Facebook、やめました!

「憩室炎の疑い」との診察を受け、点滴の投与を始めて4日が経ちました。
通院初日、検査のために採血をしていたときに、僕のすぐ背後で視力の測定をしていました(健康診断をやっていたようです)。

看護師「指し棒の示すひらがなを読んで下さいね。はい、これは?」
男性「き!」
看護師「これは?」
男性「ほ!」
…といった感じで検査が始まったのです。
ところが下に進むうちに、いよいよ見えなくなってきたらしく。

看護師「これは?」
男性「えーと…えーと…ひ…ひだり!」
看護師「(笑いをこらえて)○○さん、ひらがなですよー。」

思わず振り返り、指し棒の指す字を見たら、「つ」と書いてありました。
うーん、何か惜しい!!


さて、お医者さんから食事制限は特にされてはいませんが、暗黙の了解とでもいいましょうか、アルコール、カフェイン、炭酸飲料、香辛料など、腸に過度の負担や刺激を与えるものの摂取を避け、スナック菓子などのおやつ類も摂らないようにしています。
その影響もあってなのか最近、舌が研ぎ澄まされてきたとでもいえばいいのでしょうか、あれ?これってこんな味だったっけ?とか、これって意外と塩分濃度が濃いな、とか、あら?これってこんなに粉っぽいんだ、とか、今まであまり気にしていなかったことが気になるようになりました。
発症するまでの直近の生活ぶりというか食事を振り返ると、なるべくしてなった、といわれても仕方がないような食生活を送っていましたので、ある意味これも一つの戒めなのだろうと考えています。
もちろん基本的には「安静」ですので、運動の類は一切やっていません。まあ、ストレッチぐらいはやっても問題ないのかも知れませんが、上半身を捻ったときに腹痛が悪化しないか怖くて、それすらもやっていません。

そんな中で、僕にとって厄介な存在となってしまったのが、Facebookでした。
食事制限を課している中でアップされるビール、ラーメン、揚げ物などなど…。
もちろんアップしている本人には悪気があるワケがないし、今はそれをどう受け取るかというこちら側の問題ではありますが、正直言って見ているのも辛いものがありまして、身体は「安静」でも心の中で何かがメラメラと燃えるのがわかるぐらいでした。
端的に言えば、こんな感じ。
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おっと、すいません。薬指が立ってしまいました。もう一度言いますが、これは受け取るこちら側の問題なので、投稿された皆さんは何も悪くありません。
しかし、今のこの症状が劇的に良くなるはずもなく、このままだと更に毒づくだけだな、と思い、一度Facebookから距離を置くことに。
まあ、色々考えることもあり、この際そのままアカウントを削除しようかな、とも思ったのですが、あのグループとかあのページとか、自分が携わっているのが幾つかあるということで、アカウント削除は保留することにしました。
で、何をしたかと言いますと、スマートフォンなどの携帯端末からFacebookアプリをアンインストール。

そう、「Facebook、やめました!…携帯端末で。」

で、このFacebook、気がついたら僕と繋がりを持っている方が650人ほどおられるのですが、大別すると、次のとおりとなります。

(1)小・中・高・大の中で苦楽を共にした友達や仲間
(2)県内外の同業者及び仕事関係で繋がりを持った皆さま(この中には、同業の誼というだけでこちらから一方的にリクエストした方もたくさんいます。すいません。)
(3)趣味・嗜好・個人的な活動を通じて知り合った同士の皆さん
(4)これまでの間、個人的にお世話になった方や、昔からの知り合い(父を通じて繋がっていただいている方もたくさんおられます。ありがとうございます。)
(5)その他(まだ一度もお目にかかったことがないけど、何となく繋がっている方、Facebookに首を突っ込んだ頃に、取りあえず繋がりを持った方、など)

…で、この際ということで、「親しき仲にも礼儀あり」ならともかく、親しいところかお会いしたこともないのに礼儀も知らないような十数名の皆さまを、バッサリ斬り捨てました。何のことかと言いますと、メッセージなしで「友達リクエスト」された皆さま。こういうリクエストを下さる方は、大体お目にかかったことのない方が大半。すいません、諸般の事情で今は初めまして!の一見さん一切お断りなのであります。というか、リクエストの時は必要最低限のメッセージぐらい送ってこいよ、こら。
fkfb
おっと、すいません。今度は小指が立ってしまいました。正直言いますと、約650名もちょっと整理したいな、と思っています。特にこれまでほとんど無反応の方。多分アカウント持っているだけですよね?逆に一気にスタンプのように「いいね!」を押してくる方。中身も見ないでそんな一気に「いいね!」を押さなくても…。お知らせを開いたときに同じアイコンがずらーっと縦に並んでいると、ハッキリ言って鬱陶しい。

人数が多けりゃいい、誰とでも取りあえず繋がっていればいいってものでもなく、取捨選択も必要なのかな、と前々から思っていましたが、舌が研ぎ澄まされるように、真贋を見極める、というのとはちょっと違いますが、ちゃんと人間(ひと)を見る目も磨いていかないとね。って、このブログの投稿後に一気に100名ぐらい友達が減っていたら、失笑ものですが…。

とはいえこのアンインストールも、恐らく一時的なものになるはず。色々不便を感じるようになったり(事実、土曜日定例の朝練では、スマートフォンがないと画像の投稿ができない)、必要な状況が生まれたら、また復活させることになると思います。でも、まずは周囲の雑念(ビールとかラーメンとか揚げ物とか)を振り払い、完全治癒に向けた治療に専念しようと思います。

憩室炎のこと

僕の身体の中には「憩室」があります。

憩室とは…

腸管の内壁の一部が外側に向かって袋状にとびだしたもの。 内視鏡でみると、くぼみのようになっています。 憩室の数はさまざまで、頻度は年齢とともに増加しますが、大腸検査を行うと10人に1人くらいの頻度で見つかります。

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この憩室、我が家では亡父、妹、そして僕とかなり保有率が高いという。

僕は8年ほど前に内視鏡検査を行った際に、憩室持ちであることを知らされました。普段はおとなしくて何もしないけれど、何かあるといたずらするから、そんな感じのお話を医師から聞かされました。ポリープは内側に出てきて切除するけれど、憩室を切除する人は少ないということも伺いました。

その数年後、極度の腹痛に見舞われ病院に駆け込むと、その原因が「憩室炎」であると判明しました。発熱、食欲不振、激しい腹部の痛みを繰り返し、抗生物質の投与などでようやく快方に向かった、そんな感じでした。

おとなしくしているうちはいいのですが、憩室炎に気付かずに重症化すると長期入院とか色々厄介なことになるので、早期発見が大事になります。(これは病気全般に言えることではありますが。)

玉置浩二が憩室炎のため緊急入院 5公演を中止に

今年の4月は雪解けが進むのが早かったこともあり、初旬からランニングの環境はバッチリでした。

毎年この時期は過度の走り込みが祟って怪我をするというパターンでしたが、今年は怪我もなく順調に調整が進み、4月のハーフマラソンで自己ベスト更新と順調にシーズンインしたところで待ち構えていた最初の落とし穴が、腰痛でした。たぶん、いよいよ老化現象が顕著となってきた愛犬のハナを気遣い、かなり窮屈な姿勢で寝ていたのが災いしたのでしょう。2戦目の10キロを回避し、3戦目の「八戸うみねこマラソン」でまた頑張ろう…と思っていたのですが。

違和感を覚えたのは5月2日の辺りから。どうも走っていて腹部に力が入らないというか、すぐ疲れてしまうという症状が出始めました。そんなに走りこんでいるわけじゃないのに、どうしたんだろう。疲れかな?と軽く考えていましたが、そもそも連休中で大して疲れるようなこともしていません。

翌3日。走る距離を短めにしてみましたが、状況はあまり変わりませんでした。そして、何か微熱のようなものがあるのを感じました。まあいい、7日までに整えて8日を迎えよう。

ところが、僕の思惑とは裏腹に、状況は悪化するばかりでした。

4日。妻と出かけた先で突然腹痛に襲われ、歩くのも辛い状況に。しかしその時点で僕は、この症状は憩室炎ではなく、もっと違う症状のような気がしてなりませんでした。例えば、膵臓とか腎臓とか、下手をすれば心臓とか。帰り道、大きめの病院に立ち寄りましたが、あいにく小児科しか受け付けていないといわれ、一気に萎えました。

結局、時々服用している漢方胃腸薬を購入し、帰宅。4日午後から5日にかけて、すっかり弱った病人のように寝ていました。

6日は通常勤務でしたが、症状があまり改善されずないため、翌7日、ようやく病院で診察を受けたところ、「憩室炎の疑い」と言われました。

一度同じ症状で苦しんでいますので特に指示はありませんでしたが、基本的に安静にしていること、刺激のあるものを口にしないこと、この二つを遵守しながら、1週間様子を見ることになりました。

ひとまず7日そして今日8日は日曜日ではありますが、さきほど点滴を投与してきました。明日も点滴。どうやらしばらくは、点滴が主食となりそうです。

あわよくば八戸で行われるハーフマラソンでの完走をもくろんでいたぐらいですから、まだこれでも軽症だったのかも知れません。ひとまず炭酸飲料やアルコールを口にするのをやめ、香辛料の類は極力排除、脂っこい料理ももちろん取らず、一人前のお粥を一人でこしらえるという、昨日からはそんな感じです。それでも、食べられるだけまだいいんですから。重症になると絶食ですから。

しかし、安静ということはもちろんランニングやジョギングも×。よって、体調が落ち着くまでは、当面走ることから距離を置きます。

今まで大会にエントリーして参加できなかった(しなかった)ことは幾度かありましたが、さすがに2戦続けでのDo Not Start、それもそうなった要因が違うというのは、正直かなりショックが大きいです。今朝もバスで八戸に意気揚々と向かうメンバーを笑顔で見送りましたが、内心は複雑でした。悔しさ、虚しさ、腹立たしさ…まあ、最近いろんな伏線があったとはいえ、かなりネガティブな感情が渦巻いていたのは間違いありません。

とはいえ、憩室が体内から消えることはありませんし、むしろ年齢を重ねることでさらに増えるとも言われています。

ですから、暴飲暴食を避ける(食物繊維が多い、というか多すぎるぐらいの山菜はあまり得意ではないので、特に根菜を中心とした野菜を多く摂る)、余計なストレスを溜めない、こんなところでしょうか。まあ、走らないというか、安静にしなきゃならないため、天気がいい休みの日も走れないことがストレスの一つになっている、ということも言えるかも知れませんが…(苦笑)。

特に僕の場合、心身のストレスから暴飲暴食に走ることが多いで…。

この状況を逆手に取ったメンタル強化が、これから憩室炎を予防する一つの対策になり、ランを強くするのかもね。ま、また暴れることがないように、上手に付き合いたいと思います。

2016年、春。弘前さくらまつり

今年は暖冬だったこともあり、弘前公園のさくらの開花は例年より早いと言われていました。そして、亡父の誕生日でもあった4月18日に開花、23日には満開を迎えました。23日の早朝、弘前公園RCの恒例となったお花見ラン。しかし、色々あってとても花見気分にはなれず、結局その日の朝に公園内を軽く走った後は、弘前公園に近寄ることもしませんでした。(もっとも、混雑が嫌いというのも要因の一つではありますが。)

しかし、Facebookをはじめ、友達や知り合いが続々とアップする園内の光景を目にしながら、徐々にその思いは強くなっていきました。
「やっぱり弘前公園のさくらが観たい。」

…そして27日午後、2時間だけお休みをいただき、気晴らしと散策がてら弘前公園へ。

ちょうど満開を過ぎ、花筏が出来つつあったこのタイミング。弘前市民として、やっぱり足を運んでよかったな、と。

ついでに撮影の練習。

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さくらは毎年咲くけれど、もう逢えない人もいる。
4月はさくらの季節。でも、時々雪だって降る。

出会いと別れ。春って切ないですね。

D’Angelo ft. Princess: Sometimes It Snows in April

風ニモ負ケズ 自分ニモ負ケズ -第4回イーハトーブ花巻ハーフマラソン

22日未明に飛び込んできたプリンス急逝の報で、僕はかなり動揺をしていたらしく、金曜日は何をしたのかほとんど覚えていないぐらい上の空状態だったようです。
土曜日朝、弘前公園RCのお花見ラン。走ることは軽めにとどめ、カメラマンに徹しました。仲間の楽しそうな顔を見ることができただけでも、多少気は休まるものです。

ただ、時間は止まるわけではないので、いつまでも悲しみに暮れているわけにはいきません。昨年から銘打った「ジャパン・ツアー 2016」がいよいよスタートします。今季第一戦となる24日は、岩手県花巻市でのハーフマラソン。今回で出場3回目となりますが、初めての出場はPB更新、2度目となった昨年は怪我をした影響で大失速、不甲斐ない結果となりました。さて、今回は…。

皆さんがオンシーズンとなる冬の時期、僕はオフシーズン。この間をどう過ごすかが鍵を握るんだな、ということにようやく気づいた2016年の冬。室内でのトレットミルに汗を流しながら、これまで徹底して避けていたある取組をやっていました。

そしてその内容を踏まえ、24日の大会でやってみよう、と考えていたことがありました。
それが、ハーフマラソンでの90分切り。
単純計算すると、約21キロを90分で走るということは、30分で約7キロ走るということ。1キロを4分20秒で走ると、3キロを13分。これを単純に7倍すれば、約21キロを91分で駆け抜ける、ということに。つまり、90分以内で走るということは、これよりも速いペースで走らなければなりません。
4月に再開した朝練でいきなり、1キロを4分15秒ペースで走る練習を取り入れてみたのは、こういう伏線からでした。

まあ、やってみなければわからない。達成すれば本望、できなければそれが今の実力だと割り切ればいい、ということで。

大会当日。
雲一つない快晴。スタートは8時50分。心地よい風が吹いていましたが、気温は15度近くまで上昇していました。
これまでであれば遠慮がちに「1時間30分以上1時間45分以内」の列に並ぶのですが、今回は迷うことなく「1時間15分以上1時間30分以内」の列に並びました。「今回は参加者が多くてスタートが混雑しそうだから、前方に並ぼうかな。」と口にはしましたが、僕の腹はもう決まっていました。「今日は、90分を切る。」

時間はあっという間に経過し、8時50分、号砲とともにハーフの部がいよいよスタート。まずは流れに身を委ね、ペースを探ります。最初の1キロは3分58秒。もちろんこんなペースが持続するわけがないので、ひとまず4分10秒前後に落ち着かせます。これでもまだ速いんですけどね。3キロ手前で交差点を右折、背中に追い風が吹いているのが分かりました。追い風ということは、折り返した帰りは向かい風。そのことを考えて脚力を温存しないと、後半持たないな…なんてことを考えながら淡々と走り続けます。

5キロ地点は20分50秒で通過。むむ…ちょっと突っ込みすぎたけれど、このまま行ってみるか。
7キロ通過は29分30秒。このペースで押し切れば90分切りは充分可能となりますが、そんなうまく行くはずがない、と先のレース展開を考えていました。そして、この時点で時計に目をやるのを、やめました。

10キロ過ぎの折り返し地点を過ぎたところの給水所では、今回も世話になった叔母が給水の手伝いをしているとのこと。折り返す手前で叔母に声を掛け、折り返し直後に叔母から水を受け取るはずが、先に違う方から受け取るという失態。でも、向かい風とダラダラとしたアップダウンで落ちかけていた気持ちが、叔母の声援を背中に受けて再び盛り上がったのは間違いありません。
折り返し後の14キロ地点で左折。残り7キロですが、いよいよ向かい風に晒されることとなります。せめてもの救いは、気づかないほど緩い下り基調だったことでしょうか。そして15キロ過ぎで、左脚のふくらはぎがピクピクとうずき始めます。幾度となく経験した、痙攣の兆候。水分は充分補給していたつもりでしたが、気温も上昇し始め、かなり発汗していたようです。今回、初めてキャップを被らずに走っていましたが、後頭部を数回水で冷やしました。少しだけペースが落ちたことを悟りました。

でも、これまでの僕であれば、ここでビビって足を止めるかスピードを緩めてしまうのですが、この日はとにかく押して行こう、と決めていました。何がここまで僕を駆り立てているのかは、わかっていました。右手首に巻かれたリストバンドに施された、プリンスの「シンボル」。腕を振る度にチラリチラリとそれが目に飛び込んできます。
…と、なぜか頭の中で「Let’s Go Crazy」が流れ始めました。そしてそれは18キロ過ぎまで、延々とループされ続けていました。
風は向かい風になったり収まったり。この間、何人を抜いた、何人に抜かれたという記憶がまるでありません。完全に「無」の状態になっていたようです。
18キロ手前で再び左折。向かい風は相変わらず。ここまで何度足を止めようと思ったことか…。ふと、ペーサーよろしく僕の前を走る人が、何度も時計に目をやっていることに気がつきました。この人も90分切りを狙っているのだろうか。今、どれぐらい経ったんだろう。そんなことを考えつつもなお、自分の時計には目をやりませんでした。

程なく残り2キロを切り、本当に苦しくなってきました。一方、15キロ付近で気になり始めた足の痙攣の兆候は、ほぼ収まっていました(ただし時々ビクンビクンと反応あり)。
結局のところ、足が痙攣するよ、と脳が悪戯をして、僕を休ませようという魂胆なのでしょう…と、全ては自分の身体の中で起きていることなのに、他人事のように分析をする自分。もういいよ、立ち止まって休もうよ。でも、ここで休んだら、それで終わりだよね。
そんな葛藤を繰り返しているうちに、残り1キロ。これって90分切れるのか?間に合うのか?間に合わないのか?どうなんだ?…でも、絶対に時計は見ません。時計を見た時点で緊張の糸が切れるのを知っていたからです。
左手には、先着していたMさんの姿が見えました。Mさんは僕を見るなり時計に目をやり、「行ける行ける!90分切れる!ラストラスト!」と叫びながら、ついさっき走り終えたばかりのはずなのに、僕より速いペースで走り始めました。そのペースに食らいつこうとする僕。まさに余力を出し切る思いでした。
Mさんから声を掛けてもらい、ペースを少しだけ上げたこの時、箱根駅伝で優勝した東洋大がテーマとしていた「1秒をけずりだせ」の意味が何となく分かったような気がしました。

いよいよ、ゴールのある競技場トラックが見えてきました。そしてトラックに入り、初めて電光掲示板に目をやると、「1:29:30」の文字が飛び込んできました。ヤバい!これだと90分切れない!多分、相当必死の形相でゴールを目指すこの時の姿は、見られたものではないと思います。(あとでアップされるであろう写真が、違う意味で楽しみです。)
そしてゴール!恐らく90分は切ったと思いますが、どれぐらいのタイムなのかは、この目で確認することができませんでした。ここ最近の大会で一番荒くなった呼吸を、しばらく時間を掛けて落ち着かせ、記録証を受領。タイムを見て、思わずにんまりしながら小さくガッツポーズ。
1時間29分52秒。公認コースでの自己ベスト更新で、とうとう90分切り達成!

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芝生にへたり込んだとき、時計の停止ボタンを押し忘れていたことに気づきました。でも、別にそれはどうでも良かったワケで…。
その後続々とゴールを駆け抜ける仲間の姿に拍手を送りながら、走りきった疲労感でグッタリ。
僕のすぐ後にゴールしたS先生が、「PB更新おめでとう!」と握手を求めてきました。ここで本当は歓喜の涙を流したいところではありましたが、心の中にまだ悲しみが燻っていて、涙はありませんでした。

最後声援を送ってくれたMさんがやってきました。「何とか切れました。ありがとうございます!」「おー!おめでとうございます!」「で、Mさんは何位だったんですか?」「うん。3位。」「おー!おめでとうございます!」と喜色満面に笑み。苦しかったけれど、楽しい大会でした。
満開からちょっと過ぎた桜が、綺麗だったなあ。そして、給水ボランティアや駐車場内の交通整理を行っていた花巻東高校の生徒を始めとする皆さん、本当に礼儀正しくて素晴らしかったなあ。帰り際に皆さんから挨拶されるだけで、何か嬉しくなっちゃいました。

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多分、10キロ地点に叔母がいなければ、そして、21キロ手前でMさんが声を掛けてくれなければ、90分は切れていなかったかも知れません。ハーフで90分を切るということが、それぐらい大変だということがわかりました。
しかし、フルマラソンで3時間を切って走る皆さんは、このペースでハーフマラソンの2倍の距離を走るんですよね。本当に尊敬します。凄いわ。

右手首のリストバンドをさすりつつ、そりゃココロの穴は簡単には埋まらないわなあ…と思いつつ、取りあえずやるだけのことをやって結果が出たことには、一定の満足。さて、次の目標に向けてまた頑張ろうっと。

帰りは一人、熱めの温泉で疲れを癒して帰路に就きました。ゼッケンナンバーと一緒に花巻温泉郷の割引券が同封されており、半額で入浴することが可能。花巻温泉は確実に混雑しますが、周縁の温泉郷、意外と穴場ですよ!
(ちなみに僕が訪れたのは、花巻温泉から1キロほど進んだ台温泉でした。)

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(鍵も扉もない、木製のロッカーに磨りガラス。4つある給湯口のうち、シャワー設備は一つしかありませんでした。もちろん使いませんでした。)

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(本通りから脇道の如く伸びる台温泉郷。車がすれ違うのもやっとなぐらいの車道。)

【おまけ】
花巻市郊外の台温泉を後にして、花巻ICから東北道へ。そういえば腹減ったなあ、と時計を見たら、既に12時30分を回っていました。無性にコーヒーが飲みたくなり、盛岡南ICの手前にある矢巾PAに寄ったら、なんと盛岡冷麺と炭火焼肉の「やまなか家」があるじゃないですか。
弘前市内にも店舗があるのですが、せっかくだから盛岡冷麺でも食べていこうと思い、カルビ丼とのセット(1,000円)をオーダー。言わば「ご褒美メシ」みたいなものですな。ちなみに、残念ながら炭火焼肉はありませんでした。(あ、コーヒーは食後にちゃんと購入しましたよ。)

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Princeが、死んだ。

既にニュースでも報じられているとおり、僕が最も敬愛するアーティスト、Princeが亡くなりました。57歳。

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先日プライベートジェットでの移動中に体調が急変して緊急着陸、そのまま病院に搬送されたとか、インフルエンザを罹患していたとか色々報じられていました。直接的な死因は薬物の影響によるもの、という報道がありましたが、事実関係についてはまだ明らかにされていないことがたくさんあるので、推測だけで腹を立てたり嘆いたまま記事にするのはやめようと思います。

結局日本にやって来たのは、2002年の来日公演が最後。あの時は、全国各地をツアーで回るという大盤振る舞い、しかもファンクラブ優先席まで設けられ、僕も札幌と仙台での公演を観ました。
今だから明かすと、何で東京ではなく札幌と仙台だったのかというと、もちろん青森から比較的近いということもありましたが、恐らくファンが集結するであろう東京の会場では、いくらファン優先とはいえ、いい席で観るのは難しいだろう、という判断があったからなのです。その点、きっと札幌はいい席が確保できるはずだ、と。(実際最前列だった。)
仙台では、今でも伝説ともいわれるぐらいのステージを間近で観ることができたし。…結局そのZepp SENDAIで観たライブが、最後のライブになってしまいました。
でも、あの時もしも東京にも足を運んでいれば、僕のPrinceへの情熱は更に刺激されただろうし、今よりも大勢の仲間とも知り合うこともできたのかも知れません。
奇しくも、札幌の会場となった北海道厚生年金会館は「さっぽろ芸術文化の館」と名を変え、仙台の会場となったZepp SENDAIは解体、更に、札幌公演の後、アフターパーティーが開催されたディスコ(キング・ムー)もなくなり、言わば「思い出の場所」がなくなってしまったわけで…。でも、まさか本人までいなくなってしまうとは。いつかまた観たいという夢は、幻となって消えました。

マイケルが死んだとき、そして今年に入ってボウイが死んだとき、「いつかPrinceも死ぬんだよな」と朧気ながら意識していたのは事実だけれど、こんなに早くその日がやってくるなんて…。
でも、亡くなってしまったということは事実のようなので、冷静に受け止めなければならないと感じています。というか、本当に彼が亡くなったという実感がまだないんです。彼がそんなに簡単に死ぬなんて、あり得ない。死ぬはずがない、と。
なので自己分析すると、凄く悲しい中にも、彼の死を現実としてまだ受け入れられないような状態にあるんだと思います。

マイケル・ジャクソンが死んだときは、「King Of Popが死んだ。」と世界中から悲しみの声が上がりました。
実におこがましいですが、敢えて言います。
Princeの死は、「King Of Rock」ではなく、「King Of Music」の喪失です。
だって、彼がこれまで音楽業界に与えた影響は計り知れませんから。


彼の音楽を本格的に聴き始めたのが、ちょうど今から約30年前。高校1年の時でした。Princeといえば「Purple Rain」と結びつけたがる傾向が多いけど、正直あの頃は未だ若造過ぎて、Princeの良さなんてちっともわからなかったし、むしろ気持ち悪いな、と思っていたのですが。NHK-FMの「クロスオーバー・イレブン」で彼の楽曲(それも12インチのリミックス盤)をたびたび耳にするようになり徐々に洗脳が始まり、その後小林克也さんがDJをしていた「ベストヒットUSA」で流れた「KISS」のPVで完全にやられました。だから僕が本格的に聴いた彼の作品は、「Parade」だったわけです。

それから約30年間、ハラハラもさせられたしワクワクもさせられたしドキドキもさせられました。
亡くなる直前まで決して止むことのなかった彼の音楽への情熱。まるで玉手箱みたいなアーティストでしたね。
前述のとおり、日本全国にたくさんの仲間ができたのも、彼がいたからこそ。(25年ぶりの再会、なんていうのもあったしね!)
心の支えの一つだったことは紛れもない事実。だから、その支えを一つ失ったことで、ちょっとバランスを崩しかけているかも知れませんが、今はただ「本当にありがとう」という言葉しか出てこないです。

We’re suffering from a deep sadness and powerlessness NOW.
So We don’t forget that SOMETIMES IT SNOWS IN APRIL after the PURPLE RAIN.
And We have to walk and run away from this deep sadness…It’s like a PARADE.
Ur music has always cleaned up my DIRTY MIND.
U’re THE MOST BEAUTIFUL Artist IN THE WORLD.
U’ll be living FOREVER IN MY LIFE.
All funs will always KISS, FOR YOU!!!
I don’t say Good-bye but wave my hands for POSITIVITY.
Thank U,Prince… I WISH U HEAVEN and… see U Again.

何をするにもいつも突然だし、唐突なことをされることに慣れていたつもりだけど、これはないわ。
貴方の代わりは、結局貴方しかいないんだよ。いくら何でも、これは酷いよ..。

仙台に向かう飛行機の中で見た、はにかんだような貴方の笑顔は一生忘れません。
ありがとう。本当に本当にありがとう。どうぞ安らかにお眠り下さい。ずっとずっと愛しています。

Rest In Purple…

princeinstagram
(本当に、このままフラフラ~っと逝ってしまったような感覚です。)