅前にあるお店で開催することに。ただ一つ違ったのは、アラフォーの1人が加わったことだった。
餌食となったのは、僕の義妹の旦那であり、弘前市や青森市に農産物や総菜を中心とした店舗を構える「アナール」…いや、ボヌールTKHSくん。
親戚関係にあるTKHSくんを、さも怪しげかついかがわしい香り漂う「ジョンガルナイト」に誘うことはちょっと抵抗があったが、誘ってみたら誰よりも気持ちをジョンガラせて参戦してきた。

ちなみに。「津軽じょんがら節」という民謡があるが、「じょんがら節」と「ジョンガル」は全く別物であり、「ジョンガル節」もこの世には存在しないのでご留意願いたい。…いや、「ジョンガル、節」は存在するのかも知れないが。

話を元に戻そう。
というより、この日の模様もカメラ番長HNM氏が非常にわかりやすくまとめて下さっているので、そちらをご覧いただきたい。
FEROKIE BLOG【ジョンガルナイト Vol.2】
…となると、僕が大変手抜きをしているように見られてしまうので、記事で触れられていない内容を補完したい。


(この日食べたあん肝)

(県産魚のお造りは津軽塗に載せられ。)

(オッサンも撮影に萌えるのである。)

(NRK男爵はカメラから違う。)

1.シケベな話は酒が進んでから。

(ジョンがったキュウリ。)

2.話の範囲は多岐にわたる。でも、仕事の話はあまりしない。

(HNM番長に睨まれる。ボヌールTKHSくんと怪童NZM氏は、NRK男爵に叱られているわけではありません。)

3.みんなが考えていることは結構似て非なる。でも、思いは近い。
4.結局のところ、地元を少しでも良くしたい、という思いは一緒。
(「まちづくり」もあれだけど、「まちそだて」も大事だよね。)

(エロ話そっちのけで、真剣に議論しています。)

…って、十分手抜きですね。すいません。
さて、次回以降の展開が楽しみになってきた。ジョンガリアンは増幅していくことになるのか、それとも…。
※ネーミングはさておき、決して男性だけで楽しもうという会ではありませんので、しつこいですが念のため。

防災に対する意識、持っていますか。

日本海中部地震から35年、十勝沖地震から50年という節目の年、今一度「防災」を考えるきっかけ、そして、自分の見識を深める機会になればいいと思い、弘前大学理工学部で開催された「地震災害軽減に関するシンポジウム」を聴講してきました。地球環境防災科の教員によるもので、専門的な話に特化してしまうのかな、と危惧しておりましたが、全くそんなことはなく、むしろ頭の中に入りやすい内容でした。

以下、走り書きのメモから概要をピックアップ。

▼小菅正裕教授「あれから35年―変わったこと,変わっていないこと」

50年前の十勝沖地震。気象庁が地震発生当日に発表した震源が十勝沖だったことから、その日に十勝沖地震と命名した。

ところが、震源の位置が違っていたことが後日判明。実際は十勝沖ではなく、三陸沖北部の青森県東方沖であることがわかった。地震の観測地点が少なく、位置の特定が難しかったことが要因。

35年の日本海中部地震。当初、秋田沖が震源とされた(活断層のズレが最初に起こったのは秋田沖だった)。しかしこちらも後日の調査で、青森県の西方沖(青森県岩崎沖)約90km、深さ約20kmが震源であることが判明。

「秋田沖地震」ではなく「日本海中部地震」と命名されたのは、青森県選出代議士が深く関与。「十勝沖地震」の際、被害が甚大だった青森県ではなく、北海道に対して補助金や救援物資が回されたという苦い経験があったから。

当時の地震観測計では、S波(地震の主要波。最初のカタカタがP波、その後のグラグラがS波)を観測することができなかった。青森県内の気象台、測候所は青森、八戸、むつ、深浦の4か所のみ。

2001年の論文で、仙台平野への津波到達の危険性が指摘されていた。10年後、東日本大震災で現実となった。

*地震の観測地点が一気に増えたのは、阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)が契機。

未だにできていないこと。まずは地震の前兆観測や発生予測。大震災(サンプル数)が少ないので、シミュレーション、検証ができない。

そして、「災害への心構え」。震災の経験を後世に伝えることが萎んでいき、地震を知らない世代となり、経験が忘れ去られる。そのタイミングでまた同じことが起こる。この連鎖を絶つことが必要。

マスコミ報道への違和感。震源の位置を示す三陸沖の×印の横に、「東日本大震災」の文字。

×印で起きたのは、東北太平洋沖地震。この地震によって人々が暮らす陸地で起きたのが、「東日本大震災」。

防災リテラシーの向上のため、命を守る教育の場が必要。長周波の揺れが発生したら、「とんでもないことが起こっている」という認識を。大津波警報が発令されたら、「必ず津波がやってくる」という認識を。


▼上原子晶久准教授「台湾の地震に学ぶ」

台湾で発生した2つの地震。1999年の地震はM7.3。震源が8kmと非常に浅かった。活断層のズレが最大約10m発生し、断層変位が地表に現れたところでは、ダム本体や橋脚といった構造物が破壊された。熊本地震の阿蘇大橋も、断層変位によるものと考えられる。

2018年2月6日に発生した花蓮地震、M6.4。これも断層変位が地表に現れ、構造物が被害。地震被害はいつも発生するが、特効薬的処方箋はないのか。県の防災計画、これまでも何度も更新。「その取組に終わりはない。」という県幹部。これがまさに、答え。

だからといって対策を講じることをやめてはならない。


▼前田拓人准教授「津波発生研究と即時予測技術の最前線」

津波から地震を観測するという手法。地震発生から津波到着までに地震を調査。S―netという津波の観測網を、岩手~福島の太平洋に張り巡らせた。世界でも前例のないケース。津波の現在地がわかるようになる。将来は、台風の進路予測のような、津波天気図(津波予報)に繋げたい。

地震も津波も、なくすることはできない。備えも避難も決断次第。


▼片岡俊一教授「次の地震にどう備えるか」

自然現象×人間社会=災害(被害)
自然現象はどこでも起こる。そこに人間社会が絡んで初めて、災害が発生する。

自然の力>人間の作ったものの強さ →災害が起こる。
人間の作ったものの強さ(例えば構造物の強度?)は自然の力には敵わない。だから災害が起こる。

が、災害は軽減できる。何を守るか。

震度5強以下の地震(構造物に被害が出る規模ではない)で、室内での死亡例3件。
本棚から崩れた書籍の下敷きになり、圧死(窒息死)したというケース。(しかも亡くなったのは40代の方ばかり)

各市町村の地域防災計画は、それぞれの市町村で完結。隣接の市町村まで踏み込んで書けない。

県内だと津軽、南部、下北、それぞれの相互・広域的なサポートが必要。

20時頃にシンポジウムが終了し、大学の外に出ると、雨脚が更に強くなっていました。弘前市には暴風と大雨の警報が発令されたまま。明朝は久しぶりにAさんの伴走を予定していましたが、そのAさんから連絡があり、練習を中止することに。

明日の予報も「雨」。警報は夜遅くまでの予想ではありましたが、安全面を考慮すると、弘前公園ランニングクラブ定例の朝練習も怪しいところです。

そこで、キャプテンにメッセージを送り、初めて「練習の中止」をFBページにアップ。

今回の「練習中止」のアナウンスは、もちろん仲間の安全を第一に思ってのことではありましたが、もちろん、そうは言っても何人かが練習にやって来ることは織り込み済み。ただ、それが何人なのか、気になるところではありましたが…。


47都道府県を見ると、青森県の防災意識は、太平洋側に位置する各県と比べても低いそうです。恐らく、青森県の中で見ても、特に津軽地方の人たちはその意識が低いのではないかと考えています。というのも、地震に関してだけ見ると、直接的に甚大な被害を受けた日本海中部地震から35年、この間には東日本大震災のほか、阪神淡路大震災の20日前に発生した三陸はるか沖地震など、県内で震度5強以上を観測する地震が発生していますが、津軽地方においては、直接的な被害を受けていないからです。むしろ、平成3年の台風19号の方が印象として強いのではないでしょうか。


朝4時。慣れというのは不思議なもので、土曜日にはこの時間に目が覚めます。

きっと雨がぱらついているんだろうな、と外を見て、唖然としました。

雨が、上がっている!

なんと、天気予報「雨」に騙されました。前日夜の大雨を考えても、まず間違いなく朝方まで雨は降り続いているのだろう、と確信していたのに。

しかも、予定通り警報は解除されており、もはや普段の「曇り」と変わらない天気。

グラウンドの状況を考えれば、恐らく運動会は中止になるでしょうが、「警報解除」の条件付きでの練習中止にすれば良かったのかな、と悶々としつつ、もう一度布団に潜り込みました。

まあでも、川の水は増水しているだろうし、万が一何かがあってからでは遅過ぎるし。

防災は空振りを恐れてはならないんだから、これでよかったんだ、きっと…うん。

誰も練習に来ませんように、と祈りましたが、結局7人が集まったそうです。(これが多いと思ったか少ないと思ったかは、ご想像にお任せします。)

こんな天気になるんだったら「中止」なんてぶちまけなければ良かったと、本当に猛省しています。関係各方面の皆さま、申し訳ありませんでした。

ということで予告。

6月下旬に、弘前文化センターで「防災啓発研修」を開催します。テーマは、「命をまもるために、いま、できることは何か」。

講師お二人をお呼びし、風水害・火山災害への備えと、国民保護に関する講演を行っていただく予定です。

防災意識が低い津軽、という印象を払拭するためにも、たくさんの方々のご参加をお待ちしております。(詳細はまた改めて!)

最後に皆さん、こんな時どうする?

  • 大雨が続いているのに、河川の水位が少しずつ下がっているような気がする
  • 暴風雪警報が発令される中、幹線道路が急に渋滞し始め、車が動かなくなった
  • 田んぼの中の一本道を車で走っているときに、突然Jアラートが鳴りだした

「東北まちづくりOM第29回勉強会 in 北秋田」参加メモ

今日の投稿、原稿用紙で約12枚半です。長くてホントすいません。

久しぶりに東北まちづくりオフサイトミーティング(東北OM)の勉強会に参加してきました。
僕にとって東北OMは同じ公務員仲間との繋がりの場であり、自己研鑽の場であり、そして自分の志を高める場。

…とはいえ、東北各地で既に29回も開催されているのに、実は勉強会に参加したのは今回が3度目。にもかかわらず、久しぶりにお会いした皆さん、本当に優しいのですよ。今回は何だかその優しさに触れたくて、勉強会に参加したのかな。
お会いするのが2度目という方もいましたが、まるで旧知の友と再会したような、そんな感覚でした。離れていてもそれぞれがFacebookなどを通じた発信を見聞きしているからなのでしょうね、きっと。
さて、今回の勉強会は秋田県北秋田市での開催。このブログでも何度か紹介している通り、北秋田市は僕の母の生まれ故郷(母は旧合川町の生まれ)で、現在も親戚が生活しているということで、第2~3の故郷と思っています。なんで「第2~3」なのかというと、僕が生まれ、現在も居住しているのは青森県弘前市なのですが、父の生まれ故郷が青森県中津軽郡西目屋村で、こちらも第2~3の故郷という位置づけ。その辺が自分の中でちょっと曖昧になっておりまして。

…あ、そうだ。

北秋田市も西目屋村も、僕にとっての「準ふるさと」ということにしましょう。

ところで、皆さんに質問です。
北秋田市と聞いて何を思い浮かべますか。

はい、多分何も浮かんでこないという人の方が多いのではないでしょうか。
もともと4つの町(鷹巣、森吉、阿仁、合川)が合併して市制施行されたのが2005年のこと。秋田県全体の10%以上を占める面積を保有していますが、その大半は、山。市の中心部(鷹巣)は北部に位置しており、そこから市を縦断する形で「秋田内陸線」という第三セクターの鉄道が走っています。ただし、鷹巣と森吉と合川の中間みたいな場所に大館能代空港があり、羽田からは1時間10分、空港から鷹巣まではわずか10分で辿り着けます。つまり、ざっくり計算すると羽田から1時間30分もあれば北秋田市に来ることができる、ということに。交通の利便性がいいのか悪いのか、よくわかりませんが…。

僕はどちらかといえば北秋田市に対してはネガティヴなイメージしか持っていなくて、かつてそれぞれの町にあった公立高校が統合されたことで、合川や森吉には若者の影が見えなくなったり、少子化の流れから小学校もどんどん統廃合されたり、(これはどこも同じだけれど)高齢化が物凄いスピードで進んでいたり、人口流出に歯止めがかからなかったり、町の中にあった大きな病院が、車がなければ行けないようなとんでもない場所に移転したり、僕が小さかった頃は賑やかだったJR鷹ノ巣駅前も、今はすっかり閑散としていたり…。

大変申し訳ないけれど、「北秋田市はこの先に何の光明を見出せるのか」と思っていたのですが、これは「第2~3の故郷」を語る部外者がとやかく言う話じゃないですね。本当にすいません。

さて、北秋田市で勉強会が開催されるのは今回が2度目。前回は何かの事情で足を運ぶことができませんでした。再び勉強会が北秋田市で開催されることを知り、これは何とか都合をつけて足を運ばなければならない、と。まさに「万障繰り合わせて」参加する、といった感じ。

こういう勉強会に参加するに当たっては、そのテーマや講演内容が自分の興味のあるものか、というところも大事なのかとは思うのですが、多分、気乗りしていない時に参加しても得られるものは少ないだろうし、もしかしたら参加したことを後悔してしまう、そんなことだってあり得るわけです。何よりも一番は「タイミング」なのだろうな、と。うまく言えませんが、自分の興味や気持ちのベクトルがそちらの方に向きかけているときに開催される勉強会。それに参加するということがまさに「タイミング」なのでしょう。だから今回は、行けると決まった時からかなりテンションが上がっていました。

前置きが長くなりましたが、今回の内容はこんな感じ。

・オープニングトーク「なぜ、ネットワークが必要か」後藤好邦さん
・特別公演「”新米”男子の新たな挑戦!」武田昌大さん
・基調講演「地方の夜明け~樋渡社中みちのく北秋田編~」樋渡啓祐さん
・フロア参加型スペシャルトークセッション
樋渡啓祐さん×武田昌大さん×後藤好邦さん(コーディネーター 松田淳子さん)

この日は弘前市役所のエリちゃんと平川市役所のノゾムさんが同乗し、僕の車で鷹巣へ。大館鷹巣道路が開通したことで、北秋田は本当に近くなりました。
11時30分前、受付開始の30分も前に会場の「北秋田市民ふれあいプラザ コムコム」に到着、多目的ホールで会場の設営をしていた(仮)チーム秋田の皆さんへの御挨拶もそこそこに、設営のお手伝いを開始。程なく今日のオープニングトークを務める後藤さんや今回が「初めまして」となる山形県のお二方も現れたので、会場の設営を秋田の皆さんにお任せして、近くの中華料理屋さんにて6人で昼食。

昼食を終えて会場に戻ると、既に数十名の方が集まっていました。頂いたチラシを見ながら、これはきっと緊張を和ませるためのネタだな、と確信。誤りじゃないですよね、絶対。

この日、松田さんから会場の撮影をお願いされていたので、いったいいつの時代のカメラよ、という例の低スペック一眼レフを持参し、会場内をパシャパシャと。最前列に陣取っていたのに、おもむろに立ち上がってはうろうろと徘徊しているようにも見えたんじゃないでしょうか。目障りになってしまったのではないかと。本当にすいませんでした。

まとめるのがあまり得意ではないので、皆さんのお話を聞きながら走り書きのように書き取ったメモを参考に、内容の振り返りと感想を少々。画像は撮影者の特権です。

後藤さん(山形市企画調整課交通企画係長)
・北秋田での開催は2回目。
・東北OMは、敷居は低く、志は高く。
・当初は3人で何かしたいね、とスタート。(後藤さんは東北OMの代表ではなく、発起人。)
・3人が28人、それが850人に増えた。(今はもっといるはず。)
・期日を決めて動くことが重要。
・TTP(徹底的にパクる)が大事
・ネットワーク成功の秘訣は色々あるが、要職に就く50代の先輩方が活動をサポートしてくれていることに気付いた。
・大事なことは、ネットで繋がることじゃなく、Face To Face。


(どうしても揃い踏みで撮影したかった1枚。
左から私、後藤さん、松田さん、ノゾムさん)

武田さん(32歳。地元を思う熱量がハンパない)
・鷹巣生まれ鷹巣育ち。18歳の時に地元を離れる。
・鷹巣は遊ぶところがなかった。
・憧れの都会生活。歌舞伎町で若者が秋田に関するイベントを行っていたことに感銘。
・転機は8年前。シャッター街となった地元に愕然。
・何とかしたい。でも秋田のこと、地元のこと何も知らなかった。
・秋田の価値、いいものいっぱいある。
・まちを読み解くキーワードは3KM2(平方キロメートル)。
・この数字は、半径1キロの円で囲まれたエリアの面積。
・それは、概ね10分で歩ける範囲。この範囲でまちづくり。
・3KM2→3Kは「価値」「課題」「解決」。M2は「Member(仲間)」「Money(お金)」
・知ってもらう、来てもらう、住んでもらう。
・ときめく仕組み。価値を見つける→イケてる化。地域にデザインを。

樋渡さん(最初はステージ上で、のちに降壇して参加者と同じ位置で)
・北秋田、いいところ。空港から近い。羽田から1時間10分。移住のメッカになり得る。
・官民手を組んだ地方創生モデルを。
・北秋田市内に事務所を立ち上げたい。
・大人の自虐は子供に伝播する。(「何もない。」とかネガティヴなことをいうの、控えましょう。)
・大切なこと3つ。組む、スピード、コンパクト。
・旬の人と組むこと。
・考える前に動く。ただし準備を徹底する。相手のことも徹底的に調べる。
・人生の大勝負は名刺を渡す前の5秒。
・万人受けの必要なし。ニッチをリッチにする(誰もやらないことをやる)。
・パクチーに目を付けたのが5年前。今、パクチーブーム。
・武雄市の図書館が成功したのは、1人1人にストーリーがあったから。
・ストーリーが重なってストーリーズ、それがヒストリーになる。
・無風が一番辛い。逆風の時は少し向きを変える。
・失敗は、体幹を強くする。

トークセッション(観客と同じ目線で話すのがとてもよかった)
・行政の発信力は侮れない。
・官か民かではなく、「人」。人の集まりが「公」。官民関係ない。
・主体的に動くこと。ギブ&ギブ。
・ロジカルではなく、フィジカル。
・人がやらないことをやる。それをトップがやると、皆ついてくる。
・人間は総量が一緒だと思う。
・繋がりが拡がれば可能性が広がる。
・自分にないものを補うのは、仲間。
・次回の勉強会には、熱量を感じる人をもう一人連れてきて。
・北秋田はいいところ。これからますます盛り上がる。

ここに記した内容はほんの一端で、実際にどういった取り組みをされたのか(あるいは今もされているのか)という紹介があったり、「ここだけの話」としてあるキーワードが飛び出して会場の皆さんが何やら騒然となったりで、正直、北秋田でこんなに熱を帯びたお話を聞くことになるとは思ってもいませんでした。
武田さんのお話を聞いて、秋田県も北秋田市もまだまだ捨てたもんじゃないんだな、こんな凄い活動をしている人がいるんだな、ということに驚きましたし、武田さんの思いに共感する方が増えるとか、そこから色々派生していくと、これまた面白いことになっていくんだろうな、と思いました。

樋渡さん。マスメディアなどでお名前やお姿を何度も拝見する中で、強面でおっかなくて面倒くさそうなオッサン、という印象を抱いていましたが、イメージが180度変わりました。
お話が本当に面白くて、あっという間に引き込まれました。もっとお話し聞きたかったなあ、と思うぐらい。(本音を言えば、もう少し最近のお話をもっと聞きたかったです。)
そして、オッサンなんて失礼なことを言いましたが、実はほぼ同年代なんですよね(樋渡さんが学年一つ上)。

一つの気づきは、パワーポイントなどを使ったスライドって、伝えたい要点だけを書きだせばいいんですよね。行政のそれって、何でも詰め込み過ぎで、スクリーンに映し出しても何が何だかわからない、といったケースがあると思いませんか。結局紙で同じ資料を用意したりして。

それにしても久しぶりの勉強会、ホント参加してよかったです。自分が今すぐ何か行動を起こすというわけではありませんが、凝り固まっていた頭の中をリフレッシュする、いい機会を頂きました。帰りの車中での「振り返り」も盛り上がりました。タイミングって本当に大事です。

これ、個人的にふと感じたこと。
青森県、津軽地方に限ったことではないけれど最近「移住」に力を入れていて、受け入れるに当たって用意すべきは単なる「住むところ」なのかそれともちゃんと「住めるところ」なのか。(この違い、わかりますかね?)
もう一つは、武田さんの「いいもの」のお話を聞きながら、最近「津軽塗」を使う人が減ってきているのかなあ、ということを思い出しました。青森市や弘前市にあった工芸屋さんが相次いで閉店の途を辿り、果たしてこれから「津軽塗」はどうなっていくんだろうか、ということぼんやりと考えた次第です。(まあ、僕が考えるまでもないことでしょうけどね。)

最後に、今回の勉強会の開催に尽力された松田さんをはじめ秋田県の皆さま、本当にお世話になりました。熱気に満ちた雰囲気で、帰路に就いてからもテンション上がりっぱなしでした。最後の仕掛け、涙こらえるの必死でしたが、周囲で皆さんが感涙の涙を流しているのを見て、一緒に泣けば良かったと今更ながら後悔しています(笑)。ありがとうございました!

避難所の運営を少しだけ考える ~「学校安全教室指導者研修」から~

今日は珍しくマジメに仕事めいたお話を。

青森県内にある小学校の管理者を対象とした「学校安全教室指導者研修」が行われ、僭越ながら私、研修のサポートを行ってきました。

折しも、兵庫県明石市で火災が発生、6時間以上も延焼が続き、20軒を超える建物が全焼したとのこと。急遽近所の小学校が避難所として開設されたというニュースを知ったのは、まさにこの投稿の校正を行っている最中でした。

恐らくこのブログをご覧頂いている方の多くは、何か大きな災害等が発生した際に、「避難所に避難する立場」ではあっても、「避難所を運営する立場」になる機会は、よほどのことがなければないことであり、むしろないに越したことはない、といったところでしょうか。(「ない」「ない」の連発ですいません。)

しかし、いざという時には避難者という立場と、避難所を運営する立場では全く状況が異なる他、避難する場所がどこなのかによっては、運営(又はそれをサポート)する立場に回るということが全くないと言い切れない部分があります。

今回は、もしも皆さんが「避難所を運営する立場」になった時に、どういった行動を取るのが適切なのかを少し考えてみたいと思います。…というよりも、僕自身の研修内容の「振り返り」であり「備忘録」です。どうもすいません。

ちなみに、今回は避難所運営のイントロダクションについてターゲットを絞って考える研修となりましたが、あくまでも一般論的なもの。災害の規模や発生した時期、更には場所等によって状況が全く異なるので、「これが正解」というのはなく、ケース・バイ・ケースになると思います。よって、「こういった場合はどうすればいいんでしょうね」と僕に聞かれても、「それは皆さんで考えて下さいね。」という、実につれないお答えしかできないと思いますので、あらかじめご了承下さい。

さて、今回の研修は県の教育委員会が主催したもので、県の防災担当にもサポートをお願いしたいということから職場の数名に声がかかりました。サポートに回った5名は全員、熊本地震の際に震度7を2度観測した益城町内で、避難所運営の支援を行ったメンバー。

多少なりとも学校における避難所運営がどのように行われているのかを、身をもって体感してきたメンバーです。その時の活動記録は、こちら

ちなみに今回の研修内容は、静岡県が作成した避難所運営ゲーム(HUG)を参考にしたとのことでした。

実はこのHUG、いつか経験したいと思いながらも未だに経験したことがないんですよね。別の図上訓練は、何度か経験しているんですが…。

言うまでもなく僕は避難所運営のプロフェッショナルでもなければ、深い造詣や知識も持ち合わせていません。

よって、あくまでも研修をサポートしながら、研修に参加していた皆さんがお話ししていた内容について聞き耳を立て、自分の中で咀嚼した内容にとどまってしまうと思いますが、少しでも皆さんが考えるきっかけになれば幸いです。

それじゃ、ちょっと内容に触れてみましょう。

ここで一つの想定をしたいと思います。(研修の想定とは少し異なっています。)

「○月○日午後1時20分、マグニチュード8.0の地震が発生、××町で震度6強を観測。」

・この日の天気は雨。午後1時の気温は15度。

・××町立△△小学校では、体育館横のプールのフェンスが一部倒壊したが、3階建ての校舎をはじめ、それ以外の被害はなかった。

・発生から5分後には児童300名全員の無事を確認、家族への引渡しも開始。現在150名が2階の教室で待機。

・津波警報が発令されたが、高台にあるため津波到達の可能性はない。

・電気、上下水道は地震の影響で寸断された状態。

・地震の直後から、近隣の住民をはじめ約100名が学校に避難し始めている。

・雨天のため、車で避難してくる人も多い。

・△△小学校内に校長を本部長とする災害対策本部組織を立ち上げ、教員間での情報収集を開始。

・非常用発電装置や仮設トイレ、救援物資などの備蓄機材等は学校にはない。

・保健室はあるが救護所はない。

・自主防災組織はまだ立ち上がっておらず、衛星電話を持った役場職員2名が到着したばかり。

 

さて、この状況を踏まえ、以下の状況に対してどのように対応すべきか、考えてみましょう。

 

(1)避難者が続々と集まっていることも踏まえ、当面の間、小学校を開放することを決定しました。まず、どこを開放しますか。

一義的には「体育館」と考えそうなのですが、体育館の前に開放すべきなのは「校庭」なのだそうです。これは、自家用車で避難してくる人の駐車スペースを提供する、という趣旨から。ちょっと虚を突かれました。

ただし。

校庭を全面開放するのは危険です。救急車や自衛隊、支援物資の輸送など、「公助」のための車輌が今後やってくると思われます。これらの車輌が駐車できるスペースは、当然動線も含めて確実に確保しておく必要があります。

人間の心理として少しでも入り口の近くに停めたい、という意識が働くものですが、避難者の駐車スペースは、むしろ入り口からちょっと離れた場所に確保する方が賢明なのかも知れません。当然、職員用駐車場を避難者向けに開放することは御法度。学校が再開した際に、立ち行かなくなります。

(2)校舎内で、避難者が立入禁止とすべき場所を考えたいと思います。どこを立入禁止にしますか。

職員室は言うまでもなく立入禁止です。これは、職員室が執務を行う部屋だからという観点ではなく、児童等の個人情報が保管されているからです。そういう趣旨では、事務室や校長室等も、関係者以外立入禁止とすべきでしょう。また、危険物が置かれている可能性のある理科室や燃料保管庫、備品の多い図書室や図工室も同様に立入禁止としました。

そして、非常に心苦しいところではありますが、ライフライン(上下水道)がストップしているということもあり、校内のトイレも立入(使用)禁止に。

避難者が続々と集まっている現状に鑑み、仮設トイレの速やかな設置を、役場職員を通じて強く要請しました。

(3)続々と集まってくる避難者について、何を、どのように把握しますか。

いよいよ体育館を「避難所」として開放することとしました。

その際、避難してきた方には次の情報を必ず「受付」に提示することを求めました。

◎氏名、年齢、住所(居住地区)、連絡先(携帯電話の番号)、血液型、障害の有無、同行者(同行者にも同じ情報を求めています)、避難の方法(車輌の有無)

○家屋の損壊状況(全壊、半壊、一部損壊等)、服用薬及び既往症の有無、緊急の連絡先(避難していない家族等の連絡先)、勤務先、勤務形態(勤務時間、休みの日など)

ただし、避難してきた人全員にその場でこれらの情報全てを聴取するのは困難であったことから、○の内容を含んだ内容については後日「避難者カード」を作成し、備え付けの箱に必ず投函するよう求め、今回は◎のみを求めることとしました。

また、体育館での混乱(不公平感)を避けるため、当面は1人当たり2メートル×2メートルの区画のみ与えることとし、体育館のステージ上は搬入されてくる救援物資の保管と仕分けなどを行うため、関係者以外立入禁止としました。

(4)避難者といっても種々様々ですが、高齢者や乳幼児連れ、障害者の他、「特に配慮を要する避難者」はどういう方が想定されますか。

心身障害者や妊婦さん、LGBTの方には一定の配慮が必要になりますし、観光客がいるかも知れません。また、外国人の避難者がいた場合は、言語はもちろん、宗教上の禁忌事項(食事など)にも配慮が必要となると思われます。

避難所では、お子さんの動向にも配慮が必要となってきます。大人同士であれば見ず知らずの人であってもそれなりに会話ができると思いますが、避難所に連れてこられたお子さんは、知らない大人に囲まれて心細さがどんどん増しているはずです。お子さんの不安感や緊張感を刺激することなく、なるべく年齢の近いお子さん(一番いいのは同級生)に接触させるなど、大人から子供への気遣い、心配りも忘れずに。

…といった内容が研修の中で議論されましたが、これはあくまでも一端であり、いざとなると、これ以外にも想定されないような様々な事案が同時多発的に起こります。一例を挙げると、避難者に紛れた不審者や部外者の侵入をどう防ぐか。こういったことを一人で悶々と考えるのではなく、あらかじめ想定されるケースを皆さんで議論したうえで、相応の運営指針等を策定することも選択肢の一つと考えます。

また、これは何も学校に限ったことではなく、公民館や集会所といったところでも同様のことが言えますので、これを運営する皆さんや地域住民の間であらかじめ議論する機会があってもいいと思います。

そして、自主防災組織やNPOといった支援活動を行う団体や組織とも、万が一に備えてあらかじめ意思の疎通を図っておくことが大切ではないでしょうか。(そういった団体や組織に参画することで、運営に関わる立場となることもあるわけで。)

今回は「避難所を運営する側」の立場から少し考えてみましたが、先に触れたとおり、数々湧き上がる「問い」に対する「これが正解」という答えはないと思います。強いて言えば、「皆さんの命を守るのが使命です」というのが「正解」でしょうか。

最終的に避難所の運営を行うのは学校でも役所でもなく、あくまでも避難者同士で行うことが必要となってきます。逆に「避難する側」の皆さんもこういった認識や心構えをあらかじめ備え持っておくことで、避難所における一定の秩序が計られるかも知れません。

しつこいですが、こういったことは起こらないのが一番なんですけどね。