不安定の上の安定


このブログでは極力仕事の話はしない、と決めているのですが、ふと思ったことがあり、意を決しての投稿です。多分こういう投稿はもうしないと思います。とりわけ同業者の皆さまからは、異論反論色々あるかも知れませんが、それもすべて享受する覚悟です。(裏を返せば、こちらからは一切異論反論はしないという宣言です。)

ご存じの方も多いと思いますが、僕の職業は地方公務員。世間で言うところのいわゆる「役人の端くれ」をやっています。役所勤めも25年目に突入、早いものです。気がついたら「定年」まであと14年しかありません。いや、僕らの頃には「定年」の年齢も引き上げられ、馬車馬のように働いているのでしょうか。それでも恐らく「折り返し」は既に過ぎたはずなので、ぼちぼち「ゴールの先」を見据えていかないと、なんてことを思い始めているところです。

「お仕事は?」と聞かれ、「役所に勤めてます」というと、大概の人は「あー…。」と納得します。なぜ納得されるのかは、正直わかりません。個人的には「役所色」を出さない、いわゆる「公務員らしくない公務員」が理想型なのですが、一度染みついてしまった「色」って、なかなか消すのが難しいものです。それは、年を重ねれば重ねるほどに。

入庁したての頃、「役人って、いいよね。安定してるし。」と、僻みなのか妬みなのか嫌みなのかよくわからないことを周囲からは言われたものでした。
僕の知る限りにおいて、青森県内では「公務員、教員、銀行員」がいわゆる「安定している」仕事だと言われていたように思います。

…でも、「安定」って、何をもって「安定」と言うのでしょう。
勤務時間?給料?身分保障?景気や社会情勢に左右されないということ?

この仕事に就いてから僕は、常日頃から「こんな不安定な立場なのに、安定もクソもあるか!」と思っていましたし、今もその思いは心の中でずっと燻っています。そんな中、最近この記事を拝読して、やっぱり同じ事を考えておられる方っているんだな、と溜飲を下げると同時に、明日は我が身と身につまされるような気分にも苛まれました。
…ところでお前は、どうなんだ?と。

公務員になるというリスク

僕の周囲には、早いうちから公務員であることに見切りをつけた人が何人かいます。もちろん個人的に色んな事情や思いがあってのことですし、辞めたくないのに辞めた人もいるかも知れません。しかしその多くは、役所という組織やルール、しがらみから開放され、むしろ溌剌とした人生を歩んでいるようにも見受けられます。

ところで。
僕は自分のことを「本籍のないジョーカー」と言っています。

どういうことかというと、例えば国家公務員であれば、どこかの省庁に配属が決まると、ほぼ最後までその一つの省庁の中で異動するようです。
これが地方になるとそういうわけにもいかず、全く畑違いの部局に異動する、ということが当然の如くあります。
それもある程度まで年齢を重ねると、それなりに収束していく(所属の部局が固定されていく)ように見受けられるのですが、僕の場合は勤続25年目、46歳になった今でも、収まるどころか一向に落ち着く気配がありません。役所勤めのスタートとなった土木(県土整備)での勤続9年の後は、よくもまあこんなに転々とするものだ、というぐらい、あちこちの部局に異動しています。総務、商工労働、農林水産、危機管理…異動するたびに部局が変わるんですから。良い方向で捉えると百戦錬磨のマルチプレイヤー、悪い方向で捉えると、戻る場所を失ったババ抜きのジョーカー。

だからこそ自分のことを「本籍のないジョーカー」と言っているのです。もっとも最近は、「別名、閉店請負人」と自虐的に言っています。僅かこの3年間で立て続けに、グループや組織の縮小、閉鎖、解散に遭遇したからなのですが…。

異動のたびにそれまで見たことも聞いたこともないような、そんな業務を割り振られることは当たり前。今も日々是学習であり日々是勉強。未だにずっと1年生をやっているような気分。ただ、これは決して僕に限ったことではなく、多くの役人(特にスタッフ職)の現実なのではないかと思います。そういう意味でも、役所勤めにとって「安定」なんてあり得ない、などと考えてしまうわけです。

しかし、実はそんな中で唯一「安定」というか、一貫していることがあります。
それは、僕の仕事の内容が「相手あっての業務」だということ。

お前、何を言うか。相手があるのは当たり前だろう、と言われそうですが、いわゆる法律や数字といった「口言わぬもの」を相手にするのではなく、組合、商工団体、法人、企業、そして組織など、僕の対面には常に生身の人間がいました。ところが周囲には、この対人業務を不得手とする人がいたり、数の中には違う意味での「厄介な相手」がいるわけで、実はそれが意外と身近にいるケースが結構あります。これがまた、ホント面倒臭いんですが。

日々刻々と変わり続ける景気や社会情勢に左右されることなく、法律の下で業務をこなす以上、今から5年後10年後に自分の職場が消えた、ということを容易に想像することができない一方、この人口減少社会にあっては、都道府県の統合や道州制の導入など、予期せぬことが起こる可能性が全くゼロとは言い切れません。そういう意味では、確かに「身分」は安定しているのかも知れませんけれど、置かれた「立場」は不安定。そんな立場に不平不満を垂らすことなく、与えられた業務を「前例」に従って粛々とこなしていくのが、役人に与えられた究極の至上命題なのでしょうか。いや、それとも…。

以前、新制度の施行に伴うある業務に携わる機会があり、最長となる5年間にわたって従事、それなりの道筋を作ったことがありました。何せ「前例」がないので、非常にやりがいのある仕事でした。

その頃僕が作成した資料を、今でも説明会などで使っているようですし、更には他県でもそれを参考にして資料を作成したという話を聞きました。当時は、全国に先駆けて(前例ではなく)「先例」を作ったぜ!と鼻高々でしたが、その中で、当時の上司から言われた「前例は疑ってかかれ」という言葉を、今も自分なりの矜持としている一方で、そういう「見えない何か」を打破するって一筋縄ではいかないし、相当のエネルギーも使うわけです。

実際、グループの廃止が決まった5年目、最終年度の終盤は、「前例」がなかったために身を削るような思いでした。だって、組織の人が減っているのにいきなり仕事を増やされるのは、誰だって本意ではないでしょう。要するに役人も「仕事で楽をしたい」んですよ…イヤ失礼、「仕事を楽しみたい」んですよ。

昔、役所の中ではそれなりの立場だった人が、忖度する相手と立場を読み違えたのでしょうか、役所を離れた途端に木偶の坊みたいになってしまったケースを見たことがあります。OB面ぶら下げて役所の中で散々虚勢を張ったり大見得を切っても、誰も相手にしないワケです。こういう人間だけにはなりたくないし、晩節を汚してしまうような生き方ってホントにイヤだな、と思ったものです。役所で通用することが全て社会で通用するわけではないし、極論を言えば、役所の常識こそが社会の非常識だったりすることもあるわけで。

いやいやそれは違う、そんなことはない、と言われるかも知れませんが、「国の働き方改革」の方針に一番取り組むことができないのは、恐らく役所だと思いますよ。まあ、そもそも役所のための「働き方改革」ではないので、この予想自体は誤っているのかも知れません。ただ、大きな声では言えないけれど、ブラック企業ならぬブラック役所は潜在的に結構あるような気がするのです。

だから公務員や役所に「安定」を求めたら、とんでもないことになると思います。皆さんが思っている以上に役所の中は殺伐としているし、一寸先はホント闇だらけで何が起こるかわからない。一見安定しているようでも、不安定な社会情勢の中、役所だけが常に安定した状態でいられるわけがないのですから。例えるならば、バランスボールの上に立つ、こけしみたいなものでしょうか。(←意味不明)

さて、話がどんどんズレていった結果、いよいよ自分でも何を言いたいのかよくわからなくなってきました。その結論を見いだせぬまま、今日は矜持、忖度という言葉を使ってみたかっただけの大きな大きな独り言ということでお許し下さい。話の内容が安定せずにホント申し訳ない。
…お目汚し、大変失礼しました。


今更ながらガラケー対応仕様に…。


このブログを動かしていた前のMovable Typeから現在のWordpressに乗り換えて、かれこれ4年近くが経ちました。実は私、ちょうどその前にガラケーからスマートフォンに乗り換えており、それ以降「ブログをガラケーで閲覧する」という概念がすっかり抜け落ちていたんです。ちなみに私が最後に使用していたガラケーは、DoCoMoの「SO905iCS」、カラーはピンク!…この頃からピンクとは縁があったようです。


先日のこと、たまたまガラケーを手にする機会があり、さて、このブログは一体どのように見えるんだろう、とURLを直接入力して開いてみたところ…

「ページを開くことができません。」

な、何てこったい…。
スマホに乗り換えた後、ガラケーユーザーのことなんぞすっかり忘れてしまっていたんですね。
Movable Typeの際はちゃんとガラケーでも閲覧できるようにいろいろ設定していたのに、Wordpressに乗り換えた後は、スマホやiPhone、タブレットでの閲覧のことばかり頭にあって、ガラケーのことはすっかり置き去り状態にしてしまっていたのです。

ガラケーユーザーの皆さま、大変申し訳ございませんでした。

ということで、「Ktai Style」というプラグインをインストールし、設定しました。
どうやらこれでガラケーからもこのブログにアクセス可能となったようです。

皆さん引き続きよろしくお願いします。

…ホントは平成29年6月2日(金)の顛末もブログにしたいところではありますが、また長々と、しかも愚痴っぽくなってしまいそうなので、今のところやめておきますね。ちなみに何があったかというと、出張で2度飛行機に搭乗するはずが、結果的に3度搭乗するハメになった、というものです。

皆さんの興味をそそるようであれば、記事にまとめることも検討したいと思います。

…あ、今日は短すぎましたかね?(笑)


鉄道にまつわる思い出話(その2・今となっては笑い話?)


(甥っ子に友情出演してもらいました。画像は全く関係ありません。)

いつもいつも投稿の内容が凡長で本当にどうもすいません。といいつつ今日もまた長いです。お時間がありましたら、是非お付き合いください。鉄道にまつわる思い出話の第2弾、今回の話は一生忘れることはないでしょう。というか、個人的には一生涯封印しようと思っていたお話です。…あ、第3弾はないと思います。


東北新幹線が盛岡~大宮間で暫定開業したのが昭和57年6月。
実はその数ヶ月前、僕はいち早く東北新幹線に乗車する機会を得ていました。
当時国鉄に勤めていた伯父が「東北新幹線の試乗会が盛岡で行われるよ。」と教えてくれたのです。

しかし、その試乗会に参加するには条件がありました。400字詰め原稿用紙で3枚分、まさに今日、こうやって投稿しているような「自分と鉄道にまつわる話」を作文にして送り、その入選者の親子のみが試乗会に参加できる、というものでした。

ピカピカの東北新幹線に乗車できる!それも、開業前に誰よりも早く乗車できる!

当時小学5年だった僕、千載一遇の機会とはまさにこのこととばかり、苦手な作文を必死になって書いた記憶があります。書いた内容は、弘南鉄道大鰐線で運行されている車両が、かつて国電や首都圏の私鉄などで走っていた車両で、それを間近に見ることができる環境に住んでいて良かったなあ、といった内容でした。

今思えば、国鉄ではなく私鉄を題材にするという内容でよく入選したものだなあ、とも思いましたが、ひょっとしたら応募数が思ったほど多くなかったのかも知れません。(もっとも、試乗会はたくさんの人でごった返していましたが。)
ちなみに入選した作文は後日青森駅に張り出されたらしいのですが、それは自分の目で見ていません。

ところでこの試乗会、かなり前に入選と試乗会招待の知らせが届いていたにも関わらず、その朗報が知らされるまでには、相当のタイムラグがありました。というのも、親子参加での試乗会だったのに、一緒に行く予定だった母が仕事の都合でどうしても行けなくなり、僕一人を盛岡まで送り出すことに躊躇していたのです。
入選していたという知らせを初めて聞いた時、僕は天にも昇るような気分で大喜び。しかしながら母はなお、僕を盛岡まで送り出すことにゴーサインを出してくれませんでした。
いやいや、こちらは既に北秋田市まで何度も一人で訪れている経験者。「絶対に大丈夫だから!」と何度も何度も父母に懇願し、ようやく盛岡行きの了承を得ることができました。

★★★★★
試乗会当日朝の6時過ぎ、弘前駅から青森経由の急行で盛岡へ。(当初、大館(花輪線)を経由して盛岡に向かうの急行「よねしろ」に乗車したと思いましたが、青森経由の急行でした。ただ、列車名が出てきません。)

前日から興奮気味で夜も寝付けませんでしたが、車上の人になると、更にその気分は高揚することとなりました。母が握ってくれたおにぎりを口にしながら、およそ4時間かけて盛岡駅に到着、いよいよ試乗会の受付となる東北新幹線の改札前へ。新幹線乗り場は工事が全て終わっておらず、養生が施されたままの状態になっている箇所もたくさん見受けられました。長い階段で新幹線ホームに向かうと、200系と呼ばれるクリーム色に緑色の帯を配した新幹線の車両が停車していました。その車両を目の当たりにし、思わず息を呑みます。車両をバックにカメラ撮影する親子で溢れる中、僕は一人で事前に示された号車の前に並びました。

いよいよドアが開き、車内へ。まだシートにビニールシートが掛けられたままの車内は、真新しい香りが漂っていました。窓側の席はいち早く他の親子が陣取る形に。致し方なく、C列の座席にちょこんと座りましたが、小さな窓の向こうに流れる景色を眺めつつ、そのスピードに驚き、周りの人たちと一緒に歓声を上げていました。新幹線は一ノ関を過ぎたところで一旦停車、進行方向を変えて再び盛岡駅へと戻ってきました。乗車時間は1時間半程度でしたが、新聞やテレビなどマスコミが大勢ホームで待ち構える中、他の参加者とともに意気揚々と新幹線から降り立ち、試乗会は終わりました。ちなみに参加者への試乗記念のお土産は、新幹線のレールを切った文鎮でした。

みどりの窓口に向かい、時刻表で時間をチェック。青森まで特急「はつかり」で向かうと、その後すぐに寝台特急「日本海」の乗り継ぎがあるのを確認しました。
弘前への乗車券と特急券を購入し、妹へのお土産も購入(カラフルなぬいぐるみを買った記憶があります)。これで帰る準備は整いました。
夕方16時過ぎに特急「はつかり」に乗車、一路青森へ。さすがに中で何をしていたのかは記憶がありませんが、とにかく一刻も早くこの興奮を家の人たちに伝えたい…その思いばかりが募っていました。

18時30分頃に青森駅に到着。奥羽本線のホームへと向かいます。既に大阪行の寝台特急「日本海」は入線しており、乗車すればいいだけだったのですが、間もなく旅を終える安堵からでしょうか、無性にお腹が空いてきました。
ホームにある売店へと近づくと、肉まんの香りが漂ってきました。

妹のお土産に結構お金を使ってしまったため、所持金は既に1,000円もありませんでしたが、弘前駅には家族が迎えに来ることになっていましたし、切符も既に購入済み。

「すいません、肉まん2つください。」
1個50円の肉まん2つを購入し、ホーム反対側に停車する普通列車を横目に、意気揚々と「日本海」に乗車すると、程なくドアが閉まり、出発。

「はて…この切符で乗車できたっけ?まあ、いいか。」

実はここで大きなミスを犯していたことに、僕はその時気付いていませんでした。

乗車しているのは寝台特急ですので、自由席はありません。にもかかわらず僕は、自由席特急券、それも盛岡駅から弘前駅までの通しの特急券を持ったまま乗車してしまったのです。(盛岡駅のみどりの窓口の駅員も、指摘してくれればいいものを…。)
正しくは、盛岡から弘前までの通しの乗車券の他、(1)はつかり(盛岡→青森)の自由席特急券、(2)日本海(青森→弘前)の寝台特急券を購入していなければなりませんでした。

そもそも座る席がないので、デッキに立ったまま肉まんを貪ります。ガタンゴトンと車両が揺れる音を聞きながら、一抹の不安がよぎり始めていました。

…とその時。

車掌がデッキに立つ僕の姿を見つけ、近づいてきました。

「僕、どうした?切符見せて貰えるかな?」

見ると、大阪車掌区の車掌さん。おどおどしながら切符を見せると…。

「あー…僕、この切符じゃ乗れないんだよね。」
「えっ!」

頭の中が真っ白になると同時に時間がピタリと止まり、思わず手にしていた肉まんの袋と妹へのお土産の袋を落としそうになりました。

「うん、750円。追加の特急券、750円になります。」
「…は、はい!」

財布から、残り僅かとなった小銭を取り出します。

あ、あれ???
な、ない…………………(絶句)

ポケットを探っても、財布の隅をほじくっても、出てきたのは720円。あと30円足りないのです。

ふと、手にしていた肉まんの袋に目が行きました。

「1個、50円…。」

嗚呼、肉まんを1つだけにしていたら…。後悔先に立たずとは、まさにこのこと。

「…あれ?お金持ってないの?あらま…。うん、じゃ、しょうがない。ちょっと一緒に来てもらおかね。」

ガタンゴトンと響いていたはずの音が一切聞こえなくなりました。
無賃乗車で警察に突き出されるんだろうか。それとも…。
考えているだけでガクガクブルブルと足が震えてきました。

連れて行かれたのは、最後尾の車掌室。新幹線はもとより、まさか寝台特急の車掌室にまで入ることになるなんて…。

車掌室の小さな補助椅子に座らされたまま、静かに、まるで走馬燈のように今日一日の出来事が頭の中を駆け抜け、ゆっくりと時間が過ぎていきます。嗚呼、帰りたくない!色んな意味で!!!

…やがて「日本海」は弘前駅に到着。僕はその時点で、先の見えない恐怖と自分の犯した「事の大きさ」に怯え、泣きじゃくっていました。「絶対に大丈夫だから!」と両親に虚勢を張ってしまったことへの後ろめたさ。何をやっているんだ、オラは!

そして車掌が、警察官ではなく駅員に僕を引き渡します。

「この子、寝台券のお金足りんのですわ。駅で親御さん、待っとるそうです。ほな、よろしくお願いしますー。」

何事もなかったかのように特急「日本海」が弘前駅のホームから離れていきました。大きな初老の駅員に引き渡された僕は、すっかり犯人のような気分。その駅員に肩を抱かれ、すっかりうなだれたまま、この日の朝、意気揚々と出発した時と同じ跨線橋の階段を意気消沈しながら上り、改札口へ。視線の先には、なかなか列車から降りてこない僕を、父母と妹が心配そうに見ている姿が目に飛び込んできました。

とその時!

「このボンズ(坊主)の親、いだがー?」

改札口で大きな声で叫ぶ駅員の声に、その場に居合わせた皆さんが振り向きます。泣きながらすっかり萎縮し、うなだれている僕はもう、そこにいるのが恥ずかしくて恥ずかしくて…。

迎えに来ていた父母が、何事かと真っ赤な顔をしながら慌てて駆けつけます。

「おう、このボンズの親だが?ボンズ、寝台券のお金足りなくてさ。…んだな、半分でいいじゃ。320円だな。」

「は、はい!」と慌てて財布を取り出そうとする父母。その前に、僕は手にしていた小銭から320円を取り出し、駅員に渡しました。

「す、すいませんでした!」
3人揃って駅員に頭を下げ、妹の手を引き、慌てて駅を出るマカナエ一家。

車に乗り込むなり、叱責。

「何やってるんだか。やっぱり一人で行かせなきゃよかった…。」と両親には呆れられ、お土産を手にした妹は喜色満面。

「…でも、320円でいいんだったら、最初から払ったのにね。」

母は憤慨していましたが、僕は駅員さんに心の中で感謝していました。狼狽する我々を見かねた駅員さんが、機転を利かせてくれたのです。

家に向かう車の中で泣きながら残りの肉まん1つを頬張りつつ、これから肉まんを買う時は、絶対1つだけにしよう、と心に決めたのでした。

そして、この事件がきっかけとなり、実は未だにコンビニで「肉まん2つ」と注文できないトラウマに苛まれていることは、秘密です。

(この画像も全く関係ありません。…すいません。)


鉄道にまつわる思い出話(その1・ちょっとマニアック)


東北新幹線の大宮~盛岡間が暫定開業してから間もなく35年。東日本エリアに関しては、新幹線網が蜘蛛の巣のように拡散され、それとともに寝台特急や在来線特急が姿を消していきました。
かつては青森県内も、数多くの特急や急行が走っていましたが、2017年5月現在、「特急」の冠を被って走行する在来線の定期列車は、青森~秋田間の特急「つがる」のみとなってしまいました。

先日、サッポロビールが、日本の鉄道のヘッドマークチャーム付「ヱビスビール」と「ヱビスマイスター」を全国のコンビニエンスストア限定で4月26日(水)以降順次発売することを発表しました。

第3弾となる今回は「エル特急」がテーマ。たまたまコンビニで昔は青森~上野、東北新幹線の暫定開業後は弘前・青森~盛岡間を走っていた「はつかり」のヘッドマークチャームが付いた缶ビールを発見し、思わず購入してしまいました。

第1弾と第2弾は寝台特急をテーマとしており、とある列車を除いて青森県内を走っていた寝台特急のヘッドマークを全て入手していたことから、それらを並べながら色んなことを思い出していました。さて、この「エル特急」はこれで終わりとなるのか、それとも、今後また拡がりを見せていくのか…(秋田新幹線の前身だった「たざわ」や新潟と北東北を結んだ「いなほ」、エル特急ではないけれど「白鳥」など、登場していないヘッドマークがありますので…)。

僕の場合「乗り鉄」でもなければ「撮り鉄」でもなく、強いて言うならば「見る鉄」といったところでしょうか。今でこそランニングのネタをブログに投稿していますが、幼少の頃は筋金入りの超運動音痴。よってアウトドア派というより完全なインドア派、国鉄のダイヤ改正の際には時刻表を購入して、「青春18きっぷ」の空想旅行を、北海道や東日本、時には紀伊半島の辺りまで足を伸ばして楽しんでいました。…いや、あくまで時刻表を眺めながらの空想なんですけど。漫画雑誌には一切目もくれず、月に一度発行される「鉄道ジャーナル」が愛読書でした。
こんな感じでしたので、僕はオタクやマニアの部類ではない!と言いたいところですが、今でも鉄道ネタに何となく心ときめくのは事実ですし、昔の記憶は結構残っているものです。結局、そういう部類なんでしょうね。多分こんな話、誰にもしたことがないので、結構なカミングアウトかも知れません。今日は、その伏線となった昔のお話をしようと思います。
なので、興味のない方にはちっとも面白くない話。ごめんなさいね。

母の実家は、旧北秋田郡合川町(現:北秋田市)の合川駅前にあります。家のすぐ裏を、旧国鉄阿仁合線(現:秋田内陸縦貫鉄道)が走っており、まるで庭を横切って列車が走っているような感じでした。幼い頃、母の実家に遊びに行くと、踏切の音が聞こえるたびに決まって二階に駆け上がり、走って行く列車(3両~4両編成のディーゼル車だったり、ディーゼル機関車に引かれて走る、杉の丸太を積んだ貨車だったり)を眺めていました。既にその頃から鉄道のことが大好きで、小学1年の頃には、弘前駅から約2時間半を掛けて母の実家のある合川駅まで列車を乗り継いで独り旅をしていました。

まだ駅舎内に鳩が飛んでいた時代、自動券売機もない弘前駅の有人窓口で「合川まで子ども1枚」と切符を購入するところから始まり、16時30分前後に出発する秋田方面(酒田行きだったり、院内行きだったり)への鈍行列車に乗り込むため、3番線ホームへの階段を駆け上がり、青色と茶色の客車が連なった鈍行列車に乗車した後は、同じボックス席に座った乗客から決まって「僕、どこまで行くの?」と話しかけられました。「合川まで!」と答えると驚かれ(それは、合川がどこなのかわからず驚いていたのかも知れません)、「お母さんは?…えっ?ひ、一人で行くの?」と必ず聞かれ、「気をつけてね」と、お菓子や冷凍ミカンを頂くという、実にのどかな旅でした。当時の客車は乗降口の扉が手動だったので、車掌から「走っているときはデッキに出ればマネよ(駄目だよ)」とあらかじめ諭されたこともありました。別に車内をはしゃぎ回っていたわけではありませんし、むしろ車窓の景色を眺めるのが楽しくて仕方なかったんですけどね…。
途中の大館駅では、20分ぐらい停車するのが当たり前で(今思えば荷物の受け下ろしがあったような気がします)、花善の鶏めし弁当を販売する売り子の声がホームに響いていました。ちなみに僕が4歳の時に亡くなった母方の祖父は、必ずと言って花善の鶏めし弁当をお土産に持参してきたそうです。
鷹ノ巣駅では、列車が到着する同じホームの反対側、1番線に停車中の阿仁合線(比立内行き)に乗り換えます。当時はまだクリーム色と朱色のツートンカラー、いわゆる国鉄色と呼ばれるカラーのディーゼル車(確かキハ22形とか)が走っていた時代、扉も半自動で、手動で開ける車両が多かったように記憶しています。床もまだ板張りだったような気が。

時々急行タイプのキハ58系(キハ28系)が編成に混じっていることがあり、その時は、我先にと言わんばかりにその車両に乗り込んでいたことも覚えています。その後、車体の色がオレンジに塗られた車両に入れ替わり、阿仁合線が廃止される直前にはキハ40系が投入され、その頃には編成がオレンジ色の車体ばかりになっちゃって…って、何のことだかさっぱりわからないですよね。すいません。
話を戻しますと、阿仁合線に乗車した後は、僕が乗車してきた奥羽本線の鈍行列車が先発するのを、赤い機関車のけたたましい汽笛の音に怯えながら見届け、程なく出発したディーゼル車にガタンゴトンと揺られること約20分、鷹ノ巣から3駅先の合川駅に19時頃に到着、駅では祖母や伯母と従姉が待っている、という光景。
本当に小さな駅ではありましたが、あの頃は待合室にKIOSKもあったんですよね。かれこれもう、40年近く前のことなんだなあ…。

一度とても怖い思いをしたことを妹も僕も未だにハッキリ覚えていて、時々語り草にしているんですが、妹と二人で母の実家に向かっていた時、一人のオッサンが大館駅から乗車してきました。そのオッサンがやたらと酒臭く、決して悪気はないのでしょうけれど僕たちの座っていたボックス席に腰掛け、興味深そうに話しかけて来るのです。丸刈りで細身で酔っ払い、パッと見るとちょっとヤバそうな、そんな雰囲気。明らかに酔っていたため誰も注意することなく車内の空気が何とも言えぬ雰囲気になり、だんだん怖くなって鷹ノ巣駅に到着するかなり前から二人でデッキに立って鷹ノ巣駅到着を待ち、列車がホームに着くなり猛ダッシュで阿仁合線の列車へ乗車、女子高生のお姉さん方が座るボックス席の空席に慌てて座りました。
ところが、何とそのオッサンも同じ列車に乗り込んできたのです。さすがにこの時ばかりはドキドキがピークに達し、泣きたくなりましたが、オッサンが隣の車両に移動するのを隠れるようにして見ながら、妹と胸をなで下ろした、ということがありました。

弘前に向かう帰りは、まだ幼い妹を背負った母か、祖母が一緒でした。祖母は国鉄職員の伯父の1親等の家族ということで国鉄からの優待券を保有しており、それがまた妙に羨ましかったことを覚えています。
鷹ノ巣駅から乗車する弘前への列車は急行が圧倒的に多く、秋田から青森に向かう急行「むつ」がほとんどでした。たまに上野からの急行「津軽」ということもありましたが。
急行「むつ」に乗車した時、他の車両は立ち席が出るほどの満席なのに、やたらと空いている車両があるなあ、と思って乗車したら、実はそれはグリーン車だった、ということがありました。当時は急行でもグリーン車が連結されていたんですね。車掌に咎められ、慌てて車両を移動した記憶が今でも残っています。しかしあの頃は、結構な数の車両編成だったはずですが、それも満席になるほどでしたから、今のように道路が発達する前、鉄路は重要な移動手段だったと言えるでしょう。
急行「津軽」での楽しみは、車内販売のアイスクリーム。当時、急行ながら車内販売が行われており、かなり高価な濃厚ミルクのアイスクリームは、今まで食したどのアイスクリームよりも一番美味でインパクトがあったかも知れません。小学校高学年となり、妹と二人で弘前に帰る時は、祖母から「(アイス)クリームでも買って食べなさい」と渡されたお小遣いの千円札で、ホントにアイスクリームを購入していたという…。

今は車両の電車化、そして速達化によってボックスシートがベンチシートになり、鉄道で旅情気分を味わう機会も大分減ってしまったように思われます。
そう考えると、あの頃の鉄道旅はホント楽しかったなあ…。という個人的には実に懐かしいお話。
鉄道旅行にまつわるほろ苦い思い出もたくさんあるのですが、それはまた機会をみて紹介できればいいな、と思います。

(多分小学4年生の頃、妹と合川駅構内をバックに。)


熊本地震から1年


新しい職場に配属されてから間もなく2週間。「危機管理局」という名が示すとおり、日々突如降りかかってくる様々な事象に対して、スピード感を持って適切かつ確実に対処する、という状況が続いています。かなり緊張感を要することもあり、精神的なダメージがボディブローのようにジワリジワリと効いています。今後は平日、緊急時対応のために青森市内への宿泊を月3回ほどしなければならないらしく、昨年度とは全く異なる環境下にかなり戸惑っているのも事実です。

そんなこともあって最近の生活を振り返ってみると、平日仕事、週末ランニング、時々飲み会…この繰り返しが先月後半から続いています。
…これまでが○○過ぎたのか、それとも、今の環境が●●過ぎるのか。

思えばここ数年、かつて熱を上げたはずの課外授業(地域おこしや自分磨きにまつわる活動)にはほとんど目をくれなくなり、何となく閉塞感が漂い始めている今日この頃。余裕がない、ということではないのだけれど、気が回らないというか、何というか。

46歳にもなって何を今更…と思う人もいるかも知れませんが、日々これ学習だし、いくら学んでも足りないぐらい学ばなければならないことはたくさんあると僕は思っています。(それが自分の実益に繋がるかどうかは別として。)
そんな中で僕が一番大事にしているのが、人と人の繋がりなワケでして、これは多分自分がリタイア(退職)した後で絶対に活かされると信じて疑っていません。
ランニング然り、課外授業然りで、自分の仕事とは全く関連のない方々や、恐らくこういう機会がなければ接することはなかったであろう、という方々もたくさんいます。

人それぞれ、とはまさにこのことで、言動や思想、価値観は千差万別。そういう方々に接したり、色んな時間や場面を共有すること自体が、僕にとってはもの凄い刺激になることだし、勉強になることも多々あります。

役人だからこそ、人との繋がりを作る。それも、リアルな関係を築き上げることが、信頼にも繋がることであり、その方の人物像というか本質を更に深く知ることのできるきっかけとなるのも事実。

閑話休題。
熊本地震から1年が経過しました。
被災地支援活動のために益城町にお邪魔したのが、6月下旬。あの時も、色んな人々に接しました。そしてあの時の経験があったから、今こうやっているんだろうな、と思うことがよくあります。

1年ってこんなに長いんだっけ?というぐらい長い一年だったのか、それとも、1年ってあっという間だな…というぐらい短い一年だったのか。感じ方は、人それぞれではないでしょうか。

昨日、某テレビ局から「熊本地震に関する取材を行いたい」との要請があり、上司からの指名で、支援活動を行った数名の中から、僕が取材を受けることになりました。約40分でしょうか、色んなお話をしながら当時のことを振り返っていたわけですが、お話をしながら当時の情景を思い出し、思わず目頭が熱くなったのは秘密。

しかしながら結局この取材はお蔵入りとなり、テレビ放映もなくなりました。なので、どんなことを話したのかをここにざっくりと、そう、ざっくりと残しておきたいと思います。

【どういう思いで活動に向かったか。】
-被災者に対してどう寄り添ったらいいのかということは常に考えていた。しかしその一方で、見ず知らずの我々のことを、長期の避難を強いられている人たちが受け入れてくれるのか、とても不安だった。

【実際活動してみた感想は。】
-不安は杞憂であった。優しく受け入れられたことは本当にありがたかった。その一方で、皆さんかなり疲労されているんだな、ということを感じた。町役場の職員も被災者。感情の昂ぶり等も時折見受けられ、避難者と職員双方が感情的になって衝突する場面にも遭遇したことがあった。実質たった5日間の活動ではあったが、時間の経過とともに徐々に融和が図られることとなり、最終日は避難所の皆さんがわざわざお見送りをしてくれた。あの時は本当に感極まって、涙をこらえるのが必死だった。微力ではあったかも知れないけれど、少しでもお役に立てて良かった、と心の底から感じた瞬間だった。
避難所で一緒に支援活動した人たちと一つ約束していることがあって、いつかまた熊本を訪れなければならないと考えている。

【今後の防災対策にどう活かしていきたいか。】
-難しい質問。熊本地震は直下型。断層のズレが真下で発生しており、本県ではなかなか見られないタイプの地震。共通して言えることを挙げるならば、初動の物資の仕分けは留意しなければならないかも知れない。例えば6月の梅雨時に、避難所で山積みになった毛布などを見かけたけれど、需給バランスというか、時期を踏まえた物資の仕分けは非常に重要。

【熊本地震から1年を迎えて思うことは。】
-まだ1年、もう1年、感じ方は人それぞれだと思う。しかし、まだまだこれから。例えば昨年支援活動を行った避難所には、震災で親御さんを亡くした女子高生がいた。非常に気丈に振る舞っていたが、彼女にとって「復興」というのは何だろうか、と考えると、この言葉の持つ意味を考えさせられる。東日本大震災の時も感じたが、復興を成し遂げたかどうかは、我々が決めることではなく被災された皆さんがどう考えるか、というだけのこと。

(以上)