2008年9月30日

ついさっきの出来事

職場から青森駅まで歩いて向かう途中、信号待ちをしていたら隣にやたらとデカい男が並んだ。
浴衣姿の珍奇なその男は、何と高見盛だった!!

話しかけようとしたら、先に気付いたオバちゃんが「高見盛さんですよね?」と言いたげにヤツの方を凝視しているのに、何と無視しやがった。
大した成績も残していないのにふてぶてしい態度!!

端で見てガッカリだよ。あれじゃ相撲ファンも嫌気が差すだろうに。

2008年9月29日

無題

今朝、中学からの幼馴染みでもあり、いつもの飲み仲間でもあるFのご母堂が58歳の若さで亡くなったことを知った。
先日、我が家で父が亡くなった時に、いの一番に駆けつけてくれたのが、このFだった。
Fとは中学~大学までずっと同窓だったのだが、同じクラスになったことは一度もなく、また、中学・高校時代も特に仲が良かった訳ではなかった。
彼と急接近したのは大学の合格発表の日で、僕が合格発表で自分の番号を掲示板に確認してから帰路に就こうとした時に、Fとバッタリ出くわし、半ば強引に腕を掴まれて再び掲示板の前に立ったのだが、彼の番号がなかった、といういわく付きのエピソードから始まっている。
1年の浪人生活を経た彼と、再び合格発表の日にキャンパスで再会、またしても腕を掴まれ掲示板を見に行ったら、何と番号がなかった...ということがあった。
結局その後、彼は補欠合格という形で大学入学を果たしたのだが、お祝いの電話を入れると、お母さんが「ごめんなさいね。ホントに。これからもよろしくね。」と泣きそうな声で訴えてきた事が、未だ記憶に残っている。
その後、バイト先で彼と再び一緒になり、それはそれは深い付き合いが本格的に始まったのだった。

あれから早いもので20年近くの月日が流れた。お互い紆余曲折を経て、彼は2児の父親となった。
何かにつけてケンカを繰り返すF親子は同居別居を繰り返していたのだが、お母様と直接お目に掛かる機会は年に1度あるかないかだった。お母様と最後に会話を交わしたのは、彼の実家に電話したらお母様が出て「Fは今、奥さんの実家で生活しているんですよ...。」と寂しく語っていた時だっただろうか。
お母様の体調不良を機にF一家は再び実家での同居を始めるのだが、ここ数年は本当に体調が思わしくなかったらしく、先日Fが弔問に来た時に、お母様が長期にわたり入院していることを知った。

あれから約3週間。
まさかお別れの日がこんなに早くやってくるとは思いもせず、愕然としている。

ついこの間の飲みの席では「そろそろ喪主になるヤツも出てくるのかなぁ。」なんて笑い飛ばしていたが、それが現実となり、しかも立て続けに二人となると、もはや笑うどころの話ではなくなった。

こちらもまだ喪中の身であるため、何かとバタバタしていることもあり、直接彼に会って話を聞くことはできていない。彼は僕のために駆けつけてくれたのに、僕は彼のために何もしてやることができず、実に空虚な気持ちが渦巻いている。

今はただ、安らかにお眠り下さい。
合掌

2008年9月26日

肩の荷が下りたこと、一つ


ここ連日、コメントしづらい投稿ばかりで申し訳ないな、と思いつつ、どうしても一つ一つ気持ちの整理をしていかなければならないため、何とかご容赦願いたい。

大学時代からの畏友で、今も同じ職業に就いているH氏(むつ市在住)も、夕方わざわざ僕の所を訪ねてくれたのだが、僕の顔を見るなり「何と声を掛けていいか浮かんでこない」とのこと。いや、あまり気を遣わないで下さい(笑)。

という訳で今夜も引き続き気持ちの整理。
母と思い出話をしていて意見が一致したことが一つあった。
それは、もう選挙のたびにやきもきしなくてもいい、そして今後、政治に一切関わらなくてもいいということだった。

昨日腰掛けてみた議場での父の椅子は、何かむず痒さを覚えるような、実に座り心地の悪いものだった。敢えて言わせて頂くが、今の弘前市議会から市政を巡る建設的な話は一つでも出ているのだろうか?

僕としても立場上、父がローカル議員であること、政治に携わる人間であることを公言することはどうしても憚らざるを得なかった訳だが、父がいなくなった以上、もはやそれを隠し通す必要もなくなった。
僕の職場でも、父が政治に携わる人間であることをを知っていたのはごく一部の人たちだったのだが、あれだけローカル紙で大々的に取り上げられてしまっては、こちらとしても隠し続けることは無理だった。

確か今まで、父が市議会議員を務めていたことをこのブログで話したことは、ほとんどなかったと記憶しているが、それ以外にも、県議選に出馬して落選したことや、実は市議3期のうち任期を全うしたことが一度もないなど、父を巡る選挙や政治にまつわるエピソードは事欠かない。

出る杭は打たれるというが、父は決して出る杭ではなかった、と思う。
しかし、猪突猛進の性格ゆえ、正義漢を振りかざすと悪者扱いされ、泥仕合に巻き込まれ、足を引っ張られ、叩かれ続けた父の議員生活は、端で見ていて正直、うんざりだった。

という訳で、そういったしがらみから解き放たれただけでも、僕たちにとって大きな肩の荷が一つ下りたといってもいいだろう。

ただ、周囲が何だかんだ言っても、父は政治に携わることにこだわり続け、そして命を賭けていたのだと思う。

ろくに任期も全うできなかった父は、議員としては失格だったかも知れないが、少なくとも僕は、父が最後の最後まで「政治屋」ではなく、「政治家」であることを貫き通したと思っている。

藤田隆司議員は昨日の追悼演説で、「議員がそれぞれ市政発展のために尽力することを誓う。」といった類の言葉を口にしていた。その言葉を信じたい反面、今の状況で本当にそれができるのか、今度はこちらが監視する番だと思っている。

2008年9月25日

追悼演説

弘前市議会から、議会最終日に父に対する追悼演説を行うという申し出があり、母と二人で弘前市役所に出かけた。

思えば、父の在職中も含め、議場(傍聴席)に足を踏み入れた記憶がない。今更だが、父の一般質問を一度でもいいから聞いておけば良かったと思った。

父が座っていた20番の席には、綺麗な花が手向けられていた。そこに父の遺影を飾り、父、母、そして僕の3人でカメラに収まった。
しかし、父は額縁の向こうで微笑んでいるだけだった。
その後、父が腰掛けていた20番の椅子に座らせて貰った。母はやはりまだ父の死を現実として受け入れることができないらしく、椅子に腰掛けたまま泣いていた。

一旦控え室に戻り、事務局の方からいろいろ思い出話を聞かせて貰った。議場では熱く弁をふるっていたこと、真摯に議会の運営に取り組んでいたこと、そして決して信念を曲げなかったこと、その思い出話の一つ一つは、僕の知らない父の姿だった。
その後、議会運営協議会を終えたばかりの議長がわざわざ来て下さった。議長と父とは、古くからの知り合いで、今回の件についても議長は「残念でならないし、未だ信じられない。」とおっしゃっていた。やはり母は涙をこぼしていた。
「頑張って下さい。」とがっちりと握手し、議長が部屋をあとにした。

午前9時50分。議場の傍聴席に向かう。傍聴席には既に10名ほどの人が座っていたが、我々の知る顔は二人だけで、あとは委員会報告を傍聴しにやってきた人たちと見受けられた。理事者(役所の幹部職員)のほとんどは席に着いていた。最前列中央に席を用意して頂き、お礼の意味も込めて深々と頭を下げると、理事者側に座る人たちも全員こちらに向かってお辞儀して下さった。
次々と入ってくる議員の多くも、父の遺影を見て感慨深げな表情を浮かべる。中には、こちらの存在に気づき、お辞儀をしてくる議員もいた。

10時過ぎ。開会の鐘が打ち鳴らされ、議長から「去る9月7日に逝去した蒔苗宏議員に対する追悼の演説の申し出がありましたので、議長からこれを許可します。29番藤田隆司議員。」

藤田議員の登壇とともに、我々二人もその場に起立する。
藤田議員による、これまでの父の功績を称える演説に、母は涙し、僕も涙が溢れそうになった。

僅か5分程の演説ではあったが、実にありがたい言葉だった。

空席となった20番の席については、任期満了に伴う2010年の市長選と同時に市議の補欠選が行われるそうだ。
誰が座っても、市の発展のために尽力して頂きたいという想いと、議員としての父への慰労、そして現職議員の方々の益々の活躍を祈念して、深く一礼し、議場を後にした。

2008年9月23日

曼珠沙華


3年ぶりに庭の彼岸花が咲きました。

2008年9月19日

蓮の花


ここ1ヶ月ほどの行動を振り返っている時に、ふと思い出したことがあった。
父が亡くなったその日、僕たちはちょっと奇妙な行動を取っている。

妻と外出し、昼食を取った後で、ふと無性に行きたくなった場所があった。

それは、弘前市の隣、平川市にある「猿賀神社」というところだ。

この神社の隣にある池(その名も「鏡ヶ池」)では毎年7月下旬頃になると、蓮の花が綺麗に咲き誇ることで知られている。
僕の方からは「猿賀神社に行こうか」ということを口にしなかったのだが、何故か妻の方から「猿賀神社に行ってみたい」と言い出した。

(何で同じ所に行きたいなんて思ったんだろう)

そんなことを考えながら、車を走らせた。
この神社を訪れるのは、僕自身約25年振りで、妻は初めてだという。25年も前の話なので何があったかも忘れてしまったし、どういう風景だったのかも全く覚えていなかった。

とりあえず本殿に参拝し、その後、隣接する鏡ヶ池へ。ちょうど翌週に大祭が行われるらしく、施設の修繕などが行われていたが、蓮の花はとっくに時期を過ぎ、葉っぱだけがボウボウと伸びきっていた。

そんな中にあって、綺麗に咲く蓮の花を2~3個発見。
携帯のカメラで画像に収めようと思ったが、こんな時に限って電池切れを起こしていた。まあ、それはそれで良かったんだと思う。
もう一度瞼に焼き付けるという意味でも、見頃を迎えた頃にもう一度行かなきゃならないような気もするし。

父が亡くなった直後に、いろいろ相談に乗って下さる方の所にお邪魔をした時、「今日、猿賀様の大祭だよ」と言われて、正直ドキッとした。

そうか、あの時何かに導かれるように猿賀神社に訪れたことは、ここに繋がっていたのか...。

いや、単なる偶然といえば偶然。
でも。何故それまで興味も湧かなかった「蓮の花」を、わざわざ見に行こうと思ったのだろうか。
そう考えると、何となく必然でその場を訪れたような気が、しないわけでもない。

多分、あの日あの時二人で「蓮の花」を見に行ったことに、深い意味があるんだと、今は勝手に思いこんでいる。

2008年9月18日

故父の功績

仕事に没頭することで、僕自身は大分落ち着きを取り戻してきたが、帰宅するとまだまだ父の死を悼む来客の足は途絶えていないようで、母の疲労も大分蓄積しているのではないかと思っている。今は母の体調がちょっと心配である。

その一方で、かつて同僚で今は退職された方や、高校時代の恩師がわざわざ僕の職場に足を運んで下さった。その気配り心配りには、本当に頭の下がる思いである。皆さん、ありがとう。

今は何を語ろうにも、父のことしか浮かんでこない。生前、一度も褒め称えたことのない父のことを、亡くなってから称賛する僕は、最低の親不孝者なのかも知れない。

父の遺影は、平成11年頃、2度目の市議選の際に撮影した写真を使っている。どういう因果かわからないが、その後の市町村合併により、その写真を撮影した方(当時村議会議員)は市議会議員となり、そして父と同じ会派で行動をともにすることになった。その方には弔辞も拝読頂いたのだが、数ある父の写真の中でも、一番の写真であると家族誰もが思っているし、恐らく父もそう思っていることだろう。あまり感情を表に出さない父であったが、この時の柔和な笑顔を見ると、やはり父の死を現実として受け入れられない自分がいる。

振り返ってみると父の一番の功績は、何と言っても青森県で初めてとなる「日展」の開催に尽力したことだろう。父は以前から「日展を弘前で開催したい」という思いを抱いていたのだが、父と僕の母校である弘前高校創立120周年記念事業として、平成15年にその思いが結実し、日展側も驚くほどの大成功を収めた。

その後、平成18年に日展側から再度開催の打診があり、この時も父は全面的に心血を注いだ。

言い過ぎかも知れないが、父がいなければ、日展の青森県での開催はなかったことだろう。

北海道斜里町と弘前市との友好都市締結の際も、父は陰ながら尽力したらしい。文化交流の一環として始まった「しれとこ斜里ねぷた」では、かつて踊り手もいたらしいが、その踊りの原点は、父の奇妙な動きにあったとか(真偽の程は不明)。

それにしても、家族も仕事も顧みずに他人のために尽力する父は、実に「ムカつく存在」であった。
しかし、父を送る一連のセレモニーで、父を悼み、大勢の老若男女が涙していた事を考えても、僕が言うのもおかしな話だが、本当に「凄い人」だったんだと思う。

昨日、妹が現実に戻るため東京に向かった。
我が家は、母と妻そして僕の3人だけになった。

我々も、これが現実なんだということをしみじみと感じながらも、母の抱える寂しさを思うと、何とも居たたまれない気分になる。
頭の中では理解しているつもりだが、やはり未だ仏壇の中に置かれた父の遺影に、どうしても納得できない部分があるのだ。

父の肉体は知床・斜里の地を踏むことはなくなってしまったが、近い将来僕は、父の代わりに知床の地に足を踏み入れそうな気がする。いや、必ず踏み入れなければならない。そう確信している。

2008年9月16日

現実逃避

夢を見た。
その夢の中に、一瞬だけ父が現れた。何も言わず、はにかんだような表情を見せただけだった。

父が忽然とこの世を去ってから、10日目を迎えた。
いろいろな方々から話を聞いていると、こういった形で父との別れを迎えることが、かなり必然性を帯びていたのだと、今は何となく確信めいている。耳を塞ぎたくなるような話もあるが、今は現実と向き合うために、そんな話にも耳を傾けている。

アメリカの人たちにとって9.11が決して忘れられない日となっているように、僕らにとって9.7(そして9.8)は生涯忘れることのできない日となった。

人生は帳尻が合うようになっている。
僕にとってこの言葉はある意味、座右の銘のようなものだった。確かに僕はこれまで、端から見ると順風満帆とも言える生活を送ってきたのかも知れない。ただ、これまで過ごしてきたそんな日々が、たった一日にしてどん底に突き落とされたのだから、正直堪ったものではない。今回のことが僕にとっての帳尻合わせだとするならば、なんて残酷な運命なのだろう。
それにしても、父の人生は帳尻が合っていたのだろうか。その答えは一生掛けても見つからないことだろう。

しかし。
もう、これ以上の底はないんだということを、僕もそして家族も必死に自分たちに言い聞かせている。そして、何とか少しでもその底から這い上がろうと、それぞれが負い目を抱えたまま、もがき苦しんでいる。

それにしても、いくら泣いても涙は枯れないものだ。

今日から職場に復帰した。電車に乗るのもイヤだった。好奇の目に晒されるのも怖かった。でも、何一つ変わらぬ態度で接してくれる同僚の配慮が嬉しかった。

そうだ。
時間が止まっていたのは僕だけであり、周囲はめまぐるしく動いているのだ。
ホントは未だ夢醒めぬ状況にあるのだが、いつまでも現実逃避している訳にはいかない。

少しずつ顔を上げて行くための努力を始めようと思う。

2008年9月14日

初七日

突然やってきた父との別れ。
現職市議の衝撃的な死は、マスコミにとって格好のスキャンダルとなり、その対応に非常に苦慮した。
何故?どうして?みんなが問いかける。しかし、真実は父の胸の中に秘められたまま。だから、「本人に直接聞いて下さい」と切り返すしかなかった。

僕は喪主として父を送り出すことになった訳だが、何が何だかわからぬまま一連の儀式を終え、初七日を迎えた昨日、納骨を済ませた。
火葬場に集まった人、約200名。お通夜に参列した人、約850名。うち、会場に入りきらなかった人、約100名。お葬式に参列した人、約200名。
これらの数字が、父がいかに偉大な人物であり、そしていかに人に慕われていたかを表すものだと思った。

僕たちは、最後まで家族を守るために万策を尽くし、そしてこの世を去った父を誇りに思う。喪主挨拶でも、僕はこのことを申し述べさせて貰った。

あれほど嫌気がさしていたはずなのに、今は少しでも父の側にいたくて、遺影の前からなかなか離れることができない。

父を送り出したのに、未だそのことを現実として受け入れられないのも事実。ふと父を思い出しては、落涙する時間を過ごしている。

今はただ、時間だけが僕たち家族にとって心を癒す薬となっている。
でも、そっとして欲しい反面、誰かに優しい言葉を掛けて欲しいのも事実だ。しばらく傷は癒えそうにない。

---
父の訃報に接し、このブログをご覧頂いている多くの方々から御弔意、御弔電等を賜りました。本来であれば直接御礼を申し上げるところでありますが、取り急ぎこの場をお借りして深く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

2008年9月 3日

8/30-9/2

○8/30

恒例というか定例というか、いつものメンバーと久しぶりの飲み会。1次会から参加は5名。
こちらからサザンのコンサートレポートを伝えた後は、各自近況報告。何か話を聞くと、サザンのチケットをゲットできた確率は結構高かったらしい。
それにしてもみんな、もうすぐ不惑だねぇ。


2次会にてタガシ先生合流後。うーん...こうやってみると風貌もやってることも、みんなオヤジだなぁ...。というか、数名既に目が飛んでるんだが...あ、俺もですか。

2次会からやってくるタガシ先生ご指名の店で彼がやってくるのを待っていると、「今日釣れた」マダイとチダイを持参。すぐに店のオヤジさんに裁いてもらい、無言もしくは「うめぇ!!!」の絶叫で堪能。ごちそうさま!


マダイよりチダイの方が人気がありました。この他に、カブトの酔っぱらい煮(酒蒸し)も登場。

...普段ならこの辺で「それじゃまたねー」となるはずなのだが、何故か今日は全員元気がいい。それじゃ、もう一軒行っちゃいますか。と、スナックに乱入。


ちょうど日曜日になった前後の時間、この頃には既に記憶がまだらで、多分彼がこうやって唄っているということは、吉川晃司でも熱唱しているのでしょう。うーん、やっぱりオヤジだ!

飲めや歌えや大騒ぎで(この頃からザワ先生ともども記憶が飛び始める。多分ザワ先生は無意識で曲をチョイスしていたはず!)、結局大団円となったのは午前2時!請求額を見て更にぶっ飛んだ!!!(金額は思い出したくなくて書けません)

○8/31

予想通り死に体に。物凄い倦怠感が全身を襲う。身体を動かそうにも、思うように動かないぐらい疲れがドッと押し寄せている。妻からは「学習しないねぇ」と呆れられる。結局午後1時過ぎまで動くことも出来ず、せっかくの1日が無駄に終わってしまった。

二日酔いでこんなに何も出来なかったのは、記憶がない。相当飲んだことは間違いないのだが、どれぐらい飲んだのかも思い出せないのだ(当たり前か)。
当然の事ながらこの日はビール1滴も飲む気になれず、午後10時過ぎに就寝。ちなみにこの日の睡眠時間、14時間。嗚呼、俺はナマケモノか。

続きを読む "8/30-9/2"

8/28-8/29

○8/28

朝6時30分過ぎに家を出発する。結構霧が濃い。青森市が近づくにつれて渋滞に巻き込まれる。結果、約束の時間を5分遅れて集合場所に到着。同乗者と共に僕の運転で風間浦村を目指す。途中休憩を挟みながら、10時50分、無事風間浦村に到着。
粛々と仕事を進め、16時頃に28日の業務を全て終了。約10キロ離れた宿泊先の下風呂温泉郷へ移動。

思えば明るいうちにこの温泉郷に来たことはなかったので、周辺を散策。8月末だというのに、客が結構多い。
しかし、幻の大間鉄道の鉄道橋を集客アイテムにしようとする試みはいいのだが、こういう歴史的な構造物は、当時のままの面影があるからこそ価値が出る場合だってある。

橋上にある説明書き。ここから約5キロ北まで基礎工事を完成させたまま、日の目を見ることはなかった。


鉄道が来るはずだった、ということだろうけれど、下がコンクリートで綺麗に整備されていて、何かリアリティに欠けるというか、いかにもモニュメント、といった雰囲気がプンプンしている。


結局この日はずっと霧が晴れなかった。そして翌日は雨だった。トホホ...。

正直、ちょっと手をかけすぎてしまったのではないかという気もする...。
旧大畑町(むつ市)からこのあたりまでは、道路と並行する形でこのような構造物が点在しており、その姿はまるで廃線跡のようであるが(旧大畑町二枚橋地区にある橋梁跡は、かなり生々しさがある)、実際は廃線どころか鉄路は繋がらなかった訳で、もしも大間町まで鉄道が延伸していたら、(このご時世で廃線は免れなかっただろうけれど)、周辺町村との繋がりが少し違っていたかも知れない。

旅館に戻り、表面だけ熱湯のように熱い温泉のお湯に四苦八苦しながら、硫黄のニオイ漂う湯船で疲れを癒す。あ~極楽極楽...。

旅館で出された晩ご飯は、旬を迎えたイカがメイン。その他数の子にマグロと白身魚の刺身、カニの爪の天ぷらを始め、とにかく魚介類づくしなのである。

この他に別皿として、透き通ったイカ刺しを頂きました。ちなみにこれにプラス4,000円すると、鮑が付くらしい。
ビール2本飲んで部屋に戻ると疲れがドッと出たのか、22時頃にはテレビを付けっぱなしのまま眠ってしまった。

続きを読む "8/28-8/29"