自死という生き方 - 覚悟して逝った哲学者
ようやくこの書籍の感想を書く気になった。
とんでもない本を手にしてしまったな、というのが全て読み終えた後の感想だ。
というか、本書を読み終えて感想を述べている多くの人が、同じような感想を抱いているようだ。
本書の著者である須原一秀氏は、社会思想哲学を専門的に扱う学者であった。
しかし彼は、「一つの哲学的プロジェクト」として自らの命を絶つと家族以外の友人に宣言し、2006年4月、自らの手でこの世を去った。享年65歳。
本書は、その後に発見された遺稿である。
その内容は、「老い」を回避するため、その代償として「自死」を勧めるという非常に過激な内容だ。
事実著者は、取り立てて何の弊害もなく、快活で健康的な生活を送っていたようで(60代後半で体脂肪率一桁台を保っていたらしい)、突然の死により残された家族も、筆者が自死に至った理由がわからず、酷く狼狽したようだ。
本書の中で筆者は、ソクラテス、伊丹十三、三島由紀夫の三名が自死に至らなければならなかった理由を、過去の文献その他から探っている。彼らがすぐに死ななければならない理由などなかった。そして、ソクラテスの場合はいわば殉死だったかも知れないが、伊丹も三島も、既に人生を十分に謳歌しており、ちょっとしたきっかけが、自死に導いたのだ、と結論づけている(特に伊丹の場合、自らの著書で「楽しいうちに死にたい」と述べている、という)。これを筆者は、「積極的な死の受容」という表現を用いている。
また、ヌーランドという作家による「眠るような自然死の否定」を引き合いに出し、そもそも「安らかな死」や「眠るがこごとき」死、つまり「老衰」などというのはあり得ないことで、「死」に至るまでは、想像を絶するような痛みや苦痛を伴うのだということを説いている。
確かに病院のベッドの上でたくさんの器具やチューブを挿され、苦痛に喘いで死を迎える終末患者は大勢いることだろう。
筆者が言いたいのは、恐ろしいのは「死」そのものではなく、「死の直前に迎える苦痛」だということのようだ。果たして、そんな苦痛を強いてまで「生きる」必要があるのだろうか、ということを述べている。
そして、中高年者による自殺肯定論、下手をすれば自殺推奨論にもなりかねないような理論を説いているのである。
筆者の実母が病に倒れ死が近づいた時に、筆者は延命治療をするのではなく、医師に頼んで静かにかつ速やかに見送った。その時、何故延命治療を止めたのか、周囲から顰蹙を買ったが、全く後悔はなかったといったことを述べている。一方で、義父が病に倒れ、死の直前、長時間にわたり苦痛に晒されている姿を見て、延命治療を止めることが出来なかったことを悔やんでいる。そして筆者は、これを「二人称の死」と「三人称の死」と述べている。
筆者によると、死の直前にやってくる(誰もが経験しなければならない)痛みは、事故に遭った後長時間にわたる苦痛と同じだというのである。そんな苦痛を伴うような「死」を迎えるぐらいなら、「自死」という生き方を過ごした方がよい、というのが筆者の理論だ。
とんでもない本を手にしてしまったな、というのが全て読み終えた後の感想だ。
というか、本書を読み終えて感想を述べている多くの人が、同じような感想を抱いているようだ。
本書の著者である須原一秀氏は、社会思想哲学を専門的に扱う学者であった。
しかし彼は、「一つの哲学的プロジェクト」として自らの命を絶つと家族以外の友人に宣言し、2006年4月、自らの手でこの世を去った。享年65歳。
本書は、その後に発見された遺稿である。
その内容は、「老い」を回避するため、その代償として「自死」を勧めるという非常に過激な内容だ。
事実著者は、取り立てて何の弊害もなく、快活で健康的な生活を送っていたようで(60代後半で体脂肪率一桁台を保っていたらしい)、突然の死により残された家族も、筆者が自死に至った理由がわからず、酷く狼狽したようだ。
本書の中で筆者は、ソクラテス、伊丹十三、三島由紀夫の三名が自死に至らなければならなかった理由を、過去の文献その他から探っている。彼らがすぐに死ななければならない理由などなかった。そして、ソクラテスの場合はいわば殉死だったかも知れないが、伊丹も三島も、既に人生を十分に謳歌しており、ちょっとしたきっかけが、自死に導いたのだ、と結論づけている(特に伊丹の場合、自らの著書で「楽しいうちに死にたい」と述べている、という)。これを筆者は、「積極的な死の受容」という表現を用いている。
また、ヌーランドという作家による「眠るような自然死の否定」を引き合いに出し、そもそも「安らかな死」や「眠るがこごとき」死、つまり「老衰」などというのはあり得ないことで、「死」に至るまでは、想像を絶するような痛みや苦痛を伴うのだということを説いている。
確かに病院のベッドの上でたくさんの器具やチューブを挿され、苦痛に喘いで死を迎える終末患者は大勢いることだろう。
筆者が言いたいのは、恐ろしいのは「死」そのものではなく、「死の直前に迎える苦痛」だということのようだ。果たして、そんな苦痛を強いてまで「生きる」必要があるのだろうか、ということを述べている。
そして、中高年者による自殺肯定論、下手をすれば自殺推奨論にもなりかねないような理論を説いているのである。
筆者の実母が病に倒れ死が近づいた時に、筆者は延命治療をするのではなく、医師に頼んで静かにかつ速やかに見送った。その時、何故延命治療を止めたのか、周囲から顰蹙を買ったが、全く後悔はなかったといったことを述べている。一方で、義父が病に倒れ、死の直前、長時間にわたり苦痛に晒されている姿を見て、延命治療を止めることが出来なかったことを悔やんでいる。そして筆者は、これを「二人称の死」と「三人称の死」と述べている。
筆者によると、死の直前にやってくる(誰もが経験しなければならない)痛みは、事故に遭った後長時間にわたる苦痛と同じだというのである。そんな苦痛を伴うような「死」を迎えるぐらいなら、「自死」という生き方を過ごした方がよい、というのが筆者の理論だ。