Category Archives: ただの日記

#そうだ北海道へ行こう

平成30年9月6日に発生した北海道胆振東部地震。勇払郡厚真町で震度7を観測したほか、全道でブラックアウトと呼ばれる大規模停電が発生するなど、大きな被害に見舞われたことは皆さん周知のとおりのことと思います。

青森県では、発災直後に北海道や道内市町村のニーズを把握するため、リエゾンと呼ばれる災害対策現地情報連絡員3名を北海道庁へ即日派遣、さらに翌日には追加で3名が道庁入りする体制を整えたほか、8道県(北海道、東北6県、新潟県)の応援協定に基づく応援本部を立ち上げ、被災地域への支援活動を本格化させました。

その後、道庁入りしていた連絡員6名のうち3名が、最も被害の大きかった厚真町に派遣され、今後噴出するであろう住民からのニーズに応えるべく、現地の状況把握が行われました。
ほどなく、避難所運営に係る支援要員の派遣可能性を探るよう道庁リエゾンから要請があり、僕はその人員確保に向けた調整を担うこととなりました。

更に、罹災証明の発行に向けた建物被害調査に係る要員の派遣可能性についても要請が入り、相当限られた時間の中、関係各課に対してかなり無謀とも言える打診を行い続けました。

日々刻々と情勢や支援スキームが変わる中、「可能性」という文字が消え、正式に(というか半ば強引に)本県から人員派遣することが決定、この間、避難所運営に係る現地情報の入手や、派遣要員名簿の作成、更には要員に対するオリエンテーション用の資料作成など、息つく間もないほどのスピードで様々な準備と体制づくりに追われることとなりました。

避難所運営支援に関しては、第1班の15名を筆頭に、第4班まで計73名の要員を県及び県内各市町村から厚真町へ送り込み、また、建物被害調査要員は2班編成で計20名を送り込むこととなりました。

相当タイトなスケジュールでの中、こちらからの無謀かつ無茶なオーダーに応じてくださった関係各機関及び市町村職員の皆様には、頭が上がりません。10月8日まで支援は続きますが、先にお礼を申し述べさせてください。本当に、本当にありがとうございました。そして、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。

さて、この間も支援体制を含め色んな局面がコロコロと変わり、徐々に現地の状況が伝わってくる中で、僕も厚真町に派遣されることが決まりました。当初は道庁への派遣が予定されていたのですが、厚真町の現地調整所から、調整のための支援が不足しており、現行の人数では要員への負担が大きすぎるとのことで、派遣2日前に札幌から厚真町へ行き先変更となったのです。

そういうこともあり得るだろうと思っていたので、大して驚きもしませんでしたが、それよりも10日間という長丁場の出張に耐えられるのかという不安の方がどんどん増幅していったのは、今だからこそ明かしたいと思います。

9月19日、8時前に新青森駅を出発する避難所運営支援第2班を見送ったあとに登庁、身支度と持参物を整えて午後から移動開始。考えてみると北海道新幹線開業後に青函トンネルをくぐるのは初めてでしたが、景色を見る余裕もなく、現地リポートなどに目を通しているうちに、新函館北斗駅到着。

札幌へ向かう特急「スーパー北斗」に乗り換え、一路南千歳へ。途中、単線区間における反対列車の通過待ちや、苫小牧~南千歳間の徐行運転などの影響で、最終目的地である千歳駅に着いたのは、予定より約30分遅れてからのことでした。この日は実質移動日ということで、厚真町の現地調整所で作業を終えて帰ってきたメンバーと顔合わせ程度の小宴を設け、23時30分過ぎに就寝。

翌朝7時、千歳駅近隣の宿泊地を出発、車で約40分、いよいよ厚真町へ。

(厚真町役場。正面左側のテントが献花台。福祉センターは「ひなん所」になっているけれど、石が傾いて危険な状態に。)

まずは町内の被災状況を確認、大規模な土砂崩れが発生した吉野地区にも足を運び、その状況を視察してきました。

(吉野地区。多くの住宅が土砂に飲み込まれ、19人の方が亡くなられた。)

(自主避難所の「鹿沼マナビィハウス」の玄関前は、複数の地割れ。「旧鹿沼小学校」の校庭の地割れの先にあるのが、震度7を観測した震度計。校舎のひび割れにも注目。)

(路盤が歪んで通行止めとなった道路と、災害廃棄物の集積所)

それまでの調整所の支援要員は2名でしたが、今回はその交代要員として僕も含めて3名が厚真町入りすることとなったため、人員数にして1人増。どの程度の作業量なのかは、それまでの日報で何となく掴んでいたつもりでしたが、何せ前述のとおり局面が毎日のように変わっていく情勢にあったため、何が起こるかわからない、何が起こっても不思議ではないといった状況でした。

(現地調整所のある厚真町児童会館)

(28日までの作業風景。ここで罹災証明書発行事務を行うことになったため、29日に移動)

ちなみに、ざっと1日の作業を記すと、こんな感じ。

0745:調整所到着。PCの立ち上げ、当日のスケジュール確認、翌日の予定板書
0830:前夜に会議があった場合、その議事録を作成

随時:応援本部、道庁にいる本県リエゾン及び厚真町との連絡調整、各避難所の動向把握や連絡調整及び被害調査要員の動向把握、人員調整、その他必要な事項の伝達など
時々:現地調整所のある部屋やトイレの掃除、必要に応じて搬入される事務用品等の受入れなど

1730:厚真町災害対策本部(時々出席、ほぼ会議録の作成)
2000:避難所運営者会議(隔日開催。内容を聞き取り、会議録を作成)

厚真町への対口支援(たいこうしえん)は、本県のほか福島県、山形県が入っており、それぞれの持ち場で主に応援体制の構築に向けた人員調整等に腐心していました。

何だ、大したことしていないじゃないか、と思われるかも知れませんが、行間には書ききることのできない、いろんなこと(大概それは面倒であり、かつ厄介なこと)が挟まっています。それが何なのかを書き出すと本当に止まらなくなってしまうので、今はそっと胸に秘めておこうと思います。

ちなみに、作業中の大きな余震は二度あり、いずれも震度3を観測しましたが、あまり動じなくなってしまいました。

僕自身、これまではどちらかといえば直接住民に接する形での支援活動(東日本大震災の時は物資拠点での仕分け、熊本地震の時は避難所運営支援)だったので、今回のように本部の運営側に回って作業をすることが初めてで、いろいろ戸惑うことが多かったのも事実。

そういう点では、応援本部はもとより、支援要員の皆さんにも色々とご迷惑をお掛けしてしまったことは、ただただ申し訳なく、僕自身の反省も数限りなく噴出しそうな勢いです。

(被害調査と避難所の体制の状況を示すボード)

さて、長かったような短かったような、あっという間の10日間が過ぎ、最終日に罹災証明書発行に向けた準備・設営に着手したところで作業を終え、28日の夕方に青森へ戻ってきました。

僕らがいる間、厚真町の避難者は400名を下回ったほか、上水道の通水率は90%を超えました。仮設住宅の設置に向けた造成工事も始まり、今月中には数戸が建設されるようです。また、10月1日からは罹災証明書の発行事務が開始される見込みであり、復旧・復興に向けた新たな局面を迎えることになりそうです。

ということで、今回僕がお伝えしたいことは、北海道は、皆さんが思っているより大丈夫だよ、ということです。
実際、厚真町役場周辺は既に電気、水道が回復していたほか、飲食店やスーパーも営業を再開していました。

ちなみに、厚真町はジンギスカンが有名なのだそうで、役場からすぐのところにある「あづま成吉思汗本舗」で、ジンギスカンを購入してきました。

新千歳空港はほぼすべてのショップが営業を再開、観光客を受け入れる体制がだいぶ整っているように見受けられました。(4階の温泉などは再開までもう少し時間がかかりそうです。)
空港内にある「北海道ラーメン道場」も27日に営業を再開、一部店舗では行列ができていました。

(「麺屋 開高」のねぎ味噌ラーメン・赤)

(新千歳空港ソフト・アイスクリーム総選挙で1位になった「きのとや」の極上牛乳ソフト)

道内のJRや高速道は一部でまだ不通となっている区間があるものの、停電は大半が解消されており、観光するには全く問題ないと思います。被災地を支援するには色んな方法、形があると思いますが、北海道に足を運ぶ、そして、その地の物を飲んで食べる、というのもいいんじゃないかな、と思ったり。

だから声を大にして叫びたいと思います。

#そうだ北海道へ行こう

(新千歳空港11番搭乗ゲート付近にて。厚真町と安平町付近に架かる虹に思わず胸が熱くなりました。)

迷い×不安=恐怖

今年最初のフルマラソン、北海道マラソンが近づいて来た。

もう一つ近づいているのが、台風第19号と第20号。
まるで社交ダンスでも踊るかのように、日本列島へ相次いで接近している。

19号は九州南部を東シナ海へ抜けた後に朝鮮半島へ向かい、その後大陸を舐めるような進路を取るようだが、20号の進路が気になるところ。日本海に抜けた時点で勢力が落ちる予想となっているものの、航空機の運用なんぞに影響がでるのではないかと、ちょっと不安視しているところもある。

台風の影響で北海道に行けない、という事態だけは絶対に避けて欲しい。

昨年のこともあり、どうも北海道マラソンはスタートする前から「鬼門」の待ち構える大会といった印象が拭い去れなくなってきた。

毎年同じような状況だが、10か月以上のブランクを開けて出場するフルマラソンだし、今年は前半から全然練習が積めていないし、そもそもケガが未だに尾を引いている状況で、結果は全く期待できない。
ただ、先日投稿したとおり、最低限3時間33分を切るという目標だけは高く掲げておこう。それに当日、何が起きるかわからないじゃないですか。(いや、マラソンにまぐれがないことは重々承知しております、ハイ。)

振り返ると、不意の事故対応のため、3月の「古河はなももマラソン」を棒に振ってから、どうも調子が上がらない。走る距離も全く伸びていないし、心身のバランスが噛み合わないというか、昨年みたいに何かが「ストン」と収まる感覚が掴めないのだ。

シューズが大分へたってきたのが理由かも知れないと思い、底のすり減ったシューズに別れを告げ、春先にシューズを切り替えた。しかし、今になって思い返してみると、ひょっとしたら足を痛めた引き金は、これだったのかも知れない。

とは言いながらも今も、春先に履き替えたシューズをメインに据えているのだが、そのシューズで臨んだ先日の30キロ走(振り返ると30キロ走もほとんど取り組んでいなかった)で右足指の皮が剥けるというアクシデント。

しかも、2か月前に痛めた左脚のアキレス腱だけではなく、右足底が痛むというトラブルもあり、今更ながらこのシューズが自分の走りに合わないのではないかと思い始めている。

しかしこのタイミングで新しいシューズに手を出すのはあまりにもリスクが大きすぎるため、インソールを変えてみたり、ソックスを代えてみたりと、大会まで5日を切ったというのに未だに試行錯誤が続いている。

シューズのインソールを変えて撃沈したのは、初めての北海道マラソン。
シューズの紐をきつく結び過ぎて撃沈したのは、前々回の北海道マラソン。
シューズとソックスが合わず足裏に大きな水ぶくれを作ったのも、北海道マラソン。

北海道マラソンは、足にまつわる因縁も深いようだ。
足回りの対策を色々考えているのだが、テーピング、痛み止め、インソール、一体何を揃えたらいいのか頭を抱えている。
一体今年は、何をどうやって走ったらいいのだろう。

こんな「悩み」「迷い」が生じている時点で、結果は見えているようなものだ。
要するに、ケガを悪化させない程度にまとめるのが無難ということなのだろう。

しかし、いつまでこんな「迷い」に振り回されるのかと思ってしまう。
いっそのこと、自分の足裏にクッションとかバネとか埋め込んでしまいたい、そんな衝動に駆られる。
アキレス腱も一緒。絶対に劣化せず、切れないゴムが売られているのであれば、思い切って移植でもしてしまいたいぐらいだ。

…などと思ってしまうぐらい、メンタルがやられているってことなのかな。
こんなどうにもならないことを愚痴っている時点で、レースに明るい展望が見込めないことを、何度も経験しているのに。

練習不足、ケガ、不調、色んなことが重なってネガティヴになるのがフルマラソン直前。
算数だと、マイナスとマイナスを掛け合わせたらプラスになるけれど、これにマイナスをもう一つ掛け合わせると、再びマイナスになってしまうのですよ。

本音を言うと、怖いです。
この状況でフルマラソンを走ることができるのだろうか、そもそも完走できるのだろうか。色々考えれば考えるほど、不安と恐怖が渦巻くのですよ。

まあ、ここに来て色々考えてもどうにもならないし、今から何ができるというわけじゃない。
そんなことよりも、忘れ物をしないように気をつけないと。

しかし、何度走ってもフルマラソンってやっぱり不安だし、どんな大会でも直前は緊張するもの。
強いて言えば、その緊張の度合いは、距離が伸びれば伸びるほど高まるという。
でも、不安だけど、何が起こるかわからないから面白いのもフルマラソン。

平常心を保つ方が困難な中、走り終えてみて「楽しかったなあ」と思えたら最高だけど、やっぱり「きつかったなあ」「苦しかったなあ」ということになってしまうだろうなあ。

用意周到というには程遠い状況の中で、今回はどんな発見があるのだろう。
北海道ならではのジンクスに、今年は打ち勝てるだろうか。
結果やタイムのことを気にする前にいい加減、不安を楽しみに切り替えるスキルを習得したいものだ。

お盆玉

幼い頃、お盆の時期は西目屋村にある父の生家(本家)か北秋田市(旧合川町)にある母の実家を訪れるのが毎年の恒例行事となっていた。

特に父の生家へは、正月よりもお盆の時期にお邪魔する機会が多かったような気がする。

父は5人きょうだいの真ん中で、上の兄2人は西目屋村と水戸市、下の妹2人は八戸市と花巻市に居を構えている。

記憶では、お盆の時期に一度だけ、父方のきょうだい5人が揃ったことがあった。僕のいとこやその連れ、更にはその子どもたちを加えると、軽く20名を越える大人数になったのではないだろうか。賑やかな宴席が、西目屋村の山間にある大秋(たいあき)という、今となっては限界集落の先端を行くような小さな部落で繰り広げられた。

振り返るとあの時を最後に、父の生家に泊まる、ということがなくなったような気がするし、父方のきょうだいを始め、親戚の多くが集まる機会というのもなくなったのは確かだ。

もっとも、父が他界したのは今からちょうど10年前。
父の葬儀の際に親戚一同が顔を揃えたわけではないが、少なくとも、父のきょうだいが一堂に会したのは、あの時が最後となった。

一方、母は3人きょうだいの末っ子で、母の姉(つまり伯母)は僕が高校3年の時に他界。兄(つまり伯父)は隣の旧森吉町に居を構えている。

それはともかくとして、父方も母方も、いとこの年齢がほど近いということもあり、お盆や正月は、そんないとこたちと会えることが楽しみだった。

もっとも、母方のいとこたち(我々も含めると全部で6名)とは毎年のように顔を合わせていたが、父方のいとこたちとは、時間の都合や遠方からやってくる等の事情で、なかなか全員が揃うことはなかった。
…いや、考えてみると、父方のいとこ全員(我々も含めると全部で10名)が揃ったことは、これまで一度もなかったような気がする。
特に、それぞれが結婚し、めいめいの家庭を持つようになってからは、その機会は更に遠のいた。
僕自身も、年を追う毎に公私の予定が重なるようになり、毎年恒例にしていたお盆行脚の回数が減るようになった。

かつては、正月に会う機会のない遠方の伯父や叔母からは、お盆の時期に「お年玉」を頂いていたような気がする。そして、今その対象となっているのは、「いとこの子どもたち」だ。

今年のお盆は、母方の実家にお邪魔した。八王子に住む従姉の家族とも久し振りに再会。
従姉の子どもは2人。姉は既に社会人となり、妹は高校2年。
1年ぶりの再会を楽しみにしていた甥っ子が、金魚のフンのように付きまとっていたのがなかなか笑えた。

伯父の子どもたち(つまり、いとこ)もこの時期に合わせて帰省したようだが、誰とも会うことなくUターンしたらしい。
僕らは13日の夕方から母の実家に滞在し、14日の午後に戻ってきたのだが、13日の夜、伯母が何やら聞き慣れない言葉を呟きながら、甥っ子にポチ袋を渡していた。

「お盆玉!お盆玉!」

「やめてやめて!気を遣わないで。お願いだから!」と嘆いたのは母親(妹)ではなく、祖母(うちの母)。

お盆玉…?初めて聞いたぞ。造語か?…と思ったら、翌日のニュースで取り上げられていた。
「お盆玉」、古くは江戸時代からごく一部の地域でお盆の時期のお小遣いとして渡されていたのが、数年前から全国的にもジワリジワリと浸透しているらしい。

どうやら「お盆玉」を知らなかったのは僕だけだったようで、この時期に合わせたポチ袋も販売されているとか。
年配の親戚からしてみれば、毎年会えるかどうかわからない孫や親戚の子どもに、少しでもお小遣いをあげたくなる、という心情なのだろうか。

確かに自分の幼い頃を思い返してみると、お盆に親戚からお小遣いをもらったことが多々あった。
今思い返してみると、たくさん子どもがいた時のそれは、結構な金額となったことだろう。親戚の皆さんには何だか申し訳なく…。

そんな中でも一番のお小遣いは、母の実家から弘前に戻る際、伯母や祖母から「(アイス)クリームでも買って行ぎへ。」と、ティッシュペーパーにくるんで渡された1000円札だった。

甘やかしてはいけない、気を遣わないで欲しい、色んな思惑が交錯するのだろうか、母はこの頃から「ダメだって!お願いだから!」と嘆いていたことを思い出した。「まんず、いいがら。」との押し問答の挙げ句、僕の手にはティッシュペーパーが渡され、最後は「あい~、しかだね。」の一言で収まるんだけど。

(JRでもなければ三セクの秋田内陸線でもなく)国鉄阿仁合線から乗り換え、鷹巣から弘前へ向かう奥羽本線、時々乗り合わせた急行の車内では、高確率で車内販売が乗車していた。
販売員に声を掛け、妹と二人で濃厚ミルクのアイスクリームを買って頬張るのが楽しみだった。

思い起こすと、あれが僕にとって最高の「お盆玉」であり、最高の「贅沢」だったかも知れない。

日本海メロンマラソンの振り返りと北海道マラソンへの意気込みと

失敗の振り返りこそ避けてはならない。そこから学ぶことは、確実にあるはずだから。
-のんべ

7月29日に男鹿市で開催された「日本海メロンマラソン」。
午前8時のスタート時点で30度を辛うじて下回っていた男鹿市の気温は、午前10時には33度まで上昇。

隣接する大潟村では午前11時頃に35度過ぎまで上昇していたとのことで、むしろこれに近かったのではないか、と思われます。
そんな熱中症注意、運動中止が注意喚起される中、走ってきました。…いや、正しくは歩いてきました、か。

元々北海道マラソンに向けた暑さ対策の前提でエントリーしたこの大会、出場するなら10キロで充分、とあれほど言われていたにもかかわらず、またしてもハーフにエントリーしてしまうという過ちを犯し、結果、自己ワーストを大幅に更新するという結果となりました。

前日、甥っ子を伴っての「マタギ体験合宿」に参加、美味しい肴をアテに美酒に酔いしれた時点でジ・エンド。
その後もまともに水分補給もせず、暑さにうなだれながら朝を迎えることに。

睡眠と水分が圧倒的に不足する中、一路男鹿へ。そうそう、思い返せば所詮ハーフだと舐めきって、朝食も補給食も全然足りていなかったかも…。
アキレス腱の不調は相変わらず尾を引いていて、走った時の衝撃が痛みとなって帰ってくるという悪循環が続き、車中では、すっかり気分も萎えていました。

一応のレースプランは、後半でペースを上げるというものでしたが、正直、別に途中でやめてもいいんだと開き直っていました。ただしワンウェイのコースなのでどうやっても歩いて帰ってこなければならないんですけどね。

スタート前のアップの際に、地元のラン仲間と会えたのはとても嬉しかった、けど、表情の通りこの時点でダメダメランナーでした。入賞したお二方に拍手!

ハーフの部は8時スタート。スタート直後のペースを落ち着かせるため、後方からスタートしましたが、一気呵成にペースを上げ、3キロまではキロ4分15秒前後で走っていました。前半抑えて後半上げるつもりが、スタート直後、暑さから早く逃れたいという一心での暴走。この時点で、もはや結果は見えていたようなものでした。

しかしこのコース、相変わらず前半の給水ポイントが圧倒的に少なく、クソ暑い中でありながら7キロ付近まで給水することができません。よって、手にしていた水を口にしながら走るも、3キロ過ぎで枯渇。それでも喉が渇いてくるということは、相当水分が足りなかったか、暑かったか…いや、両方か。

5キロ過ぎではシューレースが解けるという久し振りの凡ミスを犯し、完全に集中力が途切れました。
7キロ付近の給水ポイントでとうとう足を止め、コップ一杯に注がれた水を飲みながら、「これだと多過ぎると思いますよ。半分でいいですよ。」と余計なおせっかい。自分自身はこの量の水でも全然足りていないのに。

9キロ付近からはいよいよアキレス腱が疼き始め、歩いては走り、走っては歩きの繰り返し、以下、延々とゴールまで。
痛み止め、終わってから効き始めるのはマジで勘弁して下さい。

民家の軒先から出てくるシャワー(放水)は、序盤はとても気持ちいいと思いましたが、シューズがびしょびしょに濡れ、中で音を立て始めた頃から不快に。

一方、体内の水分が圧倒的に足りていないことを確信しましたので、給水所では最低2杯の水を飲み干し(ちなみにスポドリはなく、持参した塩飴も4つでは全く足りません)、再び歩き出すといった状況に。胃の活動が停滞し、チャポチャポと体内で音を立て始め、15キロで事実上のDNFを独り勝手に宣言。
しかしここで時計を止めた結果、残りの距離が推測できなくなるという事態に陥り、ますます気持ちは萎えまくり。

「暑っつうべー、ほれ!」と沿道から容赦なく浴びせられる放水で、乾き始めたシューズが再びずぶ濡れに。前回はこのまま走った結果、足裏の皮が剥けたことを思い出しました。

「ありがとうございます!」と笑顔で応じつつ「もう勘弁してください…」と内心辟易しながらも、相変わらず体内の水分は全く足りておらず、後半は半分ボーッとしながら歩いて、歩いて、走ってを繰り返していました。完全に軽度の脱水症状だったのでしょう。おかしなテンションだったし。

結局、途中でやめたといいながら、ジュースを受け取り、その後に提供される食べ放題のメロンを頂くだけのために、ゴールラインを跨ぎました。
所要時間2時間4分はハーフの過去ワーストで、もはや失笑レベル以下。道マラの暑さ対策には十分過ぎるほどでした。いや、違うか。

今思い返せば、最初から走らないという選択肢もあったはずなのに、アップの時点で相当発汗しつつ、「お、今日行けるかも」と魔が差したのが全てだったのでしょう。
レース後、弘前に向かう帰路の道中も疲労困憊で、何度もコンビニに立ち寄り、アイスや炭酸飲料で水分補給しつつ、やっとこさ弘前に帰ってきた、といった感じでした。(帰宅後、レースを終えてから一度もトイレに入っていないことに気付き小用を済ませたところ、その色などに驚愕したという…。)

こうなると、レースプラン云々以前の問題。
いくら楽しかったとはいえ前日、しこたま酒を飲み、翌日のレースに臨んでしまったということを心から猛省しています。

あの気象状況と体調は、今でも思い返すだけでゾッとするし、思い出したくないレース展開。
心身のダメージが大きく、しばらく走ることを考えたくなかったのですが、時間は刻々と迫ってくるわけでして、北海道マラソンも待ってはくれません。

実はフルマラソンに取り組むようになってから毎年出場しているのが、地元弘前市で10月に開催される弘前・白神アップルマラソンと、8月に札幌市で開催される北海道マラソンなのです。

昨年、色々追い込まれた中で逆に集中力を極限まで高め、ようやく3時間10分の壁をぶち破ったのがこの北海道マラソンでした。しかし、過去4度出場している中で納得の行くレース運びができたのはこの1回だけで、他の3回は散々な結果に終わっています。なので、別に得意にしているコースでも大会でもないのであります。
過去4回の結果を並べると、昨年の結果がいかに飛び抜けているのか、おわかり頂けると思います。

2014北海道 3:48:55
2015北海道 3:33:29
2016北海道 3:35:09
2017北海道 3:07:58

脚に関しては、復調の気配があるものの、本調子には遠く及ばない感じ。
当初、再度の3時間10分切りを密かに今年の目標としていましたが、大幅に下方修正。

2018年は、2015年の記録を確実に超える。(意地でもバスには乗り込まない。)
まずはこれを最低限の目標に据えて、あとはどれだけ伸びしろを作ることができるか、残り2週間でもがき足掻いてみたいと思います。

そういえば今年は、宿泊先が例年宿泊していたホテルではないところになってしまったのでした。

こういう時のルーティンって、凄く大事なんですよね…。本当に完走できるのか、不安ばかりが募っています、ハイ。

…何も起きるなよ、絶対に起きるなよ!(ダチョウ倶楽部ではありません。)

2018沖縄探訪記 【食事編】沖縄に入らば、麺を食らえ

ああ、夏季休暇恒例の沖縄ふらり旅からもう1か月も経ってしまいました。あと11か月後、また行くことになるのかな?
…それはともかく、今回の旅行記最後の投稿です。

沖縄の食は独特な料理が多いですが、非常にあっさりとした味付けが多いような気がします。

その一方で、酸味の効いた料理が多いのも特徴的かも知れません。
沖縄だけで販売されているボンカレー(といっても最近は各地で手に入りますが)、A1ソースに代表される調味料、カツオの効いた赤だしの味噌汁などのほか、パイナップルやシークヮーサーといったかなり酸味の強い果物がドレッシングに使われているケースもたくさんあります。

ポンジュースが出てくる蛇口が愛媛県の松山空港にあるのは有名な話。
実は、沖縄県にはシークヮーサージュースが出てくる蛇口があります。

設置されているのは、豊見城市にある「ヨナーズ」。沖縄県南部のレンタカー拠点とも言える豊崎地区からほど近いところにあります。

そして、ここで食べられる「そば」が密かにうまいのであります。
沖縄のそばといえば「ソーキそば」ですが、アレンジされたものとして、中味汁の中に麺が入った「中味そば」があります。これがまた、ソーキそばとは異なる趣で実に美味なのであります。「中味」とは、いわゆるモツ。鰹のだしの染み込んだモツ、陸と海とのコラボレーションが最高です。

ご存じの方も多いと思いますが、ソーキそばの「ソーキ」はいわばスペアリブ(骨付き肉)。

個人的には骨を取るのが面倒(=食べることに集中したい)なので、三枚肉の載った「沖縄そば」を注文します。

麺の太さや縮れ具合、もっちり感などが店舗によって微妙に異なりますし、出汁やトッピングも同様。

ちなみに、沖縄県内では最近、豚骨系ラーメンのチェーン店が各地に進出しており、お昼頃には行列が出来ているのを目撃しています。(「天下○品」もあります。)

食堂のメニュー、一品料理のように書かれているもの(「○○チャンプルー」など)は大体が定食です。そば屋であれば、定食の汁物は、お椀に注がれた汁が沖縄そばであるケースが多いです。
お邪魔したのは、名護市中心部にほど近い「ひがし食堂」。

名物の「ちゃんぽん」は、長崎などのそれとは異なり、ご飯の上に野菜の卵とじのような具材の載った丼。

そして、一躍この店を有名にした「ぜんざい」は外せないでしょう。

ガイドブックに掲載された情報よりも、自分の直感を信じるのはとても重要。
といいつつ今回は、もっぱらガイドブックに頼った食事になってしまいました。

今まで幾度となく足を運んだ沖縄。実はリピートしている店はそれほど多くありません。
裏を返すと、それだけ食事には困らないぐらい多種多様なお店があるということ。つまり「食うには困らない」ということです。

地物の野菜、肉、魚。その地域で獲れた自然を味わう。これも「沖縄料理」ですかね。いや、「沖縄産料理」なのか?
そんな料理を楽しむことができるお店がこちら。

名護市にある「ネオパークオキナワ」からほど近いところにある「なごアグリパーク」、ここの一角にあるのが「Cookhal(クックハル)」。

やんばる食材をメインに、ヘルシーな食事を提供してくれます。
野菜たっぷりのカレーは、時季によっ提供される内容が変わるらしく。

「YAKI-Panino」は、全粒粉のパンに自家製ソーセージの乗ったホットドッグ。

棚に並ぶのは「やんばるピクルス」。その名の通り、沖縄県産の野菜で作られたピクルスです。

店内では県産の野菜も販売されている他、スムージーが絶品。
かつては野菜メインのビュッフェもあったようですが、今は提供をやめてしまったとのこと。しかし、それを差し引いても美味しい物を頂けて大満足でした。

最終日に訪れたのは、空港にほど近い「那覇亭」。これまで何度も通ったことのあるこの建物に、ようやく入店。
ベタなチョイスではありますがこちら、創業40年を迎える老舗なのだそう。
こういうところはメニューが豊富ですが、定番は外せません。
沖縄そばにゴーヤーチャンプルー。

しかし何で沖縄のゴーヤーってこんなにパクパク箸が進むんでしょう。ただ苦いだけではなく、味わいに深みがあります。

この他、撮影はしなかったのですが今回は「アグー豚のしゃぶしゃぶ」も頂きましたし、沖縄近海で獲れるマグロの刺身も美味しかったです。

最後に、空港1階で販売されているスパムおにぎりを。

「ポークたまごおにぎり本店」は、注文を受けてから具材を挟むスタイルで、すっかり「行列のできる店」に。撮影はご遠慮くださいとのことで店舗の写真はありませんが、購入後のおにぎりをどうぞ。

個人的にはこの「人参しりしり」(250円)がお勧め。ちなみに、異国の方の「爆買い」に巻き込まれると、とんでもなく待たされることになるので要注意。(ちなみにこの日に見たのは、一人で12個も注文する異国の方でした。しかも途中で何度も注文変更して、大迷惑この上なかった!そのうち数量制限されそう。)

しかし、今回の旅では雨の日が多く、あまり走ることもできずに飲んでばかりいたので、一気に体重を増やすこととなってしまいましたが、1週間後の健康診断で数値に全く異常がなかったのは、本当に奇跡的でした。