2008年10月31日

晩秋です


朝7時25分。2度って...ホント!?

2008年10月28日

WBCの監督

原監督の就任が決定=コミッショナーの要請を快諾-WBC

来年3月に開催される野球の国・地域別対抗戦、第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表監督に、巨人の原辰徳監督(50)の就任が28日、決まった。プロ野球の加藤良三コミッショナーが川崎市内の読売ジャイアンツ寮に原監督を訪ねて就任を要請。同監督が快諾した。会談後、原監督は「自分の持てる力を出して、強いチームをつくる力になりたい」と語った。

星野JAPANによる北京五輪メダルなしの結果を機に、何か損な役回りといった印象が植え付けられてしまったというか、言わば結果が出る前から責任の押し付け合いみたいになっていたWBC監督問題が、すったもんだの末ようやく決着を迎えた。
野球に限ったことではないが、これまでの国際舞台での監督選出は、実績や経験から、どうしても過去の栄光にすがってしまう傾向があった。
しかし、今回の原監督の選出は、ある意味両者にとって「英断」といっていいだろう。ようやく野球界にも世代交代の波が押し寄せた、といったところだろうか。

ただ、これまでの紆余曲折を考えれば、誰が監督をやってもおかしくない状況だった訳であり、裏を返せば、本音は誰もやりたくなかったのでは。

そういう意味では、結果が全てといった風潮が色濃い世界で、原監督が世間の矢面に立った(いや、立たされた?)、という見方も出来る。

実際、みんなが「この人なら!」という絶対的オーラを持った監督は、今の球界にはいないだろう(かつてなら「長嶋や王なら仕方ないか...」みたいな風潮があった)。

もちろん原監督がWBCの監督を受諾することには賛否両論あるだろうが、これはハッキリ言ってどこのラーメンが一番好きかを全国民に聞くのと同じ様なものだと思う。

星野ラーメンは、味を引き出すだけのトッピング(T淵、Y本)を並べただけで、味気ないラーメンに仕上がったこと、その他の具材や調味料が全然揃わなかったことが戦略的な失敗、と囁かれていた。

だから原ラーメンには、自分の好きなトッピング(コーチ)だけを揃えるのではなく、アクの強い具材(的確な反論と助言をするコーチ)も加えて欲しい。さらに、良質の素材や調味料(選手)を揃えて、万人を唸らせるような味に仕上げて欲しいと思う。

世代交代ということで、コーチ候補には野茂の名前が浮上している他、今後は大リーグ経験者やちょっと名の馳せた、いわゆるカリスマ性のある人(敢えて誰とはいいません)の名前が挙がってくる可能性もある。

日本は前回の第一回大会で優勝しているということもあり、間違いなく各国の研究材料、ターゲットにされてくるだろう。
今の原監督が「世界の王」を名実ともに超えるのは、まずもって無理な話。しかし、監督就任が決まった以上は堂々と戦って欲しいし、連覇を目指して欲しい。
そのためにも、これまで土台を作ってきた「ラーメン通」の皆さんの全面的なバックアップが必要となってくる。
優勝の上はないし、裏を返せば底は果てしない。けれども、しばらくは続くかも知れない逆境に耐え、原監督には是非とも頑張って欲しい。

あ、その前に日本シリーズか(笑)。

だったら、WBCは原監督と渡辺久信ヘッドコーチで、そこを軸にコーチ陣や選手を選んでもいいんじゃないの?とか思ったりして。

2008年10月27日

四十九日が終わりました


気がついたらもうすぐ10月も終わり。何をしていたのかも思い出せないぐらい忘却の彼方へと過ぎた1ヶ月。と同時に、あっという間だった1ヶ月。紅葉の見頃も終盤を迎え、いよいよ冬の便りも聞こえそうな時期にさしかかってきていることを、札幌・藻岩山で雪が降ったニュースを見て実感した。今年の冬は雪が多いのだろうか...。

先週25日(土)に、父の四十九日法要を執り行った。といってもお寺に向かったのは母と妻と僕の3名のみ。二週間前の忌明けの時と比べると、非常にこぢんまりとしたものだった。
ただしその分、間近で住職の読経を聞くことができた。

僕は父の位牌をまだ作っていないことに焦りを感じ、前日に母を通じて確認をお願いしたのだが、どうやら母は住職にも電話をしていたらしく、結局僕だけ一人が焦っていたらしい。住職からは、的確なアドバイスがあったようだ。

オカルトっぽく捉えて頂きたくはないのだが、読経が響く間、我が家の位牌堂の左側の明かりがついたり消えたり、位牌堂の左側に供えていた霞草だけが、何やら不思議な動きを繰り返したり(笑)。
それをボンヤリと見ながら、「ああ、父がその辺に来てるな...。」と直感で思ったり。

読経が終わると、結局左側の明かりは消えたままになってしまったのだけれど、母がちょこんと触れたら、再び点灯した。単に接触が悪かっただけなのだろう(苦笑)。

まあそれはともかく無事にお勤めを終え、墓前に手を合わせ、とりあえず何度目か忘れてしまった「区切り」を迎えた。

四十九日ということで、その日を挟んで来客も数名あったのだが、どうも父は亡くなった直後に何人かの所を訪ね歩いたらしく、興味深いお話しを聞かせて頂いた。

高校時代の同級生からもメールを頂いた。
津軽地方にある寺院に嫁いだ彼女からのメールは、実に的を射た、かつ包容力のある内容だった。
本当にありがとう。

母は例のごとく読経が響く間ずっと涙していたが、何か吹っ切れるものがあったのだろうか、その後母の実家へと出かけていった(僕の祖母、つまり母の実母にも、父が亡くなったことをようやく伝えたそうだ)。

僕も、自分の中で相変わらず引きずっている「不幸のどん底」というか「悲劇のヒーロー」みたいな意識を早く払拭しなければ。

一区切りとは言っても、これでいいんだ、という整理は一生つかない。悲しみだって一生和らぐことはないだろう。でも、時間が一つ一つ解決してくれるという言葉は、まんざらウソではないようだ。

 

2008年10月20日

津軽名物「わら焼公害」

ここ最近、仕事を終えて電車に乗り込み、弘前駅に降り立つと、何やら焦げ臭いニオイが漂ってくる。
というか、電車に乗っている間、何となく鼻をつく何かを焼いたようなニオイがしてくるのだが、それが「わら焼」の煙のニオイであることは、青森県民、とりわけ津軽地方の人たちなら誰でも知っていることである。

この時期は、部屋の空気を入れ換えようと窓を開けた瞬間、煙臭い空気が漂ってくるため、換気もままならないのである。

それにしてもこの「わら焼」は本当に迷惑千万な話であり、例えば喘息持ちの人なんかは本当に大変らしいのだが、当の本人(要するに農家)はどこ吹く風らしい。

言わば「焼畑農業」みたいなものをイメージしてもらえばいいのだろうか。いや、もっとわかりにくいか(苦笑)。

稲刈りを終え、田んぼに火を放つことで、早く田んぼを乾燥させることができること、土壌の害虫等を死滅させ、土を活性化させること等、農家側にすればメリットがたくさんあるだろうが、道路の視界が遮られ、時には事故にも繋がること、煙害そのものが大気汚染であること、ひいては地球温暖化を助長することといった世界レベルのデメリットから、外に干した洗濯物にニオイが染みついてしまうこと、そこにいなくとも流れてくる煙によって子供も大人も健康を害する恐れがあることなど、身近なデメリットも多数ある。

稲わらは運搬が大変だし、利活用方法が限られているのでいろんな意味で「煙たい存在」なのだが、その一方で、家畜用の飼料として輸入している稲わらの量もハンパではないらしい。
稲刈り後の稲わらは、根本的には飼料向きではないらしいのだが、これは本当に国県を始めとする自治体や農協がタッグを組んで本腰を入れて取り組んで欲しいといつも思う。しかし、結局は何の解決策も見いだせぬまま農家とのいたちごっこが続いているだけで、全く先が見えてこない。先が見えてこないだけに煙に巻いている、なんていう冗談も通用しないぐらい酷いのだ。

しかも、一時期自己規制もあって収束したと思っていたら、今年は特に酷く感じられる。一軒二軒ではなく、「隣もやっているからうちも...」の調子でどんどんわら焼が広がっていくものだから、本当に堪ったモノではない。

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2008年10月14日

明けました。

明けまして、といえばおめでたい話ですが、こちらは全くおめでたくない話です。
10月11日(土)、五・七日(三十五日)をもって、父の忌明けを迎えました。

嗚呼。
父を見送る時は万歳三唱と心に決めていたけど、結局叶わなかったなぁ...。
父を見送る時は拍手喝采と心に決めていたけど、結局叶わなかったなぁ...。

長くもあり短かった35日間。仏前に飾られた父の遺影に毎日話しかける僕は、日々の経過とともに現実を受け入れられるようになりましたが、父の兄妹、とりわけ不本意な形で父との最期を迎えることになった実兄は、日を追うことに憎まれ口を叩いていた実弟との別れをひしひしと感じていたらしく、ここに来て憔悴しきった伯父の姿は、本当に痛々しかったです。
忌明けの法要は、お通夜葬儀とはうってかわって、こぢんまりと執り行われれました。

それでも、父に対するディープディーパーディーペストな思いを抱いている方々がそれぞれに父のことを回想して下さったはず。

その席で一つ気になったのは、一部の市議会議員が「故父の遺志を継ぎます」といったことを公言していること。
はて、故父の遺志とは何でしょう?
我々家族も知りませんので、是非直接お話しをお聞かせ頂きたいと思います。イヤ、これに関しては本当に殷勤無礼だと思いますし、実に腹立たしい話です。
我々からすれば、ご自身の政治活動に父の死を利用しているとしか思えませんし、我々の心情にもご配慮いただいた上で、是非慎んで頂きたいと、強く求めます。

忌明けはしましたが、母の哀しみ、我々家族の哀しみはそんな簡単に癒えるはずがありません。法要の際、母は何かを思い出したのか堰を切ったように泣きじゃくっていました。

かく言う僕も、13日に愛犬3匹を連れ立って散歩に出かけたら、何故か父の墓前に立ち尽くしていました。まぁ、亡父は犬達のことをホントに好きでしたから...。

(おとん...。こいつら、連れてきたよ。)

こういった形で父と愛犬が対峙するのは初めて。所詮人間のエゴ全開だと思いながらも、帰路に向かっていたところ、車に乗る畏友Iのお父さんと遭遇。
僕の姿に気づいた途端車を急停車させ、助手席の窓を開けて「どしてら!?頑張ってらガ?元気出さねば、マイネ(ダメだ)よ!」

ハイ。ハイ。ハイ。ありがとうございます。飄々と応えたつもりでしたが、車が立ち去った後、何とも癒えぬ空虚な気持ちといろんな思いが去来し、思わずその場で泣いてしまいました。

というわけで全然復調までほど遠い僕ですけれど、それでも父が残した宿題は少しずつ解決に向かっているような感じです。

あとは、なるようになる。これこそ勝手な解釈ではありますが、適当に頑張ります。

2008年10月 8日

嗚呼、母は強し

言わずもがな、父が亡くなって一番ショックを受け、そして一番憔悴していたのが母だった。

父同様、人前では強がることが多かった母が、僕の前で大粒の涙を流したのが8月のことだった。
そしてその1ヶ月後、父は突如として旅立ってしまった。

この時の母は流石に、家族が端で見ていても心配になるくらい泣き、そして落ち込み、まるで魂を吸い取られたような全く生気のない姿だったのだが、その後は周囲の人の支えもあって、徐々に気力と覇気を取り戻していた。

立つ鳥跡を濁さずというが、父は鳥ではなかった。なので、お茶に濁したままとなってしまった課題を、解決の方向に導くのは我々の役目となった。

人は亡くなった後が大変だということは耳にしていたが、実際現実を目の当たりにして、何からどうやって手を付けていったらいいのか、連日思い悩んでいるというのが実情だ。

遺された家族が手を取り合って前に進むということは、口にするのは容易だが、実際は非常に困難であり、また、母を支えてあげて下さい、という周囲からの励ましも、いざ支えてあげようと思ったところでなかなか出来るものではないことが、ここ数日でわかった。

調子はいかがですか?大分落ち着きましたか?お母さんは大丈夫ですか?お母さんが心配です。

最近お会いした人たちからはよくこういった声を掛けて頂くのだが、皆さん、そして我々の心配は杞憂だった。狼狽する我々をよそ目に、一番冷静でしっかりしていたのが、実は母だったようだ。

嗚呼、母は強し。

そして、やはり親は偉大である。

いくらもがき努力しても、親という存在を超えることは絶対に不可能なのだということを悟ったここ数日の出来事。

下世話な言い方をすれば、父は死んだ。
しかし、敢えて哲学的な言い方をすれば、父の肉体が朽ち滅び、形としての父がなくなっただけであり、その精神はそして魂は、我々家族の中に、今もまだ息づいている。

母そして我々を心配して下さった皆さん、本当にありがとうございます。少しずつではありますが、暗闇から脱しつつあるようです。

2008年10月 7日

Michael Jacksonのベスト盤

久しぶりに音楽ネタを一つ。
新譜が出るという噂が出たと思ったらあっさりと音源がリークされ、あっという間に流出してしまったマイコーさんの生誕50周年を記念したベスト盤、「King Of Pop」が大変なことになっています。
何が大変かというと、各国それぞれの投票上位が、それぞれの国のバージョンとして発売されるため、同タイトルのアイテムだけで20種類以上になってしまうことが見込まれるのです。

マイケル・ジャクソンのファン投票選曲によるベスト・アルバムが生誕50周年記念としてリリース!このアルバムは世界各国(現在 20ヶ国以上で発売予定)ごとにファン投票を行い、多くの得票を集めた曲から優先的に収録され、その国ごとに発売されるという、まさに各々の国のファンに とっての究極のベスト・アルバムとなります。
個人的に一番食指の動いたバージョンは、リミックスバージョンが収録された3枚目のCDを擁するUK盤のみで、その他はどれもドングリの背比べ。とりわけその中でも国内盤は見送っても全く問題のないアイテムとなってしまったような気が...。

新譜が期待できない今年は「Thriller」の25周年記念盤だけで十分だったのに、「Number Ones」「The Essential」とベスト盤が続いたところにファン投票のベスト盤まで追加投入って、どうよ?という気もしない訳じゃないのですが...。まぁ、世界各国の別バージョンに思いを馳せるのも一つでしょうけれど、個人的には「The Ultimate Collection」だけで十分網羅されるのではないか、という結論に達しましたが、いかがでしょう?

2008年10月 6日

1ヶ月経った

早いもので父が他界して1ヶ月が経った。
母から第一報を受けたのが月曜日の朝だったということもあってだろうか、何となく週明けの出勤は気が重いのだが、これもまた時間の経過が徐々に浄化させていくのだろう。
ようやく母も、今もなお時折訪れる弔問客の前で涙を見せなくなったし、少しずつではあるが前を向いて歩き始めている。

そういえば、父が亡くなってからしばらく、僕の手の平の皮膚は異常とも言えるぐらいボロボロに剥けてしまったのだが、ここ最近は大分収まりつつある。僕自身、精神的に少し落ち着いたのかも知れない。

その一方で、父が亡くなってからの酒量はハンパでなく増えており、しかも飲んでも飲んでも酔わない(酔えない)という状態が続いている。

飲まずにはいられないという心境は、生前の父も同じだったのかも知れない。しかしその酒の味は、逝ってしまった父と遺された我々とでは全く違うということを、我々家族が理解しなければならない。

父の時間は9月7日で止まってしまったが、我々の時間は黙っていても刻々と動いている。
この悲しみは、一生消えるものではないと思っている一方で、我々も一緒に時間を止めていてはダメなのだということを、今は言い聞かせている。

父が忽然と姿を消したことで、我々家族はいろんな意味でどん底に突き落とされた。

でも、そのどん底から這い上がる術を我々は身につけなければならないし、父のためにも生きなければならない。

しかしながら、どれからどうやって手を付けたらいいのか、実はまだ整理が全然ついていない状況で、これから相当長い時間を掛けていろんなものを整理して行かなければならないんだと思っている。

その一方で、「ひょっとしたら誰かが何とかしてくれるんじゃないだろうか」なんていう甘い考えを持っているのも事実で、そんな自分自身に対してちょっと不甲斐なさを感じている。

父が遺した「宿題」は、とてつもなく難解である。

2008年10月 3日

父が亡くなった翌日、駆けつけて下さった方々から「これから先、いろんな噂が飛び交うと思うけど、一切耳を傾けるな」と助言を頂いた。
その後、徐々に我々の耳にも聞こえてくるようになった。いや、正確に言えば、ご丁寧にも我々の耳に届けて下さる「メッセンジャー」がいたのだ。全くもって迷惑な話である。

父は、複数のサラ金から多額の借金をしていた。

父は、先に倒産した老舗スーパーに、多額の売掛金を踏み倒された。

「メッセンジャー」から聞いた「事実まがいの噂」を聞いて、僕は呆れるしかなかった。

この「噂まがいの事実」を流した人たちにお会いして、是非お伺いしたい。

それは父の口から直接聞いた話なのか。
でなければ、何を根拠にこういった「事実」が出てきたのか。

もしこれらの話が「事実」でないとするのであれば、是非父本人のところに行って事実関係を確認して下さい。

嗚呼、実にアホらしい。

それともあれだろうか、今後は戸籍を売ったとかそんな噂が飛び交うのだろうか。

人の噂も七十五日までだそうだ。

しかし父は一体、どんな思いでこの「事実」を受け入れているのだろうか。

母はこの噂を耳にし、嘆き悲しむしかなかったようだ。
でも、多分父ならこう言っただろう。
「フンッ!!ナンモ勝手に喋らせておげばいいッキャ!!」

ただ、僕は息子として、父に対するこの「噂」をすんなりと受け入れるわけにはいかないのだ。

残念ながら弘前市は思った以上に狭い地域であり、教養娯楽が少ない街なのだろう。だから、他人の不幸を酒の肴あるいは世間話にして面白可笑しくネタにしてしまう人がいるということ。これは、間違いのない事実。
その一方で、そのくだらないネタが我々の耳にも届いていること、更にそのくだらないネタが、我々を苦しませているということを踏まえ、今は声を大にしていいたい。

父にまつわる勝手な噂を流布したあなた達を、僕は一生許さない。