2011年12月31日

出会いと別れ、今年一年の締めくくり

今年一年を振り返ってみると、今年の漢字に「絆」が選ばれたように、僕自身も絆を意識せざるを得ない年になりました。ただ、この一年で何ができたかと言われれば何もできなかったように思うし、特に何の成長もしていないような気がします。ブログの記事から今年一年を振り返ってみようと思います。

1月2日。5年ぶりとなる高校同期会「一平会」の開催。「毎度様」だった人もいれば、高校を卒業して以来、二十数年来に再会した人たちもいました。担任の先生5人にも参加して頂き、大盛り上がりの中、無事に終えることができました。

29日にはにいよいよ四十路を迎えたものの、相変わらず戸惑いっぱなしの毎日。

そして迎えた3月11日。
年度末も近づき、普段通り仕事をしていたところに突如やって来た大地震。
電気が止まり、交通網も全てストップし、初めて家に帰れないことに対する恐怖感を覚えました。しかし、迎えに来てもらった妻の車の中で見た想像を絶する光景に言葉を失いました。

あの日を境に、何か自分の中で多少なりの化学反応といえばいいのでしょうか、心境に変化があったような気がします。

4月にはわずか4日間ではありましたが、被災地である宮古市に救援物資の仕分けのお手伝いに行きました。実際その場で目にした光景は、テレビや新聞を通じて報じられるそれとは比較にならないほどの惨状で、ただただ「うわぁ...」と呟いては絶句ばかりしていました。言葉にならない、とはまさにこのことを言うのでしょう。修学旅行で広島の平和記念資料館を訪れた時以来の衝撃でした。

そして今回、宮古市を訪れ、実際に復興活動のお手伝いに携わった時の体験、経験もまた、自分にとっては非常に大きな意味があったように思えますし、この日をきっかけに家族や友人のみならず、色んな人との絆を意識するようになりました。

特に、地元弘前市でFacebookを通じて色んな方々と知り合うことができたのは、僕にとって非常に大きな収穫でした。

7月。吉川晃司と布袋寅泰のユニット、COMPLEXが東日本大震災の復興支援のため電撃的に再結成。運良く2日間行われたコンサート両日のチケットを取ることができました。

ちょうどこの時に合わせ、「一平会の東京支部を開催しよう!」という気運が高まり、コンサートがてらの僕と、この東京支部に出席するだけのために三浦会長が上京。東京近郊在住の同期生9名と我々2名の計11名が一堂に会し、東京都神田にある「跳人」で大盛り上がり。非常に有意義で楽しい会合となりました。

10月。アップルマラソン。今年も10キロを無事走破。そして自己新更新!来年もまだまだ走りますよ!

12月。2年ぶりの人間ドック。毎年必ずといっていいほど何らかの数値が異常を示していて、とりわけ肝機能はもはや絶対的異常値を示していたのだが、今年は何と全て異常なし!オールAですよ、オールA!まぐれ?奇跡?検査機器の故障?まあ、何でもいいんです。だって、オールAなんですから。
そうそう、一生に一度でいいから言ってみたかったんです。年末なので言わせて下さい。「俺を見習いな(笑)」ってね。

年末も押し迫り、一平会の非公式忘年会のアナウンスを投げ込んだところに、訃報が飛び込んできました。恩師・阿部次男先生の逝去。
思えば、正月2日に久しぶりに再会し、「また会いましょう」との約束を果たすことはできませんでした。でも、余命3ヶ月と言われた後、5年も人生を謳歌した先生。きっと何の後悔もなく、黄泉の国を目指していることでしょう。
そして昨日、今年を忘れないための「忘年会」を開催。再び集結した一平会の面々。本当に強い「絆」を意識せざるを得ない、素晴らしい会合となりました。

一年を通じて感じたことは、いつまで経っても何年経っても、僕はやっぱり一人じゃ何もできないし、みんなの支えがあって生きているんだな、ということ。
辛いことがあってもみんなにその辛さを伝えることで僕の痛みは軽減されるし、楽しいことはたくさんの人たちがいればいるほどその楽しさが増幅するんじゃないかな。

皆さん、この一年間を楽しく過ごすことができたのは皆さんのおかげです。僕が苦しい時、辛い時に支えて下さったのも、他ならぬ皆さんです。

今年一年間、本当に,本当にありがとうございました。
来年もまたお世話になります。いよいよ本厄を迎えます。またいろいろ変なこと言うと思いますが、どうぞよろしくお願いします。

2011年12月27日

iPod nano(第1世代)をAppleに送ってみた。

iPod nano (1st generation) 交換プログラム

Apple では、ごく稀に iPod nano (1st generation) のバッテリーが過熱して安全上の問題を引き起こす可能性があることを確認しております。対象となる iPod nano は 2005 年 9 月から 2006 年 12 月の間に販売されたものです。

この問題は、製造上の欠陥があるバッテリーを生産した特定のバッテリーメーカーに原因があることがわかっています。実際に過熱事故が発生する可能性はきわめて低いとはいえ、バッテリーの経年に伴ってその可能性は高くなります。

iPod nano(1st generation)をお持ちのお客様は使用を中止し、下記の要領で無料交換手続きをされることをおすすめいたします。

注意:これは iPod nano (1st generation) に限られた問題であり、他の iPod には影響がありません。

実は我が家には、この交換プログラムの対象となる機種が1つあって、今はあまり使ってはいないんだけれど、ちゃんと充電できるし再生も普通にできる状態になっている。
この交換プログラムが始まったこともメールで知っていたけど、なかなか申し込むタイミングがなくてそのままにしてたのだが、先日になってようやく手続を終えた。

ウェブ上からiPod nanoのシリアルナンバーを入力後、住所と名前、連絡先などをエントリーし、集荷の日時を指定するだけ。

あとは、指定した日時に宅配便のお兄さんがやって来て、「専用の箱をこちらで用意しますのでお預かりします」と、裸のままのiPod nanoをお兄さんに手渡しして手続き完了。あまりにあっけなく、拍子抜けしてしまった。

この次の機種として購入したiPod nanoの第3世代が先にダメになったことを考えると、この第1世代、実は一番動作が安定していて、故障にも強い機種だったのかも知れない。ただし、バッテリーを除いては。

しかし、経産省も問題視したバッテリー発熱問題、爆発事故から約6年も経ったこの期に及んで、何故突然交換プログラムを発表したのか、Apple社の真意はわからない。
大分騒動から落ち着いたから、対象となる機種をもう手放している人も多いからなど、勘ぐればいくらでも勘ぐることができるんだけど、とにかく「やっぱり何か危なっかしいみたいから交換してやろうじゃないか。」ということらしい。

でも、Apple社の製品は芸術的なデザインを有している機種が多いので、この第1世代を手放さずに持っていた人も結構多いんじゃないかな。そういう意味では、予想以上の数のiPod nanoがApple社に送られている可能性も拭いきれない。

2010年にも確か一度このバッテリー交換を行っているのだが、「錆びているから」とか、色々難癖を付けられて交換してもらえなかった人がいたり(苦情の電話を入れたところ、渋々交換に応じたそうだ)したようで、交換プログラムがあるとはいえ、必ずしも交換対象になるかはちょっと怪しいのではないかと踏んでいる。

ただ、わざわざ無料交換手続をおすすめしますといいながら、ごめんなさいやっぱり出来ませんというのは、企業体質以前の問題、そもそも6年も問題を放置してしまったというコンプライアンスにも関わる問題ではないか、と。あ、ちょっと違うかな(笑)。

もう一つビックリしたのが、交換プログラムを利用した人なのかどうかは定かではないのだけれど、iPod nanoの第6世代が送られてきた人がいたらしい、ということだ。まあ、この事実を知って慌てて申し込んだ人も大勢いると思われるけれど、僕もその一人です。ハイ。

確かに文面を読む限りでは、「交換品」とは記載があるが、「何を」交換するとは触れられていない。バッテリーのみなのか、本体そのものなのか、あるいは...。

まあ、6週間待てということなので待ってみましょう。
ちなみに今日になって修理状況のメールが来ました。

お客様の IPOD NANO を 2011-12-27 に Apple リペアセンターにて受領いたしました。修理サービス依頼が完了した時点で、電子メールでお知らせします。

結果はまた改めて。

2011年12月20日

阿部先生、本当にありがとうございました。

作家の獏不次男さん死去

 時代小説「津軽隠密秘帖」や、本紙連載「津軽太平記」で知られる弘前ペンクラブ前会長の獏不次男(ばく・ふじお、本名阿部次男=あべ・つぐお)さんが19日午後3時32分、病気のため弘前市の病院で死去した。77歳。弘前市出身。自宅は弘前市禰宜町1の6。通夜、葬儀の日程は未定。喪主は長男直樹(なおき)氏。

 弘前大学文理学部を卒業。弘前高教頭、三本木高校長、弘前高校長などを務めた。現在は弘前ペンクラブ顧問。

 「津軽隠密秘帖」は2005年発行。実在した隠密帖をめぐる弘前藩と江戸幕府との暗闘を描いた。群雄割拠の戦国時代を舞台に、津軽統一を果たした津軽為信と軍師・沼田面松斎の活躍を書いた時代小説「津軽太平記」は、01年から1年間、東奥日報紙上に連載された。

 このほか、著書に「謎問う標識」「秘密の小凾」「花ものがたり」などがある。

弘前高校一学年在籍時の担任だった阿部次男先生が亡くなった。
恩師の訃報に接し、これほど深い悲しみを覚えるとは思いもしなかった。謹んでお悔やみ申し上げます。

阿部先生は英語の教鞭を執っていて、僕らの頃は卒業時まで学年主任を務めていた。
生徒の間ではずっと「ジナン」と慕われていたが、「実は長男」というどうでもいいようなカミングアウトに、どう反応したらいいのかみんな困惑した、ということもあったっけ。

中学を卒業し、不安と期待の入り交じる中迎えた弘高での学生生活。その時に出会ったのが阿部先生であり、先生が担任を務めていた11HRのみんなとは、今も多くの繋がりを持っていて、僕にとっては本当に貴重な財産だ。

クラスの各役員を決めるということになり、いよいよ最後の最後に残った応援団員。不吉な予感はしたが、くじ引きで当てられたのは僕だった。まさに青天の霹靂、くじ引きで決められたということにも納得が行かず、ホームルーム終了後に職員室でくつろいでいた先生のところを訪れ、辞退を申し入れたところ、「経験未経験は別として、決まったことについて責任を果たすというのも、大事なんじゃないか」と諭された。

結局僕はその後、それまでやったことのなかった応援団という未知の領域に足を踏み入れ、そのまま3年間応援団員として経験を積んだ。

あの頃の経験、そして先生からの助言は、間違いなく今の僕の礎となった。先生の後押しがなければ、応援団に入ろうなんて思わなかったし、ひょっとしたら今みたいな僕はいなかったかも知れない。

何となくのらりくらりとしていて、この人一体何を考えているんだろう、と思ったこともあったけれど、先生は僕たちをしっかりと進むべき方向に導いてくれた。多分、きっと、そうだと思う。

卒業後も先生とはずっと賀状のやりとりを続けていたのだが、確か昨年はこちらに賀状が届かなかった。後で聞いた話では、その頃既にかなり体調を崩されていたとのことだった。

今年の正月2日。5年ぶりに開催した同期会「一平会」(平成元年卒ということで、数ある候補の中から僅差で「一平会」と決まったのだ。)には、病魔を押して会場に来て下さった。
先生を出迎えると、先生は力のない冷たい手で僕の手を握り、「ありがとう、ありがとう。」と耳元で呟いた。

「先生!何だ、元気そうじゃないですか!」

病魔に襲われ病床に伏していたことは噂に聞いていたものの、更に細身となったそのお姿を拝見し、正直ちょっと困惑した。

会場へ案内すると、出席者からは拍手喝采。先生にマイクを向けると、淡々と近況を語り始めた。

実は三途の川を渡りかけたこと、再び娑婆に戻されたこと、ここに来るまで年賀状の返礼を書いていたこと(我が家にもその返礼が届いた)などを淡々と語っていたが、結局あの日拝見したお姿が最後となった。

一平会からの帰り際「お父さんどうしてた?」と何の気なしに尋ねてきた先生。「実は...亡くなったんです。」と答える僕。「ああ、そうだったのかゴメンゴメン。」と背中を弱々しくポンポンと叩く先生。泣きそうになる僕...。
確かあれが最後の会話だった、と記憶している。

先生が言っていたように、先生の教え子の多くの方々が、弘前市のみではなく、もっと大きなものを背負う人材として、各所で活躍されていることだろう。

通夜は12月24日18時から、葬儀は25日12時から。ともに弘前市「公益セレモニーホール」にて。

先生、本当にありがとうございました。

合掌

2011年12月12日

【読了】心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣 / 長谷部誠


サッカー日本代表キャプテンを務め、現在はドイツのブンデスリーガ・ヴォルフスブルク所属のMF長谷部誠による著書。
テレビやマスコミなどでも大々的に取り上げられ、Amazonやその他の書評でも軒並み星が並ぶ良書。

東日本大震災に見舞われ、心のバランスを崩す人も多いと聞くが、そういった中で「心を整える」という言葉が、何か人々を惹きつけるものがあったのだろう、書店で平積みされると軒並み完売となったという。どれだけ素晴らしい書籍なのかと期待しながら手にしてみたが、読み終えるまでかかった期間は何と5か月...。
理由は、いろいろあるのだが、正直言うと途中で読み飽きてしまったのだ。

まず、この書籍は指南書ではない。それだけは断言しよう。こうあるべき、こうするべき...といった「べき」論を述べているのではなく、「私ならこうする」といった長谷部流のメンタル処方箋であり、その内容はむしろ「自伝」に限りなく近い内容だ。

彼の人となり、というか彼が真面目でいろんなことに真摯に取り組んでいることは、本書を読んでいくうちに十分伝わってきた。
が、本書に書かれていること全てに賛同できたかと言えば、残念ながらそういうわけではなかった。なぜならそれは、前述の通り著者が「私ならばこうする」と述べているだけであって、全ての人に当てはまる内容ではないからだ。

つまり、サッカーという競技の中で、ストイックさを求めるのであれば、これぐらいの指南書があってもいいのかも知れないが、じゃあ全ての人にこれがそのまんま当てはまるかと言えば、そうじゃないよな、ということだ。
最初は「ふむふむ」、中盤辺りから「ん?」、後半に入ると「うーん...」、最後は「...。(ペラペラ)←本をめくる音」、こんな感じ。
少なくとも、1年後2年後もう一度読み返したときに参考になるかと言えば、参考になる部分もあるかも知れないが、大概は「そんなことわかっとるわい!」ということになっちゃうかも知れない。

後半で触れられていた「長谷部かっ!」というオチは、笑うに笑えない。真面目すぎるがゆえにネタにされてしまっている著者。裏を返せば、自分にも厳しいが、他人にも厳し過ぎるということ。サッカーをこよなく愛し、サッカー一筋で過ごしてきた27年間、サッカーに人生を掛け、真摯に取り組む姿勢はわからないわけでもないが、どうも私生活を見ていても、いわゆる「遊び」の部分がほとんどないようで、隙がないというかつまらないというか。

まあ、そういうことからも途中で好きなミスチルの曲ベスト15を挟んでみたり(これだってあと2年もすればどうなっているかわからない、というか、著者自身が「しょっちゅう変わる」と言っているようでは参考にもならないのだが)、何となくおちゃらけてみようとする努力は汲む。が、それ以上のものは正直伝わってこなかった。

まあ、かなり話題になったのでこれからこの書籍を手に取る人は少ないのかも知れないが、あくまで長谷部誠というサッカー選手の「持論」であり、「自己啓発」といいながらもその主軸にある「自己」とは、長谷部自身であるということを念頭に、過度な期待はせずに読んだ方がよいかもしれない。

特筆すべきは、この書籍によって得られた印税を全て東日本大震災に寄附する、ということ。正直、その男気は素晴らしいなと思った。

2011年12月 5日

2年ぶりの人間ドック

30歳を過ぎた頃から、職場で募集する人間ドックに申し込むようにしている。
別に無理に人間ドックを受ける必要はないし、職場の定期検診でもそれなりのことは診てくれるのだが、一度人間ドックを受けると、何となく定期検診では物足りなくなった...といえばいいのだろうか、とにかく自分でも理由はわからないのだが、人間ドックへの申し込みは毎年欠かさず行うようにしている。

この人間ドック、確か僕が受診した直後から受診対象年齢が引き上げとなり、更には自己負担(7,500円)があるにもかかわらず、皆さん何か思うところがあるのか、結構競争率が高いらしく、これまで何度か選から漏れている。ちなみに昨年度は、うちの職場内で6名の申し込みがあったうち、僕だけが漏れてしまい、結果職場内の定期検診に回された。職場の人からは、「日頃の行いが...」と言いかけたところでお茶を濁されてしまったが。

今年1月に40歳という節目の年を迎えたこともあり、できれば人間ドックを...と願っていたところ、無事に受診対象となった。

ちなみにこれまで人間ドックを受診したのは通算4回。今回が5回目ということになる。大体2年に1回のペースで受診していることになる。

診察項目は基本的には次の通り。
・身体計測(身長体重・視力・聴力)
・血圧
・尿
・血液(脂質・代謝系・肝機能など)
・眼底
・心電図
・腹部超音波
・X線検査
・大腸ガン検査
・胃がん検査
など。

胃がん検査については、今回の実施機関ではバリウム検査なのだが、他の機関で受診する場合、胃カメラとなることがある(ちなみに機関の指定については希望はできるが必ずしもそこになるとは限らない)。ちなみに僕はこれまで、2度胃カメラ(鼻腔からではない方)を飲んでいる。

いつもより少し遅めに起床、身体を洗い流す。しかし、その後特にすることがない。朝食が取れるわけでもないし、せいぜいトイレに行くことぐらい。
ここで頭をよぎるのが、7時30分からの受付の前に行って並んで検診機関が開くのを待つか、あるいは悠長に受付時間ギリギリの9時を目指していくか。

ここは迷うことなく前者を選択。理由は簡単、腹が減るから(笑)。

7時15分頃に検診機関に到着、駐車場に車を停める。吹雪にもかからず、玄関の前には既に2人が並んでいる。約10分間車内で暖を取り、受付開始のおよそ5分前に車から降り、完全防備で玄関に向かう。順番は4番目。と、並ぶと同時に玄関が開く。何というグッドタイミング。これは朝からツイている。

待合スペースに入り、事前の問診票、大腸ガン検査用の容器を提出し、しばし待合室で暖を取る。ここで結構待たされることが多いので、今日は自ら書籍を持参。静かに読み耽る。

8時。先頭に並んでいた人の名前が呼ばれる。受付開始。当然僕の名前は4番目に呼ばれる。その頃も、続々と外から人が入ってくる。

検査着に着替え、採尿を終え、再度待合室へ。すぐに名前が呼ばれ、いよいよ検査開始。

<身長・体重>
172.9センチ、65.4キロ。体重の1キロ2キロは簡単に増減するので一喜一憂するのもアホらしい話だが、3年前の定期検診では68キロ台を指していたことを思うと、それなりに身体は絞られたんだと思う。問診票に記載漏れがないかチェックを受け、続いて血圧の測定へ。ここからは、完全に流れ作業。

<血圧測定>
116-64
昨年の職場検診では133-75で「軽度異常」と判定された。一時は140(いや、それ以上)台まで上昇したことを考えると、かなり落ち着いたと思う。

<腹部測定>
77センチ
これも前回と変わらず。個人的にはもう少しスリムになっていたと思っていたのだが、寒くなってきたので脂肪を蓄えるようになったのさ(...という言い訳)。

<問診>
異常なし。人よりご飯を食べるスピードが速いということから、もっとゆっくり食事をすること(30回噛め、と言われた。)、毎晩飲酒とのこと、できれば週2日は控えてとの指導あり。.......ハイ。

<眼底検査>
◎◎(←やったことある人ならわかるはず)

<腹部超音波>
2007年の検診で脂肪肝の疑いありとの指摘を受け、僕が走ることを始めるようになったきっかけにもなっている。2009年の検査では、「脂肪が消えてますよ!」と褒められ、ますます走りも酒量も調子に乗ることに...。今回も、丁寧に丁寧に検査されました。ハイ。

<血液検査>
僕にとって最大の関門。何せ私、見た目からもおわかり頂けますとおり、「タンダデネ、ズグナシ(相当の臆病者)」なんですね。注射針はおろか注射器を見ただけで、いや、そのブースに近づいただけで卒倒しそうな気分に。
平静を装って椅子に座るも、実は目が泳いでます。しかし今の機器はホントに凄いですな。検査用紙のタグ(バーコード?)をピッと機器に当てたら、ガシャーン、ガシャーン...と容器が3つ出てきた。ハイ、採血用の容器は3つでーす。

「ちょっと痛いですからね」
「ハイ(心の声:ちょっとだぁ?相当痛いじゃねえかコノヤロー...涙)」

ブスリ...ヌゥ...針が皮膚に突き刺さる感覚がわかる。
嗚呼、血が抜き取られている...汚れたところじゃなくて、綺麗なところを抜いてくれ...。嗚呼...
薄れゆく意識の中、3つ目の容器と針が抜き取られる。

「ハイ、終わりました。暫く押さえていて下さいね。」
「...ハイ。」

よかった。終わった...ちょっと椅子に座って休もうか,と思った途端間髪入れずに「じゃあ、次は心電図へどうぞ。」
えぇっ?休ませてくれないのか...。

<心電図>
心電図のベッドに横たわり、一瞬だけ採血の後の休息。しかし、こちらのことなどお構いなしに検査は続く。
学生の頃一度だけ異常値を示したことがあって、実はちょっとそれが引っかかっているところもあったんだけれど、どうやら今のところは大丈夫らしい。
あっさりと終了。

<視力・聴力>
何となく予感はあったのだが、視力が少しだけ落ちていた。両眼ともに1.2。かつて、両眼ともに2.0だった頃があって驚かれたのだが、今は昔の今昔物語。ぼちぼち老眼入ってくるな。覚悟してます。
聴力検査はいつも思うんですが、リズミカルではなく、もう少しランダムに音を出して下さい(笑)。まあ、異常なしなのでいいんですけどね。

<胃がん検診>
バリウム検査。バリウムを飲むことにはそれほど抵抗はないし、ゲップが出そうになって苦しいのは最初だけ。ただ、今回は前回と違ってた。
「慌てて飲まなくてもいいですからね。ゆっくり飲んで下さい。」
検査技師がバリウムと発泡剤を持ってきて、こちらが口にするのをじっと見ている。

前回、手が滑りそうになった検査台の手すりは、凹凸があって、ちゃんと握ることができるようになっていた。
いよいよ検査開始。検査台の上で回ってみたり、横向いてみたり。多分、ビデオ撮影されていようものなら、真っ先にこの世から抹消したい動画のベスト3に入ることは間違いない。ちなみに第1位は...やめておこう、また現実になっても困るので。
右向け左向け、検査台も前後左右に動き回り、無事検査は終了。検査室から出ると同時に下剤とプラスチック製のコップを手渡される。
鏡を見ると、口の周りのは白いものがこびりついている。丁寧に口の周りを拭いて、下剤を飲み込む。
あとは検査表を提出して、本日の検査終了。

多分「肝機能」でまた引っかかるんだろうな。
...で、一つ思ったことは、そうは言いながらも、全く自制していないな、ということ。要するに人間ドックに行ったという行為によって、自分の身体の管理をしているんだという勘違い。
来年は本厄、ドクターストップです、なんてことになって楽しみを奪われる前に、ちょっと本気で考えよう。
...といいつつサッパドして、昼には中華そばの大盛を注文する為体。駄目だなぁ...。

検査結果が出たら、かかりつけの沢田先生のところにまたお世話になろう...。よろしくお願いします。

2011年12月 1日

残り2年となった。


極力仕事の話はこの場では避けようと思っていたのだが、ちょうど節目の時期だったので、今日は久しぶりに仕事の話をしようと思う。

新公益法人制度改革が平成20年12月1日から施行されてから、昨日で丸3年が過ぎた。

これまでの公益法人のあり方、優遇されていた税制が大幅に見直され、社団法人・財団法人(いわゆる「特例民法法人」)は、平成25年11月末までに公益法人へ移行するか、一般法人へ移行するか、いずれかの選択をしなければならず、更に、行政庁に対して移行認定、認可の申請を行わなければ、平成25年12月1日、つまり2年後の今日をもって「みなし解散」扱いとされてしまう。

この公益法人の制度改革については、財団法人日本相撲協会が公益法人への移行を目指すということで話題性も十分あるのだが、法人の動きは思った以上に鈍く、現在のところ国所管の法人においても申請件数は5割に届いていない。

公益法人改革、半数超が未申請 新制度移行残り2年

 2008年に施行された新公益法人制度をめぐり、旧制度からの移行対象となった国所管の約5千の社団法人と財団法人のうち、新制度への移行が済むか、移行申請中の法人は半数以下の約2400にとどまっていることが29日、内閣府の調べで分かった。

 13年11月末の移行期限内に手続きを完了しない場合は解散とみなされるため、内閣府は手続きを急ぐよう呼び掛けている。八百長など不祥事が相次いだ日本相撲協会や、多額の利益計上が問題となった日本漢字能力検定協会なども対象だが、両組織とも移行を済ませていない。

  【共同通信】平成23年11月29日付
では、青森県の状況はどうかというと、申請を予定している約350法人のうち、11月末現在で申請があったのは、90件超。5割どころか3割にも届いておらず、残り240件が、これから一気に申請に向けて動き出すということになる。

公益法人制度改革関連3法が施行され、誰もが踏み入れたことのない未知の領域に突如放り出された法人側にしてみれば、一体何をどう始めればよいのかわからず、混乱、困惑するのは当然の話。

しかし、法人側も混乱、困惑していれば、審査する行政側も混乱、困惑していたのも事実。

僕がこの業務に携わってから、昨日で1年8か月が経過したことになるが、実際この業務に就いた頃は、何が何だかワケがわからず、法人への応対はするものの、質問には答えられないわ、助言もできないわで、正直言ってボロボロだった。
そりゃそうだ、何せ行政庁がお得意とする「前例」がないのだ。グループそのものが昨年4月に新設されたばかり、そのグループにお呼ばれして着任したまではよかったが、法律だ税務だ会計だと、ちんぷんかんぷんなことばかり。

僕が異動した時は、法律の施行前後からこの業務に携わっていたエキスパートのSさんがいたので一年間を何とかしのいだが、そのSさんも今年4月の異動でいなくなってしまった。

前例がないなら前例を作るしかないんだ、と割り切って早1年8か月。まだまだ知識は浅く、正直言って適時適切な指導ができているというところまでは行かないが、それでも審査を重ねるうちに、ある程度の対応・助言をすることは何とかなっているのかな、と自負している。

また、当初懸念されていた審議会の運営も何とか軌道に乗り始めた先日、とある重大な事案が勃発し、こちらはこの期に及んでの軌道修正を迫られることになりそうだ。

がしかし、時間は待ってくれないし、法人側にしてみればそんなことは知った事ではない。

なので、僕たちは少しでも早期申請に向けたお手伝い(後押し)をしつつ、申請案件を早く審議会に諮り、法人の方々を安堵させなければならない。そういう役割なんだと思っている。

その一方で、この1年8か月の間に経験した苦悩や舐めさせられた辛酸、苦渋は数知れず。
前にもちょっとこぼしたのだが、一言に法人といってもその態様は種々様々である。

何度も聞き取りや打合せを行い、ようやく申請にこぎ着けたまではよかったのだが、移行後のビジョンをきちんと描けぬまま申請したため、申請の取り下げを余儀なくされる、という法人があった。

公益法人に移行した後は、認定基準そのものが移行後の遵守事項になるほか、会計基準についても20年基準を適用しなければならず、しかも事業報告のみならず事業計画も毎年度提出しなければならない。

公益法人への移行後は、税制面では大きな恩恵を受ける反面、法人の運営(ガバナンス)については、これまで同様あるいはそれ以上の内容を求められることとなる。事業報告はもとより、事業計画も提出しなければならないし、事業報告に至っては申請書みたいな内容をずーっと作成し続けなければならない。

そういうことからも、「公益法人に移行するより一般法人に移行した方が楽だ」という法人もあるようだが、一般法人に移行する際に作成しなければならない「公益目的支出計画」の内容を理解できず、苦慮している法人も多いと聞く。

また、申請前後における打合せにおいて、こちらからの「こうした方がいいんじゃないですか?ここを修正した方がいいと思いますよ。」という老婆心丸出しの助言・指導に対し、「何でそこまでする必要があるんだ?」と反論されたり、修正を拒まれるというケースもなきにしもあらず。

こういった事情から、法人側とコミュニケーションを取るはずが、険悪になったことも実際あった。

しかし、こちらも法人担当者も思いは一つのはず。
「審議会に諮りたい、諮って欲しい。答申決定したい、して欲しい。」

大体最後は双方の思いが通じて、無事審議会を通過した暁には、過去の軋轢なんてお互い水に流しましょう、ということになるのが普通だ。

審査するこちらとしては月末に行われる審議会に諮り、何とか答申決定して欲しいという一心で作業をしているのだが、ここで非常に重要なのが法人側とのコミュニケーションである。

こちらとしては別に法人に対して意地悪をしてやろう、なんていうつもりは毛頭無く(当たり前か)、審議会に諮りたい、答申決定して欲しい、という一心だけで申請書類の審査を行っている。

何せ審議会の答申決定がされなければ、いくら内容が素晴らしい申請書であっても認定・認可できない、というのが現状。しかも、いかにも行政にありがちな「てにをは」や申請内容の体裁にまでケチがつくことがある。(まぁ、これは電子申請のフォーマットが悪いんだと僕は思っているけれど。)

これまでも、説明不足や事業内容への疑義から継続審議となった案件が幾つかあるのも事実。結果、法人側に更なる労力をいろいろと課すことになり、正直申し訳ないところもある。

でも、この際だから、改めて言います。

法人の皆さん、申請したら何とかなる、という考えは捨てて下さい。ついでに言うならば、最終判断は我々ではなく審議会。この関門をクリアしない限りは、いくら我々に悪態をついても、どうにもならないものはどうにもならないということです。

我々は、審議会での答申決定を目指して審査を進めています。少なくとも、青森県からは不認定・不認可事案だけは出したくないという思いを抱いています。

そういう思いからの指導・助言であるため、時には手厳しい事を言うかも知れませんが、今一度原点に立ち返り、法人として何を目指すのか、どういった公益を生み出すための法人なのかということを見つめ直して下さい。

不明な点がありましたら、何なりと御相談を。

今月のスケジュール

12月19日(月) 申請書類作成方法に関する説明会(公益法人移行を目指す法人向け
12月20日(火) 申請書類作成方法に関する説明会(一般法人移行を目指す法人向け

詳しくは、こちらから。

12月22日(木) 平成23年度第8回青森県公益認定等審議会