2011年1月 5日

5年振りの弘前高校平成元年卒業生同期会「一平会」

僕は、青森県立弘前高校を平成元年3月に卒業した。高校在学の頃は本当に楽しい思い出がたくさんあって、あの頃の友人知人は、今の僕にとってかけがえのない財産だ。

10年前の夏、三十路を迎えてみて、改めて旧交を温めたい、いや、温めて欲しいという思いから一念発起、自ら同期会を企画・開催した。そしてその同期会は「一平会」と名付けられ、今日に至っている。

一平会の立ち上げ当初は、「2年に一度は開催するんだ!」と意気込んだが、実際やってみると、10年前の参加者が60名ほどだったのに対し、開催間隔が短いこともあってか徐々に人数が減り始め、気がつくと30名程度しか参加しないこぢんまりとした会合になってしまった。それは多分、段取りも進行もグダグダで、参加してもあまり面白みを感じない内容だったからなのだろう。

その後会則などを策定してはみたものの、結局会則で2年に一度行うと決めたはずの同期会は、平成18年の開催を最後に、開催のメドすら立たなくなった。

言い訳がましいが、それぞれが家庭を持ち、仕事でもそれなりの役職を与えられ、仕事や子育て、その他いろんなことに追われる日々で、同期会に時間を割くどころではなかった、ということだろうか。

もっとも今回も、三浦会長から「そろそろ...」の声が掛からなければ、6年、7年とブランクが空いていた可能性も否定できない。まさに鶴(ツル?)の一声だった。ただ、決まってから後の動きは非常に早かった。夏ぐらいから準備を始め、お盆の時期に合わせて理事会を兼ねて多方面に声かけ、15名ぐらいが集まって久しぶりの再会を楽しんだ。

そして、あっという間に月日が経ってしまった。

2011年1月2日。
約5年ぶりに開催した同期会には、当時の担任教諭含め45名の方々に集まってもらった。

最近めっきり「司会業」づいている僕は、裏方で事務局を担当しながらこの日も司会進行を務めさせて頂いた。司会席から眺める40名の同期生の顔ぶれは、 18歳の当時のまま...とは行かないまでも、あの日あの時を思い起こさせるような光景だった。
物故者の黙祷。5名の同期生の名前と、38HRの担任だった野呂馨先生の名前を読み上げ、静かに目を伏せる。1分足らずの沈黙の間、卒業して約20年という月日の重みを感じていた(何となくだけれど)。

引き続き総会の議事進行。前々回はいろいろ尽力したことを菊子さんから紹介されて思わず涙ぐんでいたけれど、今回は淡々と進行を務めさせて頂いた。ちなみに「泣いてた?」と何人かに聞かれたが、泣いてません。司会席がホントに暑くて、汗を拭っていただけですので念のため(笑)。

時折ジョークを交えながら進めた総会。議長を務めた三浦会長にはこちら側で勝手に作ったシナリオを事前に送信し、お互い目を通して後はアドリブで、ということになっていた。それでも多分、そつなく進行を務められたはずだ。何よりも、出席者の「大人の対応」にも助けられ、計画どおり20分で総会は終了した。

今回の役員改選に当たって役員を倍増したのは、2019年に予定されている鏡ヶ丘同窓会の担当幹事に向けた布石だ。取りあえず僕は理事を離れ、事務局という立場で、陰から一平会の運営を支えることにした。その方がいろいろ動きやすいと思ったからだ。
監事を除くこれまでの役員も留任しているが、彼らそして僕の思いは、参加して頂ける皆さんに旧交を温めて欲しい、是非また参加したいと思いを抱きながら、後ろ髪を引かれるような思いでそれぞれの生活拠点に戻って頂ければという、それだけだ。
なので次回、4年後に予定される一平会まで、じっくりと構想を練って行ければいいと思っている。

会長に再任された三浦君は、以前と比較すると格段に挨拶が上手くなっていた。時折、当時の担任教諭を弄りながら、思いの丈をぶつける三浦君。その端々には、ようやく一平会の開催にこぎ着けたことへの安堵感も垣間見えた。彼の巧みな話術に、会場は時折笑いに包まれる。やはり彼を会長に推したのは間違いではなかった、と確信した。

癌と闘いながらやって来た学年主任の阿部次男先生。当初予定になかった挨拶をお願いしたところ、何と20分にわたり熱弁を振るって下さった。事務局としてはこれは予定外であったが、皆さん熱心に耳を傾けて下さったことが救いだった。

乾杯の後、懇親会が始まりしばらくすると、誰も自分の席にはおらず、それぞれが旧友との久しぶりの再会を喜んでいる。そういう光景を目の当たりにすることができるだけでも、今回5年ぶりに同期会を開催した意義がある。

そして、今回初めて参加して下さった方も何人かいたけれど、みんなから「開催してくれてありがとう。」と言われたことが、何よりも一番嬉しかった。そして、今回の盛り上がりを見て、多分この先も同じようにやって行ければ、きっと大丈夫なんだという手応えを、初めて感じた。

中締めは坂下十三男先生にお願いしたが、坂下先生は開催時刻を15時ではなく5時(17時)と勘違いしていて、大分宴たけなわの頃にやってきた。壇上に立ち、我々に対する期待を述べて下さったが、一方で、その光景をテーブルから見ていた横山泰久先生、山内誠一先生(現三沢商業高校校長)、櫛引洋一先生(現弘前南高校教頭)の表情を眺めながら、このお三方にも何か一言お話を頂けばよかったと思った。反省。

いろんな事情で参加できなかった方々にも、次回は是非参加して頂きたいと思うし、今回参加して下さった方々には、参加できなかった皆さんにお声かけ頂ければと思う。

案内を出したところ、宛先不明で戻ってきた大量の「行方不明者」の方々についても、会場でいろんな情報が寄せられた。なので、多分次回はもっと多くの方々に確実に案内を出すことができるし、参加して頂ける方も増えると確信している。

ただ、これは事務局としての怠慢が招いた事態であり、もう一歩踏み込んだ調査をすれば、もっともっと行方不明者の数は減っていたはずだ。しかしながら、如何せん今回も片手間での準備作業となってしまったので、そこまで労力を費やす余力と時間がなかった。これは今回一番の反省点として、次回に生かさなければならない。

余談を幾つか。
実は幹事一同、2次会には15~20名程度しか集まらないだろうとタカをくくっていました。ところが蓋を開けてみたら、約30名の方々に集まって頂きました(「日本野鳥の会」が2次会出席予定者の人数を数えたのは会場に伝達しなければならないという理由からです)。本当にありがとうございました。僕は3次会で場を後にしたけれど、その後4次会まで続いていた模様。3次会でも20名近くはいたんじゃないかな?

もう一つ。1次会で会場を後にした阿部先生の送り際に、「お父さんは元気か?」と尋ねられたこと。先生...(苦笑)。

それから。翌日になって某氏からコート取り違えの連絡があったけど、あっさり解決したこと...。

4年後は更に大勢の方々が集まってくれますように。そして、阿部先生が2019年まで生きてますように。ね。
参加して下さった皆さん、本当にありがとうございました。

38HRだった一戸信哉君も当日の模様をブログに掲載しています。

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