祖母と茶碗蒸し


津軽の正月は、事実上大晦日の夜から始まる、といってもいいんじゃないだろうか。正月を迎える、というよりも、正月を待ちきれず、年越しを楽しむみたいな感じで。

小さかった頃は、家族揃ってその年の出来事を語り合い、レコード大賞を見ながらああだこうだと苦言を呈し、その後紅白歌合戦を見ながら歌に衣装にケチをつけ、母がこしらえたたくさんの料理に舌鼓を打ち、22時過ぎ、無理矢理年越しそばを流し込み…。
除夜の鐘の音が聞こえる頃には高校の友達と連れだって初詣に出かけたこともあったが、大学生となり、年末年始のアルバイトを始めるとともに終了。その一方では、僕自身も台所に立つようになり、母をサポートするようになった。

そしていつしか、年越しには欠かすことのできない「なまこ酢」と「茶碗蒸し」の製作は、材料の下準備から味付けまで、全て僕が担当するようになっていた。更には、まるでオードブルか盛皿かといった大きな容器に料理を盛りつけるようになり、妻の実家や妹夫婦、更には北秋田にある母の実家などへ、うちからのお歳暮のような形で届けるようになった。

(昨年暮れに製作した一つ。もちろん非売品です。)

今年も例年同様、30日の午後から料理の製作を開始したが、何とも言えない物足りなさを感じていた。それまで毎年欠かすことのなかった新年の北秋田訪問を、今回は見送ると母が突然宣言したためだ。


(昨年暮れのナマコはちょっと小ぶりだったらしい。税抜きで1kg 3,980円。)

ひょっとして何か関係を悪化させるような事態が発生したのだろうか?
余計な詮索をしたくなるところだったが、どうやら毎年母に同行していた妹と甥が同行できないかも知れないということで、母自らハンドルを握って北秋田へ向かうことが億劫になったらしい。

考えてみると母は今年古希を迎える。いくら道路事情が良くなったとは言え、冬に長距離を一人で運転するのが面倒になる、そういう年代になってきたということなのだろう。
ただ、例年であれば年明けとともに喜び勇んで出かける準備をしていたのに、180度方針転換とも言える母の心境の変化には、こちらがちょっと戸惑った。

しかし、これに異を唱えたのは妻だった。毎年恒例のルーティンとも言える行事を、こういう形でやめてしまうことが、どうも腑に落ちなかったらしい。
結局、元旦の朝早々に初詣を終えた後、妻の発案で北秋田に向かうことになった。
ただし、日帰りで。

更に、妹も甥も僕の車に同乗することになり、結果的にはいつもの新年より人数の多い状態(しかも我が家の愛犬チョコまでも同乗)で北秋田へと向かった。(新年、僕は不定期で北秋田を訪れているが、妻は毎年決まって留守を預かるのだ。)

東北道を利用し、1時間20分ほどで北秋田市にある母の実家に到着すると、伯父が一人でテレビを見ていた。従姉は出かけたという。
かつては大きなテーブル2つでも足りないほどの人数が集まった新年の光景は、そこにはなかった。今は伯父と従姉の二人暮らしとなった母の実家に、弘前から5人で押しかけてはみたものの、どこか一抹の寂しさを感じながら、祖父母と伯母の仏壇に手向け、1時間ほどで北秋田を後にした。

考えてみると新年の北秋田訪問は、祖母への新年の挨拶、そして祖父と伯母に手向けることが主たる目的だった。年末年始のバイトで疲れていた時でさえ、僕だけ別行動で北秋田に向かったことがあった。
自分が結婚し、やがて生活のペースが夫婦主体となり、初めて僕が北秋田に行かないことを告げた時は、母が僕と一切口を聞かなくなるぐらい険悪な雰囲気に陥った。逆に、「行かない」と言っておきながら奥羽線の特急電車に乗ってこっそり後追いし、年始のドッキリと称して電撃訪問したこともあった。(ところが、訪問したら家には鍵が掛けられていて人の気配がなく、逆にドッキリさせられたけれど。)
それぐらい、新年の北秋田訪問は「当たり前」の行事だったのだ。

そして、北秋田での新年の恒例行事と言えば、「誕生祝い」であった。
僕の妹が1月2日、祖母が1月3日に誕生日を迎えるということで、いつも合同での誕生祝いを、母方の親戚一同で行っていたのだ。

「いくちゃん、ばあちゃん、おたんじょうびおめでとう」とチョコレートで描かれた大きなケーキが用意され、二人でロウソクの火を消すのが毎年目にする光景だった。こうやって妹は、新年と誕生日を一緒にお祝いされてしまうため、ちょっと可哀想だな、と思う反面、親戚みんなから祝ってもらってちょっと羨ましいな、と思うこともあった。

しかしその祖母も病には勝てず、5年前の6月に享年96歳で他界。それから約10か月後には、妹に長男が誕生した。うちの母にとっては初孫だったが、祖母はその曾孫の顔を見ることもなく、旅立った。でも、まるで祖母の生まれ変わりみたいなタイミングでの誕生に、親戚一同が湧いた。

閑話休題。
当番を任された新年の「茶碗蒸し」は、しばらく品質が安定しなかった。卵スープみたいな出来映えになってしまったり、いわゆる「巣が通る」状態になってしまったり。それでも北秋田の親戚は、「美味しい」と口にしながら食べてくれた。恐らくお世辞もかなり含まれていたんだろうけれど、食べてもらえること自体がちょっと嬉しかった。(…まあ、茶碗蒸しは味付けさえ失敗しなければ食べられない、ってことはないから。)
自信を持って製作できるようになったのは本当にここ数年のこと。もっとも、電子レンジのなせる業、と言ってしまえばそれまでだけれど。


(2017年暮れの茶碗蒸し)

僕の作る「茶碗蒸し」の具材は、鶏のささ身、栗、百合根、三つ葉、舞茸、糸こんにゃく、なると。銀杏やエビは入れない。
出汁は鰹節と昆布、干しシイタケから取り、酒、砂糖、塩、醤油、みりんで薄めに味付け。
溶き卵と出汁の割合は、概ね1:3.3。この「0.3」の加減で、出来具合が大きく変わる。溶き卵は一度網杓子をくぐらせて濾し、余計なモノが入ってダマにならないようにする。

器には具材を先に入れ、よく攪拌した溶き卵と出汁をゆっくり器に注ぐ。その際、表面に巣が立たないよう、もう一度網杓子で濾しながら注ぐ。
あとは、電子レンジでお任せ調理。大体18~22分で完成。

鶏のささ身ではなくエビを投入することもあるし、昨年はエビの頭で出汁を取ったスープに片栗粉でとろみをつけ、あんかけ風茶碗蒸しにするといったバージョンも。いちご煮のスープをベースにして作ることもある。
年に1~2度しか作らないけれど、その分、作るとなればいつになく気合いを入れて作る。
甥っ子は、「なると」を切ると現れる「の」の字に「おじちゃんの「の」だね。」と喜色満面。

(2016年暮れの茶碗蒸し。柚子の皮が入っていない。)

そんな茶碗蒸しといえば、祖母との思い出が忘れられない。
祖母が施設に入る直前の正月だったと記憶している。
年老いた祖母に少しでも美味しいものを食べて欲しいという一心だけで「茶碗蒸し」をこしらえ、大成功に仕上がったそれを持参。
ところが、その茶碗蒸しを口にした祖母が発した強烈な一言に、僕は凍り付いてしまった。

「ワイ!この茶碗蒸し、何も甘ぐネジャ!」

祖母は、「赤飯」然り「茶碗蒸し」然りで、いわゆる「砂糖甘いおかず」を好んで口にしていた年代。
そのことをすっかり忘れていた僕は、全く甘くない(というか、ごく普通に出汁を利かせた)茶碗蒸しを作って持参したのだ。しかも、栗を入れ忘れるという失態。

何の悪気もなく発せられた祖母の一言に周囲は爆笑。
「そんなことないよ!甘くなくても美味しいじゃない!」と、懸命にフォローしようとする親戚。それが逆に僕の心を深く傷つけてしまったというか、何というか…。

しかしながら、結局その後も「サドアメ(砂糖甘い)茶碗蒸し」は一度も作って持参しなかった。せめて祖母の分だけでも「サドアメ茶碗蒸し」にすれば良かったかな、と今更ながら後悔の念も。ただ、祖母が僕の茶碗蒸しを口にしたのは、その後1度ぐらいしかなかったのかな。祖母の「名言」は、未だに語り継がれているけれど。


(祖母と両国国技館にて。今、色んな意味で話題の貴乃花親方がまだ横綱だった時代だったと記憶。)

毎年、茶碗蒸しの製作に取りかかるたびに思い出す、僕にとってはちっとも甘くない、むしろ「ほろ苦い」茶碗蒸しの思い出でした。


のんべ について

1971(昭和46)年 青森県生まれ。弘前市在住の青森県職員。 プリンスとビールと豆腐とラーメンを愛する。安い一眼レフカメラでいかに安っぽくない写真を撮影するかに興味あり。 ブログの内容の多くは、いつの間にか趣味となった「走ること」がメインです。
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