宮古市・災害派遣レポート


3月29日。グループマネージャーが苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべながら打ち合わせから戻ってきた。

「困ったことになった。どうしよう。うーん…。」

聞くと、4月16日から4日間、うちのグループから職員を宮古市へ災害派遣しなければならなくなったこと、人事異動により4名が転入してくるが、さすがにその人たちに任せるのは憚られること、ということでマネージャーか僕、いずれかが行かなければならない、ということだった。

なぜそんなことで頭を抱えるのか僕にはちょっとわからなかったが、「僕、行きますよ。喜んで。」と告げると、さっきまでの表情が一変、「ホント!?行ってくれるの!?」と、まるで僕が行くと言うのを待っていたかのように嬉々とした表情を浮かべていた。

ということで4月16日から4日間、被災地に対して今僕ができる精一杯の支援をしてくることが決定。

あっさりと被災地への派遣を受け入れたことに対し、職場内では驚嘆の声も上がったが、僕に言わせれば当然のことだったし、少しでも復興の一助になれればと、不安はまったくよぎらなかった。

作業を行うのは宮古市新里。津波の被害を受けた沿岸部からは約20キロ離れた山間の村である。既に作業を終えた先発隊からの情報によると、寝食に困ることはないこと、その気になれば毎日風呂だって入れることなど、想像していたより生活環境が整っているという。

作業はいたって簡単で、物資の搬入搬出と仕分けを行うというものであった。
がしかし、如何せん具体的かつ詳細な情報に乏しいため、期待感は徐々に不安へと変わっていった。さらに追い打ちをかけるかのように、当初隊長として派遣されるはずだった他の方が諸般の事情により派遣を断念、急遽その代役を任されることになってしまった。

出発前日。部長室でささやかな出発式が行われた。部長自身も被災地に足を運び、その惨状を目の当たりにしていること、健康に留意し、怪我のないよう作業して欲しいことなど訓辞の後、隊長から一言、を求められた。

僕からは、青森県を代表して被災地に出向き、少しでも避難所生活を強いられている住民の支えになれることを僕個人としては誇りに思うし、青森県の人たちに来てもらって良かったと思って頂けるよう作業に取り組みたい、といった意気込みのようなものを述べさせてもらった。

16日。朝からパッとしない天気で雨がこぼれている。妻に駅まで送ってもらい、大きな荷物と寝袋と食料袋を抱え、いつもの電車に乗り込んだ。
職場に置いてあった携行する灯油缶、ヘルメット等を車に詰め込み、8時30分に出発した。平日だと盛大な出発式があるようだが、土曜日ということで極めてこぢんまりとした、静かな出発となった。同行したメンバーは僕以外いずれも35歳のやや若手3名。この後宮古市で五所川原市、藤崎町の各3名と合流し、4日間がスタートする。

12時30分、集合場所である新里総合事務所に到着。

宮古市新里総合事務所

各市町のメンバーとも初顔合わせで合流し、隣接する新里福祉センター(我々の宿泊所である)で先発隊の隊長から引き継ぎを受ける。
DSC01419 新里福祉センター内
(左:新里福祉センター。右:寝泊まりした部屋。こうやってほぼ雑魚寝状態。)

13時頃、作業を行う新里トレーニングセンターへ。

新里トレーニングセンター

各地から送られてきた物資の入った段ボール箱が所狭しと並べられていて、通用口では食料品などの搬出が行われている真っ最中であった。

新里トレーニングセンター

新里トレーニングセンター

新里トレーニングセンター

新里トレーニングセンター

新里トレーニングセンター
(高く物資が積まれ、壁にはメッセージが貼られている。)

特に儀礼的な引き継ぎがあるわけでもなく、作業が終わるとともに先発隊の人たちは「それではお願いします。」と一言残して、トレセンを去っていった。程なく、各避難所への物資の搬出が始まった。
新里トレーニングセンター 新里トレーニングセンター
ちなみに我々以外に作業をしていたのは、食料を管理し、搬入搬出の指示を出す自衛官が3名、岩手県職員が3名、宮古市職員が3名、自治労(初日は奈良県、京都府、滋賀県。2日目以降は奈良県、京都府、山形県)からの派遣職員が10名ほど、クロネコヤマト社員(中国支部、関東支部、甲信越支部の社員が入れ替わり)が10名、地元のボランティア(市職員OBや元市議会議員など)が10名程度、地元高校生が5~10名程度であった。

簡単に作業の流れを記すと、以下の通りになる。これを4日間続けたことになる。

(午前)
各地から送られた物資を積んだトラックがトレーニングセンターに到着すると、それぞれが台車を手に、トラックから物資を積み下ろし。台車を手にしていない人たちは、トラックからの積み下ろしや、センター内での物資の搬入(日用品、食料品がそれぞれのブロックに分けられており、箱の内容を確認して同じブロックに運ぶ)を手伝う。
宮古地区(市中心部)の避難所は分散されているため、物資の運搬は自衛隊ではなくクロネコヤマトが行う。前日の午後にひとかたまりになった宮古地区への物資をさらに7カ所程度の避難所に運搬するため仕分けを行う。基本的に仕分けはクロネコヤマト社員が全て行うが、物資が多い時はこれをサポートする。ちなみに僕が行った作業は、段ボールに入った野菜を何グラム、何キロと、指示された分だけ重量を量り、袋に入れるというものだった。

(午後)
午前中にクロネコヤマトが搬出した分以外の物資については、自衛隊が毎日炊き出しのため各避難所に運搬する。市内4カ所(津軽石、重茂、田老、宮古小)分の物資については、自衛隊のトラックが到着するたび積み出し作業を行う。
5地区の物資がなくなった後は、自衛隊の指示に従い、翌日搬出するための食料の仕分けを行い、各地区ごとに物資をまとめる。

缶詰が大量に入った段ボール箱や、30キロの米、大人3人でやっと持つことのできる味噌樽、1200食分の乾麺など、腰がおかしくなるぐらい重いものもあれば、椎茸やカップラーメンなど、片手でも楽々運ぶことのできるような軽いものまで、さまざまな物資の搬入搬出、仕分けを行う。

作業時間は朝8時から夕方16時頃まで。多い時は物資を積んだトラックが立て続けにやってくるし、逆に2日目の日曜日はトラックが2台しか来なかった、ということもあった。

手の空いた時間は、宮古市が管理する日用品の整理を行う。僕が手をつけたのはトイレットペーパーやティッシュペーパーといった類の箱の整理整頓だったが、手のついていない日用品が大量に山積みとなっていた。

2日目3日目は、交代で被災地視察を行うこととしていた。我々は3日目に被災地視察を行うこととしていたが、2日目の作業が16時で終わったため、宮古市内と田老地区の視察を行い、3日目は山田町と大槌町の視察を行うことを決めた。
宮古市中心部へは車で約25分。信号は大部分が復旧しており、店舗も営業を再開している。が、やがて跨線橋を越えると、思わず目を覆いたくなるような光景が広がっていた…。

ここが日本なのか?これが日本で起きたことなのか?さながら映画のセットの中にでもいるような錯覚。でも、これは全て現実なのだ。新聞やテレビで見た断片的な光景が、僕の立っている360度全てに広がっている。

宮古市内 宮古市内
 
宮古市内

初めて目にするその光景に、ただただ言葉を失い、唖然とするしかなかった。
宮古市役所に辛うじて明かりがともっているのを確認することができたが、信号は消えており、徐行しながら進んでいった。岩手県でも有数の景勝地である浄土ヶ浜に向かう浄土ヶ浜大橋を歩いてみる。眼下には太平洋。堤防がものの無残に破壊され、橋が落下している。
浄土ヶ浜大橋から

反対側から眼下をのぞき込むと、お墓がなぎ倒され、土台だけが残っている光景。

浄土ヶ浜大橋から

その先には、さっき見た廃墟のような町並みが広がっている。

誰もが無言となって車に乗り込む。田老地区へ向かう道中も、無言。
高台は何事もなかったのような、普通の光景。トンネルを抜け、坂を下り始める。太平洋が見え始めるとともに、無残にも津波によって破壊された建物や船が見え始める。やがて右手に長い防潮堤が見えてくると、さらに愕然とするような光景が広がっていた。

田老地区。延長2.5キロにも及ぶ海抜10メートルの防潮堤。昭和8年の昭和三陸大津波を教訓に築き上げられたものであるが、今回の地震においては、残念ながら何の用もなさなかった。残念ながら、この防潮堤があるから大丈夫、という過信で命を落とした人がいたという。
実際防潮堤に上ってみると、防潮堤の両側に無残な光景が広がる。
宮古市田老地区 

宮古市田老地区 

津波によってひっくり返された無数の車、そして、赤くペイントされた×マーク…。

宮古市田老地区

一体どれだけの津波が押し寄せたのか。そして、その津波が駆け上がった防潮堤に立っているだけで息苦しくなるような光景が眼下にあった。

3日目。
14時頃に作業が一段落したので、予定通り山田町~大槌町の視察を行った。当初は山田町までの視察を予定していたのだが、大槌町の惨状も見た方がよい、という地元の人の後押しもあって、向かうことにした。

三陸道(宮古道路)を南下し、国道45号との交差点が近づくと、昨日見たのと同じ光景がまた広がり始める。
山田町は解体されていない建物が多く残ったままで、自衛隊が作業に取りかかっていた。
岩手県山田町
 
岩手県山田町

途中の浪板海岸は、サーフィンの名所でもあるようだが、サーフィン客が宿泊に利用するホテルには、車が突っ込んでいた。

大槌町浪板海岸

大槌町浪板海岸 

大槌町はさらに無残な光景が広がっていて、中心部は道路状況もかなり酷い状態だった。
神奈川県警の機動隊車両が配置されている。どうやら捜索活動がまだ続いているらしい。 大槌町内

大槌町役場の前。なぎ倒された看板の上に、花が供えられていた。そっと手を合わせ、役場に一礼し、緊張感漂うこの地域を後にした。
大槌町内 

大槌町内

山と谷の連続するリアス式海岸。山はまるで、何事もなかったかのような佇まいを気取る。が、坂を下ると、谷に作られた町は軒並み津波によって破壊され、その光景の繰り返しが延々100キロ以上に渡って続いているのだ。

一瞬にして津波にのみ込まれ、廃墟と化したその光景を見て、津波、いや自然に対する畏怖の念を抱かずにはいられなかった。

4日目。
遂に最終日を迎えた。終わってみるとあっという間だった。
この日の朝、作業に向かう前に初めて全員を集めた。

隊長という立場でありながら、何一つ隊長らしいことをしなかったことを詫び、最後に隊長からのお願いとして三つ。一つは、自宅に戻り、玄関を開け、靴を脱ぐまで気を抜かないで欲しいということ。もう一つは、いつかこの三陸の地が復興した暁には、もう一度この地を訪れて欲しいということ。最後に、今回のこの作業で、我々の力が少しでも被災地のお役に立てたということを誇りに、それぞれの持ち場に戻って頂きたいということだった。
皆、神妙な面持ちで僕の話に耳を傾けていた。
そして最後に、二度とこういう災害派遣という形で皆さんとお会いすることがないよう願いたい、ということを述べさせて頂き、締めくくった。

12時30分過ぎには福祉センターにおいて次の隊に対する引き継ぎを行い、トレーニングセンターへ。ちょうど午後最初の作業を終えたばかりのようで、全員が待ち構えていた。我々が引き継いだ時とは別に、自然と対峙する形になり、次の隊に「お願いします。」と声を掛けた。一緒に作業してきた自衛隊、自治労、クロネコヤマト、宮古市役所の方々に挨拶を済ませ、センターを去ろうとしたら、自然と拍手が沸き起こった。4日間、他のチームでも引き継ぎが行われていたが、拍手を聞いたのは初めてだった。足を運んで良かった。少しでもお手伝いできて良かった。作業をやり終えたという達成感と満足感、そして「自分の家」に帰ることができるという安堵感が入り交じり、胸にグッとこみ上げる感覚を覚えた。
しかし、宮古をはじめ被災地では「自分の家」を失い、家族や友人を失った人たちが大勢いることを慮ると、自然とそういう感情も消えていった。

作業終了後、隊の人たちとその日の出来事を話し合うことがあったのだが、その中で、地元の方が「修学旅行が延期とか自粛とかいっているけれど、今だからこそ三陸に来て「社会見学」して欲しい。他の地域の小中学生に、この惨状を見て欲しい。ガイドならいくらでもいるから、是非次の世代にこの惨状を教訓として受け継いで欲しい。」といった話をしていた、というのを耳にした。

復興の道のりは遠く険しいかも知れない。がしかし、日本は今まで、幾度となくどん底にたたきつけられ、這い上がってきた。だから絶対、必ず復興する日はやってくる。被災地の皆さん、どうぞ無理をなさらずに。大丈夫、我々がついていますから!


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【今年13杯目】弘前市稲田・弘前Fu麻麺


昨年12月の東北新幹線全線開業日と同日に開店したこの店舗。開店10日後に訪れ、既にレポート済みではあったが、前回のレポートで「あればいいのに」とぼやいていたメニューが新たに追加されたという情報を小耳に挟み、早速店を訪れてみた。

前回の訪問記

前回、開店直後の混雑を予想してなのか狭い店の中に3人の店員がいたが、前回麺の茹で時間を計るタイムキーパー的役割を担っていた人の姿はなかった。今回は厨房の中を少しだけ覗くことができるカウンターに座ってみた。

「麻麺」という店名でありながら、なぜ麻婆ラーメンがなかったのか不思議だったが、どうやら同じ疑問を持つ客が多かったらしく、メニューには「お客様の御要望に応え」との記述が添えられている。そして前回、余りに画像が劣悪で食欲を全くそそらなかったメニューも、新メニューの登場に合わせて画像がかなり改善されていた。よしよし。

土曜の昼だというのに客足が伸びていないのが非常に気にはなったが、今回のお目当てである新メニュー「麻婆らーめん」を早速注文。

しかし、カウンターから厨房を覗き込むと、麺を茹でるための、どこにでもありそうな鍋がガステーブルに置かれている以外、特に何かを炒める音が聞こえるわけでもないし、スープの寸胴も窺うことができない。どうやらカウンターから見えない位置にいろいろ仕掛けが隠されているらしい(笑)。
ピピピピッとタイマーが鳴る直前に麺の湯切りが始まる。やがて運ばれてきた麻婆らーめん。

弘前市稲田・弘前Fu 麻麺

麺が固めに茹でられているのがちょっと気になった(そして、恐らくこの麺は好みが分かれそう)が、スパイスの効いた麻婆豆腐が載っている。
その見た目のボリュームと比較すると、750円という価格設定は正直ちょっと高いかな、という気がしないワケではない。

弘前市稲田・弘前Fu 麻麺

ただ、舌を刺激するような辛みは、開店当初からのメニューであった麻婆豆腐(という名の麻婆飯)よりは若干和らいでおり、辛い中にも「旨い」と感じさせられる味わいに仕上がっている。この辛さはホント癖になりそう。

余談ではあるが、妻はこの日味噌ラーメンをオーダー。メニューとともに画像に収める事はできなかったが、八丁味噌の香りの効いた、いわゆるニンニクや生姜の風味が強い味噌ラーメンとは一線を画した味に仕上がっている。

ふと気がつくと、店内はほとんどの席が客で埋まっていた。うん、いい感じだと思いながら、店を後に。ただ、真夏の入店は正直ちょっと躊躇うかも知れない。


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【今年11杯目】弘前市下白銀町「中華そばマル金」


弘前市樹木にあるTSUTAYAメディアインの駐車場に、夜な夜な出店していた屋台ラーメン「支那そば マル金」が、店舗を構えた「中華そば マル金」として新規オープンしたことを嗅ぎつけた。
我が家からそれほど遠くないということもあり、早速訪れてみた。

実のところ、屋台であった頃は1度しか訪れたことがなく、すっかり味を忘れていた。ただ、化学調味料を一切使用しない素材本来の味を生かしたスープが「旨い!」ということだけ記憶に残っていた。

弘前市・中華そばマル金

土曜の昼。きっと大勢の客でごった返しているのだろう、と思ったら、何とカウンターの2人以外誰もいなかった(笑)。
店内はカウンター席の他テーブル席、更に小上がりもあり、20人は軽く入ることのできるキャパシティ。

メニューは「中華そば」、チャーシュー抜きや大盛、子ども向けの小盛、それから「ライス」の中と小のみ。

ちょっと不安に駆られながらも、中華そばの大盛をオーダーしてみる。
テーブルの上には、スープの味を調整するための醤油の瓶が置かれている(個人的には醤油がテーブルに置かれていると、店の方で味に不安を持っているのかという疑心暗鬼に駆られるのだが)。

 弘前市・中華そばマル金

程なく運ばれてきた中華そば。鶏がベースとなっているようで、魚介のガツンとした強烈な香りは漂ってこない。一口運んでみると、多少甘みのある柔らかい味わい。なるほど口に運んでいくうちに、どんどんクセになっていくのがわかる。

麺はウェーブがかった中細麺。若干柔らかめであったが、オーダーの際に調整をお願いできるらしい。トッピングはチャーシューとネギ、メンマ、そして麩。
 
弘前市・中華そばマル金

弘前市役所のすぐ隣にあるので、ひょっとしたら平日は役所の人たちで賑わっているのかも知れない。
ちなみに駐車場がないため、向かいにある追手門広場の地下駐車場を利用するのがよい。この駐車場は30分まで無料。間違えても真向かいにあるバスプールにこっそり停める、なんてことをしないように。

で、何が一番驚いたって、何と12時10分の時点で4名の家族連れが入店した後、5名で入店してきた若者たちに「ごめんなさーい。今日の昼の部は品切れなんです!」って、え?このお昼時で既に売り切れって、一体どんだけ賑わってるんですか?って感じなんですけど。

しつこいが、僕らが入店したのはちょうどお昼の12時。確かに入れ違いざまに2人が店を後にしたが、一体何食分用意しているのか、大いに謎…って感じ。

ということで、来店の際は事前に可否を確認した方がいいかも知れない。

場所は弘前市役所新館の隣、追手門広場の向かい。土手町循環バスだと、「市役所前」バス停のほぼ目の前にあります。営業時間は11時~14時と17時~21時。もちろん品切れの時点で閉店。日曜日は定休日なので注意を。
電話番号は0172-35-1933。


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そして、10日以上が過ぎた。


3月11日午後2時46分。
職場内にあるキャビネットの前で、僕はコーヒーにお湯を注いでいた。

職場の誰かが呟く。
「あ、地震じゃない?」

最近疲れが溜まっていたので、目が回り始めたのかと思ったらそうではなかった。天井から吊り下げられたグループ名を示すプラスチック板が揺れ始めている。

ゴゴゴゴゴ…

突如激しい横揺れに変わる。

「うわっ!強いぞ!」
「ドアを開けて!」
誰かが叫ぶ。

近くにいた他の課のアルバイトさんだろうか、自ら開けたドアノブにしがみつき、気を失いそうになっている。

「大丈夫!しゃがんで!しっかり!」
「うう…具合が悪い…。」

誰かが外から建物を揺すっているのではないか。そう思いたくなるような長い横揺れ。建物が軋む音が聞こえる。

「何だこれは?」
僕は目の前のキャビネットを必死に抑えていたが、実は今まで経験したことのない揺れに、足がガクガクと震えていた。

程なく執務室内の電気が全て消え、非常灯が点灯した。
その間も横揺れはなお続く。そういえば職場内にあるロッカーやキャビネットを耐震のために固定したのはつい数ヶ月前の話。もし固定していなければ、と考えたらゾッとした。

一体どれだけ揺れたのかはわからない。ようやく揺れが収まった。冷静を取り戻そうにも、余りに激しい横揺れにただ動揺するしかなかった。廊下に出たところで、用事を終え、僕のところに立ち寄ったM氏と鉢合わせ。
「研究室がどうなっているかわからない。戻るのが怖いよ。」
本当はもう少し話をしたかったが、お互い苦笑しながら立ち話を済ませ、それぞれの職場に戻る。

その後もひっきりなしにやってくる余震。だが、どこまでが揺れなのかもわからないような、そんな感覚にとらわれていた。
「震度7だって!大津波警報が出てる!」
ワンセグ携帯から情報を得た誰かが声を上げる。

これは、大変なことになった。とにかく今、日本で大変なことが起きているのだ。そう言い聞かせるしかなかった。

家に連絡を取ろうにも電話が通じず、公衆電話からようやく連絡を取った。ひとまず妻と母が無事であることを確認。東京にいる妹からもしばらくしてようやくメールが届いた(ただしその時点では、青森より東京都心の方が強い揺れ地震だったことを知らなかった)が、ちょうどその頃、茨城県沖を震源とする二つ目の大きな地震が来ていることを知った。

電気が消えた執務室。周辺の信号機も停電し、警官が交通整理に当たっている。早急にパソコンの電源を落とし、手持ちぶさたで指示が与えられるのを待つ。その間も、幾度となく建物が揺れる。
やがて周囲は暗くなり始め、執務室もどんどん冷え込んでいく。よりによって外は雪が降っている。何てこったい。

17時15分となり、終業のチャイムが鳴る(なぜかチャイムだけは鳴り響いた)。上司から、取りあえず災害要員となっている職員以外は速やかに帰宅するよう命じられた。

これだけの揺れで電車が止まっていることは明らかだった。だが、取りあえず駅に向かうしか思い浮かばない。代行バスが出ているかも知れない、という淡い期待を抱きながら、急ぎ足になる。駅に向かう道のりは、さながらゴーストタウンのようだった。街の明かりが全て消え、シャッターが下ろされている。

青森駅。中は当然真っ暗。しかも玄関は既に閉鎖されていた。まるで廃線後の駅舎のようだ。行き場を失い、路頭に迷い始める人々。嗚呼、これからどうすればいいんだろう…。取りあえずタクシー乗り場に向かいながら、代替の交通手段を考える。といっても残るはバスか、ヒッチハイクか、徒歩しかない。しかし、季節外れの吹雪の中を40キロも歩く勇気はない。これで、職場に戻ることも選択肢の一つとなった。

「弘前に向かう人、いませんか?」
タクシーの乗合を求める人だ。一瞬手を挙げかける。とその時、バス乗り場に黒石行きのバスが入ってくるのを目視した。その瞬間、まるで誰かが乗り移ったような脚足でバス乗り場に向かう僕がいた。

平然と列に並び、バスに乗り込む乗客の後ろに並ぶ。まずい。既にギュウギュウ詰めの状態になり始めている…。バスのタラップに強引に足を乗せ、バスに乗り込む。僕の後ろに並んでいた人が乗り込んだ時、運転手が申し訳なさそうに言った。

「すいません、もう定員でこれ以上乗れないので、次のバスが来るのを待って下さい。」

何と、僕の後ろの人が乗り込んだ時点で定員となり、僕は何とか帰宅難民を逃れたのだ。

問題はこの後だ。黒石に向かったとしても、次の交通手段は確保される保証がない。となると、途中、ちょうど青森と弘前の中間に位置する浪岡で下車して弘前行きのバスに乗り換えるか…。しかしこの時間であれば、浪岡から弘前までバスが走っていることすら怪しい。
なかなか身動きが取れない中、何とか携帯電話を引っ張り出し、妻と母に迎えに来られないかメールを送信してみた。回線が混雑していたが、何とかメールを送信することができた。電池の残量は一つだけ。かなりギリギリの状況だった。
やがて母からメールが届き、取りあえず浪岡に向かうとのこと。
よかった…。何とか帰れそうだ。

程なく、妻からメール。「浪岡までなら迎えに行ける。」とのこと。母が迎えに来る旨メール送信し、取りあえず電源を切った。

バスはずっと混雑したままで、掴むところを確保するのもやっとだったが、弘前方面に向かっているという事実だけが救いだった。

旧青森市内を抜けたあたりで再度携帯に電源を入れる。ここで驚愕の事実が明らかに。
何と、母だけではなく妻も迎えのために車を走らせているとのこと。これはマズいと慌てて電話をしても通じることはなく、やがてバスは浪岡の停留所に到着。約1時間30分を要した。

バス停から浪岡駅までは約400メートル歩かなければならない。建物からは明かりが失われ、唯一足下を照らすのは、半分以上を地球の陰で覆われた月明かりのみだった。
肌を突き刺すような寒さも手伝って、初めて「闇の恐怖」を実感した。

浪岡駅に着くと、妻の車が待っていた。実は…と妻に事情説明しているところへ、母の車がやって来た。
妻の車を見た母の表情が鬼のような形相に変わったのがわかった。明らかに怒りに満ちている。恐る恐る近づくと…。
「弘前市内を出るのにどれだけ時間が掛かったと思っているの!?何で二人に連絡するのよ!どちらかにいらないって連絡すればいいじゃない!」
激高した母はそのまま車で立ち去った。

嗚呼、やっちまった。これまで見たことのないような表情、あまりの激高振りに、僕は再び動揺を隠すことができない。

妻の運転する車の中で、NHKのニュースを見る。津波に襲われた街が壊滅状態に追い込まれた様子が、克明に映し出されている。

妻の家に立ち寄り、全員の無事を確認した後、自宅へ。
予想通り母は一言も口をきかない。僕も沈黙を守った。

が、その沈黙を破ったのは母だった。
「お前は自分のことしか考えていない。いつも自分中心。だからこんな事になる!」
地震の揺れよりも強烈な一言だった。返す言葉もなかった。反論したいことはいろいろあった。電話しようにも繋がらなかったこと、メールがうまく届かなかったこと、ギリギリの電池残量で連絡を試みていたこと…。だが、どんな言い訳も母の怒りに油を注ぐことが目に見えていたので、僕は口をつぐんだ。

確かにそうなのだ。僕は自分中心でしか物事を考えていなかったのだ。

一通り怒りをぶちまけた母は、その後何事もなかったかのように平然と食卓の準備を始めた。明かりは蝋燭のみ。電池式の石油ストーブで暖を取る事ができたのは、救いだった。ポータブルラジオから、各地で明らかになる被害の状況が流れている。
その間も、ミシミシ、ミシミシ…と小さな余震がやって来ているのがわかる。

平成3年、台風19号に襲われた時以来の大規模停電。懐中電灯の電池が機能しない事に気づく。こういう不測の事態を迎えて初めて、普段からの防災意識の低さに呆れるのは、僕だけではないはずだ。

結局その日は、不安と恐怖に苛まれながら、よく眠れぬ翌朝を迎えた。

外に出てみると、昨晩までの吹雪が一変、青空が広がっている。昨日の悪夢が本当に夢であったかのような錯覚に捕らわれる。だが、相変わらず電気が通じていないという現実が、悪夢へと引き戻す。

でも、弘前はまだ全然マシな方だ。電気が消えている以外は、何事もなかったのように街は動き始めている。
結局土曜日の午後5時前には電気も復旧。テレビでは、三陸沿岸地域の惨状が続々と報じられていた。

月曜日。県内の在来線は相変わらず運休のまま。やむを得ず自家用車通勤を強いられた。しかし、思った以上に交通量が少なく、ガソリン消費量もかなり抑えることができた。ある意味「エコ通勤」だが、この状況が連日続くようでは、こちらも休暇という選択肢を検討しなければならなくなったことだろう。
在来線は何とか復旧したが、ガソリンスタンドは連日行列ができたまま。スーパーにあるカップラーメンや即席麺も、一斉に在庫が消えた。

職場内は必要以外の照明機器の使用を控えることとなり、日中はほとんどの部署で照明が消えた。

これがあの日以降過ごした10日間の経過だ。

この間僕が被災地に対してやれたことは、日本赤十字を通じた寄附と、Yahoo!ポイントの寄附だった。むしろこれで今はいいのだと思っている。

今回露骨に明らかになったのは、日本人って思いやりに溢れている人種だと思っていたけれど、必ずしもそうじゃないんだな、と。近くのスーパーからいろいろ買い込んで、どや顔で闊歩するオバちゃんの姿を見て、ホントがっかりしてしまった。

備えあれば憂いなし、とはいうが、過度の備えが被災地の更なる憂いに繋がることを思うと、何ともやりきれない。

こんな感じで、3月11日以降いろいろ腹立たしいこともたくさんあったし、泣きたくなるようなこともあった。僕は他力本願な「頑張れ」という言葉が大嫌いだということをこれまで何度も言っているので被災地の皆さんに対して「頑張れ」とは言いません。被災者の皆さん、どうかくれぐれも頑張りすぎないように。そして、この世に生き延びたことに、何らかの意味があるのだと思う。なので、その意味を噛みしめながら、前を向いて歩いて行きましょう。

あれから10日以上が経過した。

震災に遭われ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、今も行方不明者となっている方々の安否が一刻も早く確認されること、そして、被災地の早期復興を心から祈念申し上げます。


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