今年のGW(途中経過)


毎年今頃の時期になると、弘前公園の桜を目当てに各地から親戚が訪れ、我が家はその対応に追われる。結果、GW後半にはかなりヘロヘロになる、というのが常であった。
例年通り今年も県外から親戚が数組やってくるはずだったのだが、3月の震災やその他の事情により、誰も来ない、ということになった。
我が家に親戚がやってくることには全く抵抗がないのだが、結果的には、久しぶりにゆっくりとしたGW(前半)を過ごすことになった。
ただ、天候がパッとしないこともあって、どこかに出かけようという気にはなれず、福岡へ旅立った義母を青森空港に送り届けた道すがら青森市内に立ち寄ってみたり、五所川原市内に向かってみたりと、ほとんど近場で用事を済ませているような状況だ。
もっとも、桜がどうかと言えばGWにピッタリ照準を合わせたような開花で、犬との散歩がてら30日の土曜日に弘前公園の外堀を散策してみたが、この時点ではまだちょっと早いような感じだった(園内は2日に満開となったが、恐らく西堀、いわゆる「桜のトンネル」は4日以降に見頃を迎えることだろう。)。
そんな中、30日には母方の伯父家族が突然来訪。「朝のテレビで弘前公園の様子を観たら無性に来たくなった。」とのことで、約2時間掛けて弘前にやって来た。結果、思いがけず従弟と約5年ぶりに再会し、従弟の家族とも初めて会うことができた。

さて、5月6日に休みを頂いたので、明日からは6連休となる。妻からは「家でゴロゴロしないで、何か目的を持って過ごすように。」と、何だか業務命令のような指令が発せられたが、取りあえず次のことだけはやっておこう、やりたいなと思う。

・ジョギング。前半は雨と体調不良(軽い二日酔い)で全然走ることができなかったため、明日からちょっとペースを上げる。たった3日間ながら、呑む食う寝るの連続の結果、ちょっと大変なことになっています。
・野良仕事。家庭菜園よろしく畑の掘り起こしをしようと思案中。明日は午前中雑草を取り除き、石灰を購入してきて土壌改良。で、今年は何植えるんだったっけ?
・時間があれば婆ちゃんの顔を見てくる。多分婆ちゃんは僕のこと完全に記憶にないと思うけれど。
・温泉。一度だけでもいいので、身体をゆっくり休めたい。

何はともあれ暴飲暴食に走ることなく、連休前の身体に戻るよう努力したいと思います。


カテゴリー: ただの日記 | コメントする

氷室と布袋の綱引き


先日、WOWOWで二つのライブの模様が放映された。50歳になって50本のライブを敢行した氷室京介の「TOUR2010-11 BORDERLESS”50×50 ROCK’N’ROLL SUICIDE”」、そしてもう一つは布袋寅泰のデビュー30周年を記念して行われた「THE ANTHOLOGY “創世記”
BEGINNING FROM ENDLESS~BOOWY COMPLEX GUITARHYTHM~ 」である。言わずもがなBOOWYのメンバーでもあった二人のライブということで、大変楽しく拝見させて頂いたのだが、氷室は自身のソロ(それも新作)をメインとした構成、布袋はタイトル通りBOOWY~COMPLEX~ソロという構成でまとめられていた。どちらが観ていて「面白い!」と思ったかは、敢えて触れないでおこうと思う。

そして、3月11日の東日本大震災を受けて、まずは氷室が動き出した。何と、自身の東京ドーム公演を復興支援ライブと位置づけ、6月11日のライブを全曲BOOWYの楽曲で行う、と発表したのだ。ファンとしてはこれを機にBOOWY再結成か?と大いなる期待感を持って発表を待ったのだが、相次いで元メンバーがコメントを発表し、沈黙を守っていた布袋のブログの内容からは、恐らくそれは叶わぬ夢であることが容易に想像できた。

ブログの中で書かれていた「氷室京介氏」という一言は、かつて先代の藤島親方が亡くなったときの貴乃花親方による「兄の花田勝氏が…」という、絶対に埋まることのない二人の間の深い溝を想像させる発言を思い出させた。

一応ライブチケット購入のエントリーを終え、あわよくば再結成…の超サプライズに期待を寄せていたところ、今度は布袋が動き出した。何と、吉川晃司とのユニットCOMPLEXを再結成し、震災復興記念ライブとして、7月30日に氷室と同じ東京ドームで公演を行うという。

松井常松や高橋まこっちゃんが氷室ライブに参加するのか、ということも気になるが、COMPLEXの再結成と公演決定により、布袋の氷室公演への参加の可能性は事実上潰えた、BOOWYのオリジナルメンバー4人による東京ドームそろい踏みはなくなったと考えるのが妥当だろう。

しかしこうなると否が応にもCOMPLEX再結成に対する期待感が高まるのは当然のことであって、結局こちらも(当然のことながら)チケットエントリーをしてしまった。

何かこうなると、COMPLEX再結成の伏線は、BOOWYの再結成を密かに望んでいた布袋の思惑が、氷室サイドから否定されたことによる当てつけのようにも見えなくはないのだが、それは多分大人同士の事情ということで丸めておこうと思う。

しかし、震災がきっかけとはいえ何か凄いですね。COMPLEX、当たらないかなぁ…。


カテゴリー: ただの日記 | コメントする

宮古市・災害派遣レポート


3月29日。グループマネージャーが苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべながら打ち合わせから戻ってきた。

「困ったことになった。どうしよう。うーん…。」

聞くと、4月16日から4日間、うちのグループから職員を宮古市へ災害派遣しなければならなくなったこと、人事異動により4名が転入してくるが、さすがにその人たちに任せるのは憚られること、ということでマネージャーか僕、いずれかが行かなければならない、ということだった。

なぜそんなことで頭を抱えるのか僕にはちょっとわからなかったが、「僕、行きますよ。喜んで。」と告げると、さっきまでの表情が一変、「ホント!?行ってくれるの!?」と、まるで僕が行くと言うのを待っていたかのように嬉々とした表情を浮かべていた。

ということで4月16日から4日間、被災地に対して今僕ができる精一杯の支援をしてくることが決定。

あっさりと被災地への派遣を受け入れたことに対し、職場内では驚嘆の声も上がったが、僕に言わせれば当然のことだったし、少しでも復興の一助になれればと、不安はまったくよぎらなかった。

作業を行うのは宮古市新里。津波の被害を受けた沿岸部からは約20キロ離れた山間の村である。既に作業を終えた先発隊からの情報によると、寝食に困ることはないこと、その気になれば毎日風呂だって入れることなど、想像していたより生活環境が整っているという。

作業はいたって簡単で、物資の搬入搬出と仕分けを行うというものであった。
がしかし、如何せん具体的かつ詳細な情報に乏しいため、期待感は徐々に不安へと変わっていった。さらに追い打ちをかけるかのように、当初隊長として派遣されるはずだった他の方が諸般の事情により派遣を断念、急遽その代役を任されることになってしまった。

出発前日。部長室でささやかな出発式が行われた。部長自身も被災地に足を運び、その惨状を目の当たりにしていること、健康に留意し、怪我のないよう作業して欲しいことなど訓辞の後、隊長から一言、を求められた。

僕からは、青森県を代表して被災地に出向き、少しでも避難所生活を強いられている住民の支えになれることを僕個人としては誇りに思うし、青森県の人たちに来てもらって良かったと思って頂けるよう作業に取り組みたい、といった意気込みのようなものを述べさせてもらった。

16日。朝からパッとしない天気で雨がこぼれている。妻に駅まで送ってもらい、大きな荷物と寝袋と食料袋を抱え、いつもの電車に乗り込んだ。
職場に置いてあった携行する灯油缶、ヘルメット等を車に詰め込み、8時30分に出発した。平日だと盛大な出発式があるようだが、土曜日ということで極めてこぢんまりとした、静かな出発となった。同行したメンバーは僕以外いずれも35歳のやや若手3名。この後宮古市で五所川原市、藤崎町の各3名と合流し、4日間がスタートする。

12時30分、集合場所である新里総合事務所に到着。

宮古市新里総合事務所

各市町のメンバーとも初顔合わせで合流し、隣接する新里福祉センター(我々の宿泊所である)で先発隊の隊長から引き継ぎを受ける。
DSC01419 新里福祉センター内
(左:新里福祉センター。右:寝泊まりした部屋。こうやってほぼ雑魚寝状態。)

13時頃、作業を行う新里トレーニングセンターへ。

新里トレーニングセンター

各地から送られてきた物資の入った段ボール箱が所狭しと並べられていて、通用口では食料品などの搬出が行われている真っ最中であった。

新里トレーニングセンター

新里トレーニングセンター

新里トレーニングセンター

新里トレーニングセンター

新里トレーニングセンター
(高く物資が積まれ、壁にはメッセージが貼られている。)

特に儀礼的な引き継ぎがあるわけでもなく、作業が終わるとともに先発隊の人たちは「それではお願いします。」と一言残して、トレセンを去っていった。程なく、各避難所への物資の搬出が始まった。
新里トレーニングセンター 新里トレーニングセンター
ちなみに我々以外に作業をしていたのは、食料を管理し、搬入搬出の指示を出す自衛官が3名、岩手県職員が3名、宮古市職員が3名、自治労(初日は奈良県、京都府、滋賀県。2日目以降は奈良県、京都府、山形県)からの派遣職員が10名ほど、クロネコヤマト社員(中国支部、関東支部、甲信越支部の社員が入れ替わり)が10名、地元のボランティア(市職員OBや元市議会議員など)が10名程度、地元高校生が5~10名程度であった。

簡単に作業の流れを記すと、以下の通りになる。これを4日間続けたことになる。

(午前)
各地から送られた物資を積んだトラックがトレーニングセンターに到着すると、それぞれが台車を手に、トラックから物資を積み下ろし。台車を手にしていない人たちは、トラックからの積み下ろしや、センター内での物資の搬入(日用品、食料品がそれぞれのブロックに分けられており、箱の内容を確認して同じブロックに運ぶ)を手伝う。
宮古地区(市中心部)の避難所は分散されているため、物資の運搬は自衛隊ではなくクロネコヤマトが行う。前日の午後にひとかたまりになった宮古地区への物資をさらに7カ所程度の避難所に運搬するため仕分けを行う。基本的に仕分けはクロネコヤマト社員が全て行うが、物資が多い時はこれをサポートする。ちなみに僕が行った作業は、段ボールに入った野菜を何グラム、何キロと、指示された分だけ重量を量り、袋に入れるというものだった。

(午後)
午前中にクロネコヤマトが搬出した分以外の物資については、自衛隊が毎日炊き出しのため各避難所に運搬する。市内4カ所(津軽石、重茂、田老、宮古小)分の物資については、自衛隊のトラックが到着するたび積み出し作業を行う。
5地区の物資がなくなった後は、自衛隊の指示に従い、翌日搬出するための食料の仕分けを行い、各地区ごとに物資をまとめる。

缶詰が大量に入った段ボール箱や、30キロの米、大人3人でやっと持つことのできる味噌樽、1200食分の乾麺など、腰がおかしくなるぐらい重いものもあれば、椎茸やカップラーメンなど、片手でも楽々運ぶことのできるような軽いものまで、さまざまな物資の搬入搬出、仕分けを行う。

作業時間は朝8時から夕方16時頃まで。多い時は物資を積んだトラックが立て続けにやってくるし、逆に2日目の日曜日はトラックが2台しか来なかった、ということもあった。

手の空いた時間は、宮古市が管理する日用品の整理を行う。僕が手をつけたのはトイレットペーパーやティッシュペーパーといった類の箱の整理整頓だったが、手のついていない日用品が大量に山積みとなっていた。

2日目3日目は、交代で被災地視察を行うこととしていた。我々は3日目に被災地視察を行うこととしていたが、2日目の作業が16時で終わったため、宮古市内と田老地区の視察を行い、3日目は山田町と大槌町の視察を行うことを決めた。
宮古市中心部へは車で約25分。信号は大部分が復旧しており、店舗も営業を再開している。が、やがて跨線橋を越えると、思わず目を覆いたくなるような光景が広がっていた…。

ここが日本なのか?これが日本で起きたことなのか?さながら映画のセットの中にでもいるような錯覚。でも、これは全て現実なのだ。新聞やテレビで見た断片的な光景が、僕の立っている360度全てに広がっている。

宮古市内 宮古市内
 
宮古市内

初めて目にするその光景に、ただただ言葉を失い、唖然とするしかなかった。
宮古市役所に辛うじて明かりがともっているのを確認することができたが、信号は消えており、徐行しながら進んでいった。岩手県でも有数の景勝地である浄土ヶ浜に向かう浄土ヶ浜大橋を歩いてみる。眼下には太平洋。堤防がものの無残に破壊され、橋が落下している。
浄土ヶ浜大橋から

反対側から眼下をのぞき込むと、お墓がなぎ倒され、土台だけが残っている光景。

浄土ヶ浜大橋から

その先には、さっき見た廃墟のような町並みが広がっている。

誰もが無言となって車に乗り込む。田老地区へ向かう道中も、無言。
高台は何事もなかったのような、普通の光景。トンネルを抜け、坂を下り始める。太平洋が見え始めるとともに、無残にも津波によって破壊された建物や船が見え始める。やがて右手に長い防潮堤が見えてくると、さらに愕然とするような光景が広がっていた。

田老地区。延長2.5キロにも及ぶ海抜10メートルの防潮堤。昭和8年の昭和三陸大津波を教訓に築き上げられたものであるが、今回の地震においては、残念ながら何の用もなさなかった。残念ながら、この防潮堤があるから大丈夫、という過信で命を落とした人がいたという。
実際防潮堤に上ってみると、防潮堤の両側に無残な光景が広がる。
宮古市田老地区 

宮古市田老地区 

津波によってひっくり返された無数の車、そして、赤くペイントされた×マーク…。

宮古市田老地区

一体どれだけの津波が押し寄せたのか。そして、その津波が駆け上がった防潮堤に立っているだけで息苦しくなるような光景が眼下にあった。

3日目。
14時頃に作業が一段落したので、予定通り山田町~大槌町の視察を行った。当初は山田町までの視察を予定していたのだが、大槌町の惨状も見た方がよい、という地元の人の後押しもあって、向かうことにした。

三陸道(宮古道路)を南下し、国道45号との交差点が近づくと、昨日見たのと同じ光景がまた広がり始める。
山田町は解体されていない建物が多く残ったままで、自衛隊が作業に取りかかっていた。
岩手県山田町
 
岩手県山田町

途中の浪板海岸は、サーフィンの名所でもあるようだが、サーフィン客が宿泊に利用するホテルには、車が突っ込んでいた。

大槌町浪板海岸

大槌町浪板海岸 

大槌町はさらに無残な光景が広がっていて、中心部は道路状況もかなり酷い状態だった。
神奈川県警の機動隊車両が配置されている。どうやら捜索活動がまだ続いているらしい。 大槌町内

大槌町役場の前。なぎ倒された看板の上に、花が供えられていた。そっと手を合わせ、役場に一礼し、緊張感漂うこの地域を後にした。
大槌町内 

大槌町内

山と谷の連続するリアス式海岸。山はまるで、何事もなかったかのような佇まいを気取る。が、坂を下ると、谷に作られた町は軒並み津波によって破壊され、その光景の繰り返しが延々100キロ以上に渡って続いているのだ。

一瞬にして津波にのみ込まれ、廃墟と化したその光景を見て、津波、いや自然に対する畏怖の念を抱かずにはいられなかった。

4日目。
遂に最終日を迎えた。終わってみるとあっという間だった。
この日の朝、作業に向かう前に初めて全員を集めた。

隊長という立場でありながら、何一つ隊長らしいことをしなかったことを詫び、最後に隊長からのお願いとして三つ。一つは、自宅に戻り、玄関を開け、靴を脱ぐまで気を抜かないで欲しいということ。もう一つは、いつかこの三陸の地が復興した暁には、もう一度この地を訪れて欲しいということ。最後に、今回のこの作業で、我々の力が少しでも被災地のお役に立てたということを誇りに、それぞれの持ち場に戻って頂きたいということだった。
皆、神妙な面持ちで僕の話に耳を傾けていた。
そして最後に、二度とこういう災害派遣という形で皆さんとお会いすることがないよう願いたい、ということを述べさせて頂き、締めくくった。

12時30分過ぎには福祉センターにおいて次の隊に対する引き継ぎを行い、トレーニングセンターへ。ちょうど午後最初の作業を終えたばかりのようで、全員が待ち構えていた。我々が引き継いだ時とは別に、自然と対峙する形になり、次の隊に「お願いします。」と声を掛けた。一緒に作業してきた自衛隊、自治労、クロネコヤマト、宮古市役所の方々に挨拶を済ませ、センターを去ろうとしたら、自然と拍手が沸き起こった。4日間、他のチームでも引き継ぎが行われていたが、拍手を聞いたのは初めてだった。足を運んで良かった。少しでもお手伝いできて良かった。作業をやり終えたという達成感と満足感、そして「自分の家」に帰ることができるという安堵感が入り交じり、胸にグッとこみ上げる感覚を覚えた。
しかし、宮古をはじめ被災地では「自分の家」を失い、家族や友人を失った人たちが大勢いることを慮ると、自然とそういう感情も消えていった。

作業終了後、隊の人たちとその日の出来事を話し合うことがあったのだが、その中で、地元の方が「修学旅行が延期とか自粛とかいっているけれど、今だからこそ三陸に来て「社会見学」して欲しい。他の地域の小中学生に、この惨状を見て欲しい。ガイドならいくらでもいるから、是非次の世代にこの惨状を教訓として受け継いで欲しい。」といった話をしていた、というのを耳にした。

復興の道のりは遠く険しいかも知れない。がしかし、日本は今まで、幾度となくどん底にたたきつけられ、這い上がってきた。だから絶対、必ず復興する日はやってくる。被災地の皆さん、どうぞ無理をなさらずに。大丈夫、我々がついていますから!


カテゴリー: ただの日記 | コメントする

【今年13杯目】弘前市稲田・弘前Fu麻麺


昨年12月の東北新幹線全線開業日と同日に開店したこの店舗。開店10日後に訪れ、既にレポート済みではあったが、前回のレポートで「あればいいのに」とぼやいていたメニューが新たに追加されたという情報を小耳に挟み、早速店を訪れてみた。

前回の訪問記

前回、開店直後の混雑を予想してなのか狭い店の中に3人の店員がいたが、前回麺の茹で時間を計るタイムキーパー的役割を担っていた人の姿はなかった。今回は厨房の中を少しだけ覗くことができるカウンターに座ってみた。

「麻麺」という店名でありながら、なぜ麻婆ラーメンがなかったのか不思議だったが、どうやら同じ疑問を持つ客が多かったらしく、メニューには「お客様の御要望に応え」との記述が添えられている。そして前回、余りに画像が劣悪で食欲を全くそそらなかったメニューも、新メニューの登場に合わせて画像がかなり改善されていた。よしよし。

土曜の昼だというのに客足が伸びていないのが非常に気にはなったが、今回のお目当てである新メニュー「麻婆らーめん」を早速注文。

しかし、カウンターから厨房を覗き込むと、麺を茹でるための、どこにでもありそうな鍋がガステーブルに置かれている以外、特に何かを炒める音が聞こえるわけでもないし、スープの寸胴も窺うことができない。どうやらカウンターから見えない位置にいろいろ仕掛けが隠されているらしい(笑)。
ピピピピッとタイマーが鳴る直前に麺の湯切りが始まる。やがて運ばれてきた麻婆らーめん。

弘前市稲田・弘前Fu 麻麺

麺が固めに茹でられているのがちょっと気になった(そして、恐らくこの麺は好みが分かれそう)が、スパイスの効いた麻婆豆腐が載っている。
その見た目のボリュームと比較すると、750円という価格設定は正直ちょっと高いかな、という気がしないワケではない。

弘前市稲田・弘前Fu 麻麺

ただ、舌を刺激するような辛みは、開店当初からのメニューであった麻婆豆腐(という名の麻婆飯)よりは若干和らいでおり、辛い中にも「旨い」と感じさせられる味わいに仕上がっている。この辛さはホント癖になりそう。

余談ではあるが、妻はこの日味噌ラーメンをオーダー。メニューとともに画像に収める事はできなかったが、八丁味噌の香りの効いた、いわゆるニンニクや生姜の風味が強い味噌ラーメンとは一線を画した味に仕上がっている。

ふと気がつくと、店内はほとんどの席が客で埋まっていた。うん、いい感じだと思いながら、店を後に。ただ、真夏の入店は正直ちょっと躊躇うかも知れない。


カテゴリー: 飲む食う | コメントする

【今年11杯目】弘前市下白銀町「中華そばマル金」


弘前市樹木にあるTSUTAYAメディアインの駐車場に、夜な夜な出店していた屋台ラーメン「支那そば マル金」が、店舗を構えた「中華そば マル金」として新規オープンしたことを嗅ぎつけた。
我が家からそれほど遠くないということもあり、早速訪れてみた。

実のところ、屋台であった頃は1度しか訪れたことがなく、すっかり味を忘れていた。ただ、化学調味料を一切使用しない素材本来の味を生かしたスープが「旨い!」ということだけ記憶に残っていた。

弘前市・中華そばマル金

土曜の昼。きっと大勢の客でごった返しているのだろう、と思ったら、何とカウンターの2人以外誰もいなかった(笑)。
店内はカウンター席の他テーブル席、更に小上がりもあり、20人は軽く入ることのできるキャパシティ。

メニューは「中華そば」、チャーシュー抜きや大盛、子ども向けの小盛、それから「ライス」の中と小のみ。

ちょっと不安に駆られながらも、中華そばの大盛をオーダーしてみる。
テーブルの上には、スープの味を調整するための醤油の瓶が置かれている(個人的には醤油がテーブルに置かれていると、店の方で味に不安を持っているのかという疑心暗鬼に駆られるのだが)。

 弘前市・中華そばマル金

程なく運ばれてきた中華そば。鶏がベースとなっているようで、魚介のガツンとした強烈な香りは漂ってこない。一口運んでみると、多少甘みのある柔らかい味わい。なるほど口に運んでいくうちに、どんどんクセになっていくのがわかる。

麺はウェーブがかった中細麺。若干柔らかめであったが、オーダーの際に調整をお願いできるらしい。トッピングはチャーシューとネギ、メンマ、そして麩。
 
弘前市・中華そばマル金

弘前市役所のすぐ隣にあるので、ひょっとしたら平日は役所の人たちで賑わっているのかも知れない。
ちなみに駐車場がないため、向かいにある追手門広場の地下駐車場を利用するのがよい。この駐車場は30分まで無料。間違えても真向かいにあるバスプールにこっそり停める、なんてことをしないように。

で、何が一番驚いたって、何と12時10分の時点で4名の家族連れが入店した後、5名で入店してきた若者たちに「ごめんなさーい。今日の昼の部は品切れなんです!」って、え?このお昼時で既に売り切れって、一体どんだけ賑わってるんですか?って感じなんですけど。

しつこいが、僕らが入店したのはちょうどお昼の12時。確かに入れ違いざまに2人が店を後にしたが、一体何食分用意しているのか、大いに謎…って感じ。

ということで、来店の際は事前に可否を確認した方がいいかも知れない。

場所は弘前市役所新館の隣、追手門広場の向かい。土手町循環バスだと、「市役所前」バス停のほぼ目の前にあります。営業時間は11時~14時と17時~21時。もちろん品切れの時点で閉店。日曜日は定休日なので注意を。
電話番号は0172-35-1933。


カテゴリー: 飲む食う | コメントする