2004年7月30日

らーめん考(その3)

らーめん考の前に、ちょっと一言語らせて。

巨人選手会が29日、近鉄とオリックスの球団合併凍結を訴える署名活動を東京ドーム入り口ゲート前で行ったそうな。
いよいよオーナーに反旗を翻したか...と失笑しつつ、実はこういう合併騒動が起きたそもそものきっかけというのは、親会社の営業不振に遡及するわけだけど、よ〜く考えてみると、身の丈に合わない高給取りばかりが増えたから、という見方もできないでしょうか。巨人の選手の意気込みは買おう。でも、「俺は年俸一割カットして、球団合併凍結のための運動資金に充てよう」なんて気概を持った選手は、さすがにいないよね...。結局のところ、巨人にしてみれば対岸の火事なんだって。そうやってみると、今回の署名活動が何だか「踏み絵」のように見えてきたのは僕だけでしょうか。

さて、らーめん考。このスタイルにはまると、エンドレスになりそうなので、1週間に1度くらいが理想的なのかも知れませんね。
で、今日はスープのお話ですが、少々漠然とした一般論に徹してしまうかも知れません。先に謝っておきます。
最近のラーメンといえば醤油、味噌、塩、豚骨がメインの味になると思うんですが、この味を生かすも殺すもスープひとつ、と断言してもいいでしょう。
一口にスープといっても、大きく分けると、魚介系、野菜系、ガラ系に分類できるのかな。ただ、この中でどういった組み合わせがいいのか、ということになると、これは人それぞれの味覚、好みがあるので、一概には言えないのかな、と思います。
最近は消費者の舌が肥えていますので、前回触れた「化学調味料」は問題外なのですが、かといって、あまりに凝りすぎた、こだわりのスープというのもどうかなぁ、と思うのです。
使われる食材もそうですが、調味料や水にまで、とことんこだわる店があるじゃないですか。○○の昆布、○○の鰹節、○○の丸鶏、○○の塩に○○の水...。ただ、ハッキリ言って「うーん。さすが○○の水だ。おいしいなぁ...。」と思う人って、いないと思うんですよね。なぜなら、ラーメンのスープは多種多様な食材によって作り上げられているため、その一つ一つを特定するのは困難なこと、さらにはその素材一つ一つの味がよくわからないから。そうやって考えると、店主がこだわって試行錯誤の上でできあがったスープだって、実はその試行錯誤の過程において、消費する側からすればもっと美味しいスープがあったかも知れないのです。だからスープは難しい。そして奥が深い。
かといって、家で同じ材料を揃えてスープを作ってみようということになっても、同じような味は絶対できっこない。というか、そんなのはお金と時間がかかってしょうがない。
ところが、家で作るスープが、案外美味だったりすることがあるんです。
僕も時折ラーメン用のスープを作るときがありますが、余った野菜を食材にしてスープをこしらえます。これに、鶏ガラと昆布、煮干しを加えてみる。こんな調子だから、毎回毎回味が違いますし、レシピも頭に入っていません。この適当さが、結構よかったりします。
「ラーメンは偶然の産物だ」...言い得て妙です。ラーメンっていうのは所詮そんなものじゃないかなぁ、と思うんです。
スーパーなどで売られている生ラーメン。どんぶりに添付のスープを入れてやかんの湯を注ぐのではなく、ネギやショウガひとかけらを入れた鍋でお湯を沸騰させたものを注いでみて下さい。これだけで、味が変わるはずです。ちなみにこの方法、インスタントラーメンでも応用が利きます。ついでに言えば、インスタントラーメンも麺とスープを分けて作ると、格段に味が変わるらしいです。

2004年7月29日

二人旅

今日はらーめん考を休ませていただき、ちょっと違うお話を。
夏休みに入って約1週間。最近、電車の中でリュックサックを背負った小学生の子供を見かけるようになりました。そのほとんどは、親御さんに伴われた子供たちですが...。
昨晩、20時25分青森発普通電車。ほろ酔い加減の私の向かいに、小学生の兄妹と思しき2人がリュックサックを抱えて座っていました。おじいちゃんかおばあちゃんのところに遊びに行くのかな。その光景が何とも微笑ましく、ふと自分のことを思い出したのです...。

私は、小学1年生の頃から一人で隣県の祖母の家に「汽車」で遊びに行ってました。駅の中を鳩が飛び交っていた当時は、切符の自販機など存在しませんでした。切符を販売する窓口に向かって「○○まで子供一枚」とお金を差し出すと、「え?ボクちゃん、一人で○○まで行くのか!?」と驚かれたものでした。当時は実にのんびりしていて、「列車交換のため」と5分ほどの停車は当たり前で、大きな駅に着くと15分や20分くらいは停車していたものでした。弘前から約2時間ほどかけて乗換駅まで乗車、そこから反対側のホームで待つローカル線に乗り換え、約20分ほどで祖母の住む町に到着します。今は特急でちょうど1時間ですので、当時の「汽車」がいかにのんびりしていたか、何となく想像して頂けるのではないでしょうか。
妹を連れ、2人で汽車に乗って祖母の家を訪れたのは、多分小学4年の頃ではなかったでしょうか。その頃には既に「慣れっこ」になっていましたので、父母も安心して我々を送り出してくれました。
そんな二人は一度だけ、物凄い恐怖に襲われたことがあります。それは、いつものように祖母の家に向かう汽車の途中。大館駅から乗車してきた「酔っぱらい」のオッチャンでした。「汽車」ですので、今のようなベンチ型のシートではなく、いわゆるボックス型のシートに二人で座っていたのですが、オッチャンはその席に我々の姿を見つけるや、興味深そうに話しかけてきたのです。「どっから来たのゲ?どごサいぐスカ?何年生?」呂律の回らない言葉で、我々にしつこく話しかけてきます。小声で答えるも、妹は見ず知らずの大人、それも酔っぱらいがいきなり話しかけてきたことに明らかに怯えていました。そこから目的地までは非常に遠く感じられ、早く乗換駅に到着することだけを祈っていました。約30分後、ようやく乗換駅に到着。我々はダッシュで反対側のホームで待つ汽車に飛び乗ります。ちょうど高校生の帰宅時間とぶつかり、車内は混んでいたのですが、二人が座れるボックス席のスペースを発見、ホッと一息...と思った瞬間、何とそのオッチャンも同じ汽車に乗車してきたのです。妹は更に怯え始めたので、合図を送って二人でシートに身を深く沈めました。私は帽子を深く被り、女子高生の陰に。妹も同じような格好で身を隠します。今で言うストーカー?いやいや、たまたま方向が一緒だけだったというお話。そのオッチャンがどこへ向かったかは知りませんが、祖母が待つ目的地の駅に着いたときには、心身共に恐怖でクタクタだった、そんな旅路でした...。

そんなことを思いながら、ふと向かいに座る女の子を見ると、ちょうど目が合いました。すると!私の顔が相当悪人に見えたかどうかは定かではありませんが、サッと目をそらしお兄ちゃんに身を寄せたのです。あ、申し訳ないことをしたな...と思い、以降弘前に着くまでそちらに目を配ることはしませんでした。ひょっとしたらあの女の子には、私があの日感じた状況に似た恐怖を与えてしまったのかも知れません。そんなに酔っていた訳じゃないんだけど...(泣)

予告。明日はらーめん考(その3)。テーマは「スープ」ということで。

2004年7月28日

らーめん考(その2)

今までで最大のスパムコメント被害を受け、いささか傷心のnonveyです。
さて、昨日に引き続き、らーめん考。どうやらちょっと長続きしそうです(笑)。というか、今日はたまたまネタになりそうな出来事があったということで。

本日のテーマは「化学調味料」。まずは今日の出来事から。

弘前から青森に出勤後、再び所用で弘前へ。本当は午前中で用務を済ませて青森へ戻るはずだったのですが、いろいろ厄介な案件が出てきて、用務が終わったときには昼近くになっていました。運転手さんと何を喰うか話をし、「食べたことがない」というので、市内では味噌ラーメンで結構有名な「M(ルパン三世に出てくる○不二子、この○に入る名前です)」に行きました。10人ほどが座ることのできる変形M型のカウンターと小上がりが一つ。既にカウンターは6人ほどの客で埋まっていました。実は、数年ぶりに来たので味をすっかり忘れていたのですが、随分味が変わったような...。というか、まぁハッキリ言ってこれほど不味いとは思わなかった。
何が不味いか。まず、麺とスープが合わない。しかも、麺に絡むのは油ばかり。ここのラーメンは、熱さを保つために大量の熱い油を浮かべているのです。その発想もいただけません。食べても食べても油ばかりで、だんだんお腹が痛くなってきました。トッピングには野菜や挽肉が入っていたのですが、これも炒めたものではなく、単にぶち込んで煮ただけのようで、挽肉が底の方に綺麗に固まっていました。更に更に許せなかったのが、大量の化学調味料と唐辛子。ここまで来ると、味を誤魔化す以前のレベルです。それでもなぜか人が集まってくるのは、皆さんの味覚がイカれているからでしょうか。それとも、僕の舌がおかしいんだろうか...と思って隣を見たら、運転手さんも、顔を真っ赤にしながら麺をようやく食い終えたところで箸を置きました。
僕の口から何気なく「M」の言葉が出たがために、運転手さんにも不愉快な思いをさせてしまいました。高い授業料です。ここは...と運転手さんを制し、僕が会計を支払わせていただきました。
運転手さん曰く「私には辛すぎました」というのは、かなり無理した評価でしょう。本当は、「こんな不味いモノ喰わせるんじゃねえよ!」と、どんぶりをひっくり返したかったに違いありません。
で、顛末からお話しすると、職場に戻ってから聞いた話なのですが、ここ最近のうちに、店主の交代があったようなのです。以前は年配の女性が切り盛りしていたはずなのに、どうもその方が亡くなったらしく、今は違う人(どうやら娘らしい)が作っているというのです。これで味の変化、いや変質の原因が何となくわかりました。
僕のラーメンリストからは金輪際抹消の「M」。ここ最近の「大失敗」だったわけですが、僕の席からはちょうど厨房が見えていたので、白い化学調味料の「盛り具合」がハッキリと見えてしまったのです。実際のところ、これを見た瞬間に喰う気が失せました。
白い化学調味料。僕はこれを「麻薬」と呼んでいます。隠し味として必要なことも確かにあるとは思いますが、後味として残るくらい投入されるのはいかがなものかと思います。実際、弘前市内で比較的人気のある店のいくつかには、「麻薬」を大量投入しているケースが見受けられます。それでも「常連」がいるというのは、恐らくこの「麻薬汚染」が原因ではないか、という僕の勝手な思いこみですが、案外当たっているのかも知れません。これは持論になりますが、いい加減なスープを作るから、化学調味料に頼らなければならないと思うのです。今日の店もそうでした。そんなクセして、「自慢の味」なんて謳っている店を見ると、看板を蹴飛ばしたくなります(あ、今日の「M」ではないですが)。
らーめんというのは奥が深いですね。運転手さんが難しそうな顔をしながら言いました。実に的を射た意見だと思います。奥が深いからこそ、客を欺くような味、いい加減なモノは作って欲しくないと思うのです。
味覚障害の人がこの世には多くいるという事実、案外こういう「化学調味料」が影響しているのではないか、というのは飛躍的すぎた推測でしょうか。

2004年7月27日

らーめん考(その1)

今日も暑いです。暑くなると、辛いものや熱いものが無性に食べたくなります。僕ってやっぱり天の邪鬼なんでしょうか。
昨晩は、久しぶりに「雷の恐怖」に怯えながら帰宅しました。弘前が近づくに連れ、雨脚がどんどん増していき、ひっきりなしに雷光と雷鳴が轟きます。ただ、慣れって怖いもので、ホントに間近で落雷したのがわかっても、視覚聴覚が慣れてきているので、そんなに「怖い」って感覚がなくなってくるんですね。でも、一つ手前の駅に到着し、ドアが開いた途端「ピカッ!ドーン!!」と鳴り響いた時には、椅子から飛び跳ねそうになりました。ちなみに1時間の降水量は25ミリほどだったそうです。新潟や福井の比ではありません。

さて、「らーめん考」その1(と、シリーズ化を匂わせていますが、怪しいものです...)。今日は、「冷やしラーメン」について。
この間東京に出張したとき、某所にて「つけ麺」をオーダーしたんです。出てきたのは、中途半端に水にさらされた麺と、生ぬるいスープ、トッピング用の具材でした...。ハッキリ言って、不味かった。実はつけ麺なんて興味がなかったんですが、つけ麺が、こんな不味いものだとは思わなかった。温かいわけでもなく冷たいわけでもなく、しかもトッピングは冷蔵庫で干涸らびていました、といった感じ。時間がなかったし、文字通り「流し込む」ような状況で腹の中に収めたわけですが、なんとなくスッキリしない感じでした。

閑話休題。

ここ数年「冷やしラーメン」というのが密かなブームになっているようです。冷やし中華ではなく、冷やしラーメン。発祥の地は山形だと言いますが、定かではありません。僕はまともに食したことはない(まともに、というのは、コンビニで売っていそうな「冷やしラーメン」は一度だけ食べたことがあるのです)のですが、話を聞く限りでは、口にしなくてもいいだろうな、と思えてきます。事実、この間某町で初めて「冷やしラーメン」の看板を掲げる店を見かけたのですが、何か邪道っぽいな、そんな気がしました。
麺の入った冷たいスープには、氷が浮かんでいるというじゃないですか。発想を変えると、これでは普通のラーメンにお湯を注すのと一緒。スープの味を殺す気でしょうか。トッピングも普通の中華と変わらないというのですから、チャーシューなんかもそのまま入っているという話。これって、脂っこいチャーシューもそのままぶち込まれているってことですよね。冷たいスープの中で、チャーシューの脂が白く凝縮されていく姿を考えただけで、僕はちょっと抵抗を感じてしまいます。
暑いから冷たくするという発想は、理解できないわけでもありません。しかし、ラーメン然りカレー然りで、何でもかんでも冷たくすればいいというわけではないと思うのは、僕だけでしょうか。夏は冷やしラーメンではなく、冷やし中華です。何なら、ざる中華でもいいのです。それを、「冷やしラーメン」だなんて...。僕なんかは、やっぱり中華は「熱い」に限る、と考えてしまいます。「冷やしラーメン」が邪道だなんていうのは、素人発想でしょうかね。食べればわかるよ、なんて言われそうですが...。

(多分続く)

2004年7月24日

BAR 港屋

研修が終わり、職場で雑用を済ませ、元同僚の方2人と青森市内に繰り出しました。まず、近所の居酒屋で痛飲。どれくらい呑んだかも、記憶にないくらいハイペースで呑みました。この間も言われたのですが、どうも僕は呑むペースが早すぎるようです。飲むというより「流し込む」と見られているようです。これは僕の悪いところ。事実昨日も、これが尾を引き大変なことになりました...。
そんな調子で飲んでいたので、20時には既に酩酊状態に。「次行こう次」の声にふらふらとついていきます。

「BAR港屋」。御存じの方も多いと思いますが、ここは矢野顕子さんの弟氏が経営する店なのです。2階に上がると、薄暗い雰囲気がまたとてもいい感じ。ちなみにお客は、一組しかいませんでした。当然お店は弟氏が切り盛りしているのですが、この方がまた何ともいい味を醸し出しています。変わっているのは、オーダーしたものは全て現金引き換えとなっている点。BARというだけあって飲み物も充実しています。ここで私、普段は滅多に口にしないジンライムを2杯ほど(これも後にとんでもないことになる引き金に)。食べるものは...実はポテトチップスしか食いませんでした...(苦笑)

ちなみにここは、手洗い所。非常に赤いです。画像のブレが、酔っ払いぶりを示しています...。
それと、カウンター席の背後にピアノが置かれています。このピアノ、ホントかどうかは定かでないのですが、矢野顕子さんはもちろん、坂本龍一氏も奏でたことがあるとかないとか。21時20分すぎ、電車の時間を聞かれ、あ、帰らなきゃ...。とそこで散会。ところが、電車が31分発であることを思い出し、駅まで走る走る走る..........。

....このあたりで、完全に記憶が途切れました。

「間もなく弘前です」の声にハッと目が覚めます。気がついたら、電車のドアの脇にヘロヘロと座り込み、爆睡している自分がそこにいました。情けない...。

やはり、走ったのがマズかった。イヤな予感的中です。嘔吐の嵐が待ち受けていました...。
まぁ、お陰で今朝は頗る快調な朝を迎えることはできたのですが...。

2004年7月23日

研修が終わりました

3日間の研修を終えて戻ってきました。非常に有意義であったと思う反面、自分なりに今回の研修内容を理解し、吸収しようとする姿勢に欠けていたかな、という反省も。
(信じられない方もいるかも知れませんが)うちの職場には「冷房」がありません。暑いときは、僕は手動で扇子を仰いでいます。転じて研修所。冷房が効いていました。梅雨明け、30度前後の外気を考えると、天国...と行きたいところでしたが、僕にとっては地獄でした。冷房の風が、吹き出し口から僕の座っている列に向かって浴びせられていたのです。初日は何とか耐えられましたが、2日目はさすがに頭痛がしてきました。家に戻っても、ずっと身体が冷えた状態。ちなみに、これも信じられないかも知れませんが、僕の2つ前に座っていた女性は、寒さのあまりマフラーを首に巻いていました...。

講師は、西尾勝氏や松下圭一氏とも渡り合ったことがあるという、岩手県立大学の天野巡一教授。自身が元市役所勤務(武蔵野市で企画課長や水道部長などを歴任)で、さらにいつも訴訟と戦っていたというだけあり、眼光の鋭さが非常に印象的でした。
話が若干散漫だった点はちょっといただけませんでしたが、いろんなことを教わったような気がします。

2004年7月20日

ついでというわけではないですが

私こと
明日より3日間研修となるため、恐らくこちらからも姿を消すと思われます。
まぁホントいつもいつもこんな話ばかりですいません。新しい情報提供もなく、代わり映えのしないサイトなのに、いつもいらして下さっている皆さんに多謝。

リカバリのため、当面休業?

結局この3連休、どこかに出かけたといえば土曜日の晩から朝にかけて釣りに出かけた程度で(しかも釣果もパッとせず)、その他はほとんど家にこもっていました。何をするというわけでもなく、ダラダラと家で過ごす3連休。いや、正しくはパソコンのシステムリカバリに明け暮れていたんです。
うちのパソコン(vaio)、以前から不調だったのですが、これまで聞いたことのないような音をガリガリと立てるようになり、泣く泣くシステムリカバリに取りかかることにしました。まだ購入して2年足らず。そんなに酷使したという感じもしない(あ、でも酷使したかな...)のですが、致し方ありません。取りあえずドライブ(C)のみのリカバリとなり、購入後にインストールしたソフトやメールなども消去され、初期状態になってしまうので、なくしては困るファイル(メールアドレスなど)は、ドライブ(C)からドライブ(D)へ移行し、リカバリに備えます。
では、いざ...。

あれ?

今度はリカバリ用のCDを認識してくれません。これでは先に進みません。シャットダウン、強制終了が幾度となく続いた後、ようやくCDが認識されました。

約1時間程度要するということは聞いていたので、途中2度のCD交換以外は、パソコンに任せておくことにしました。
最後となる3枚目のディスクが投入されてから、しばらくして様子を見に行くと...。

何とそこには、「ディスクの認識ができません。リカバリエラーです。」の表示が出ていました。
これには、さすがに肝が冷えました。
ということは...。
恐る恐る最初からやり直そうとCDを入れてみると...。

やはり...。

何と、システムドライブが存在しないので、全てのハードディスクをリカバリするという内容の表示が出たのです。頭に血が上っていくのがわかりました。一体、何のために大事なファイルなんかを(D)へ移行したのでしょう。ちなみに(D)には、まだバックアップを取っていないプリンスのmp3や映像なども保存されているのです。
涙が出てきそうになりました。
あまりにも悔しいのでリカバリをキャンセルし、しばし放置。

しばらく立って再度電源を入れると、再びドライブ(C)を認識してくれるようになりました。(さっきのあの怒りは何だったんだ...)と思いつつ再度リカバリ開始。ところが、今度は2枚目のディスクで頓挫。
あまりにもバカらしくなり、結局昨日はそこで作業を中止しました。何か、とてつもなく無駄な時間を過ごしたような気がしてきて、とても空しい気分に...。

当面は、代打(旧型iMac)に頑張ってもらうしかないようです。

2004年7月16日

新・名古屋名物

名古屋といえば、ういろう、ミソカツ、ひつまぶし、きしめんなど食べ物に事欠かない地域であります。
さらに、想像を絶する(といわれる)規模の結婚式など、ちょっと変わった風土文化を持つ地域といってもいいでしょう。そんな名古屋に、最近新しい名物になりそうなものが登場しています。それが、ご存じ「名古屋プリパ」です。この名古屋プリパ、日もどっぷりと暮れた頃、全国各地の老若男女が夜な夜な集まり、プリンス話に花を咲かせながら、明け方まで飲み食い踊り暴れるという、いわば「ストレス発散型イベント」なのであります。まだ若いイベントではありますが、スタッフの方々がアットホームな雰囲気を出そうと連日のように知恵を出し合い、参加者を楽しませるために腐心されているようです。残念ながら僕は、今回も不参加(というか参加できる日は来るんだろうか...)ですが、お近くの方のみならず、遠方の方で当日名古屋近郊を訪ねられる方は、是非会場を覗いてみてはいかがでしょうか。ついでに、僕の思いも運んじゃって下さい。7月18日開催です。

ちなみに今回は、いろんな方の放送コードギリギリの仮装姿も拝めるらしいです。
詳細はこちらから。

あ、そうそう。公的機関にお勤めの方は、恐らくアクセス不可(URLに引っかかるような3文字があるため)と思われますので念のため。

2004年7月15日

今度はハナが...

パソコンの調子が悪いのに引き続き、今度はうちのハナ(雑種・3歳♀、写真はPhotoblog参照)が、腸炎を起こしていました。ここ最近、時折血便が混じり、怪しいとは思っていたのですが、しばらく放置していたのが災いし、かなり酷い状況だったようです。病院に行った日は、僕が出張した日でもありました。病院では注射を2本打たれて帰ってきたとのこと。ハナは元来神経質で臆病者なので、病院の先生が注射するにも一苦労だったそうです。
帰宅後、普段は犬のくせに「抱っこ」されることを拒み続けるハナですが、この日ばかりは相当ショックだったのか、家人みんなに代わる代わる抱っこされたいと、甘えてきたそうです。
モモ(ポメラニアン・3歳♀)が来てから、確かに愛情の注ぎ方が、ハナ中心からモモ中心にシフトしたような気がします。そのことが、ハナにとってストレスとなり、それがずっと蓄積されていたのかも知れません。最近の変化(血便然り、極度の脱毛然り)に気づいてやれなかった、いや、気づいていながら放置した、飼い主である我々の責任であることは間違いないでしょう。出張から帰ると、家の人たちはハナもモモも分け隔てなく可愛がっていました。たった1日家を空けただけですが、結構凄い変化でした。
ペットの面倒を見るということに一石を投じられた、そんな事件でした。

2004年7月14日

東京の不思議

どうもどうも。今朝一番(といっても8時30分頃ですが)の新幹線に飛び乗り、1泊2日の東京出張から戻ってきました。
折しも出張日が梅雨明けの日とかち合うこととなり、暑いとは覚悟していたのですが、ホントにシャレにならないくらい暑かった。熱中症で倒れる人が出るのも頷けます。
東京ドームの近接する場所にある建物で会議だったんですが、丸ノ内線後楽園駅に降り立つと、そこはもう灼熱地獄。日陰を探しながら歩くも、全体が熱風に覆われている感じで、無意味でした。約5分ほどで会場に到着したのですが、あれ以上歩いていたら、恐らく汗まみれになっていたことでしょう。
ところで。実は昨日は、スーツの上着を持参しませんでした。礼を失するかな、と思ったんですが、暑さには勝てないと考え、持参することをやめました。弘前から青森経由で八戸にむかう特急の車内。半袖にネクタイ姿は僕しかいませんでした。サラリーマンっぽい方々は全員スーツの上着を着用。八戸で東北新幹線に乗り換え、(中略)、盛岡、仙台と停車するも、やはり皆さんスーツを着て乗り込んで来ます。
(あちゃぁ...失敗したかなぁ)と内心思いつつ、大宮に到着するあたりから、ふと反対側のホームに立つ人たちの姿に変化が。ネクタイ姿の人たちが、上着を着用していないのです。上野に到着する頃には、7割位の方が、半袖にネクタイ姿で下りの新幹線を待っていました。東京に着くと、スーツを着込んだまま新幹線から降り立った人たちが一斉にしかめっ面。そりゃそうです。最高気温36度だっていうんですから。
で、何が不思議かと思ったかと言えば、それでも半数以上の人がスーツを着たまま歩いているという状況。電車の中なら冷房が効いているからとか、何となく上着を着るのもわかるような気がする(それでも僕は上着を着るのはイヤだな)のですが、中には、首筋や額から大量の汗を流し、何度もハンカチで拭いながら外を歩く人も見かけました。別に移動中なんだし、そんなに暑いのなら上着脱げばいいじゃん...と単純に思ってしまうのですが、どうなんでしょう。夜のビールを美味しく飲むためでしょうかねぇ(笑)。

ところで、昨日の宿泊先は東京ドームの目の前でした。前半戦の折り返しで、プロ野球公式戦が行われないことは知っていたのですが、やたらと子供連れの親子がドームに向かっていきます。きっと、何とか戦隊のショーでもやるんだろう...と思っていたんですが、まさか日本代表対キューバ戦だったとは...(涙)。しばらく悔いが残りそうです。

2004年7月11日

一体何だったのか...

僕の住む弘前市を含む、12市町村でつくられた「津軽南地域市町村合併法定協議会」が、9日解散しました。これまでの合併を見ても、12市町村が一度に合併することなどあり得ないだろうと思っていましたし、まぁいつかはこうなるんじゃないかな、とは思っていましたので、驚くには値しなかったのですが、その理由が非常に後味の悪いというか、今まで重ねて来た協議は何だったんだろうと、腹立たしささえ覚えてしまいます。
どこの市町村でも合併の際に問題となるのが、議員定数。津軽南法定協では、この議員定数の問題ばかりが取り沙汰されていました。というのも、合併後在任特例を採用した場合、定数上限は201となります。たかだか30万人の都市に、200名を超える議員が本当に必要なのか。弘前市は法定数48を主張したのに対し、他の11市町村は定数上限を譲らず、結局ここから軋轢が生じ、解散となったのです。
この間、いわば住民不在の議論が尽くされたといってもいいでしょう。大体、201名の議会をどこで開催するのでしょうか。バカらしい。だいたい、合併後も、赤字体質から脱却できないというのに、なぜ議会にばかり金を注ぎ込まなければならないのでしょう。11市町村の言い分は、合併後の地域の声が届くように、という大義名分のようですが、そのために201名の議員がなぜ必要なのか。もう一つの選択肢として、法定数の2倍(96名)とし、選挙をするという選択肢もあったのに、議員資格に固執したいがためか、全く話題にも上らなかったようです。
四国香川県。新設合併で誕生した東かがわ市では、在任特例を採用し、定員上限のまま議会を立ち上げた途端に住民リコールが起き、わずか40日で解散に追い込まれた、ということがありました。
もしも、の話になってしまいますが、仮に今回の合併後の市が定員上限を採用した場合、僕も率先してリコール運動に参加していたことでしょう。
もっとも、今回の解散は、僕は結果としてよかったんだと思います。合併を急ぐあまり、議論があまりにも拙速すぎて、このまま合併してもメリットはないと思ったからです。
既に新たな枠組みで合併を模索する動きもあるようですが、どの選択が議員にとって最も賢い選択なのかを考えるのではなく、住民にとってどのような合併を進めることが最も賢いのかを考えるべきです。議員の役割とは、そういうことではないのかな。違うかな、議員諸君(と偉ぶってみる)。

さぁ、今日は参院選の投票日です。投票してこそモノ言えるたちばなのです。白票でもいいのです。それもあなたの意思表示なのですから。投票所には足を運びましょうね。

2004年7月 8日

妻の誕生日

今日は、妻の誕生日である。本人にも申し訳ないので、一応年齢は伏せておこうと思う。
思えば、知り合ってから約15年も経つわけで、よく飽きられなかったなぁ、というのが率直な感想。
これは僕の勝手な思いこみなんだけど、お互いに「やりたいこと」を認め、ある意味で放任しているから、こういう関係がずーっと保たれているんだと思う。そういや昔、「束縛されるのがイヤだ」みたいなことを言ったような言われたような。
結婚してからは、何か誕生日を祝うことがちょっと照れくさくて、しばらくそういうイベントから疎遠になっていた(ただし今年は、「誕生日プレゼント」と称して新しい眼鏡を買ってあげたのだ)けど、今日はちょっと早く帰って妻の帰宅を待ちたいと思う。
でも、正面切って言うのはやっぱり恥ずかしいから、この場を借りて(スマン)。

誕生日おめでとう。これからもよろしく。

2004年7月 7日

今どきの小学生児童の事件に寄せて

こういう事件が起きるたびに、学校が悪い家庭が悪い社会が悪いと、何かに責任を押しつけようとする風潮があるようですが、一番悪いのは切りつけた児童。でも伏線を辿ると切られた児童も悪い。昔ならここで、喧嘩両成敗ということでシャンシャン、と行きたいところですが、如何せん今回は包丁を持ち出して切りつけたっていうんだから、厄介なモノです。
切りつけた児童は、まず十中八九【精神鑑定】が行われることでしょう。問題は、切られた児童。間違いなくPTSDの症状が出ると思われますし、今後の「心のケア」が必要になることでしょう...。

ところでさ...「心のケア」って、何よ。

別にカミングアウトする訳じゃないけど、僕は小学校の時に【いじめられっ子】でした。いや、いじめられっ子というよりは、【からかわれっ子】といった方がいいのかな。でも、毎日毎日学校や放課後「泣かされ」ていたのは事実なんです。というか、くだらないことでメソメソ泣く僕にも非があったわけですが。そう...いろいろ自分のことに当てはめてみると、今回事件を起こした児童の気持ちが全く理解できないというわけでもないんです。「何を言うんだお前。人ひとり死ぬところだったんだぞ。」とお叱りを受けるかも知れません。でも、あの頃確かに僕も、散々からかっていたヤツをとっちめてやりたいって、毎日ぼんやりと考えてましたもん。さすがに包丁持ち出して自分の手で...というところまでは追いつめられていませんでしたが。
で、僕の場合は状況が変わったんです。6年生の後半になると、そういう「からかい」や「いじめ」を主導していたヤツの周りの連中が、反旗を翻したんですね。いわばクーデター。で結局そのいじめっ子が逆の立場になってしまい、ついには不登校気味になってしまったんです。別に僕が何か手を下したというわけではないんですが、今思えばホント苦い思い出です。そういう辛い環境に身を置いていたってことが。これもある意味のPTSDなのかな、とか思ったりして。結局、卒業するまでそんな状態でした。ちなみに当時の担任(今は鬼籍に入られてしまいましたが)は、我々が卒業したときに「頼むから低学年の担任にしてくれ」とお願いしたらしいです。それだけ手の焼けるクラスだったのでしょう。

ちょっと話が逸れました。

今回事件を起こした児童、「親にも友達にも相談できなかった」って言ってるようですが、そういう雰囲気を作り出してしまったのが周りなのか、それともこの児童の単なる思いこみなのか...。
事件を起こしたのは「まだ」小学生なんです。しかも、小学6年といえば、いろいろと多感な時期じゃないですか(多分)。先生や大人は、本当に誰も気づいてやれなかったのかなぁ。単に「腫れ物に触れる」のが怖くて、逃げてるだけなんじゃないかなぁ。あ、別にだからといって大人が悪いとは僕は言いません。多分、事件を起こした児童にしてみれば、そんな単純なことじゃないと思うから。

母は今でも言うんです。「お前って、反抗期らしい反抗期がなかったよね」
そういやあの頃、今回事件を起こした児童と一緒で、オイラも塞ぎ込んでいたかもな...自分のかつての境遇を思い出しながら、「今が反抗期です」と胸張る33歳。大人なんて、所詮そんなもんです。

何か、「心のケア」なんていう上辺だけの言葉で取りあえず誤魔化すような、そんな解決方法はイヤだな、とふと思ってしまいました。
「いのちの大切さ」を解くことも、もちろん必要。でも、何でこういう事件が立て続けに起きたのかということを、もう一度みんなで考え直すことも必要なんではないでしょうか。今の小学生が何を思い、今の中学生がどんなことを考え、今の高校生がどういう夢を持ち、今の大学生がどんな現実を見ているのか、ちょっとだけ知りたくなりました。

2004年7月 6日

私こと本日

これから、八戸市経由で岩手県境にある田子町というところに出張です。ニンニクで有名な町です。先週から、県内各所に出張中。ちなみに先週は、日本海側に出張していました。今日は太平洋側です。そして今週末、弘前市への出張が終わると一段落...といきたいところですが、来週13-14日の両日、東京への出張が決定。さらにはその翌週、3日間にわたる研修が待っています。
風邪ひいてる場合じゃないですね...(涙)
じゃ、行ってきます。

2004年7月 3日

最近読んだ本

通勤で電車に乗っている間、読書することが日課になっています。とはいえ実は電車の中の読書というのは、周りの風景や乗降客の動きによって集中力が散漫になるので、あまり頭の中には入らないんだとか。学生さんが電車の中で勉強している光景をたまに見かけますが、あれも結局のところ意味がないということになるんでしょうか...。
読書、と偉そうなことを言ってますが、読んでいる本は大したモノではありません。持ち運びの負担を減らすため、読んでいるのは新書ばかり。それも、お仕事の関係上「自治体」とか「地方」とか、そんなのがタイトルに付された本を多く読んでいます。もっとも、冒頭で触れたとおり、ほとんど頭の中には入っていませんが...(苦笑)。
ただ、あんまりそんな本ばかり読んでもつまらないわけです。
で、最近読んだ本。

『上司は思いつきでものを言う』(橋本治・集英社新書)

興味をそそられるタイトルです。僅か3日で読破してしまった本です。いきなりスゥッと吸い込まれたというか、見事にはまりました。ただ、内容そのものは非常に突飛というか、筆者本人がおっしゃっていますが、「散漫」です。
とはいえ、4月に第一刷が発行され、僕が購入した6月の時点では第四刷でした。それだけ人気がある証拠でしょう。
サラリーマンなら、誰もが持ったことがあるであろう「上司に対する不満」。なぜそういう不満が生じるのか。これを、見事なまでに的確に解説しています。

この本を読み終えた後、僕は上司や目上の人に対する見方や接し方が少し変わりました。

あ、そうそう。大変お騒がせしました。妻の手によって、パソコン見事に復活です。

2004年7月 2日

火の車

その後の我が家のパソコン。ネットに繋がらなくなりました。突然シャットダウンしたり、まさに昏睡状態。メールも読めません。職場でこうやって、こっそり日記をしたためている、そんな状況です。
明日修復作業に取りかかろうと思っていますが、かなりの重症かも...(涙)

今日の話題は、最近話題の「火の車」を販売した三菱について。実は拙宅、三菱車が3台もいます。うち2台は、見事にリコール対象車に該当だそうな。今日から入院するそうですが、無事退院できるんだろうか...。
まぁ、ホントに連日連日あちらこちらで三菱車炎上のニュースが取り沙汰されているわけですが、見るとどの車も、結構年季の入ったものばかりのような気がするんです...。聞くと、93年製の車だとか、走行距離14万キロだとか、お!結構走ってるじゃん...といった感じもしないわけでもありません。寿命が近づいたら燃え上がるようになってるんですかね。何か、消えかけのローソクみたいですね。

で、不謹慎なことを思ったのです。ひょっとしたら当時の担当は過激派組織のメンバーで、10年後に自然発火するような装置を仕込んでいた、とか。国内の売り上げが相当下がっても、イラクの武装組織からの需要はありそうだな、とか。
まぁ、これは悪い冗談ですが、事実洒落も効かないような状況に陥っていることは確かなわけで。
ドライバーは炎によって車を失い、三菱は炎によって信頼を失い...。確実に経営状態にも火がついた感じですよね。文字通り「火の車」。
あ、これも洒落になってません...。

2004年7月 1日

今日は年次休暇を取っています

ホントは月1で休暇を取ろうと思っていたんですが、6月は結局休暇を取れませんでした。と言っても、取れないほど忙しかったかといえばそうでもなく、ただタイミングがなかっただけ。そんなわけで、今日はちょうど「谷間」に当たる日だったので、有無も言わさず休暇を取りました。まぁ、取ったところで何をするというわけでもなく、いろいろ頼まれた用事を足していたら、お昼になっていました。そんなモンです。

さて。しばらくここから離れていたわけですが、ちょっとの間にいろんなことがありました。

まずは、ジョンの娘さんに弔意を。
ジョン・ブラックウェル。プリンスとともに来日を果たし、現在もバンドメンバーとして帯同し、最近のプリンスの作品にはなくてはならないバカテクドラマー。とても気さくな人で、僕みたいな人が挨拶したら挨拶を返してくれた、そんな人なつっこさも彼の魅力の一つかも知れません。そのジョンの娘さんが、亡くなったというのですから驚きです。驚きというよりも、亡くなった娘さん、残されたご家族の無念を思うと、察するに余りあると言いましょうか...。謹んで哀悼の意を。

そういえば先日、『第3回「外来語」言い換え提案』が発表されました。

個人的に思うのですが、僕の周りでも「外来語」が氾濫しています。なんていうんでしょう、そういう「外来語を使いこなす」ことが、果たして何の意味があるんだろう、と僕は思ってしまうのです。そもそも「日本語ありき」の「外来語」なのに、それを「言い換える」とは何のこっちゃ、と。「外来語をつかいこなすこと」イコール「有能である」という見方をする人もいるでしょう。しかし、違う角度から見ると、いろんな意味を持つ外来語を多用することは、単に曖昧さを増幅させるだけなんじゃないか、と。あと、「それをわざわざ外来語で言う必要があるのか?」という言葉もたくさんありますしね。
結論。ここに挙げられた外来語の数々は、これを使いこなす人たちが「自分は有能なんだよ」と暗にひけらかすための指針に過ぎないのかな、と。
どんな外来語が羅列されているのかは、こちらからどうぞ。