2012年5月28日

3年ぶりの釣行


隅一【すみ・いち】 野球で、一回に一点入れただけでその後、点が入らないこと。

てっきり2年ぶりだと思っていたら、実は3年ぶりとなる釣りに行ってきた。ひょっとしたらもう行くことはないのかな、とか思ったけど、思いは通じるものだな、とか思ったり。

事の発端は、土曜日14時頃ケータイに掛かってきた一本の電話。
発信元は、平日教師週末漁師のタガシ先生。むむ...何かあったのかな?
「おう、久し振り。あのさ...いきなりなんだけど明日釣りに行かない?」
突然のお誘いに一瞬戸惑う僕。しかし次の瞬間、「行く!行きます!」と、自分の都合だけで行くことを勝手に決定。
事後承諾を取るため隣で買い物をしていた妻に確認すると「うん、いいんじゃない?行ってくれば?」と快諾。
ということで、約3年ぶりとなる釣行が決定!

家に帰り、部屋に置いてあった竿を取り出すと、これがまた埃だらけ。そりゃそうですよ、3年間まるで使っていなかったんだから。ええと、仕掛け仕掛け...と。あれ?リールはどこへ行ったっけ?
物置に押し込められた仕掛け、リールを見つけ、蓋を開けてみて愕然。
釣り針が...錆びてる。リールが...動かない。

換え針を血眼になって探し、リールには潤滑油を差しまくり、何とか釣りのできる体裁は整った。おお...3年ぶりのライフジャケットもヨレヨレになってるじゃないか。

控えめに小さなクーラーと、一番大事な酔い止めの薬、これも購入してから3年以上経過しているので効くかどうかはわからないが、取りあえず気休めということで用意。

一通り準備を終え、20時過ぎに強引に就寝。うつらうつらではあったが、何とか未明の2時まで眠ることができた。

2時30分。まだ酔っ払いの乗ったタクシーが走る中、暗闇の中に、竿を片手に佇む怪しい人影。
...ハイ、僕です。

タガシ先生は程なくやって来た。挨拶もそこそこに、出発地となる外ヶ浜町(旧:蟹田町)へGO。

途中コンビニに立ち寄り、食料と水を購入。今回お世話になる船がどれぐらい海上にいるかわからないということで、いつもより少し多いかな?というぐらいの量を購入。
でも僕、家からバナナ2本も持参してたんだよね。

出港予定時刻である4時10分前、待ち合わせ場所の船溜まりに到着。今回の船長は僕の同業者であるSさん。直接一緒に仕事をしたことはないのだが、以前電車の中で知人を通じて釣りの話になり、「今度乗りますか?」「ええ、是非。」なんていう社交辞令的会話を繰り広げていたのだ。ちなみに現在も、同じ車両で通勤しているという...。
人のご縁とはわからないもので、そのSさんとタガシ先生の娘さんが中学校で一緒の部活に所属しているらしく、そのことがきっかけで今回の話になった、とのこと。
どうやらタガシ先生は事前に「Sさんと同業の友人と一緒に行く」とメールしたらしく、到着するなりSさん「やっぱりー。」と笑顔。なかなか勘が鋭いです。でも、Sさん確か僕の名前知らないよね(爆)。まあいいや。更にもう一人同業の方を加えた4名で、いざ出港。

東の空はオレンジ色が広がっているが、まだ日も昇っていない。
陸奥湾を疾走する船。Sさん、結構飛ばす。思いの外風が冷たい。いや、日が昇っていないので寒いのだ。もう少し着込んでくれば良かったと、ちょっと後悔。

程なく東の空から日が昇る。

「おお、ご来光じゃないか。」
意味もなく手を合わせる。もちろん釣れますように、そして無事に帰れますようにと願いを込めて。

これまでも何となく釣り好きをアピールしていたが、実は僕、すぐ船酔いする体質。ちょっと白波が立とうものなら、ものの30分もせずにマーライオンよろしく船体にもたれかかる姿を見ることができる。更にその後はひたすら寝て、寝て、そして寝る...。一体釣りをしに来たのかそれとも寝るために来たのかよくわからないぐらい。
ただし、嘔吐と睡眠を繰り返しつつ、その合間におもむろに糸を垂らしてはしっかりと獲物を釣り上げたりするものだから、周囲の人たちは呆れながら「出た!眠り釣法!」といって笑っていた。もっとも、当の本人は釣りも嘔吐もイッパイイッパイで、早く陸に上げてくれることしか願っていないのだけど。

ただし今回は主戦場が陸奥湾である。日本海の波とは比較にならないぐらい穏やか、なハズなのだ。もちろん事前に(効くか効かないかわからない)酔い止めの薬を服用し、更に両腕には「シーバンド」と呼ばれる、酔い止めのツボを刺激するリストまで装着済み。気休めに過ぎないかも知れないが、一応準備は万端なのだ。

さて、旧蟹田町の船溜まりを出港したSさんの船は、気がつくと陸奥湾を北上し、旧平舘村の沖合へと来ていた。
まだ周囲に船は少なく、やはりこの時間だとまだ早いらしい。
「この辺が前、良かったんだよな。」
そう言って仕掛けをセット。
さて、今回の仕掛け、何とエサがありません。糸にジグと呼ばれるいわばルアーを装着して、おしまい。あのウニョウニョしたイソメも、エビも、一切なし。
これを水深10~30メートルのところまで沈ませ、後はひたすらリールを巻き続けると、今回のターゲットである真鯛が、小魚と間違えてガツンと食ってくる、ということらしい。

エサで釣る方法で慣れた僕としては、この3年間で起こった釣法の変化(といっても以前からこういう釣り方はあったようだが)に戸惑い、ホントに釣れるのか半信半疑。
実際、最初のポイントで言われたとおりに仕掛けを放り投げても、誰の竿にも何の反応もない。

ホントに釣れるんだベガ?
ますます深まる疑念。エサ釣りの方がいいんじゃないの?
思えば平舘沖はこれで二度目だが、前回は総スカンを食らい、誰にも何も釣れなかったという苦い思い出がある。

「移動。」
Sさんがポツリとつぶやき、再び船は北を目指す。霧の未だ引いていない遠くには下北半島の仏ヶ浦がうっすらと浮かび上がっている。

「あ...。」
更に北上を続けると、そこには驚きの光景が待ち構えていた。何と、無数の船があちらこちらに停まり、その船からは各々竿を持つ人影が見えるのだ。釣れているから船が集まる。釣れていなければ船は散る。船釣りなんて、そんなものだ。
一体この人たちは何時から釣りをしていたんだろう?時間は未だ5時を過ぎたばかり。完全に出遅れた感がプンプン漂っている。
取りあえず魚群探知機で魚影を探す。すると、20メートル付近に真っ赤な反応。
「ここだ!」

一斉にルアーを投入すると、最初に反応があったのはタガシ先生。あれよあれよの間に真鯛を釣り上げた。
な、何なんだ?ホントに釣れるのか!?

ルアーで真鯛を釣り上げるという感覚が未だ掴めぬまま、Sさんも後に続き、3匹、4匹と船の生け簀に真鯛が投入されていく。

「のんべ、メバルの釣り方あるでしょ。あの感覚だよ。」
タガシ先生の助言。なるほど5年ほど前まではまっていた夜釣り、メバルを釣るというあの感覚ね...。
仕掛けを落とし、少し早めにリールを巻いてみる。

ガツン!

おっ!アタリが!思わず手を緩めると、タガシ先生が「そのまま巻いて!」とアドバイス。残念ながらそのアタリ一発で無反応だったため、真鯛は興味が失せてしまったらしい。

そうか...何となくわかったぞ。
再び仕掛けを投入。リールを巻き続ける。

...ガツン!再びアタリが!
手を緩めずそのままリールを巻くと、仕掛けがグイッと持って行かれる感覚。エイヤッ!と一気に竿を引き揚げる。
竿先が大きく撓り、リールからジャーッと音を立てて糸が走っていく。

キタッ!キターッ!
遂に念願の真鯛がヒット!約40センチと大きさはそれほどではなかったが、久し振りの真鯛の姿に大興奮!

その後も僕を除いて入れ食いよろしくどんどん真鯛が釣り上げられる中、僕の竿にもようやく2匹目がやって来た。仕掛けを落としている途中で、リールから出て行くはずの糸がピタリと止まった。あれ?と思って巻き上げた途端、リールがジャーッ!

うわわ。フォールの途中でヒットしてたか!
しかも今回は引きが強い。さっきのより大きいこと間違いなし。しばらく駆け引きを楽しんだ後(ホントはそんな余裕なんてないんだけど)、水面に浮かんできたのは50センチ近くの真鯛。しかも、下あごに辛うじて針が引っかかっている状態。よくぞ外れずにここまで来てくれました。
ありがとうございます。3年ぶりの釣行、もうこれだけで十分です。

...と思っていたら、ホントに僕の釣果はこれで終わってしまった。時間にしてまだ6時30分。
結局そこから退屈な時間が延々8時間30分も続いたわけで...(苦笑)。
隅一ならぬ、隅二で勝負あり。

まぁ、イルカの群れがあちこちで泳ぐのを確認したり、霧の晴れた向こうに北海道が見えたり、バカでかいカレイが釣り上げられる瞬間を見たり、船上で食べるバナナが結構美味しかったり、それなりに楽しい釣りではあったんだけど、欲を言えばもう1~2枚釣り上げたかった、かな。
時間の経過とともに白波が立ち始めていたけど、船酔いしなかったのは奇跡だったかも。

結局午後3時過ぎに船溜まりに戻ってくると、Sさんが一言。
「(あまり釣れなくて)残念だったねぇ。」

いえいえ、こうやって釣りに来られたことが僕にとっては凄く嬉しかったし、3年ぶりに釣りをして真鯛を釣り上げられた、それも因縁深い陸奥湾の平舘沖で釣り上げたということがホントに嬉しかったんですね。

聞いたところでは、この日のゴールデンタイムは夜明けの時間帯だったらしく、一艘で100枚ほどの真鯛を釣り上げた船が2艘あったことを聞いた。

まぁ、あまり釣れても困る話なので、これぐらいで良かったのかな。ということでSさんとタガシ先生から、お裾分けというわけではないんだろうけれど、都合5枚の真鯛とSさんが釣り上げたカレイ2枚を頂いた。

帰宅したのは午後6時前。
まずもって妻と母が驚いた。こんなに釣果があったとは思っていなかったらしい。まぁ、僕が釣り上げたのは2枚だけなんだけどね...。
悪戦苦闘しながら真鯛を捌く僕を見かねた母が応援、結局4枚の真鯛を昆布締めにし、1枚の真鯛はオーブンで塩焼きに。更に、鯛のアラで潮汁をこしらえて終了。

どれもこれも、実に美味かったです。ごちそうさまでした(ニヤリ)。

2012年5月18日

「限界集落」は本当に限界なのか。


山下祐介著の「限界集落の真実-過疎の村は消えるか?」を読了。

著者の山下准教授とは、僕が30歳の時、弘前大学の修士課程を履修していたときに初めてお会いしたのだけど、当時「行政法」の教官に指導を仰ぎつつも、実際は「地域社会学」を専攻とする山下准教授はじめ他の教官から伺うお話や講義の方が正直言ってとても興味深く、修士論文を一生懸命作成する傍らで、他の院生の方々と一緒に山下准教授のフィールドワークのお手伝いもさせて頂いた。

僕がお手伝いをしたのは旧中津軽郡相馬村(現・弘前市)に赴いて行った「津軽選挙」の検証。これがまた非常に面白く、地元住民のライフヒストリーの聞き取りなどを経て、僕が修士課程を終えた後になってようやくその内容がレポートとしてまとめられ(まとめるまで紆余曲折があり、時間がかかってしまった)、その後学会でも発表するとかなりの好反応があり、最終的には他の論文と合わせて書籍という形でまとめ上げられた。
(↓本書の参考文献としても登場している。)

その後も「津軽学」や「白神学」の編纂編集に深く携わった山下准教授、首都大学東京へ転任されたことを機に細々と続いていたご縁が途切れかけているのだけれど(山下先生、元気かな。笑)、その准教授が今回発表した書籍のテーマが、「限界集落」。

昭和の市町村合併、そして平成の大合併を経て、「過疎」から「限界集落」という言葉がクローズアップされるようになった。

平成の大合併の際に問題視されていたのが、「行政サービスの均一化」だった。同一行政区域にありながら、同じサービスを受けられないのではないかという懸念はとりわけ、対等とはいいながらも事実上吸収される側の自治体から多く上がっていたように記憶している。

実際、合併という大風呂敷で一括りにされてみると、喉元過ぎれば熱さを忘れるではないが、やはり役所に近い周縁より末端にある地区に対する行政サービスは低下し、「元の役場があった方がまだ良かった」という不満の声は、複数の地域から上がったようだ。そして、整備の行き届かない、いわゆる末端の末端にあるような限界集落と呼ばれる地域は、他の地域とまとまった方がよいのではないか、という極論まで上がるようになってしまったのだ。

さて、「限界集落」と聞いて、皆さんは何を想像するだろうか。

限界集落(げんかい しゅうらく)とは、過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落を指す、日本における概念。(Wikipediaより)

...車で行くことすらままならない山間の集落。点在する家々は主を失ったまま荒廃し、細々とこの地で生活を営む腰の曲がった老婆が、意味もなく庭で火を焚いている。傾きかけた平屋の家の中を覗き込むと、2週間に一度やってくる医師の問診だけを心待ちにする爺さんが床に伏している。行政の手も行き届かないこの地域に暮らす最後の老夫婦。この二人がいなくなると、この集落からは人がいなくなり、廃墟だけが残ることに...。

どうだろう、「限界集落」と聞いたときの皆さんのイメージというのは、極端かも知れないがこんな感じではないだろうか。

青森県には、傍目からすると「限界集落」と呼ばれて不思議ではない地区が複数点在する。僕の住む弘前市の自宅から車で20~30分も走れば、本書にも登場する旧相馬村に行くことができるし、亡父が生まれた中津軽郡西目屋村に行けば、「定義上」の限界集落が複数存在する。

しかし、本書でも述べられているとおり、ではその集落がここ数年以内に消滅するかと言われれば、それはあり得ないだろう。
そこに住む人たちが生き甲斐を見いだし、(都会では味わうことができないであろう)そこで暮らすことへの優越感、更にはその次代がその地域への帰属意識を持ち続けている以上、その集落・地域が消えることはないと考える。
なぜそう言えるかは、本書を読み解いていくと明らかになると思う。

ところで、なぜ「限界集落」という言葉が注目を集めるようになったのか。それは、都会から見た地方に対する「偏見」のようなものなのではないだろうか。
個人的には、1990年代に提唱された「限界集落」という、衝撃的な印象を与えかねない言葉が一人歩きし、それが色んな形で歪曲されて、誤った概念で伝えられているのではないかと思っている。

もっとも、40年以上青森県を出て暮らしたことのない僕がこんなことを言うのも変な話だが、都会の方がよほど「限界」に達しているのではないか。誰にも看取られぬままこの世を去り、数か月後に発見されるというニュースが幾度となく報じられたが、こういった方々が発見されるのは、田舎ではなく都会ではないか。
そして、こういったニュースが立て続けに報じられたのは、ある地域でこのような事象が発生した際、他の行政機関が「うちの管轄ではそんなことはないだろう」と、それまで行き届かなかったところまで目を向けた結果として、複数の事象が出てきたのではないか、そんな穿った見方をしてしまう。

地方都市の周縁集落を「限界集落」と揶揄するのであれば、都会の片隅には、地域社会との接点すら損なわれた人たちが生活する「限界コミュニティ」が不特定多数存在しているのではないか。

山下准教授は、フィールドワークとして「限界集落」と言われる複数の現地に赴いて、その地に定住し生活を営む人たちの声に耳を傾けている。
だからこそ本書には、「限界集落」と言われている地域の現在と未来が詰まっており、「限界集落」の真実を伝えていることは間違いない。

田舎暮らしに辟易し、都会暮らしに憧れる人たちに、更に、地方を「田舎だ」と見下す都会暮らしの方々に、そして、田舎暮らしに誇りを持つ人たちに、是非読んで欲しい一冊。

2012年5月17日

東北の元気、日本の元気を青森から

ヘッダーに画像を置いてみました。

「東北の元気、日本の元気を青森から」

ひょっとしたらご存じの方はあまり多くないのかな、と思ったりもしているのですが、昨年の東日本大震災を契機に、青森県が策定している「青森県復興プラン」のキャッチフレーズのようなものです。

以下ホームページから。

 「青森県復興プラン」は、震災により大きな被害を受けた本県が、「復旧から復興へ」と新たなステージに移行していくにあたっての方向性を示すとともに、今後の国の予算や制度設計に対する提言ともなるものであり、当面取り組む必要がある対策について、「生活再建」「産業復興」「インフラ復興」の3つの分野を中心に取りまとめたものです。
 本県がいち早く立ち上がり、本格的な復興への第一歩を踏み出し、着実にその歩みを進めていくことが、東北の復興、日本の復興につながっていくものと考えます。
 青森県では、この「復興プラン」に基づき、対策に全力を尽くしてまいりますので、御理解と御協力を願い申し上げます。
震災の復興に向けた災害対策本部会議は昨年12月をもって廃止され、復興対策本部会議のみが現在開催されており、復興プランの取組みや復旧状況の取組等が報告されているようです。

何を今更...といった感も否めないところではありますが、せめてこのキャッチフレーズのような意気込みは、ずっと持ち続けていたいな、とか思ったり。

2012年5月12日

TOKYO SKA PARADICE ORCHESTRA 2012 TOUR【Walkin'】弘前公演


念願達成。

一度は観てみたいと思っていた東京スカパラダイスオーケストラの公演。まさか弘前でその公演を観る機会に恵まれるとは思いもしなかった。

東京スカパラダイスオーケストラ、2012年の公演はホールとライブハウスが入り乱れたツアー。ホールとライブハウスは全く内容の異なる構成らしい。
そんな東京スカパラダイスオーケストラのツアー「2012 TOUR【Walkin'】」の弘前公演に足を運んできた。

スカパラのことを知ったのはメジャー・デビューした1990年。黄色いスーツに身を包んだホーンセクションが所狭しとステージ上を走り回る姿をテレビで観て、衝撃を受けた。

その後の活躍は今更僕が説明するまでもないけれど、これまでの歩みは、決して順風満帆というわけではなかった。
メンバーの脱退が相次いだ後、ボーカルを担当していたクリーンヘッド・ギムラ氏が1995年、脳腫瘍のため突然この世を去り(僕がそのことを知ったのは、日本経済新聞のお悔やみ欄で、余りの衝撃に言葉を失ったことを覚えている)、更に1996年にはサックスなどを担当していた冷牟田竜之氏がタイで交通事故に遭い重傷を負うというトラブル、そして1999年にはドラムを担当していた青木達也氏が不慮の事故で急逝と、思わぬ形でメンバーを失うということが続いた。正直、バンドそのものが何かに取り憑かれているんじゃないか、と思ってしまうぐらい。

しかし2001年、彼らの転機とも言えるであろう、外部ボーカルを迎えた「歌モノ3部作」と呼ばれる作品が発表されるようになり、バンドのメンバーもほぼ固定化された。

バンドの講釈はこれぐらいにして、メジャーデビューから22年、初めての弘前公演である。
一体どんなステージになるのか、期待と不安に胸膨らませながら会場の弘前市民会館に向かうと、同じ方向に歩いている人たちに目を奪われた。客層が全くバラバラなのだ。半袖にカンカン帽といういささか季節外れの若者がいるかと思えば、明らかに市役所帰りと思しきスーツにネクタイのお偉方風の方、さらにはお父さんお母さんと手をつなぐ小学生に、白髪の初老と、ホントにバラバラ。
果たして彼らがこのステージに理解を示すことができるのだろう、テレビでしか観たことはないが、あのノリについて行くことができるのだろうかと思っていたが、いざ幕が上がると、そんなことは全くの杞憂であることが明らかに。

会場に入ると、左側にはツアーグッズを販売するブースが、その向かいにはCDを販売するブースが。どちらも、それほど混雑しているというほどではなかったが、僕も一応列に並び、購入しておいた方が良いと事前に情報を入手していた黄色い旗とストラップなどを購入した。

開演の時刻が近づくと、定数1,300人の会場は約9割が埋まっていた。果たしてスカパラをどれぐらいご存じの方がこの会場に集まったのかはわからないけれど、弘前市民会館という家から約10分程度の場所にあるこの会場で、1,000人以上の人たちと一緒にスカパラの登場を待っている自分がいるというのが何だか不思議だった。

↓↓↓↓↓↓↓以下多少ネタバレあり↓↓↓↓↓↓

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2012年5月10日

Mama Said - 20th Anniversary Edition


先日、東京ドーム...じゃなくて東京ドームシティホールでの来日公演を行ったLenny Kravitz。キャパが小さかったこともあり、思いの外好評だったようで。

2002年と2008年にも来日公演を予定しておきながら相次いで公演中止となり(会場が大きすぎたとか今ひとつチケットの売れ行きが芳しくなかったとか色々推測は働くのだが、本人の体調不良もあったとかなかったとか...)、今回の単独来日公演は何と14年ぶりということで、朝の情報番組に生出演したり、PRも欠かさなかったようだ。

3年半振りに発表したアルバム「Black And White America」も概ね好評のようだが、思えば、3作目となる「Are You Gonna My Way」のインパクトがあまりにも強烈すぎて、その後の作品はどうも今ひとつパッとしない状況が続いたように思う。過度の期待を煽り、鳴り物入りで発表される割には(これはレコード会社のプロモーションや販売方法に大いに問題があったと思うのだが)、今ひとつ期待はずれ、というものが多かった。

何が一番まずかったかと言えば、新作を発表して舌の根も乾かぬうちに、ボーナスディスクをコンパイルしたスペシャル・エディションを発表するという手法。挙げ句の果てには、まさかと思っていたベスト盤でも同じような手法で発売され、さすがにこれには開いた口が塞がらなかった。これだと誰も新作が出ても買わないっつうの...。

閑話休題。
さて、そのLenny Kravitzが1991年に発表した2作目「Mama Said」、Lennyの盟友でもあるSlash(元GN'R)がゲスト参加している作品としても注目を集めたが、この20周年記念エディションが発売されることが決定。

Lenny Kravitz's 1991 album, Mama Said, has been digitally remastered and expanded for a special Deluxe Edition to be released on June 5th (June 4th outside of North America) by Virgin/EMI. The 2CD and digital album adds 21 bonus tracks to the album's original line-up, including 15 previously unreleased recordings from Kravitz's personal archive.

2年前に発売された、デビュー作「Let Love Rule」の20周年記念エディション同様今回も2枚組となっており、もちろん全曲リマスター。更には21曲ものボーナストラックが収録されていて、It Ain't Over Til It's Overの12インチリミックスバージョンなど、うち15曲が未発表曲。ちなみに未発表ではない6曲のボーナストラックには、日本公演の音源が3曲含まれている。

「Let Love Rule」の20周年記念盤が、かなり中身の濃い秀逸な内容となっていただけに、今作にも期待を寄せずにはいられないっす。

...さすがに記念エディションのスペシャル・エディションはないよね、きっと。

2012年5月 4日

桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿


今年の弘前公園の桜は、大雪や4月上旬まで残った寒波の影響で、誰もが開花の遅れを予想し、そして誰もがGW中のドンピシャでの花見の期待は薄いだろうと思い込んでいた。
桜前線はじわりじわりと北上を続け、いよいよ4月下旬に突入。弘前公園の満開予想日がGW後半となり、23日に開幕した「弘前さくらまつり」は、「桜の遅咲きに対応するため」会期が5月7日まで延長された。

ところが、26日に公園の外堀にあるソメイヨシノが開花し、27日には去年より1日、平年より4日遅れで開花宣言が発表されると、30日朝には外堀がほぼ満開に。

2012.04.30 弘前公園

2012.04.30 弘前公園

一方、僕が見た30日朝、園内の桜はまだ3部咲きにも達していないような雰囲気だったのに、30日から4日間続いた夏日の影響で、去年から1日早く、平年より2日遅れて5月1日には満開に。
ちなみに30日朝はこんな感じだった。

2012.04.30 弘前公園

...と、ここまでは良かったのだが、この後一気呵成に開花が進むことに。
結局3日早朝に弘前公園を訪れてみると、既に外堀は大半の花が散り始め、園内も花吹雪が舞い始めていた。

2012.05.02 弘前公園

2012.05.02 弘前公園

更に3日から降り始めた影響で花はどんどん散り始め、4日時点では5分散りとのことだが、今日の雨風で恐らく園内は相当散ってしまったことだろう。ああ、せっかく会期延長したのに...。

さて、「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」という言葉は皆さん聞いたことがあるだろう。

桜は幹や枝を切るとその部分が衰弱してしまうが、梅は余計な枝を切らないとよい花実がつかなくなる。樹木の剪定には、それぞれの木の特性に従って対処する必要のあること。(出展:大辞泉)

ところが弘前市は馬鹿なようで、弘前公園の中にある桜は、2月頃から剪定を行っている。桜伐る馬鹿、ということですな。

2012.05.02 弘前公園

桜の木の剪定を行うことで、さくらまつりの時期になると景観が良くなる他、病気の枝を切り落とすなどして桜の健康を保つことにもつながるという。ちなみにこの剪定技術は、リンゴの剪定技術を応用したものらしい。なので、弘前公園内にある桜の木を見ると、節々でバッサリと切られ、あちらこちらへと枝が張り巡らされているのだが、よく見ると、太い枝同士が重なり合っている桜はほとんどない。弘前の桜がモコモコしているのはこのためなのですね。ちなみに剪定した枝は、3月頃に弘前公園内にある「緑の相談所」で無料配布しているとのこと。咲くか咲かないかは保証しないようだけど。

2012.05.02 弘前公園

2012.05.02 弘前公園

2012年5月 2日

まだまだ知らないところはたくさんある。


父の兄である伯父夫婦が、1週間に渡って我が家に滞在している。
確か父と伯父とは5歳ぐらい年が離れているんだっけ?水戸市に居を構えているということもあり、昨年の東日本大震災の際は、僕らが想像する以上に酷い被災状況だったらしい。伯父と父とは全然似ていないのだけれど、酔った勢いで雄弁に語る僕の話にも真摯に耳を傾けてくれる伯父と話をしていると、何か父と会話をしているような、そんな錯覚に捕らわれる。特に、昨年4月に被災地に出向いた話、今年3月に沖縄で起きた「風評被害」の話は、本当に興味深く聞いてくれた。

さて、そんな伯父夫婦を観光案内したのは実のところ正味一日のみ。これがまた結構充実感溢れる内容だったので、メモ。

ルートは弘前市~木造駅(つがる市)~高山稲荷神社(つがる市)~五所川原市~弘前市

弘前から木造駅へ向かうコースは、国道を走るのではなく、岩木山の稜線を舐めるような県道を走り抜けるルートで、岩木山の形が徐々に変化していく姿をじっくりと見てもらった。遮るものは何もなく、リンゴ畑と田んぼが交互に現れるのどかな風景ではあったが、時折現れる沿道の防雪柵を初めて見たらしく、それがまた伯父夫婦にとってはなかなか素晴らしい光景であったらしい。

昼食は、妻が入手した情報に基づき、つがる市木造にある「大番」にて。
つがる市木造・大番
ところが、入店してみるとちょうどお昼の時間帯だったこともあり大混雑。何でこんなに混雑しているのかな、と思ったら、なんてことはない、同じグループと思しき10名以上が一斉に入店していたらしく、この人たちが席を立つと、一気に店がガランと空いた。その後も客足が途絶えないということは、それだけ有名で美味しいということなのだろう。
ちなみに僕が注文したのは、この店の看板にも書かれていた「玉子ラーメン」(650円)。
つがる市木造・大番
鶏ガラの効いた透き通ったスープ。麺の上に、ふわふわの玉子が載っている。
つがる市木造・大番
麺は固めの手打ち麺。これがまたスープとの相性ピッタリ。ちなみにチャーシューは入っていない。これはクセになりそうな味だった。

さて、ここまで来たので...ということで立ち寄ったのがJR木造駅。
つがる市にある亀ヶ岡遺跡で発掘された遮光式土器(目の部分に光を遮るサングラスのような縁取りが施されていて、これが目を保護するための何かだったのでは?という推測がされている)をモチーフにした駅舎。
JR五能線・木造駅
10年ほど前に隣にある鰺ヶ沢町に勤務していた時、幾度となく国道からこの駅舎を目撃していたが、間近で見たのはこれが初めてだった。
駅舎の説明書きには「列車が近づくと、目が光ります。」と書いてある。駅の中に入って時刻表を見るとあと15分ほどで列車が到着する時間だったので、真偽を確かめるべくそれまで待とうかとも考えたが、周囲に何もない状況の中で15分も待つのは辛いかな、ということで、程なく後にした。
ちなみにこの駅舎、「東北の駅百選」にも選ばれているとのことだった。
JR五能線・木造駅

ここから更に車を北上させること約30分。
今日の目的地でもある高山稲荷神社に到着。
今まで数度足を運んでいたが、実は本殿などを参拝するのはこれが初めてだったり。
ドラマなどでも使われたことのある千本鳥居が一体どうなっているのか一度観てみたいとは思っていたが、結構急な階段を上り、本殿を参拝した後、また階段を下りることになるとは思いもよらなかった。
つがる市・高山稲荷神社

シャア専用...。
つがる市・高山稲荷神社

本殿からは日本海が望め、沿岸ということで風が強いかな、と思いきや、意外とほとんど無風だったり。
結構ハードなスケジュールだったが、まだまだ知らないところがたくさんあるね、青森県内。

おまけ。
つがる市(旧車力村)にある「むらおこし拠点館・フラット」にて、この地の名産でもあるメロンとバニラのミックスソフトは250円。
メロンとバニラのミックスソフト