2010年3月31日

最終日

現職場での最終日。

最後の最後にすったもんだがいろいろあったが、何とか矛先を収めることが出来た。これで後腐れなく次の職場に異動できる...ハズ。しかしこの3年間は、総じて見ると楽しかったな。ただ、今月に入ってから露呈したいろんな醜聞で、一気に興醒めしたことも否めないけど。まぁでも、何だかんだ言って今までで一番面白い仕事だったかも知れない。
右も左もわからないうちに、僕にはどうすることも出来ないような無理難題が降りかかってきたり、かと思えば県内あちこちを行脚して、最終的には県内全市町村を回る出張があったり、いろいろ思い起こされることもある。
真夏のクソ暑い時に、扇風機すら設置していない職場環境と、○○だけは、どうしても受け入れがたかったけれど(笑)。

次の異動先は、これまた全くジャンルの異なる職場で、ここ最近は、3度続けて全く違うジャンルの職場を転々。足かけ3年でやっとこの職種に腰を据えようかと思う時に根を引っこ抜かれた感じがして、結局「腰かけ3年」が繰り返されている。

ただ、個人的には貴重な経験をさせてもらった3年間だった。憎まれ口を叩きながらも、結構感謝。
明日から4月、新しい職場でのスタートが始まる。仕事も変われば立場も変わるし、4月早々いろいろ忙しいらしいから、ちょっと身の引き締まる思い。

でも僕の欠点は「真面目すぎるところ」と複数の人から指摘されたので(笑)、明日からは適度に力を抜いて気張らない程度に頑張ります。

2010年3月29日

MT5.01へアップグレード

ご覧になっている方にしてみれば、何のこっちゃ?なシステムのアップグレードがようやくほぼ終わりました。
右下に燦然と輝く「MT5」がアップグレードの証(以前は「MT4」だった)。
しかし、こちらではわかりませんが、管理画面が非常に使いづらくなりました(苦笑)。

ブログパーツもいろいろ整理した結果、必要としていたパーツがどんどん消えました。バックアップするのを忘れてみんなパー。結局最初から構築し直し。嗚呼...。
毎回思うことですが、アップグレードなんて軽い気持ちでやるもんじゃありません。
といいつつ前回のアップグレードの反省などすっかり忘れ、今回もまた同じ間違いを繰り返す始末。学習能力まるでなし。記事のエクスポートしていたことだけがせめてもの救いだった、かな...。

まあそれでも、これで少しはスッキリ?といっても、まだ不要なファイルがたくさん残っているし、ちょっと動作も不安定なのですが...。

ということで、引き続き間延びした投稿になると思いますが、これまで同様よろしくお願い申し上げます。

ちなみに明日明後日で今の職場を旅立ちますが、ここに来て非常に厄介な問題が浮上。
確かに、自分で蒔いた種だから自分が刈り取らなければならないということは、わかっているつもりです。それにしても、あまりに周囲が冷淡過ぎて、思い出しただけで泣きそうです...。今日の酒はホントに苦かった。悔しい。

2010年3月18日

味噌カレー牛乳ラーメン

某テレビ番組で「青森市民のソウルフード」と紹介された後、青森市内では「あれはホントにソウルフードなのか?」という賛否両論が沸き起こる中、渦中の「味噌カレー牛乳ラーメン」だけはしっかりと、着実に地域に根ざしはじめていました(ちなみに僕の周りでは「味噌カレー牛乳ラーメン」のソウルフード賛同派はゼロ!)。

そんな市民の戸惑いとはお構いなしに、しまいにはカップラーメンとなって販売されるまでに至った味噌カレー牛乳ラーメン(ただし「味噌カレーミルクラーメン」という標記になっている)、やがて賛否両論は沈静化。むしろ、青森の一名物として売り出していこうじゃないか、そんな風潮まで生まれています。

私は青森市民ではありません(弘前市民です)ので、この味噌カレー牛乳ラーメンに関しては実際、存在は知っていたものの「味噌と牛乳が混じったものなど、喰うものではない」という先入観を持っていたため(これは語れば長くなるので割愛しますが、ちょっとしたトラウマがあるのです)、39年間一度も口にしたことがありませんでした。記憶が正しければ、なのですが、確か弘前市内にあった「天龍」というラーメン屋さんでも、味噌と牛乳を合わせたラーメンがあったような気がするのですが...(求ム補足)。

しかし、この「味噌カレー牛乳ラーメン」を既に食べたことがあるという妻に言わせると、「思ったほどクセもないし、むしろ好みの味なんじゃない?」と推奨される始末。

そんな妻の後押しもあり、結局、「味噌カレーラーメン」まではたどり着いたことがあったのですが、「味噌カレー牛乳ラーメン」だけはどうしても、注文することが出来ませんでした。

しかし、酔った勢いというのは恐ろしいものです。
昨晩職場のグループの飲み会の後、帰りの電車を一本乗り過ごしてしまったため時間が余るなぁ、と。
この時点で生ビールを4杯とわさびやら黒糖やらの焼酎と梅酒と日本酒...と、かなり酔っぱらいモード。

うーん...でも帰るまでには時間があるし、もうちょっと腹の足しに何か喰いたいな、と、駅前にあるもつ焼き屋「井戸端」を目指していたところ、途中にある赤い看板を発見。

青森市・味の札幌分店

あ...久し振りに入るか。
フラフラと赤い看板に引き寄せられるがまま、白い暖簾をくぐり、店の中へ。

青森市・味の札幌分店

「すいません、味噌カレー牛乳一つ。」

何と、店に入るなり、迷うことなく味噌カレー牛乳ラーメンを注文してしまいました。
俺、かなり酔っぱらってるな。ま、いいか。食えないことはないだろう...。自分の身体でありながら、客観的に自己評価する僕。

青森市・味の札幌分店

酔っぱらったまま携帯のカメラ片手にパシャパシャと撮影を始める姿は、周囲から見ると相当怪しい人に見えたかも知れません。といっても店には僕含め、3名 の客しかいませんでしたが...。

程なく「お待ちどおさま」の声。

味噌カレー牛乳ラーメン

じゃーん!遂に対峙することになった味噌カレー牛乳ラーメン。
トッピングはチャーシュー、もやし、ワカメ、メンマ、そしてバター。これは「味噌カレー牛乳ラーメン」を扱う青森市内の他の店舗でも同じらしいです。

さて、その味は...。
普段絶対入れることのないバターをゆっくりと溶かし、スープを一口。

....!!!!! ウン!! これは食える。全然大丈夫じゃん。
牛乳臭いラーメンばかりを想像し、これまで意図的に避けてきましたが、味噌とカレーの刺々しさを牛乳が取り去っているといった感じ。むしろマイルドな口当たりで、これなら全く問題なくいけそうな感じです。
スープと太麺の相性も良く、トッピングのバランスもバッチリ。ただし、チャーシューがちょっと...なんですけどね。

もちろんコショウやその他の香辛料を、というのもアリでしょうけれど、カレーの風味が損なわれるような気がしたので、結局一切何の香辛料も入れぬまま、平らげてしまいました。

ちなみにこの店には、前述のカップラーメンの他、「味噌カレー牛乳せんべい」なるものも販売されていました。さすがに手は伸びませんでしたが...。

味の札幌分店 浅利 青森市新町1-11-23

大きな地図で見る

ちなみに青森市内では、5店舗ほどが味噌カレー牛乳ラーメンを取り扱っているそうです。
僕が訪れた「味の札幌 浅利」もそうですが、本家と言われる「味の札幌 大西」も青森駅の近隣にあるお店です。

青森を訪れた際に、足を運んでみるのもいかがでしょうか。スープの調合は、店舗によって異なるようです。
参考までに、「青森味噌カレー牛乳ラーメン普及会」なるものがあり、会員店が紹介されていますのでリンクを張っておきます。

「青森味噌カレー牛乳ラーメン普及会」

2010年3月17日

立つ鳥跡を濁さず

11日の時点で内々には聞いていたのだけれど、僕にとって7度目となる異動が決まった。正式発表は明日午前。通算18年目の春を迎えるに当たり、また新しい部署への異動となり、今回の移動で所属部が4度変わったことになる。

これが僕にとっていいことなのか悪いことなのかはわからないが、ようやく今の所属部に根を張ろうとしていたところだったのに、また別なところに移植されるような気がして、正直言ってあまり気分は穏やかではない。しかも、ここ10年は所属部を転々とさせられていて、何となくたらい回しされているような感じだ。
ただし今回は、異動の他に昇任というおまけがついた。まあ、これについては去年から言われていたことだったし、既定路線だったとはいえ、何だか身の引き締まる思い。

僕には、未だに後悔というか心残りというか、絶対足向けできない(行きたくない)部署があって、そこから異動する時の引継だけは、本当にボロボロだった。もっとも、心身ともに一番疲弊しきっていた時期だったこともあって、満足な引継書を作ることもできず、「立つ鳥跡を濁さず」どころか、汚点ばかりを残す結果となった。
あの時はフォローしてくれなかった上司への恨み辛みばかりを募らせたものだったが、元を正せば悪いのは僕であり、当時後を引き継いでもらった担当者には本当に申し訳ないことをしたと、しばらくたってから後悔しきりだった。

あの時以来、引継の重要性を思い知らされ、かなり濃密な引継書を作るようになった。しかし、引き継ぐ相手が内容を理解できないようでは元も子もない。結局引継がうまくいかない理由の一つは、引き継ぐ側が知らず知らずのうちに「これぐらい知っているだろう」という先入観を持って書類を引き継ぐからだと思う。それができればいいのだが、多種多様な業務を抱えるうちの職場の場合、そんなにうまくはいかない。
例えば、全くの新人に引き継ぐとなると、「いろは」の「い」から引き継がなければならない。文字通り手取り足取りの引継が必要になる。とりわけ僕の勤めている職場の場合、僕のように全く畑違いの業務に異動になるなんていうのは日常茶飯事のことなので、着任する側のことを十分に配慮しなければならない。
ちなみに、そういった配慮をしたにも関わらず、引き継ぎした相手が、引継内容を理解できず(しようとせず)に休みがちとなり、ついには前の職場から2週間にわたって緊急招集された、なんてこともあったっけなぁ...。
もう10年以上も前の話か。嗚呼、懐かしい(笑)。

ということで、昨年てっきり異動になるものだと思い込んで(というのも今の仕事を3年続けた人はそれまで皆無だった)作った引継書をベースに、改めて引継書を作成中。

立つ鳥跡を濁さずとは言うけれど、残念ながら僕は鳥ではないので、いろんなものを積み残し、やりかけのままで持ち場を変わることになりそうだ。

一番理想的なのはこの引継書の内容を理解してくれて、新しい職場に一度も連絡が来ない、ということだけれど、なかなかうまくはいかないんだな。今回も4階から1階に移動するだけなので、何度も足を運ぶことになるんだろうなぁ...。しかし、次の職場は今以上に県外出張のなさそうな職場なので、全国各地におられる知り合いの皆さん、是非青森にいらしてください(笑)。

というわけで、来年2月の東京マラソンに向け、4月から足腰の鍛錬に努めます(ウソです)。

2010年3月16日

スチャダラパー20周年

スチャダラパーが知らぬ間に結成20周年を迎え、記念盤とも言うべきアイテムが登場。
スチャダラパーといっても、ひょっとしたら今の若い人たちにはあまり馴染みのない人たちなのかも知れないが、まず真っ先に思い浮かぶのが小沢健二とのコラボによる「あの曲」。
スチャダラパーの名前を世に知らしめ、オザケンを大ヒットに導いた布石と言っても過言ではない。
でも、「あの曲」が売れる前から小泉今日子をはじめ、いろんなアーティストがスチャダラパーをさりげなくプッシュしていたこともあり、僕の中ではとても気になるアーティストの一つだったのだが、日本語のラップに手を出す勇気が出ず、結果的に「あの曲」も収録されている「ポテンヒッツ」が発売されたあたりから聞き始めるようになった。
この「ポテンヒッツ」という名のアルバム(いうまでもなくベスト盤)を聴いてまず最初に驚いたのは、谷啓とのコラボレーションによる「あんた誰?」。何故に谷啓なのか、理由もよくわからぬまま、お世辞にも軽妙とは言い難い谷啓のラップとスチャダラパーとの掛け合いに、ちょっと興奮してしまった。
そんな感じで僕は、スチャダラパーの音楽にちょっと足を踏み入れることとなったワケで。

ただ、当時のラップやヒップポップと言えば、どちらかと言えばアングラというか反社会的というか、ちょっと斜に構えた人たちの音楽という印象があったのだけれど、スチャダラパーがその空気を変えてしまった、といってもいいかもしれない(いい意味でも悪い意味でも)。
その後、急に日本語のラップが社会現象のように巻き起こり(昔からのラップファンにしてみれば、どんどんJポップ化していくラップは目も当てられないことだったことだろう)、その後のヒップポップ隆盛に繋がり、今日に至っている、と勝手に思っているんだが...(誰かフォローして)。

新社会人になって数年経った頃、同じ職場の同期の連中と飲みに行く機会があった時には、どういうわけか決まってこのスチャダラパーを唄わされたものだった。まあ、あの頃は何となくラップ・ヒップポップの類が脚光を浴びていたこともあった(ちょうど「DA・YO・NE」とかが流行っていた頃)。
ラップ音楽と言えば、せいぜいRun-D.M.C.ぐらいしか聞いたことのない僕、まして日本語でラップなんて...とあまり肯定的な見方をしていなかった僕が、彼らの音楽を、何の抵抗もなく親しみを持って聞くことができたのは、日常にごくありふれた光景、いや、ありそうでなさそうな光景をモチーフにしているからだと思う。音楽を聴いていてその光景が目に浮かぶというか想像できるというか、そういう音楽に出会うことってそんなにないような気がするのだけれど、スチャダラパーに限って言えば、結構そんなことが多かったような気がする。なので僕にとってスチャダラパーは、極論すれば、いわば「妄想」のツールみたいなものだ(笑)。
そういう流行の一つとして僕がスチャダラパーを聞いているということが意外だったのか、何故か「あの曲」以外の曲を一人で唄わされたものだった。「ドゥビドゥ What? 」や「From 喜怒哀楽」は十八番みたいなものだった。

ちなみに、個人的に一番気に入っている曲は「5th WHEEL 2 the COACH」というナンバー。
この曲の中に、こんなフレーズがある。

猫だーい好き 犬も好き イルカも好き あと人も好き
俺も 猫だーい好き かわいいから あと牛も好きー おいしいから

最近イルカやマグロ漁、捕鯨を巡って世界と日本が何となくぎくしゃくしているが、あまりにも人間的で日本人らしいストレートな表現ということで。

さて、2月に発売されたオールタイム・ベストには、この「5th WHEEL 2 ...」が収録されていないのが非常に残念なのだけれど、前述の「あんた誰?」やあの曲こと「今夜はブギーバック」の他、最新アルバムにも収録されていた木村カエラとのコラボレーションによる「Hey!Hey!Alright」や、TOKYO No.1 SOUL SETとのコラボナンバーなど、全33曲を収録。
ブックレットには本人達による楽曲紹介もあり、いろんな裏話が綴られている。
まぁ、このタイミングでベスト盤というのも何となく微妙な気がしなくもないのだけれど、そこは目をつぶろう。

ただしかし、しつこいようだがこれぐらいの楽曲では、彼らを知るにまだ足りない。
というわけで、08年12月に発売されたコラボレーションナンバーを集めた2枚組コンピCD「Can You Collaborate?」。って、一見見聞きしたことのあるようなタイトル。
スカパラ参加による、ポンキッキーズでおなじみだったナンバーから始まるが、何と言ってもこのアルバムの聞き所はグループ魂の「勃発!バンド内抗争~グループ魂にスチャダラパーまで~」だろう。
御存知の方は御存知だと思うが、ハッキリ言ってこの楽曲は反則。
ちなみに僕、最初にこの曲を聴いた時に、人目も憚らず電車の中で吹き出しました(笑)。

もちろんこの曲以外にも聞き所は満載。ゲストも多彩だし、何が入っているかわからないおもちゃ箱みたいな感じ。
で、このCD、単にコラボ楽曲を集めただけのCDということであればそれで終わってしまうのだが、何と、コンピCDとは内容の全く異なる、スチャダラパーの過去の22曲にも及ぶPVを集めたDVDを同梱。
これだけでも「買い」なのだ。

で、この2つを聞いてみて、更に深いところを探ってみたい方には、オリジナルアルバムを聴くことをお薦めします。
といいつつ、取りあえずソニーとEMIから出たベスト盤を並べる僕。やはり聴き始めにはこれも捨てがたい。


2010年3月15日

サイトの更新について

そういえばここずーっと「本家」のサイト更新をしていないということに気がついて、土日ちょっと内容を見てみたんですが、これがまあ酷いのなんのって(苦笑)。
「分家」だったはずのこっちのブログがメインになりつつある今日にあっては、本家はもはや置き去り状態で、リンク切れは起こしているわ、3年前の情報から全然更新されていないわで、本当に野ざらし状態。
家主不在で雑草生え放題の庭、みたいな。
しかも、約10年前に見よう見まねで作りはじめたサイトということもあって、機種依存文字を平気で使っているし、好きな音楽を好き勝手綴っている内容は、読み返してみると思わず赤面するぐらいにあまりにも内容が稚拙...。

ということで、近日中に全面更新を目論むことを頭に入れつつ、この際バッサリ斬り捨てることも検討中。

思い起こせばこの本家のサイトが一番賑わっていたのは、02年にプリンスが来日した前後だった。
ネットを駆使した情報提供と収集が繰り返され、この僕も微力ではあったが、情報提供に努めた(といっても札幌公演と仙台公演のみだったけれど)。

他の方々のサイトを見ていると、時には穏和な空気が流れたり、時には殺伐とした空気が流れていたが、うちのサイトは積極的な情報発信に努めていたというわけではなかったし、そんなに大勢の人が集まるということもなかったので、「スターバックスの向かいに開店した喫茶店」みたいな雰囲気だった。
しかし、最初からスターバックス相手では勝ち目もなく、マスターもすっかりやる気が失せてしまった。ということで、マスター不在の時があまりにも多い本家はこの際分家と合併し、こっちのブログを「本家」とする方向で基本協定締結。

そんな中、サイトを整理していて「やっぱりこれだけは絶対に譲れないな」と思ったのが、プリンスのナレーションBBS。今思えばよくこんなもの作る暇があったなぁと思うが、こういうのは「やった者勝ち」みたいなところもあるし、一度ベースを作ってしまえばこっちのものなので、管理するのはそんなに苦痛ではなかった。海外からの悪戯がなければ、の話だが。

というのも一度猛烈な勢いでスパムコメントの攻撃を受け、プチ閉鎖に追い込まれる始末。その際、数名の方から「是非このBBSの委譲を」という申し出があったが、結果的に断って良かったと思っている。
改善を重ねた結果下した決断は「英字のみの書き込みは一切禁止」。これで、ある程度管理を保つことが出来るようになったが、その一方でどうやら飽きられるのも早かったようで、書き込みは日に日に減る一方。時々「常連さん」が訪れては他愛のない話題(独り言)を残していく、といった状況で、気がついたら1年以上もコメントが残されていない状況にまでなってしまった。まさに閑古鳥が鳴いている状態。

というわけで、陰の家主であるプリンスが「最近誰も来てくれない」と泣いておりますので、プリンスファンの方もそうでない方も、もしよろしければ左サイドの「Welcome 2 the Dawn」から、彼を弄り倒しに行って下さいませ...。

※参考までに

リンク先のサイトは、ナレーション付き掲示板です。BBSの主でもある「プリンス」が、皆さんの投稿に対して何らかのコメントをするというものです(どんなコメントをするのかはわかりません)。ただし、彼は性格にムラがあるとともに、悪態をつくことも多々あります。気分を害されることなく会話をお楽しみ頂ければ幸いです。

2010年3月12日

KIRIN「世界のハイボール」

先月10日にKIRINから発売された「世界のハイボール」。
現在「樽熟シェリー&ソーダ」と「樽熟ウィスキー&ソーダ」の二種類が発売されているが、どの店を見ても赤っぽい缶の「樽熟シェリー&ソーダ」の売れ行きがいいようだ。
不思議なのは、うちの近所で販売されているのを見ると、同じシリーズでありながら価格設定も異なっていたということ。1本で10円ぐらいの差がついていた(ちなみに安価なのは売れていない樽熟ウィスキーの方だった)。

もちろん味や香り、その他の好みによって分かれるところではあるが、アルコール度数も6%と低く(樽熟ウィスキーは7%)、甘い香りのする樽熟シェリーの方が女性にも受けが良い、ということだろうか。

KIRINではこの二種類のハイボールについて、日本で言うところのハイボール、すなわちウィスキーのソーダ割りにとらわれない広義のソーダ割りという提案をしている。

正直に言うと、僕はウィスキーやバーボンの類が最近全く飲めなくなった。いや、飲もうと思えば飲めるのかも知れないが、そういう意味では飲まなくなった、といった方が正しい。
ちなみに最近では、この類をうっかり飲んでしまった翌朝は二日酔いのみならず、マーライオンよろしく嘔吐にも襲われること必至。
なので、いくらハイボールがブームだとはいえ、お店でも自宅でもこれを飲むことは全くといっていいほどなくなった。まぁ、元々自宅でウィスキーやバーボンを嗜むことはほとんどなかったのだけれど。

とはいえ、新しい飲み物は取りあえず試してみる僕。怖いもの見たさでこの二種類を試してみたところ、翌朝の苦痛にも苛まれることなく、意外と普通に飲むことができた。(今回写真は、なし)

しかし、これを「ハイボール」と呼ぶには邪道かも知れないし、調子に乗ってお店で「ハイボール」を注文すると酷い目に遭うことだろう。

個人的には「赤缶」よりも「白缶」の方が好み。とはいえ原材料を見ると、どちらにも「ウォッカ」が含まれていることを考えると、シェリーもウィスキーも香り付け程度しか入っていないのかも。
しかし、「世界のハイボール」と謳っている以上、同じキリンが展開する「世界のキッチンから」のように、シリーズ化されることもちょっと期待(個人的にはディアボロー・ジンジャーが大変おいしゅうございました)。

ちなみにKIRINの氷結シリーズも、全てウォッカ割り。氷結シリーズは、僕には甘過ぎてずーっと飲んでいなかったのだけれど、今週水曜日には、プレミアムウォッカと天然水ソーダを使った"甘くない"氷結(ウォッカ&天然水ソーダ)が販売開始。
僕は、市販されている全ての「甘い缶チューハイ」が苦手なので、こちらにもちょっとだけ期待。
妻が「これしか飲めない」という「本搾りチューハイ」に次ぐヒットとなるか?
ということで今週末試飲予定。レポートはまた後日!

ちなみにつまみには、これまたブームとなっている「桃ラー」とマヨネーズを混ぜて、野菜スティックなんてどうでしょう?

去年の今頃は...

年度末が近づき、いろいろ慌ただしくなってきた。
ふと、去年の今頃何してたかな...と思って過去の日記を引っ張り出してみたら、ちょうどWBC の熱戦に一喜一憂していたのがこの時期だった。
高い確率で異動になるのだろう、と思って引継書を作っていたにも関わらず、異動対象者の名簿に名前がなくて愕然としたのもこの時期だった。

去年の今頃は雪は少なかったようだ。犬3匹と散歩にも出かけていたが、チョコがああいう状態になってしまった以上、今となってはそれもできなくなってしまった。
青森りんごの価格暴落で、リンゴを破棄しなければならない危機に見舞われたのもこの時期。
定額給付金の支給が始まり、個人的には「余計な仕事」が増えたのも去年の今頃。

一年経つと、案外いろんなことを忘れているものだ。恐らく来年の今頃は、「あ、そういえば冬季五輪って去年だったんだね」なんてことをふと思い出すのだろうか。

さて、来週は異動内示が発令される予定。今年はどうやら、昨年から暖めていた「引継書」の出番となる可能性大(というか99%確定。実は、4月以降の処遇について、かなり具体的な情報を耳にしています)。

この件については、また追ってお知らせを...。

2010年3月 9日

B級グルメの役割

B級グルメ。もはや料理のジャンルの一つとして定着し、今でも全国各地の地域おこしのネタとして広がっていることは既に皆さんも御存知の通り。ただ、素朴な疑問として、B級グルメって一体何だろう、と思ったのだが、どうもいろいろな見解があって、「これだ!」という確固とした定義がない模様。

また、これと合わせて「ご当地グルメ」と呼ばれるものもあって、B級グルメとの差別化がますます難しくなっている。結局、「ご当地グルメ」のうち何となく全国区として売り出せそうなのが「B級グルメ」ということになるのだろうか。

個人的には、B級グルメというのはそもそも地元で古くから愛されているのに、他地域ではあまり知られていないような料理だと思っていたのだが、これがどうも「ご当地グルメ」の定義に当たるようだ。最近の兆候を見ていると、そういう「ご当地グルメ」の発展型として「B級グルメを作らなきゃ!」と躍起になっている地域もあるように見受けられる。

昨日たまたまテレビを見ていたらB級グルメの特集をやっていたのでちょっとだけ見たのだが、「えー?それって本当に地元に定着してるの?」と勘ぐりたくなるものや、「いやいや、それはもはやB級グルメの域を超えているでしょう!」というものもあった。

余談ではあるが、全国初のB-1グランプリが開催されたのが八戸市で、その時の優勝が静岡県の「富士宮焼きそば」だった。それ以来、B-1グランプリが優勝した地域での持ち回りで開催されるようになった。その模様がテレビやマスコミで大々的に報じられるのを見て、集客力や盛り上がりぶりに地団駄を踏みながら、あわよくば我田引水とばかりにB級グルメの発掘に奔走した、というのが各地の実態だろう。

青森県内だと、八戸せんべい汁と黒石つゆ焼きそばが有名で、この他に歴史が古いのは青森の生姜味噌おでん。更に最近ではむつ市の大湊海軍コロッケに十和田市のバラ焼きなど、いずれもB級グルメとして売り出そうと必死になっており、群雄割拠の様相を呈している。

しかし、青森県内だけでもこれだけあるご当地グルメ、県内はもちろん他都道府県でもまだまだ眠っていると思しき「ご当地グルメ」はたくさんあるものと考えられる。ただ「B級グルメ」も、あまりに出過ぎると何が何だかわからなくなって興醒めする可能性もあるので、いつまでも「B級グルメ」にこだわるのではなく、ちょっと違う視点から攻めた方が、これからは斬新かも知れない。

ちなみに現在「B-1グランプリ」への出場は「B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会」なるものへの加入が条件となっていて、何でもかんでもB級グルメと謳い、「B-1グランプリへの出場を!」というわけにはいかないらしい。

個人的には金沢の「ハントンライス」が、何で今までB級グルメとして全国に紹介されないんだろう、とずーっと疑問に思っていたのだが、そもそも協議会には参加していないようだ。大体、金沢には兼六園もあるし、別にわざわざB級グルメとして広めることもなく集客することができる。あれはB級グルメではなく、「ご当地グルメ」で何の問題もないということだろうか。

裏を返せば「B級グルメ」というのは、そういう役割なのだと思う。

失礼を承知で言わせていただくならば、これまでB-1グランプリで優勝した富士宮、厚木、横手...これらの地域にある史跡や観光名所の類が、ほとんど浮かんでこない。
つまり、これといった名勝や観光地を持たない地域が、集客のアイテムとして生み出したのが「B級グルメ」ということになるのだろう。

その証拠に、東京や大阪からは、これだ!という「B級グルメ」がほとんどない。かつては「月島もんじゃ」が前述の協議会に参加していたようだが、すぐに脱退している。何か「大人の事情」もあったのかも知れないが、別にB級グルメがなくても人は訪れてくるし、わざわざ「B級グルメ」である必要はない、ということだろうか。

ただ、何だかんだ言ってもやはりB級グルメは「作り出すもの」ではないような気がしている。青森県内でも、他地域に追随しようとB級グルメを「作り出す」ことを考えているところがあるようだが、いわば客寄せのために、その場しのぎで生み出したようなB級グルメは、そんなに簡単に定着するものではないと思うし、売れるとも思えない。

そういえば先日ある関係者の方が「弘前市にはB級グルメがないし、取り組もうとしない。」と嘆いていたが、そりゃそうだ。弘前市にB級グルメなんてあるはずがない。

だって、弘前のグルメはみんなA級ですから(ニヤリ)。

津軽料理遺産

2010年3月 6日

自死という生き方 - 覚悟して逝った哲学者

ようやくこの書籍の感想を書く気になった。

とんでもない本を手にしてしまったな、というのが全て読み終えた後の感想だ。
というか、本書を読み終えて感想を述べている多くの人が、同じような感想を抱いているようだ。

本書の著者である須原一秀氏は、社会思想哲学を専門的に扱う学者であった。
しかし彼は、「一つの哲学的プロジェクト」として自らの命を絶つと家族以外の友人に宣言し、2006年4月、自らの手でこの世を去った。享年65歳。

本書は、その後に発見された遺稿である。
その内容は、「老い」を回避するため、その代償として「自死」を勧めるという非常に過激な内容だ。
事実著者は、取り立てて何の弊害もなく、快活で健康的な生活を送っていたようで(60代後半で体脂肪率一桁台を保っていたらしい)、突然の死により残された家族も、筆者が自死に至った理由がわからず、酷く狼狽したようだ。

本書の中で筆者は、ソクラテス、伊丹十三、三島由紀夫の三名が自死に至らなければならなかった理由を、過去の文献その他から探っている。彼らがすぐに死ななければならない理由などなかった。そして、ソクラテスの場合はいわば殉死だったかも知れないが、伊丹も三島も、既に人生を十分に謳歌しており、ちょっとしたきっかけが、自死に導いたのだ、と結論づけている(特に伊丹の場合、自らの著書で「楽しいうちに死にたい」と述べている、という)。これを筆者は、「積極的な死の受容」という表現を用いている。

また、ヌーランドという作家による「眠るような自然死の否定」を引き合いに出し、そもそも「安らかな死」や「眠るがこごとき」死、つまり「老衰」などというのはあり得ないことで、「死」に至るまでは、想像を絶するような痛みや苦痛を伴うのだということを説いている。
確かに病院のベッドの上でたくさんの器具やチューブを挿され、苦痛に喘いで死を迎える終末患者は大勢いることだろう。

筆者が言いたいのは、恐ろしいのは「死」そのものではなく、「死の直前に迎える苦痛」だということのようだ。果たして、そんな苦痛を強いてまで「生きる」必要があるのだろうか、ということを述べている。
そして、中高年者による自殺肯定論、下手をすれば自殺推奨論にもなりかねないような理論を説いているのである。

筆者の実母が病に倒れ死が近づいた時に、筆者は延命治療をするのではなく、医師に頼んで静かにかつ速やかに見送った。その時、何故延命治療を止めたのか、周囲から顰蹙を買ったが、全く後悔はなかったといったことを述べている。一方で、義父が病に倒れ、死の直前、長時間にわたり苦痛に晒されている姿を見て、延命治療を止めることが出来なかったことを悔やんでいる。そして筆者は、これを「二人称の死」と「三人称の死」と述べている。

筆者によると、死の直前にやってくる(誰もが経験しなければならない)痛みは、事故に遭った後長時間にわたる苦痛と同じだというのである。そんな苦痛を伴うような「死」を迎えるぐらいなら、「自死」という生き方を過ごした方がよい、というのが筆者の理論だ。

続きを読む "自死という生き方 - 覚悟して逝った哲学者"

2010年3月 5日

315円の至福

MARKS&WEBで販売されている「メープル マッサージウッド」が、最近僕の中ではかなりお気に入りのアイテムになりつつある。

恐らくMARKS&WEBの各店舗では、レジの横にあるビーカーのような容器に無造作に入れられているのではないだろうか、「しずく」がちょっと歪んだような形状をした、5センチ程度の大きさのアイテムだ。
他の商品を購入する際、まるで箸置きのような、一つ一つ形状の違うそれに何となく興味を引かれ購入してみたのだが、購入時はそれほど使いこなす程のアイテムにはならないような気がしていた。

ところがある日のこと、通勤時の電車内でちょっと握りしめてみたところ、柔らかにツボを刺激するその心地よさにすっかり虜になり、電車から降りた後もずっと手のひらの中で転がしていた。
その日以来、常にポケットの中に忍ばせるようになり、電車内、職場と、場所を問わず手の平の上をコロコロ転がすようになった。

大きさも手頃で、僕の手の中にちょうどフィットするサイズ。Webでも販売されているが、こればかりは実物を見て、手にとって購入した方がいいかもしれない。

個人的に気に入っているプレイ(笑)は、尖った方で指一本一本の第一関節から上を、多少痛みの感じる程度に押した後、反対側を使って指間をマッサージ、最後は再度尖った方を使って手相にそう形で這わせるというもの。終わる頃にはジンワリと手の平に汗が帯びてきて、手がポカポカしている。

もちろん、代用できるものはいくらでもあると思うが、個人的には木のぬくもりというか質感を直に感じられるのがいいと思っている。

一応参考までに

2010年3月 4日

青森市・「王味」

先週金曜日に訪問した青森市・王味の潜入レポート報告を忘れていたので、改めてご報告。
大阪・王将の餃子ではない。青森・王味(わんみ)の餃子である。

青森市・王味

まずもって、王味の場所を、地の利のない人に説明するのは非常に難しい。何せ前回酩酊状態で訪ねているので記憶になかったのだが、こんな小路にあったんだ、ということを改めて知った。ちなみに前にもお話ししたとおり、青森市内を走るタクシーに乗り込んで「王味まで」と告げると、一発でここの店の前まで運んでくれる。

店内に入ると、4人掛けのテーブル席が2席と、5~6席しかないカウンター席。狭いなぁ、と思うなかれ。奥に進むと、軽く40人は座れるような小上がりがドーンと控えている。混雑すると、相席は当たり前らしい。

この日我々は9名で予約していたのだが、店側も既に何が目的かわかっていたのだろう、席に着くなりおしぼりではなく、まず最初に餃子のタレが運ばれてきた。

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2010年3月 3日

東北新幹線新型車両(E5系)の愛称募集

2011年春から東京~新青森間で運行を開始する東北新幹線の新型車両の愛称について募集が始まっています。

新しい東北新幹線の列車愛称を募集します
(PDFファイル)

応募要領から抜粋すると、

・新型高速新幹線車両にふさわしく、かつお客さまにわかりやすい愛称とします。
・愛称は応募数による決定ではなく、応募作品全体を参考としてJR 東日本社内で選考の上、決定します。

とのこと。

2002年に東北新幹線が八戸まで延伸した際、盛岡止まりの列車との差別化を図るため、それまでの「やまびこ」に代わり、「はやて」が登場しました。当時噂されていたのは、青森~上野間を走っていた特急「はつかり」の愛称が復活するのではないか、というものでしたが、これまで全くゆかりのなかった新たな愛称「はやて」が登場しました。

当時は、「はやて」という名称そのものが、どちらかと言えばネガティヴな意味を持ち合わせているということ、「はつかり」という名称復活に期待を寄せていたのに復活しなかったということで賛否両論だったのですが、気がつくと「はやて」という名称は、東北新幹線を示す一つの名称としてすっかり定着しました。

今回、新青森駅開業のあと、新たに運行する新型車両の愛称ということで、せっかく定着した「はやて」の名称そのものが消えるかも知れません。
特に、東北新幹線が全線開業するということもあり、全く新たな名称になる可能性も捨てきれません。

とはいえ、結局は「はやて」か「はつかり」に落ち着くのではないかと勝手に思っていますが、ひょっとしたら新幹線としては初の漢字の愛称(「白鳥」)になるかも知れませんし、これらとは異なる全く新しい名称になるかも知れません。

青森を連想させるというよりも、東北を貫く新幹線ということで、それにふさわしい愛称になって欲しいものです。間違えても「いたこ」とか「ねぶた」とか、赤面しそうな名称にならないことを願うばかりです。

おまけ。
東北新幹線全線開業にあわせ、青森県内を走る津軽線、大湊線に導入される予定のハイブリッド型新型リゾートトレインの愛称も募集中。

新型リゾートトレイン 愛称名募集!

こちらはネット上からの応募は不可で、葉書のみによる募集だそうです。

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今月からサークルKサンクスで、iTunes Cardの割引販売を開始しています。

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期間は3/28まで。ただし例のごとくカルワザ値引による購入のみ対象となっており、カルワザカードあるいはカルワザ値引きアプリを登録したおサイフケータイでのEdy支払が条件となっています。
カードの種類は1,500円と3,000円、割引によりそれぞれ1,200円と2,400円で購入することが可能となります。

カルワザカードとおサイフケータイの紐付けについては、以前非常に手続きが面倒だということを述べましたが(「カルワザカードとおサイフケータイの紐付けは登録が面倒」を参照)、少しは改善されているのかな?ただ、iTunesユーザーで、まだカルワザカードをお持ちでない方も、300円のカードを購入する価値はあると思います。

いずれにせよ、お近くのサークルKサンクスへ急げ!

2010年3月 2日

今日の名盤

尾崎豊『17歳の地図』『回帰線』

僕が本格的に音楽を聴くようになったのは、中学2年生の頃からだ。当時、同級生に一人だけ洋楽好きなヤツがいて、僕は彼からいろんな影響を受けることになった。そのこともあって、洋楽邦楽問わず、貪るように音楽を聴くようになった。

とはいえ耳にするのはメジャーな音楽ばかりであり、マドンナにマイケル・ジャクソン、スティービー・ワンダーにa-ha、ワム!にヒューイ・ルイス&ザ・ニュース等々...。「パープル・レイン」が大ヒットしていたにも関わらず、見た目の気持ち悪さも相まって、プリンスだけは全く聴く気にならなかったが...。

一方の邦楽はといえば、取りあえずチャートに出てくるような音楽は、一通り友人からカセットやレコードを借り、自宅でダビングして聴くようになっていた。

その中で、今でも忘れられない出来事がある。
中学3年の秋のこと。僕の机の中には、友人に貸していた一本のカセットテープがひっそりと隠されていた。90分テープのそのカセットテープのタイトルには「尾崎豊/17歳の地図・回帰線」と書かれていた。
ところがその日の放課後、ホームルームの最中に事件は起きた。担任教師が突然持ち物検査を始めると言い出したのだ。哀れカセットテープは、どこかに隠す直前に担任に発見されてしまった。

「何だこれは?何で受験前の大事な時期にこんなものがお前の机に入っているんだ?」
机の中からカセットテープを取り上げられた途端、頭の中が真っ白になった。タイトルを見るなり、顔色がどんどん紅潮していく担任教師。

「お前、ちょっと廊下に出ろ!」
何が起きたのかわからず、ざわめき立つ教室内。

僕を廊下に連れ出した担任教師は、静かに、しかし明らかに怒りの籠もった口調で切り出した。
「これは誰のものだ。」

紛れもなく、僕のものだった。
「僕のものです。」

「お前...。本当にお前のものなのか。」
担任の声は、落胆にも近い声色に変わった。

「はい。」
キッパリと答える僕。
「いいか。これは、お前が聴くような音楽ではないんだ。わかるか?受験が終わるまで預かっておく!教室に入れ。」
何故教師が怒りに満ちあふれているのか、その理由が僕にはわからなかった。

中学校時代、それなりに成績上位にいた僕は、担任を始め学年の先生から「優等生扱い」されていた。実際自分が優等生だったのかどうかはわからない。ただ、先生からの受けは良く、親の顔も潰したくないという思いから、その「受け」や「期待」に応えようとしていたのは紛れもない事実だ。

当時僕は、別に尾崎豊の音楽に深い思い入れがあるわけでもなく、憧れを抱いていたわけでもなかった。ただ単に「声が格好いい」「耳になじむ音楽だ」とだけ思って聴いていただけのことだった。
例えば「卒業」に出てくるように、夜の校舎の窓ガラスを壊して回ろうなんて微塵も思わなかったし、「15の夜」に出てくるように、行く先もわからぬままバイクを盗んで走り出すようなこともなかった。

いわば「興味本位」で聴いていた音楽。ただ、担任教師の逆鱗に軽く触れたらしい。
ただ、僕には解せなかった。「お前が聴くような音楽ではない...?」

その2日後、再び担任から職員室に呼ばれた僕は、理由も聞かされぬままカセットテープを返却して貰った。その日、返却されたカセットテープを延々と聴きながら、担任の発した言葉の意味を探した。
「お前が聴くような音楽ではない...。」

どうしても、腑に落ちなかった。そして、勝手に一つの結論に達した。
「お前に言われる筋合いもない。」

結局僕は何事もなく無事に中学を卒業し、志望していた地元の高校に入学。
その後の遍歴については、知っている人も多いので割愛(笑)。

明後日、青森県内は県立高校の受験を迎える。僕の親戚にも今年受験生がいるのだが、これまで蓄積した力を全て出し切ることが出来るよう願うだけだ。
受験生諸君、頑張れ!

さて、尾崎豊が亡くなって、もうすぐ18年目の春がやってくる。
彼の命日を迎える頃、弘前の桜がほころび始める。
僕は一体、どんな春を迎えるのだろう。

2010年3月 1日

大津波警報

17年振りに発令されたという「大津波警報」。昨日は日本中が妙な緊張感に包まれていた、といった感じだろうか。確か前回は北海道・奥尻島の地震の時だったような、と記憶していたが、その記憶は間違いではなかったらしい。

時代と季節を間違えていれば、僕みたいなアホなヤツは、警報が発せられていることも知らずに暢気に防波堤からの釣りに興じ、海に飲み込まれていたかも知れない。

テレビなどで放映されていたとおり、冠水などの被害の他、岩手県の三陸沿岸では、養殖用の「いかだ」が大きな打撃を受けている模様だ。
強いて言えば、予想していたほど大きな波ではなかったこと、人的被害はなかったことだけが不幸中の幸いだろうか。

一つ気になったのは、根室・花咲港で津波による冠水の模様が放映されていた時、漁協関係者と思しき人が、建物の中からおもむろに外に出て塀に登り、周囲の冠水の状況を確認している姿が映し出されたが、万が一押し寄せる波が予想通り数メートルにも及ぶものであったならば、一溜まりもなかっただろう。見ていて背筋が凍る思いだった。

確かに、日本への津波は結果的に予想を大幅に下回るものだった。今回の大津波警報の発令を踏まえ、気象庁では自戒の念を込めた反省とも取れる弁を述べている。

「予測が外れるのは計算の限界。批判はあるだろうが、最も危険なケースを想定するのが防災の基本で、最善は尽くした」

更にその後の会見では、謝罪。

「津波の予測が過大であったこと、警報・注意報が長引いたことをおわびしたい」

50年前に起きたペルー沖地震による津波被害を知る人は、被災者の高齢化ということもあり大分減っているようだ。実際、僕もどんなものなのかは知るはずもない。
避難指示や勧告が出た地域でも、当時の津波の恐ろしさについて、身をもって知る人は少ないため、このような事態が生じた場合どのような対処をすべきか、住民の間にも戸惑いがあったと見受けられる。

そりゃそうだ。地球の裏側で起きた地震による津波が日本を襲うかも知れない、といわれてもピンと来ない方が当たり前なのかも知れない。そういう意味では、「最悪の事態を想定して」大津波警報を発令した気象庁の判断は必ずしも間違いでなかった様な気がするし、謝罪の必要性もないような気がする。むしろ、どうせ大したことないだろうと注意報や警報レベルにとどめ、港や荷さばき場で普通に作業をしていた時に、あのような津波が押し寄せていたら...と考えた方が、ゾッとする。

個人的には自らも被災した1983年の日本海中部地震での、日本海沿岸を襲った大津波が強烈なインパクトとして残っている。昨日は千葉県鴨川市で、海水が河口から川上に逆流しているような場面が報じられていたのだが、日本海中部地震でも同じようなことがあったことをハッキリと覚えている。ちなみに河川を逆流する津波は、今回各地で見受けられたようだ。

以前にも書いたことがあったかも知れないが、日本海中部地震で亡くなった方は104名。Wikipediaにも掲載されているとおり、このうち津波により命を落とした方は100名にも上る。そのうち13名の児童たちが通っていた小学校は、母の出身地にある小学校であり、少なからぬ衝撃を受けたことを記憶している。ちなみに母の出身地には海がなく、津波がどんなものなのか、当時としてはそれほど知られていなかったことも、被害を拡大した要因の一つといわれている。

遠足で男鹿市の加茂青砂を訪れていた旧北秋田郡合川町(現・北秋田市)の町立合川南小学校の児童が多数巻き込まれたことは、遺留品の散乱する現場の空撮映像が全国ニュースで配信されたこともあって県民や国内はもとより、日本国外にも大きな衝撃を与えた。合川南小学校にはローマ法王など、全世界からメッセージが寄せられた。また同校では外国人音楽家による無料演奏会も催された。

楽しい遠足に出かけたはずのお子さん達が無言で帰宅し、迎えた家族が絶叫、号泣するシーンは、テレビでも放映されていたのだが、子供心に何ともやりきれない思いばかりが去来した。

ちなみに当時僕は中学1年で、理科の授業の真っ最中に日本海中部地震に襲われたのだが、この日、最も早く津波が到達した深浦町には、3年生が写生遠足に出かけており、漁港での写生に興じていたという。大きな地震に見舞われた直後、咄嗟の判断で機転を利かせたバスの運転手が「高台に逃げろ!」と叫び、全員が画材道具などを置いたまま近くの高台に逃げ、難を逃れたそうだ。その数分後、津波が堤防に押し寄せ、画材道具を...。という話を、後日談として先輩から聞かされた。

今回の大津波警報により、避難対象者のうち実際に避難したのはわずか6%ちょっとしかいなかったという。日曜日ということもあって出かけていた人もいたかも知れないとはいうものの、あまりに低い数値だ。
確かに今日では、情報伝達(収集)の方法がいろいろあるとはいえ、具体的な津波の大きさを事前に報じていた媒体は一つもなかったと思う。いや、それは予測不可能といってもいいのだろう。もし仮に、数メートル級の津波が押し寄せていたら...と思うと、日本はつくづく「平和な国」だと感ぜずにはいられなかった。

それに、万が一これが巨大津波だったとしたら、「避難しなかった人が悪い」「被害者の自己責任」という声も挙がるだろう。その一方で、「行政サイドの不手際」も叩かれることになるだろう。
しかし、行政側としては防災無線やその他の方法により、随時避難を呼びかけ、周知していたという現状を考慮すると、これ以上の手の打ちようはないのではないだろうか。それとも極論になるが、最終的な方法として、一時的に自宅から強制退去させるという方法も考慮しなければならないのだろうか。

例えば、避難指示を何度も出したにも関わらずサーフィンに興じていた連中が、津波に飲まれて沖まで流され、命からがら助けられたとしよう。
この時、サーフィンに興じていた連中を責める人たちは大勢いるだろうが、ひょっとしたらそれ以上に、強制的にでも連中を排除しなかった行政が咎められるということはないだろうか。
それとも、これはあくまで行政の「不手際」ではなく、やはり当事者本人の「自己責任」ということになるのだろうか。

確かに地震や台風と違って、津波そのものの脅威を実感することができないということも、サーフィンに興じる連中や住民の防災意識、危機管理の低さに繋がったような気がする。
サーファーや住民にしてみれば、特に大きな被害があったわけでもないし、逆に何もなかったことで「何故あれほど避難しろと騒ぎ立てたのか」という非難の声が挙がっているかも知れない。

そういう点において今回の一件は、津波の予想の難しさはもとより、住民の安全第一を考えるに当たり、行政側が取り得る手段や方法に対する大きな課題(もちろん、法的な扱いを含めての話)、非常に難しい問題を突きつけることになったような気がするし、住民の防災意識の低さを如実に表した、という結果になるような気がする。ただ一つ明確なことは、行政サイドは津波による人的被害が出た後のバッシングを恐れていたのではなく、津波による人的被害が出ることを恐れていた、ということだ。

確かに人的被害はなかったし、大騒ぎするほどの津波ではなかったことは事実として受け止めよう。
長時間にわたり避難した人や、交通機関(とりわけ鉄道)の相次ぐ運転取りやめにより、折角の日曜日が台無しになった人だっているだろう。憤慨されるのもごもっとも。私こそが被害者と言い張るのもわからないわけでもない。本当に大変でしたね、お気の毒様でした、というより他ない。

ただその一方で、実際問題として過去の日本において、津波による被害が起きているということを頭の片隅にでも置かなければならない。対岸の火事で済まされない事態にだって、なりうるのだ。

となると、沿岸住民の防災意識を更に高めるには、日本で起きた津波被害の現状を記録映画として流すしか、方法はないのだろうか。それでも指示に従わない人は出てくることだろう。

いずれにせよ、今回の津波を今後の「教訓」として受け止めなければならないし、明日は我が身だということを、改めて肝に銘じなければならないということを、強く訴えたい。