2012年3月30日

19年目が終了。

平成23年度の仕事が終わりました。イヤ、正しくは取りあえず一区切り付けて、帰路に就いただけの話ですが。

あまり年度の区切りは意識していなかったのですが、今年度はどういうワケか何となく大きな区切りと転機を迎えたような、そういった思いを抱いています。何でかな、と思ったら、今年で勤続19年目。恐らくその時期を迎える頃には状況が変わっていると思うのですが、今の60歳定年制がそのまま敷かれていると仮定すると、ちょうど折り返しを迎える、ということに。

さて、そんな折り返しの今日は、午後になってこれまで全く気配のなかった法人から、立て続けに駆け込みの認可申請が2件。結果、平成23年度の最後は積み残しだらけになってしまいましたが、こればかりは仕方ないです。ウン、やむを得ない。

新公益法人制度の業務に携わって丸2年が過ぎようとしています。制度そのものは平成20年12月からスタートし、いよいよ平成25年11月末というゴールが見え隠れする時期となり、来週から始まる平成24年度は、特例民法法人からの移行申請も本格化することでしょう。

このブログをご覧頂いている皆様の中にも、法人関係者がおられることと思います。
幾度となくお話をさせて頂いていますが、移行申請をして、認定・認可を得ることがゴールではありません。認定・認可を受け、移行後の新法人としてスタートし、法人の活動を軌道に乗せることがゴールだと僕は考えています。

移行した後も法人の運営方法や事業の進め方、予算・決算の策定方法など、不安を抱いている法人関係者も少なくないようです。個人的には、皆様の疑問や不安が少しでも解消されるよう、引き続きお手伝いをさせて頂きたいと考えていますし、グループ員も同じ思いで対応させて頂きますので、何なりとご相談下さい。

さて、終わってみると反省ばかりではなく、それなりの満足感も得られた一年間でした。しかしこれで終わりではなく、また来週からは一見すると何の変わりもない新しいステージがスタートします。

3年目、そして移行申請がいよいよ本格化する平成24年度。来年度もほどほどに頑張りたいと思います。
皆様、よろしくお願い申し上げます。

2012年3月25日

Princeよ、お前もか(笑)



ワーナーは過去の名盤、迷盤をコンパイルしたボックスセットを発売することに躍起になっているようで、「Original Album Classics」と銘打ったボックスセットがシリーズ化されているようです。
昨日Madonnaを紹介したばかりなのですが、愛すべき小っちゃいオッサン、Princeもそのシリーズに名を連ねるということで、今日はその作品を紹介。
はい、こちらです。ドーン。

多分ファンの方であれば、ほとんど食指の伸びない作品かも知れません(笑)。え?僕だけですか?
個人的な理由としては、

・収録されている作品の基準がよくわからない。
・リマスターされた作品なのかどうかもわからない。
・それ以外に特筆すべきことがない。

今回収録される5作品は、「1999」「Purple Rain」「Parade」「Lovesexy」「Diamonds and Pearls」。
初期の作品は見事に蔑ろにされているほか、「Purple Rain」の後に発売された名盤「Around The World In A Day」、そして「Sign O'The Times」も収録されていません(「BATMAN」というサントラもありますが、あれは完全に括りが別の模様)。あ、そういえば「Graffiti Bridge」というサントラもありましたね...。
ということで、何でこの5枚だったのかがよくわからないのですが、4月10日に発売されるらしいです。Amazonだと一枚あたり500円弱とこちらもお買い得。でも、個人的には散財しなくてもいいような気が、この作品に関しては。

2012年3月24日

Madonna、まさにコンプリートアルバム!



いよいよ4年ぶりとなるオリジナルアルバム「MDNA」の発売が間近に迫ったMadonna姐さん。今作はユニバーサルからの発売になるのですが、デビューから前作までの発売レーベルであったワーナーが、何ととんでもないボックスセットを発売することを知りました。それが、こちら。

デビュー作から前作「HARD CANDY」までのオリジナルアルバム全11作をコンパイルしたボックスセット!
ブックレットは同梱されてなく、紙ジャケでの封入とのことですので、作り自体はかなりチープかも知れません。

ただ、問題はその価格。
Amazonだと、1枚あたり約300円...。凄くないっすか?これ。投げ売り、といっては失礼ですが、Madonna姐さんから販売差し止めの訴訟でも起こされそうな気がしないわけでもなく...(笑)。

「音」に関しての情報が入っていないので、果たしてリマスターを施したものなのか当時の音源そのままなのかはわかりません。まぁ、価格を考えると、その期待を抱くこと自体ナンセンスなのかも。

あ、新譜はこちらですよ。

2012年3月22日

RUN TOGETHER MARCH 11

3月11日、Nikeの呼びかけにより、「RUN TOGETHER MARCH 11」という企画が行われました。
どのような企画かと言いますと、Nike+のプロダクツを有するランナーが集い、3月11日、どこでもいいのでとにかく走る。そしてその走行データをNike+に送信すれば、その走行距離に応じ、1キロ当たり500円の寄附がされる、というものでした(ただし上限は2,000万円とのこと)。

自分の足が何らかの役に立つなら、と思い、迷うことなくエントリー。
3月11日、この日は腰に痛みがありました。理由はハッキリしていました。前日、家の前の通路の雪かきを一生懸命やり過ぎたため。

15時30分過ぎにようやく重い腰を上げ、ストレッチもほどほどに弘前市内へと繰り出しました。
当初の目標は12キロだったのですが、いざ走ってみると足も腰も鉛がぶら下がったように重く、なかなか足が前に進みません。
しかも、顔を叩くような冷たい風が更に走る気力を削いでいき、結局、7.7キロを走ったところで走行を断念。外気温マイナスという天気もさることながら、身体のコンディションがあまりにも悪すぎた...。

しかしこの取組み、終わってみると9,600人を超えるランナーが参加し、各ランナーの走行距離を累積すると、日本を3周以上周回する約113,800キロに達したそうです。

ザッと換算すると、一人当たりの平均走行距離は約11.8キロ。
やっぱり12キロぐらいは走っておけばよかったかな...(苦笑)。

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2012年3月19日

おら、いぎでら。

別に隠す事でもないと僕は思っていますですが、僕はこの世に「逆子」の状態で生まれて来ました。母曰く「首にへその緒が絡まって、仮死状態だった。真っ黒だった」らしく、「取り上げてくれた助産師が尻を叩いて、ようやく泣いた」そうです。

ちなみに、僕が母のお腹の中にいた時、僕が逆子であることをいち早く見抜いた人は、ある助産婦さんでした。実はそれは母の伯母さんに当たる人なのですが、その方が先日亡くなった事を母から聞かされました。

僕がここまで生きて来れたのは、元を辿ればその人のお陰。それを思うと、何ともやりきれぬ思いに駆られています。

きれいごと、と笑われるかも知れないけど、僕はこの世に生かされているんだと思っています。いろいろ...それは一言では語り尽くせぬほど本当に色んな事があった41年だけど、この世で生きて行かなければならない何らかの理由があって、この命を受けたのだと思っています。

住み心地の悪い社会かも知れませんし、昨今の状況を考えると住みやすい環境からは程遠くなってしまった感も否めません。でも、せっかくの機会なので頂いた命の意味を考えつつ、この世の世知辛さとやらを、もうちょっと噛み締めてみようかと思います。

明日は彼岸の中日ですね。

合掌

2012年3月10日

ガンダム世代ではありますが...。


職場の同僚から飲みに誘われ、一次会を終えてもう一軒、ということになり、連れて行かれたのがこのお店。
はい、ガンダムファン御用達のバー、「G-Dining bar ZEON」(青森市古川1丁目)です。


大きな地図で見る

僕は41歳なので、いわゆるガンダム世代の中心みたいなものなんですが...。
実は僕、ガンダムってよく知らないんですよね(苦笑)。

店に通じる階段を上ると、カウンター席にはズラリと男子が...。そして、何をしているのかといえば、一同画面に流れるDVDに釘付け。
奥のテーブル席に通され座ると、テーブルの上に置かれていたのは、ん?
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)

呼び出し用のボタンです。ドムでしたっけ?他のキャラクターのものもありました。まぁ、無理矢理感は否めませんが(笑)。
ふと背後を見ると、同じキャラがズラリと...。すいません、マジで名前知らないんです。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)

メニューをちょっとだけ。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)

僕は別種類の黒ビール(アサヒ・ヱビス・ギネス)が3本セットになった何とかいうのを頼んだんですが、もうその頃には結構酔っぱらっていて、ワケわからなくなってました。
「蒔苗さん、なにバシャバシャ写真撮ってるんですか!ブロガーみたいじゃないですか!」

いやだってさ、こういうのって興味あっても何となく入りづらいって思っている人もいるかも知れないじゃない?そういう人たちのために潜入レポですよ。

続けます(笑)。
店内はこんな感じで結構薄暗いです。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)

よく見ると、お面を上手く使っているんですね。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)

ピンボケですいません。
トイレに入ったら、全国各地に同じような店があるらしく、日本地図が貼られていました。凄いですね、各地にあるんですね。
G-Dining bar ZEON(青森市古川1丁目)

食べ物(つまみ)はそれなりに美味しかったです。
前述の通り僕はガンダムってよくわからないしあまり興味もなかったのですが、一緒に行った人たちはそれなりに楽しんでいたようです。

〒030-0862 青森県青森市古川1-18-10
TEL 017-752-1269
FAX 017-752-1269

営業時間
月~木・日・祝 17:00~24:00(L.O.23:15)
金・土 17:00~01:00(L.O.24:15)
定休日 不定休

2012年3月 7日

祖母の命日

3月7日は、父方の祖母の命日である。父がこの世からいなくなるまではあまり意識していなかった3月7日、奇しくも父の命日が9月7日であったことから、ちょうど半年のブランクがあるということで、否が応でも意識をせざるを得なくなった。祖母には申し訳ないが、僕の中では「祖母の命日」というよりも「父の6ヶ月目の月命日」ということで3月7日という日を強く認識するようになった。

祖母が亡くなったのは、僕が中学1年の時だ。祖母は昔から鼻腔のあたりに腫瘍があったらしく、頻繁に大学病院で手術を施した。その回数は一体何度なのかはわからないが、手術後は我が家で1~2日(それ以上の時もあった)静養し、そして自宅のある西目屋村大秋に帰るというのが常だった。

そして、僕が小学生の頃は、手術前あるいは手術後に我が家で静養する祖母と一緒の布団で横になり、祖母から色んな話を聞かせてもらった。それは、祖母が中国に行った時の話であったり、祖父の話であったり、幼い頃の父の話であったり...。とにかく色んな話ではあったのだが、残念ながら今となっては、そのほとんどが僕の記憶の片隅から消え去ろうとしているような状況だ。親戚の皆さんごめんなさい。

幾度となく大学病院への入院も余儀なくされ、また、その間生命の危機に晒されながらも、祖母は生き存えた。

一時祖母の容態が悪化した時、ちょうど仕事の関係で札幌に出張していた父からは、連日のように電話が掛かってきた。今になって思い起こせば、家族(肉親)の身を案じ、連日のように電話をしてきた父というのは、あれが最初で最後だったと思う。

やがて祖母は記憶の欠片を徐々に失い、危篤状態に陥った。祖母危篤の報を受け、我が家からそれほど離れていない大学病院に父と母が向かい、僕と妹は留守を預かっていた。
程なく母から電話があり、祖母が他界したことを伝えられた。
外孫だったこともあってだろうか、「ああ、そうか。」ぐらいにしか思わなかったのだが、仏壇にろうそくと線香を供え、東側にある窓の向こうで明かりを放つ大学病院に向かって、手を合わせたことは今でも記憶として残っている。それが当時の僕がすることのできた、最大の供養だった。

未明に帰宅した父の目が真っ赤に腫れ上がっていた。父が涙に暮れた姿を見たのは、それが初めてだった。父の年齢は当時36歳、だったかな。僕が父と別れた時が37歳。こういう奇遇は全くもって必要ない。

しかし、祖母の訃報に接しても、多分それほど深い悲しみを覚えなかったのは、外孫であることはもとより、父が幼い頃に養子として出され、本来の姓である「三上」を名乗っていなかったことも伏線としてあったのかも知れない。

父が亡くなった時に、親戚から祖母がうちの父を養子に出したことを本当に悔やんでいたということを聞いたのだが、残念ながらそれは一番伝えたかった父の耳には届けることができなかった。しかしその時ふと思ったのだが、僕にとっては父が養子だろうと何だろうと、祖母が「三上家の祖母」であることには何の変わりもなかったのだ、と...。

祖母は、僕たち外孫に対しては厳しい顔をほとんど見せなかったが、内孫をはじめとする同居家族に対しては、相当厳しかったということを、後になって誰からともなく聞いたことを覚えている。

そして、祖母の御通夜は、祖母が嫁いだ(=父が生まれた)西目屋村大秋地区と白沢地区の中間にある公民館で営まれたのだが、この日は大雪と悪天候に見舞われ、車でやってくることができず、村役場に車を置いて何分もかけて山道(くねくねしたカーブが断続的に続くのだ)を登ってきた人が大勢いたことも、後になって聞かされた。

祖母とは、13年間という短い期間しか同じ時間を過ごすことのできなかった。
記憶として残っているのは、弘前市鍛冶町にある「藪そば」が好きだったこと、そして、僕たち子どもがいようといまいと構わず父のことをいつまで経っても「ヒロちゃん」と読んでいたこと(その名残りとして、未だに父方の親戚のことは、伯父叔母問わず「ちゃん」付けで名前を呼ぶ)。

祖母が亡くなって28年、そして父が亡くなって3年半が経つ。
父は、三途の川を渡るのも難儀だっただろうし、無事に仏に仕えることができたかすらも怪しいが、先に行っていた祖父や祖母と再会を無事果たしただろうか。

再会した暁には、父の姿を見つけた祖母ならきっと目くじらを立てて父のことを怒鳴りつけていることだろう。

「ワイワイワイワイ、ヒロちゃん...。アンダマンダ、何やってらのシ!」

合掌

2012年3月 1日

旅立ち、別れ、出会いの春

県内8割の高校で卒業式

 県内の8割の高校で1日、卒業式が行われた。卒業生たちは教職員や保護者、後輩たちに見守られ、思い出が詰まった学びやを巣立った。(平成24年3月1日付けWeb東奥)

卒業を迎えられた高校生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。これからそれぞれの道に進まれることと思いますが、皆様の前途が洋々であることを心から祈念します。

希望を胸に社会に足を踏み出してはみたものの、夢や理想と現実とのギャップに悩むこともあるかも知れません。でも、残念ながら皆さんの描く夢や理想は、一朝一夕で手に入るものではありません。
そのギャップを乗り越えてこそ、初めて夢や理想が近づいてくることを忘れないで下さい。

これから少しずつ、そして確実に、社会の荒波が皆さんの足下に押し寄せてきます。その波は、時に皆さんの足を掬ってしまうぐらい強いことがあるかも知れません。

どうぞ皆さん、これから社会に出ても浮き足立たず、今の立ち位置をしっかりと確認して下さい。足下がおぼつかない時は、一人で踏ん張るのではなく、遠慮なく周囲に助けを求めて下さい。

そして、最後まで確実に皆さんの足下を照らし、皆さんに救いの手をさしのべてくれるのは、皆さんのご家族です。
どうか、お父さんお母さんをはじめとするご家族を大切にして下さい。

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僕が高校を卒業したのは平成元年なので、年号の経過がそのまま高校を卒業してから何年経ったかを示す。今年でもう24年も経つわけだ...。ということは、高校を卒業してから来年で四半世紀、ということになる。何か、急に凄く老け込んだ気分(苦笑)。

卒業式が終わり、教室に戻り、担任だったK先生が涙をこらえながら最後の訓示を述べた。聞くと先生にとって、僕らが最初の卒業生だったらしい。
先生の指示で、同級生の一人がアコギを奏で、みんなで唄った長渕剛の「乾杯」。男子も女子も関係なく、唄いながら涙を流していた。突然教室から歌声が聞こえたため、隣のクラスでは何事が起きたと覗き込む人もいた。

その後僕は、同級生のケンちゃん(現在同業者です)と、教室の隅にあったロッカーの脇で、人目も憚らず号泣していた。それだけこのクラスのみんなと離ればなれになることが、本当に寂しかった。

別に誰からボタンをせがまれることもなく、誰から花をもらうこともなく、誰から胴上げされることもなかった卒業式だったけれど(笑)、この学校で3年間過ごせて本当に良かった、そんな充実感に満ちあふれつつ、どこか後ろ髪を引かれる思いで、学校をあとにした。

あれから24年。
考えてみると高校を卒業してから24年間、全然会っていない人もいるし、しょっちゅう顔を合わせる人もいる。
ひょっとしたらお互い風貌が変わりすぎて、再会しても誰だかわからない人だっているかも知れないな、とか思ったり。

それでも不思議なことに、昨年の暮れもそうだったけれど、20年以上経って久し振りに級友と再会しても、全くと言っていいほど違和感がなかった。お互いに年は取ったが、まるでスゥッと、学ランを羽織っていたあの頃にタイムスリップしたような感覚が蘇るというか。

10代20代の頃は、都会(まぁ、青森県外に出ればどこでも都会、みたいな錯覚もあったような気がするけど)で暮らすことのステータスというか、優越感のようなものがあったような気がするし、ずっと青森県内、とりわけ自宅のある弘前市内(しかも僕の場合、自宅の半径1キロ以内に小学校から大学まで全てが存在していた)で全てを完結することのできた僕からしてみれば、新しい土地で新しいスタートを切った同期生に、一種の羨望のようなものもあったのも事実だ。

やがて年を重ねるにつれ、都会への羨望は薄れ、むしろ田舎(地元)で生活していることへの優越感の方が強くなってきた。

30代半ばを過ぎてから、県外に住む同期生たちとも会う機会が増え、「地元に帰りたいよなぁ」なんていう郷愁っぽい話を聞くことが多くなった。
そのたびに、地元にいる人間の一人として、彼らが帰省した時にでも、昔を懐かしむことのできる場所を用意しなければ、という思いに駆られる。

幾度となくこのブログでもお話ししているけど、僕にとっての高校生活は、本当に充実した3年間だった。素晴らしい級友、学友、先輩、後輩、そして教職員に恵まれたと思っているし、あの3年間がなかったら、今の僕はないと断言しても過言じゃないぐらい、それぐらい充実した3年間だった。
高校時代の友人は、僕にとって一生の友であると断言できるぐらい、充実していた。

今でも、あの卒業式の日のことを思い出すと、グッと胸に迫るものがある。
そして今でもあの時の思いは色あせぬまま、僕なりにがんばってます(笑)。

3月って、やっぱり何か切ないね。