2010年7月27日

健康診断の結果

沖縄旅行の前日に受診した職場の健康診断の結果が送られてきました。
結果は「要観察」。
指摘を受けた軽度異常は、血圧、γ-GTP、GOTの三つ。

昨年の人間ドックでは、肝機能関連の数値が軒並み基準の範囲を超えていて、その結果「肝機能障害を発症しています。要精密検査」というレッテルを貼られてしまいました。

かかりつけの医師に診察をお願いしたところ、こんなことを言われました。

「あなたのお父さんは、あれほど酒を飲んでも肝機能の数値が極端に悪くならなかった。でも残念ながらあなたは、お父さんに似た肝臓の持ち主ではないので、お父さんのようなペースで酒を飲んでいると、いつか必ず身体を壊しますよ。」

毎日の晩酌を欠かさず、土日になると何も予定がなければ昼からビールを飲んでいた父。
確かにあの父のような飲み方をしていたならば、僕はとっくに身体を壊していたかも知れません...。

さて、今回送られてきた結果と、昨年の人間ドックの結果を比較してみたのですが、検査項目にないものもあったので、一概には比較できません。ただ、全体的な数値そのものはある程度改善されているような気が...。

また、肝機能関連の数値が基準値内に収まっていないのは今に始まったことではありませんが、年々悪化することなく、むしろ今年に至っては昨年より数値が改善されています。

しかし検査結果を比較しているうちに、あることに気づきました。

昨年受診した人間ドックの実施結果に記載されている基準値を見ると、今回受診した僕の数値は、いずれもその範囲内に収まっているではありませんか。

余談ではありますが、今回の血圧だって132-77で、今回の定期検診では最高血圧が129以下であることが基準値となっている(結果、最高血圧がやや高めということで「軽度異常」の判定)一方で、昨年受診した人間ドックでは、最高血圧の基準値が135以下となっています。

つまり、昨年受診した人間ドックの基準値と照らし合わせると、僕の身体はほぼ基準の範囲に収まっている、ということは、昨年の基準値に照らした場合、僕の身体は「異常なし」ということになるのでしょうか???

これにはちょっと混乱。

受診する医療機関によって基準値が異なるのか、それとも検査方法が異なるのか...。

どうもこのことに疑義を呈している人は僕だけではないらしく、全国的に統一された基準値を用いるべき、という意見も実際あるようです。

もちろん、僅かな基準値の差異に目くじらを立てながら一喜一憂するぐらいなら、日々の生活の中で自己管理をすることが最も重要なことだと思います。

しかし、指針となるべき基準値が受診機関によって異なるというのは、いかがなものなのかと思ってしまうのです。

まぁ、僕の場合はいずれもぎりぎりの数値で軽度異常かそうでないか、というところにありますので、どちらに転がっても養生しなければならない、ということは否定しません。

ただ、例えば本来異常ではないものまでを軽度異常と判定し、医療機関での更なる検査を勧めるのは、医療機関に対する利益誘導を検診機関が意図的に行っていると思われても仕方ないのでは、とか考えてしまったわけです。

しつこいようですが、もちろん日常の生活における自己管理が最も大切であることは紛れもない事実。
前回指摘された数値を少しでも改善しようと日常的に運動することを心がけているわけですし、実際それが実を結んでいる、ということも数値になって表れてきました。

ただ、その指針となるべき基準値が受診機関によって異なるとなれば、一体何を指針とすればいいのでしょう。

ストイックな生活を心がけ、最も厳しい数値を指針とすればよいのか、ある程度緩めの数値を指針としながら、快楽主義に走るべきか...。

なかなか難しいところです。まあ、もちろん僕は前者を選ぶつもりですけれど(ニヤリ)。

2010年7月26日

夏バテ

何することなく迎えた週休日。

何となく朝起きて。

今朝も暑いな、とか思いつつ、

何となく犬と散歩して。

何となく朝飯食って、

何となく掃除して、で、何となく洗濯して。

何が食いたいとか思い浮かばぬまま、何となく昼飯食って。

何に感動するわけでもなく、何となくテレビ見て。

何となく夏バテかな、とか思ったりしながら、

何となく買い物に行って、晩飯の材料買い込んだのに、

適当にあり合わせで料理作って、

で、何となくビール飲んで、晩飯食って。

何となく寝る。

また何となく朝起きて。

何となく仕事して。

何となく家帰って。

また何となくビール飲んで、飯食って。

しかも気づいたらビール3本ぐらい飲んでいて。

咎められても何となく気にするそぶりだけ見せて。

で、何となく寝る。

そんな何もないような自堕落生活。

嗚呼、僕はバテている。

ただ。





今日は土用の丑の日なので、何となく鰻だけは食ってみたい。

2010年7月23日

一青森県民が思うこと

あと数ヶ月で東北新幹線がやってくるというのに、一部関係者の熱気に反し、どうも今ひとつ機運が高まっていないような雰囲気。何となく「所詮新幹線なんて...」的な風潮があるのかな、ということが感じられる。
一体みんなは青森県にどういった印象を抱いているのだろう。僕は39年間青森県内でしか生活したことがないので、一青森県民として青森県の良いところ・悪いところをざっと羅列すると、こんな感じだ。

良いところ

・四季の織りなす自然が豊か
もうこれは言うまでもない。冬は寒いが、夏だって暑い。八甲田山に十和田湖、世界自然遺産の白神山地だってあるし、青森の自然を語り始めれば、枚挙に暇がないのだ。

・食べ物が美味しい
豊かな自然に囲まれているのだから、農林水産物を始め、食べ物だって美味しい。回転寿司一つ取っても「え?こんな新鮮なの?」というネタが回っている。水産物ならヒラメにホタテ、ナマコ、シジミに忘れちゃいけないマグロ、農産物ならリンゴにニンニク、ナガイモ、米だって美味しい。何よりも、豊かな自然から育まれた水が美味しい。そして、麺類が意外に豊富なんです、青森って。

・祭りがアツい
短い夏を彩る祭りの数々。青森ねぶたに弘前ねぷた、八戸三社大祭に五所川原の立佞武多、日本三大流し踊りの黒石よされ...。そして春は、日本一の桜を自負する弘前さくらまつり。その他にもむつの恐山大祭、新郷村のキリスト祭りなど、奇祭も多数。

・景勝地、名勝が多数ある
先ほどの八甲田山や十和田湖だけじゃありません。十和田湖から流れ出る奥入瀬渓流、日本海の海岸線をひた走る五能線、寒立馬(かんだちめ)の生息する本州最北端の尻屋崎、津軽富士と呼ばれる岩木山など、こちらも挙げればキリがない。何の変哲もない農村地帯に突如として現れる六ヶ所村の再処理施設は、名勝ではありませんが世俗と切り離された別世界のよう。ある意味異空間です。

悪いところ

・交通網が不便
鉄道のアクセスの悪さもそうですが、路線バスなど、交通網は全く充実していません。頼みの綱のタクシーは、相も変わらず運転手の態度が横柄との批判が...。

・商売が下手
海を挟んだお隣函館市に比べれば、実に商売が下手。客を呼ぼう、客に来て欲しいという意識がないのかな。アンケートの結果を見ても新幹線開業後、「売り上げは変わらない」と答えた人が8割。それは客を呼ぼうとする努力をしないからでしょう。しかし、東北新幹線が全線開業し、新青森駅や七戸十和田駅に降り立った人たちはきっと、「青森県は時間潰しするところもないのか?」と思うことでしょう。

・排他的
青森県の人は排他的。というか、ちょっと他人と変わったことをする人がいれば、すぐにその人たちを排除するか、足を引っ張る人たちが現れる。そこから抜け出た人は、名士となるか、奇人となるか。ある意味平均的であることを好むのかな。

・いろんなことが中途半端
ちょっとブームになると、すぐに真似をしたがる。そのくせあっという間に飽きが来てやめてしまう。いろんなことが中途半端。そういえば道路も中途半端だし、線路も複線から単線になったり中途半端。オリジナリティがないのも特徴的。なんてことを考えている僕自身も何か中途半端?

青森県を外から見るとどんな感じなんだろう。他の都道府県の人たちにとって、青森はどういう風に映っているんだろう...。

2010年7月20日

僕の病歴

高校時代の友人が、急性ストレス障害を起こして苦しんでいるという。こういう時、何をしてやれるわけでもなく、「あまり無理するなよ」ぐらいしか声を掛けてやれないのが何だか空しい。そういえばここ数年、心の病を抱えて苦しむ仲間が増えているような気がする。

状況は全然違うけれど、以前僕も似たような症状に襲われたことがある。今日は、その症状についてここに記そうと思う。


僕は青森市内の職場に勤務して3年目の時に、急な環境の変化(職場は変わらず、周囲の人間がみんな異動になった)がきっかけで、パニック障害を発症した。

その伏線にあったのは、職場内のパワハラだった。ちなみに当時、セクハラは話題になっていたが、パワハラなんて言葉はまだ存在していなかった。

4月の異動でやって来た「ヤツ」にとって、初めて経験するその仕事は、不本意この上なかったらしく、「何で俺がこんなことやらなきゃならないんだ」といいながら、他の人のやることなすこと全てにケチを付ける同僚。そんな「ヤツ」と毎日顔を合わせるのがイヤでイヤで仕方がなかった。
書類の在処等は、取りあえず在籍3年目の僕に聞くしかなかったのだが、それすらも癪だったらしく、やがて「ヤツ」から僕に対する「言葉の暴力」が始まった。誰がそんなこと決めたんだ。お前に仕事を教えたヤツはろくでもないヤツだ。何でお前がそんなことを言えるんだ。等々...

しかも当時の上司は、そんな状況を見て見ぬふりだった。

そういう状態が半年ほど続き、実家に戻っていた時のこと。ヒマな時間をもてあました僕は、パチンコ屋に車を走らせた。
座って程なく大当たりを引き当て、ラッキー♪とほくそ笑む僕に、突然言いようのない圧迫感が押し寄せた。

何の前触れもなく、いきなり心臓が激しい動悸を起こしたのだ。こんな症状に陥ったことは今までなく、あまりの苦しさに店員を呼び、「トイレに行きたいので...」と事情を告げた。もちろんそんなのはウソで、ホントはトイレで気持ちを落ち着かせるためだったのだ。

何なんだ?これは。何が起きているんだ?

全く事態を飲み込むことができなかった。

気を落ち着かせ、高ぶる鼓動を押さえるため、トイレで深呼吸(爆)をしたあと席に戻ると、代わりにハンドルを握ってくれていた店員がいぶかしげな表情を浮かべていた。さて、出玉を交換して早いところ家に帰ろう。これは何かがおかしい...と盤面を見ると、4つの保留玉からリーチが掛かり、何とまたしても大当たり。更に心臓の動悸が続き、再び店員を呼ぶ僕。

さすがに店員から「大丈夫ですか?」と声を掛けられるが、気丈に「大丈夫です」と言うしかない。

結局3連チャンで箱を3つまで積み上げた僕、逃げるようにパチンコ屋を後にした(しかもその店は等価交換だったので、3万円近くが財布の中に収められた)。
おかしい。何かがおかしい。これは大変なことになるぞ...。依然として断続的に動悸が続いている。
やっとの思いで車のハンドルを握りしめ、通りがかりの薬屋に駆け込む。

「す、すいません。宇津救命丸を...。」

僕はここで大きな誤りを犯したことに気づくことなく、家に這うような気持ちで帰宅(ちなみに途中から、どこの道を走って家にたどり着いたかは記憶なし)。

たまたま居合わせた妹に「頼む、病院に連れて行ってくれ...。」
後で聞いた話では、この時の僕の顔は、青ざめるのを通り越し、土のような色をしていたらしい。

その前にクスリを...宇津救命丸を取り出すと、すぐにそれが間違った薬だったことに気づいた。僕が欲しかったのは子供の夜泣き、疳の虫に効く「宇津救命丸」じゃなくて、「救心」だったのだ。嗚呼...。

妹の運転でかかりつけの病院に行くと、尋常ではない僕の姿に看護婦が「すぐに診察しますからね」と声を掛けてくれたが、その後のやりとりは全く覚えていない。妹も何かを言っていたようだが、意識が遠のいていて、全くわからない。

横に寝かされ、肩口に見たこともないような太い注射を打ち込まれたことだけはうっすらと記憶している。しかし心臓のバクバクはすぐには収まらなかった。そんな僕に医師が一言。

「一人で抱え込んじゃ駄目なんだって。」

その言葉を聞いた途端、別に泣きたくないのに、目からポロポロと涙が溢れてきた。

その場での所見は「自律神経失調症」だった(やがてそれが「パニック障害」であることを知るんだけど)。

病院での会計を済ませる際、妹は何で兄がこんな大金を財布に入れているのか、不思議に思ったそうだ。そりゃそうだ、パチンコの勝ち金で財布がふくれたんだから。

結局入院することなくそのまま帰宅。余りに激しく動いた動悸のおかげで、胸が本当に痛かった。その時は、妻とはまだ結婚していなかったのだが、仕事を終えて家に立ち寄った妻は、横になって動けぬままの僕の姿に、事情がよく飲み込めなかったようだ。

その日以来、長時間の移動が困難になってしまった。幸い青森まで約1時間のところにアパートを借りていたのだが、アパートに戻る時は何度も車を停め、呼吸を整えるという有様。電車に乗ることさえも怖くなってしまったのだ。

それでも翌週、僕は何事もなかったかのように出勤した。動悸が引き起こした胸の痛みはまだシクシクと続いていたし、あのイヤな「ヤツら」(この時点で「ヤツ」と歩調を合わせる同僚が現れていた)と顔を合わせなければならないこともわかっていたが、まさか彼らが大なり小なりの影響を与えていたとは気づいていなかったし、それに、ぶっ倒れたなんて聞いたら、彼らがますますつけ込んでくることは目に見えていたのだ。

結局その後、念のため心電図を取ったり精神安定剤やらを処方された。だが、症状はあまりよくなっている感じがしなかったし、突如襲ってくる「あの感覚」の恐怖は、なかなか払拭することができなくなってしまった。

それ以来、仕事も満足に手に付かなくなった。外業がメインのその職場にとって、車に乗ることへの恐怖が払拭できず、内業ばかりを続ける僕は異質に見えたらしい。それを見た同僚のパワハラはエスカレート。周囲には「仕事をしないヤツ」と吹聴されるようになり、冷淡な視線ばかりを感じるようになった。この時、初めて「仕事を辞めたい」という思いに苛まれた。

数ヶ月後、ようやく地獄のような環境から脱出することが決定。八戸市内への異動が決まったのだ。

ところが、八戸市内に異動になった後も、異動先に電話が掛かってきて、引き継いだ内容の確認が続いた。捨て台詞のように、「お前のやったことは全然なっていない。」と言われるなど、散々罵倒され続けたが、やがて連絡は来なくなった。

しかし、しばらくクスリへの依存は続いた。しかも、かかりつけの医師から紹介状を書いてもらった八戸市の医院で処方された薬は、頭がガンガンするほど強い薬で、この時ばかりは具合の悪さに仕事を休んでしまった(その時も自律神経失調症だと言われたが、当時パニック障害という病気はまだ市民権を得ていなかった。僕は、自分の症状が大分和らいだ頃に、パニック障害を発症していたことを知るんだけど)。それでも、以前と比べると症状は大分和らぎ、自分で車を運転することも支障なく行えるようになったし、電車に乗っても切迫感を感じることはなくなった。大嫌いだった飛行機にも乗れるようになった。でも、八戸市と弘前市の医院、2件のはしご状態はしばらく続いた。ちょうどその頃、妻と函館を訪れているのだが、今振り返って当時の写真を見ると、あの頃の表情はまるで覇気がなかった。

ようやく症状が緩和されてきたのは、次の職場に異動した後だった。見たくもないヤツが、たまに職場にやってきたが、僕も向こうも完全に知らん顔だったし、特に話をすることがあるわけでもないので、ハッキリ言えば無視を決め込んでいた、といってもいいだろう。

クスリを手放したのは、発症してから6年目のこと、次の職場に異動してからのことだった。三十路を迎えるに当たり、記念受験ではないが、一つの区切りとして10キロマラソンに初挑戦したが、もう大丈夫なんだ、という自信を得たくて挑戦したという一面もあった、ということを今だから明かそう。

僕が何とか立ち直れたのは、職場を転々と異動したこと、つまり環境が変わっていったことに他ならないだろう。これでもしも最初の職場にあの連中とずっといたらと考えると、虫酸が走る。イヤ、その前に仕事を辞めていたかも知れない。

もう一つは、次の職場から転々と異動した先での理解があったことだ。病名は明かさなかったのだが、20代半ばの若い男が大量の薬を服用する姿はやはり奇妙だったようで、具合が悪くて休んでも、それを咎めるものは誰もいなかった。

もう一つは、家族の理解があったこと、そして良き伴侶を得たこと。僕がここまで立ち直れたのは、これに尽きると思っている。

心の病に、例外はない。「自分だけは大丈夫」と思っている人が、ひょんなことをきっかけに発症する。

最初は、自分がそういう病に冒されたことへのショックと失望で、何も手に付かなくなるかも知れない。でも、心の病は一朝一夕で元に戻ることではなく、長い付き合いを覚悟しなければならない。

なので、そういう自分を受け入れることが、まずは重要になってくる。

早く治そうと焦らないこと。焦りは絶対禁物なのだ。焦れば焦るほど自分を追い込むことになるから、どんどん辛くなる。

そして、これが今の自然体なのだと開き直ること。

病気も仕事も私生活もガチンコで取り組むんじゃなくて、程々にちょうど良くやればいいんだって、ちょうど良く。

今でこそあの頃の話は笑って話せるけれど、当時を思い起こすと苦々しいこともあるのも事実だ。
それに、今でも時々「ヤツ」と出くわすことがあるが、会釈程度ならできるようになった。それが大人の対応ってものだ。

いずれにせよ、あの頃の(病気も含めた)辛い経験は、今の僕の血となり肉となっていることだけは、ハッキリ言っておこう。

2010年7月17日

Princeの「20Ten」を聴きました。

今年はプリンスの新譜出ないのかな、と思っていたところに、突如飛び込んできたプリンスの新譜情報。以前新聞の「おまけ」として発表し、物議を醸した時と全く同じ手法で今回も発表されました。

イギリス・デイリーミラー紙のインタビューでプリンスが、「インターネットは時代遅れ」みたいな発言をして物議を醸したようですが、果たして新聞のおまけで発表することが時代を先走っている取組かといえば疑問。だって、3年前とやっていることが変わってないし(笑)。

ということで、プリンスが「時代遅れ」と酷評したインターネット上には、彼の思惑に反して(それとも予想通り?)新譜の音源が続々とリークされております。

恐らく彼が言いたかったのは、無法地帯というか権利が守られないようなインターネットの仕組みに対する苛立ちみたいなものなのだったのでは、と。
ただ、裏を返せばめまぐるしく変化を続ける時代の中にあっても、一途に彼の音楽を渇望する人たちが(僕を含めて)世界中にいるわけで、一部の地域だけで先行的に新譜を発表してしまうと、こういうことになってしまうんだよ、と逆に彼にいいたいところもあるのですが...。(新聞で、無料でって、どうなのよ?)

というわけで、AmazonやHMVでは予約が開始され、今月下旬から国内でも順次輸入盤の販売が開始されるようです。でもごめんなさい、待ちきれず先に音源を入手してしまいました。

デイリーミラーのコラムニストがベタ褒めしていたようですが、インタビューを掲載することができたことに対する社交辞令的な部分もあるのかな、とかなり穿った見方をしておりました。何でも、「ここ数年で最高の出来映え」、とのこと。ただ僕の知る限りでは、21世紀に入ってから彼の作品が発表されるたびに、毎回同じ台詞を聞いているようなデジャヴに襲われるのですが、これって気のせい?

さて、肝心の作品の内容ですが、恐らくまた賛否両論渦巻くことでしょうけれど、私としては「今のプリンスの音楽」が聞けるだけでもありがたいと思わなければならないと感じています。マイケル・ジャクソンが亡くなって1年が経ちましたが、「今のマイケルの音楽」を聞くことは、不可能なのですから。
ここ最近の作品の傾向としては、エホバの信者になったことが作品に影響を与えているという評論家もいるようです。僕は信仰とか信教とか疎いのでよくわからないのですが、別にエホバだろうがエバラだろうがそういうことを抜きにして楽しめる作品だと思いますし(というか、そんなにエホバの影響がイヤなら、いっそのこと聞くのをやめれば?と思ってしまう。)、何か夏っぽさを醸し出している感じだと思うんですけどね(全体にキャッチーなサウンドだからそう感じてしまうんでしょうか)。

僕にとってはかなりヘヴィローテーションで聞いています。かなりナイスです。



どうやらレーベルがデイリーミラーなので、紙ジャケで薄っぺらのものが送られてくるのでしょう。おや、一番安いAmazonは1,200円を切っていたのに、若干値段が上がってますね...。

2010年7月16日

7月9日 神に会いに行く

5時30分起床。普段と変わらぬ起床時間だ。おもむろにベッドを抜け、シャワーを浴びる。例の患部は、相変わらず紫色を帯びて腫れている。帯状疱疹であることはほぼ間違いないだろう。もはや覚悟を決めるしかない。
今日はルネッサンスリゾートオキナワを後にし、那覇市内に宿泊。夕方にはレンタカーも乗り捨て、あとは自分の足と公共交通機関での移動となる。
何よりもこの日は、神の降りた島、久高島を訪問することになっている。既に現地ガイドも予約済で、島に渡れば良いばかりになっていた。

ところがこの日は朝から何だかおかしい。
食欲もないし、気分もあまりすぐれない。なぜかイライラばかりが募る。

ルネッサンスリゾートオキナワの支配人

チェックアウトの時間が30分遅くなっただけで、かなりイライラし、さらには持参したカメラが異常な動作を始め、またイライラ。電池交換してようやく元に戻ったが、この時僕は大変なミスを犯していた。

ホテルから久高島へのフェリーが出航する安座真港までは、所要時間を約1時間を見込んでいた。フェリーの出航時間は10時であり、昨日の高速道の渋滞を考えると、所要時間1時間20分と想定、となると8時40分にはホテルを後にしなければならない。ところが時計はもう8時40分。いっそのこと諦めるか、それとも...。

ん?

あれ?

...鍵がない!レンタカーの鍵がない!!

確かに部屋を出る時、車の鍵は手に持っていた。チェックアウトの際にも、手に持っていたはず。イヤ待てよ、決済の時にフロントに置いたか?イヤイヤ待てよ、カメラの電池交換の時はどうだったっけ?頭の中がグルグル回り、汗が噴き出る。

「フロントに聞いてみればいいじゃない。」

妻が呆れたように言い放つ。

フロントにおそるおそる尋ねてみると...。

「あ。さっき届いてましたね。」

何のことはない、カメラの電池交換で混乱に陥った僕は、その場に車の鍵を置き去りにしてしまったらしい。何という大チョンボ。さすがにこの時ばかりは、自分自身に呆れてしまった。
ただ、これで冷静さと開き直りを取り戻した。
別に遅れてもいいや。こういう開き直りが功を奏することもある。高速道、一般道ともに渋滞は全くなく、やがてフェリー乗り場のある安座真港に到着した。時間はまだ9時40分だ。

とその時、僕の携帯電話が鳴った。久高島のガイドさんからだ。恐らく日程の確認のための連絡だろう。

ところがその後の会話で、僕たちは失望のどん底に落とされることになる。

「こちら久高島交流館です。実はですね...今日フェリーの1隻が中間検査で運休になっておりまして、フェリーの時間が変更になっております...。」

...え?

「9時の船は既に出航しておりますので、次に安座真港を出航するフェリーは11時30分になりますねぇ。」

.........ウソ?

何と、10時のフェリーが欠航となり、次の出航は11時30分だというのだ。さすがに焦燥。

「船上タクシーあるって書いてたよね?行ってみようよ。」

何としても久高島に渡りたい妻。そのために30分前にわざわざ、酔い止め薬まで飲んだのだ。
ところが、船上タクシーと掲げられた看板のそばには近くの現場で作業するオッさんがたむろしていて、それ以外の人影は見えない。...と、船で作業する人を発見、「あの、タクシーなんですが...」と聞くと、「俺じゃない。」とあっさり断られる始末。
看板に書かれている携帯電話に連絡しようにも全く繋がらず、もはや八方塞がり。

恨めしそうに久高島を見つめる妻。(安座真港から久高島は肉眼でもハッキリ見えるのです。)

かといってこれから11時30分まで待ったとしても、島での滞在時間は1時間程度しか確保できない。しかも、久高島から安座真港に向かう13時の便に乗り遅れると、次の便は17時。となると、完全に予定が狂ってしまう。

「来年、もう一度リベンジしよう。」
渋る妻を説得し、久高島交流館へガイドさんを断る旨連絡。意外にもあっさりと、特に残念がるそぶりもなく受け入れられた。嗚呼...。

さて、これで完全に計算が狂ってしまった。どうしようか...。
あ、ここまで来たんだから、近場にある「斎場御嶽」に行ってみよう。

「斎場御嶽」も、世界遺産の一つである。その昔、神と交信する場所として儀式が行われた場所で、沖縄でも最強のパワースポットとして知られている場所だ。
斎場御嶽から久高島

斎場御嶽

200円の入場料を払い、道を進むと、ピンと張り詰めた空気が漂う。神々しさ、とはこういうことをいうのだろうか、切り出した岩の下をくぐり抜けると、久高島を望むことができるスポットにたどり着く。


斎場御嶽

斎場御嶽

こういうところで無駄口は不要。どうでもいいような会話をしている人たちが苛立たしく感じられるぐらい。

斎場御嶽

斎場御嶽

十二分にエネルギーを頂き、斎場御嶽を後にする。そうそう、沖縄っていわゆる神社の鳥居がほとんどないんですよね。なので、神社はあるらしいんだけれど、どこにあるのかわからないという...。

斎場御嶽を後にした僕たちは、観光スポットの一つであるニライカナイ橋を抜け、南へ。
また橋を越えて渡れる島があるのを地図で発見。こうなるともはや行き当たりばったりなのだ。

奥武島。昨日渡った島も、奥武島。同じ名前の島がいくつかあるらしい。後で知ったことなのだが、南にある奥武島の近くには、宮本亜門の家があったようだ。でも、正直あまり興味ない(笑)。

取りあえず島に渡ってみようということで渡ってはみたものの、お食事処がたくさんある割には人影もまばら。
ふと、グラスボートの看板を発見、向かってみることにした。
港はもっと人がまばらで、流石平日のお昼、といった感じだ。
11時30分を過ぎていたが、ボート乗り場には誰も人がない様子だった。小さな建物に近づくと、犬がワンワンと吠える。中からおもむろに窓が開き、おばさんが顔をのぞかせた。

「今ならすぐ出られますよ。」

我々二人しかいないのに、ボートを出してくれるという。こりゃラッキーということで、一人1,050円を出して船に乗り込んだ。


奥武島・グラスボート

操舵するオッさんがいろいろ説明をするのだが、エンジン音があまりうるさくてよく聞こえない。港を囲む防波堤を抜けると、船がスピードを緩めた。太平洋は、うねりを伴った高い波がひっきりなしに押し寄せているが、珊瑚が自然の防波堤なのか、はたまた岩礁があるのか、船の進むところは比較的波が穏やかだ。
底のガラスを覗き込むと、巨大な珊瑚が続々と現れる。色とりどりの無数の魚が泳ぎ回っている。

「ニモ!ニモ」

確かに大きなクマノミが泳いでいるのだが、オッさんがうるさい(笑)。
珊瑚帯を抜け、船は更に沖合に近づく。今度は魚が船に近づくようにやってきた。どうやらこの辺の魚は餌付けされているようで、鯛をはじめとしたいろんな魚が餌を求めて船を追いかけてくる。

海上から本島を望む

乗船時間は約25分、最後は波の上をバウンドしながら乗り場に戻ってきた。
昼を過ぎていたので、そろそろ昼食を...と考えたが、奥武島から本島に戻り、南城市方面に向かう。またしても沖縄そばが目当てだ。
しかし、目的地の途中で発見した「自家製麺 なかむら家」の看板に惹かれ、そのまま入店。

近くで働く作業員の方が非常に多いようだ。
接客態度はこれまで沖縄島内で訪れた店の中では文句なしのワースト・ワン(苦笑)。やる気がないというか面倒くさいというか、そういう表情がありありと滲み出ているおばちゃん。
まぁ、麺は結構うまかったので許すとするか。


なかむら家・肉そば

さて。
思えば約15年前から沖縄を幾度となく訪問しているが、意図的に避けていた場所がある。

平和祈念公園。

沖縄の歴史を語る上では避けて通ることのできない場所なのに、その歴史に敢えて僕らは目を背けていたのだ。

糸満まではもう、目と鼻の先だ。
車を走らせると、すぐに平和祈念公園への入り口が見えてきた。ここまで来たならもはや避けて通れないだろう。薄日が差して暑かったが、車を降りて祈念公園を歩いてみた。屏風のような石碑(平和の礎)が無数に建ち並び、戦災で亡くなった方々の名前が数多く刻まれている。その数は20万を超えるという。

いたたまれぬ思いに駆られながら、太平洋を望む広場へ。小学生が無邪気に平和の礎の間を駆け抜ける。日本人以外の人もまばらではあるが見受けられる。

糸満市・平和祈念公園

糸満市・平和祈念公園

今回、資料館まで足を向けることはできなかったのだが、ようやくこの地に足を伸ばしたことで、何となく心の中にあったわだかまりがちょっとだけ晴れたような気がした。

ひめゆりの塔はここから更に離れた場所にあるのだが、今回こちらには立ち寄らず、那覇市内へ直行。

国際通りへ少しだけ立ち寄った後ホテルにチェックイン、荷物を置いて、レンタカーの返却先であるDFSギャラリア沖縄へ。

ここでまたいろいろ物色した後、夕食を済ませ、ホテルに戻ったのは21時30分過ぎ。
これまでの疲れがドッと出たのか、僕は22時には夢の中にいたらしい。

10日は13時15分発の飛行機で羽田を経由し、21時前に自宅到着。いつになく充実した4日間だった。

しかし3日目はなかなかハードだったな。来年は久高島、何としても行かねばです。

(おわり)

2010年7月15日

7月8日 Happy Birthday

5時に目が覚める。寝苦しかったこともあり、あまり眠れなかった。

このホテルの界隈は夜中の暴走行為も日常的に行われているようだ。実際、1時過ぎにバイクが無駄な轟音を鳴らしながら走っていく音を耳にした。もう少し時期がずれると、その頻度は更に増す。できることであれば、そのエネルギーを他のことに使って欲しいものだ。

7月8日の朝

この日は朝食会場に6時30分に行くことを決めていた。7時台になると混雑が始まり、しばらく空席待ちになることを知っているからだ。
外を見ると、雨が降る気配はなく、朝焼けで赤みがかった雲の切れ間から青空が見える。
6時25分過ぎに朝食会場に行くと、同じことを考えていたと思しき他の客が既に5組ほど並んでいた。

それでも6時30分には難なく朝食会場へ。
普段もこの時間には既に朝食をとっているので、時間は全く気にならなかった。
7時30分過ぎに朝食会場を出ると、予想通り長蛇の列ができていた。明日は8時過ぎにチェックアウトを予定している。同じ時間に朝食会場を訪れるのが賢明のようだ。

ひとしきりビーチとプールで泳いだ後部屋に戻り、11時過ぎにホテルの部屋を出た。特に予定が決まっていたわけではないが、何となく気になった本島中部方面に行ってみることにした。といってもまず一ヶ所行くところは決まっていて、まずはソーキそばのチェーン店でもある「我部祖河(がぶそか)食堂(名護バイパス店)」へ。

前回訪問した際は、昼をかなり過ぎていたにもかかわらず、行列ができていたのだが、今回は昼過ぎにもかかわらず店内はまだ空席がたくさんあった。妻はソーキそば、僕は三枚肉そば、それから焼きめしも注文した。鰹の風味が漂うスープに、焼きそばの麺を彷彿させる黄色い太麺。トッピングには島かまぼこと三枚肉、そして卵巻きに小ネギ、紅ショウガ。

我部祖河食堂・三枚肉そば
我部祖河食堂・三枚肉そば

程なく焼きめしが運ばれてくると、目が点になった。
そういえばそうだった!「スープ付き」とあるのは、沖縄そばだったんだった!

我部祖河食堂・焼きめし

結局大量の沖縄そばと焼きめしを腹の中に収め、店を後にした。
沖縄そばも店によっていろんな特色がある。人の味覚もそれぞれなので、ラーメン同様、どこの店が絶対に美味しいということは言えないだろう。
ただ、チェーン店でありながらこれだけの味を提供する我部祖河食堂、個人的にはかなり気に入っている店の一つだ。

我部祖河食堂・名護バイパス店

さて、この後どこに行くかはハンドルを握る僕に委ねられた。美ら海水族館のある本部町に向かっても良かったのだが、既に何度も訪れているところ。なので今回はちょっと指向を変えて、隣にある今帰仁村に向かってみることにした。本部町に向かう県道を途中で右折すると、建物があっという間になくなる。

やがて再び集落が見え始めると、今帰仁村の中心部へ。まずは沖縄にある世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つである、今帰仁村城跡へ。

今帰仁村城跡

今帰仁村城跡

石垣の積まれた城跡は、小さな万里の長城みたいな感じ。それほど暑くなかったことが幸いし、多少の汗のみで階段を登った。

今帰仁城跡

高台から望む東シナ海。曇天ではあったが、見晴らしのいいその景色に、疲れが飛んだ。

今帰仁村城跡
今帰仁城跡

この高台で、先人が生活を営んでいたことにも驚きであったが、何より、このような立派な城壁を作り上げたことは、さらなる驚きであった。

今帰仁村城跡

今帰仁城跡

今帰仁城跡

入場料は400円。今帰仁村歴史文化センターの観覧料(150円)も含まれているとのことであったが、うっかりセンターに立ち寄るのを忘れてしまった。ま、いいか...。

続いて訪れたのが近くにあるウッパマビーチ。

今帰仁村・ウッパマビーチ

青い海、白い砂浜。誰もいないビーチ。独り占めできそうなビーチ...。実際、誰もいないのだ。天気がよければ、海の透明度は更に増すことだろう。水着を持ってこなかったので泳ぐことはできなかったけれど、こういう穴場のビーチが島内にはあちこちにあるらしい。

今帰仁村・ウッパマビーチ

で、ウッパマビーチを横目に続いて向かった先が、古宇利島。特に何があるというわけではなかったのだが、橋を渡って島に行けるという、それだけの理由で向かっただけ。それにしても狭い島に向かう道、レンタカーの多いこと多いこと。何ということはない、レンタカーの多くの目的が、島に掛かる古宇利大橋が目的らしい。国道505号を東に横断、国道58号を左折し、それぞれ橋で結ばれた無人島の奥武島(お墓がたくさん建立されている。)、屋我地島(住家も数多くあり、さとうきび畑が広がる)を抜けると、眼前に広がるのが古宇利大橋。
全長1,960メートルの橋は、通行料金を要さない一般橋としては最長なのだそうな。確かに凄い見晴らしだ。

しかしこの橋を渡っている時、画面の真ん中に一本、線が通っているだけのカーナビはなかなか間抜けだった。(さすがに運転中だったため、写真は撮れませんでした)

橋を抜けると左手にビーチ。多くのレンタカーはここで一旦足を止めるようだ。
これで天気が良ければ、水色の海に浮かぶ橋がどれほど映えることか...。今にも降り出しそうな空が恨めしい。

古宇利大橋

沖縄の赤。
沖縄の赤

沖縄の白。
沖縄の白

温暖化の影響で、珊瑚の死滅は今も続いているという。

帰路はひたすら国道58号を南下。ホテルまでは距離にして約50キロ足らず、ほとんど渋滞らしい渋滞にも巻き込まれることなくホテルに到着した。

この日の夕食も予約済み。19時30分、空席待ちの行列を脇目に予約名を告げると、席に案内された。まず運ばれてきたのがスパークリングワイン。記念日を迎えることを予約の際に伝えていたので、サービスとして提供されたものだ。よく見ると、同じワインを飲んでいるテーブルが隣、そしてまた隣にも。あれ、皆さん誕生日なのかな?

食事をしていると、今度はカクテルが運ばれてきた。
隣にはケーキ。どうやら誕生日の人がいるらしい。

すると...。

タンバリンを手にした従業員が、ハッピーバースデーをみんなで合唱。
それを見た妻、ドン引き(笑)。

しばらくして「ケーキをお持ちしましょうか?」と従業員。
「お願いします。」というと、妻の表情が若干こわばる(笑)。

運ばれてくると同時に妻、「歌は結構ですので...」とやんわりと断りを入れる。
「そうですか...。」と残念がる従業員。

しかし既に胃袋は飽和状態。ケーキなんぞ食えるわけがない。
ということで、ルームサービスで持参してもらうことにした。

運ばれてきたケーキがこちら。

バースデーケーキ

甘さ控えめで大変美味しく頂きました。二人で全部食べたかって?ご想像にお任せします。

そういえばこの日、降水確率90%の中、雨にはほとんど当たらなかった!きっと、天気も妻の誕生日をお祝いしてくれたのだろう。

ということで僕からは何のお祝いもなかった妻の誕生日。いくつになったのかは、本人に直接聞いて頂くということで...。

(つづく)

2010年7月14日

7月7日、沖縄の太陽

今年で何度目の訪問になるのかわからなくなった沖縄。
もはや毎年の訪問はお盆の帰省に合わせて里帰りするのと同じぐらい恒例行事化されてきた。母からは「たまには海外とか、他のところにも行ってみたら?」と何度も言われたが、沖縄でなければならない、不思議な魅力がそこにはあるのだろう。

起床するなり天気図を見ると、広い範囲に梅雨前線が横たわっていて、全国的にぐずついた天気となっている。既に梅雨明けしている沖縄も、どういうわけか僕らが訪問する期間だけ曇りと雨のマークばかり。どうやら今年も沖縄の太陽にはそっぽを向かれてしまったようだ。
ま、天候を巡る不運は今に始まったことではない。今更嘆いても仕方ないことだ。あきらめの境地で、家を出発した。オカン、オトン、行ってくる。

青森8時10分発羽田行きの飛行機は、予想以上に座席が埋まっていた。
程なく客室乗務員が僕らのところにやってきた。

「○○さんですよね?」

「はい?そうですが?」

あれ、客室乗務員に知り合いはおらんぞ...と思っていたら、

「奥様が明日お誕生日ということで、おめでとうございます。」

ラッピングされた小さな袋には、花の種とメッセージカードと、飴(笑)。
再建中の日航としては、客離れを防ぐために、こういう心配りの一つも必要なのだろう。

さて、定刻通り青森を出発した飛行機は、思ったほど揺れることもなく、定刻より5分ほど遅れて羽田空港に着陸。

乗り継ぎ便は10時50分発。時間がそれほどあったわけでもないし、一度出てしまうと手荷物検査場をまたくぐらなければならない面倒さもあったので、沖縄便の搭乗口付近にある売店を物色。

そうしているうちにあっという間に搭乗案内。到着予定時刻が13時過ぎだったため、飛行機内で取れる軽めの昼食を買い込んで乗り込んだ。

こちらも奇跡的に定刻通り出発したものの、滑走路が混雑しているとかで、離陸までに30分近くを要した。しかも、折からの西風に煽られているため、沖縄那覇空港への着陸は定刻より10分ほど遅れる旨アナウンスされた。

長い距離なのでクラスJを選択したが、3歳児未満の子供を連れている人たちは普通席と同額でクラスJに乗れるということもあってなのだろうか、非常に子供率の高いクラスJだった。

13時25分、那覇空港着。外に出ると、モワッとした湿気を含んだ暑い外気が重くのしかかってきた。いつもは行列のできているレンタカー乗り場も、どういうわけかガラガラだった。レンタカー会社は空港から離れた場所にあるため、マイクロバスで約15分ほど揺られたのだが、これまたレンタカー会社もガラガラ。いつぞやは炎天下で1時間以上も待たされたのに、この日はほとんど待たされることもなくレンタカーが手配された。

こんなに順調で大丈夫なのだろうか?これまでは大体このあたりで躓き、僕が不機嫌になるというパターン(笑)だったのに、今日は全く支障がない。
取りあえず隣にあるアウトレットモールへ。

水曜日だということもあってなのか、施設内はガラガラ(笑)。大丈夫かいな?
僕らはというと、まだ沖縄に到着したばかりだというのに、既に大量のお土産を買い込んでいる。すると、みるみる周囲が暗くなり、大粒の雨が降り始めた。嗚呼、ついに降ってきたか...。ピカッと閃光が走ったと思ったら、ドーンと落雷。どうやら近くに雷が落ちたらしい。店員も客も不安そうに周囲を眺めている。...と思ったら、ものの10分もしないうちに雨は小康状態に。これまでも経験したことのある、走り雨みたいなものだ。

さて、かなり散財したし、そろそろ行きますか。

いざ、今日のホテルへ。
沖縄自動車道は、高速道無料化実験の対象路線となっているため、全線が無料開放されている。おかげで名嘉地ICから沖縄北ICあたりまでは大渋滞。噂には聞いていたが、これほど混雑しているとは思ってもいなかった。ただ、出がけにETCカードを持参したことが幸いし、一般車両とは異なり、入口出口で長蛇の列に並ぶ必要はなく、ほぼ予定通りに石川ICを通過。(沖縄でレンタカーを利用される方は、自動車道が全線無料だからといってETCカードを忘れると酷い目に遭います。絶対持って行くこと!)

ホテルに到着すると、既に19時近くだったこともあり、外食に向かおうとする人たちで玄関はごった返していた。

1年ぶりとなるルネッサンスリゾートオキナワ。僕たちにとってはすっかり「定宿」なのだが、ここ数年は客層にも変化がみられ、海外からの観光客の数が非常に多くなっている。もっとも、沖縄の人たちにしてみれば、僕ら夫婦の会話もほとんど海外観光客と変わらないのだろう(笑)。
チェックインの名を告げると、しばらくロビーで待って欲しい旨告げられた。やがてボーイが部屋まで案内、荷物を部屋に運び入れると、「お誕生日おめでとうございます。」と小さな袋を妻に手渡した。ここでも妻、プチ感激(ちなみに中身は水色のガラスで作られたグラスだった)。

この日の夜は、ホテル内にある寿司店に既に予約を入れていた。今回は、飛行機もホテルもレンタカーも全てバラバラに取っており、宿泊には夕食と朝食が付いていた。これまで何度もホテル内にある飲食店の混雑に悩まされたこともあって、今回は出発前に予約を入れていたのだ。
なので、何のストレスを感じることもなく、すんなりと夕食にありつくことができた。
空腹に流し込むビールは美味い。地元の魚(沖縄近海は鯛の種類が非常に多いのだ)も美味い。海ぶどうも美味いし、豆腐も美味い。
何もかも美味いが、写真を撮るのを忘れた(笑)。

結局この日、沖縄の太陽をみることはできなかった。ビールグラスに注がれたビールが、今日の太陽みたいなものだった。

(続く)

2010年7月12日

帯状疱疹を発症しました

本当は2回ぐらいに分けて今回の旅行の顛末記をお話ししようと思ったのですが、今、その気力すらありません。
Twitterでお知らせしましたとおり、私、病にやられました。

沖縄に出発するその日の朝、背中にむず痒さを感じ、腰のあたりを見ると、大量の湿疹を発見。あせも?虫さされ?いろいろ頭を思い巡らせているところに母が一言。「それって、帯状疱疹なんじゃ...。」

もう何年前のことかは忘れましたが、帯状疱疹を発症し、七転八倒する母の姿を知っている私、母から告げられた残酷なその一言に動揺を隠すことができぬまま、機上の人となったのでした。

旅行中はまさに騙し騙しの日々。きっと虫さされか何かにかぶれたのだろう、と頭の中に思い描くも、常に帯状疱疹の可能性を強く意識せざるを得ず、あとは万が一にもそうではないことを祈るしかありませんでした。取りあえず地元の薬局で購入した虫さされ、湿疹用のクスリを塗りたぐっていたのですが、一向に収まる気配はなし(そりゃそうだ)。

土曜日夜に帰宅後、これが帯状疱疹であることをほぼ確信した私、翌朝近所の病院に駆け込んだのでした。

診察の結果はやはり「帯状疱疹」。帯状疱疹は早期治療が肝心であり、なぜ早く治療しなかったのかをやんわりと咎められましたが、まさかそんな大事になるとは思ってもいませんでしたし、発症してしまったものは仕方がありません。(これはうちの家族全員に共通することですね。大事に至るまで病院に行かないという...。)

結局抗ウィルス剤などを処方され、取りあえず月曜日から水曜日までは、仕事の後必ず病院に足を運ぶよう指導を受けました(患部の消毒のため?)。

鏡で見ると、右の腰のあたりから臀部の上部にかけ、紫がかった疱瘡が点在しています。医師からは、入浴しても構わないが、絶対に水痘の皮を破らないことを、強く言われました。これが破れると、神経が露出し、死ぬほど苦しい思いをする羽目になると脅されました。
いや、万が一のために痛み止めの座薬を処方されたことを考えると、これは単なる脅しではなく、この痛みが想像を絶するようなものだということなのでしょう。実際、妻の知り合いには帯状疱疹が原因で入院した人もいたそうです。

帯状疱疹は50~60代からの方に多く見られる症状ですが、最近では20~30代の人にも多く見受けられ、その要因としては、強いストレスや疲れが挙げられるそうです。
振り返ってみると、確かに先月下旬から公私ともにかなりハードな日々を過ごしていました。なので、こうなってしまうのも仕方なかったのかも知れません。

痛みの種類は人によってさまざまなようで、耐えることのできない強い痛み、我慢できる程度の痛み、全く痛みを伴わない場合もあるようです。
僕の場合、現時点では中程度のようで、動くのもままならないような激しい痛みはまだ生じていません(こういう時、デスクワークで本当に良かったと思います)。ただ、今後症状がどのように変化するかは予断を許さない状況であり、引き続き注意深く、慎重に日常生活を送らなければなりません。

帯状疱疹はいわゆる切り傷や虫さされのような外傷とは異なるため、内面から治療するしかありません。なので今は、仕事をしながら免疫力を高めていくしかないようです。ただ、チクリチクリの頻度が以前より増しているような気が...。

帯状疱疹は、一度罹患すればあとは発症するケースは例外を除いてほとんどないらしいとのことですが、何でこのタイミングで発症するかな...(凹)

2010年7月 6日

明日私は、旅に出ます

...という歌がありましたね。若い人は誰も知らんか(笑)。

ということで私、早くも明日から夏季休暇突入です。取りあえず3連休で、残りのもう1日は父の法要に合わせ、9月に消化する予定です。

しかし何でうちらが沖縄に上陸する時っていつも天気が悪くなるんでしょう。今回も滞在期間中は、晴れの日がほとんどなし。で、僕らが青森に戻ってから晴れが続くって、どういうことなのよ?

毎度のことなので日頃の行いが悪い、と一笑に付していましたが、さすがにここまで続くと、凹みます。沖縄に嫌われてるのかな。

僕らの場合、沖縄に行く目的はダイビングとかマリンスポーツではありません。「癒し」を求めに行くだけです。携帯電話も満足に繋がらないようなホテルで、本州から大挙して押し寄せた方々の中に紛れ込みながら、ゆっくりと休みを満喫したいと思います。

今回はなんと言っても妻の誕生日と旅程がちょうどぶつかったため、ホテル側でもちょっとしたお祝いを用意して下さるようです。ちなみに僕は、何も用意していないんですが...。
沖縄の神聖なパワースポットとも言われている久高島にも足を運んできます。久米島には行ったことがありますが、本島以外の離島はそれ以来かな?大体妻と二人で遠方に出かける時は「珍道中」になること必至。フェリーで船酔い、なんてことも十二分にあり得る話で...。

ま、でも天気が悪くたって楽しんできます。大丈夫、沖縄の雨降りなんて、台風直撃に比べたら全然大したことないですから。
現地の状況は、Twitterなんかでポツリとつぶやくかも知れません。

しかし今日健康診断でよかったなぁ。帰ってきたら絶対体重増えてるだろうな(笑)。

2010年7月 5日

青森市・マル大しらはる

7月3日、AOMORIマラソンのエントリーがてら、今年2月にオープンしたというラーメン屋に行ってきました。青森市内でも人気を誇る、「八森」の目と鼻の先にある「マル大しらはる」です。

店内はカウンターが12席、4人掛けテーブル席が2つでしたが、訪れたときはちょうど先客が帰ったばかりのようで、運良くカウンター席に座ることができました。
「昼メニュー」と「夜メニュー」がありますが、昼は「鴨つけ麺」が、夜は「鴨白湯らーめん」があるとのこと。

青森市・マル大しらはる

青森市・マル大しらはる

ちなみに平日の昼13時30分から15時までも、数量限定で「鴨白湯らーめん」があるようです。

青森市・マル大しらはる

ということで僕は、昼夜問わずある「煮干しらーめん」を注文してみました。「煮干し中毒の方におすすめ」ということで、まさに僕にとってうってつけのラーメンじゃないですか。しかし、 しばらくして運ばれてきた中華は、一見何の変哲もない、魚介系の香りが漂う普通の中華でした。

青森市・マル大しらはる

スープを飲んでみると、確かに煮干しの味というか、強烈な酸味が鼻腔を突いてきます。 麺は中太麺でストレート、あまり弾力はなく、パスタのような感じといえばいいのでしょうか、つるつるした麺が、スルスルと喉を通っていきます。(もちろん自家製麺だそうです)
ちなみにメンマはごろりとした塊が一つだけ。でも、これがまた柔らかくて美味しかったです。
チャーシューはかなり薄味ですが、スープが結構濃い目ですので、これぐらいの方がちょうど良いかも知れません。

青森市・マル大しらはる

テーブルに置かれている魚粉と三升漬。特に三升漬は白飯に合うかも知れません。あ、もちろんラーメンに入れても大丈夫です。ただし、かなり辛いですけれどね...。

青森市・マル大しらはる

麺は細麺もあるようですが、どちらが合うのかは好みによると思います。妻は「これぐらいがちょうどいい」と言っていましたが、僕はもうちょっとスープが絡むもっちりした麺でもいいかな、と思いました。
青森市内の方ならおわかり頂けると思いますが、マル海系のスープといってもいいでしょう。ただ、これも好みが分かれるかも知れませんし、ちょっと加減を間違うと、苦みが出そうなスープかも知れません。
これまで経験したことのないような強烈なインパクトを与えるものではありませんでしたが、いかにも青森のラーメンっぽい、魚介系スープが印象的でした。
ちなみに日曜日が定休日だというのは、個人的にはちょっと痛いかも知れません。今度は鴨つけ麺を食ってみたいと思います。

場所はNTT青森支店のすぐそば、一方通行の小路が入り組んだところです。駐車スペースは三台分しかありませんので、場合によっては八森の向かい、国道101号(観光通り)を挟んで青森商工会議所の真向かいにある駐車場を利用するのも手かも知れません。


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4秒の壁

昨日、僕自身にとって約10年振りで2度目となるレース、AOMORIマラソンに参加してきました。

エントリーしたのは「10キロ 高校・一般(40歳未満)男子」の部門。10時のスタートに間に合うよう、8時頃自家用車で家を出ました。
ところが、この日に限って断続的に赤信号に引っかかるとともに、法定速度を心がけるペースカーに引っ張られるまま、会場周辺に到着した頃には9時20分を過ぎていました。この時点でかなりイライラ(苦笑)。

さらに不運は続き、今度は駐車場がない!会場周辺に用意された駐車場を結局4ヶ所も転々とし、イライラがピークに達したところでようやく駐車スペースを確保。3ヶ所目を訪れた時にようやくどこの駐車場が空いているのか教えて頂きましたが、駐車場の空き状況など、相互連絡を密にして欲しいものだと思いました。

しかも会場から結構離れた場所に駐車したため、足早にスタート地点に向かうと、既に大勢の老若男女がストレッチや準備体操を始めていました。
僕たちのスタートする時間帯は、10キロほど離れた場所からスタートしたハーフマラソンの選手たちと合流する時間帯。しかもコースも同じなので、道路に出た途端、混雑することが予想されました。

スタート地点は目標タイムによって区切られており、35分以内を目指す人たちが最前列、以下40分以内、50分以内に区切られていましたが、僕は控えめに一番後ろ、つまり50分を超えてゴールしてもいいと考える人たちの中に紛れ込んでいました。人数はどれぐらいいたのかな?イメージトレーニングのためちょっと集中していたので、周囲のことはあまり気にかけていませんでした。

ちなみに僕の中の目標タイムは、50分を切ること。10年前のタイムは46分台後半だったと記憶していますが、さすがにこのタイムは無理だろうということで、願わくは48分台でのゴールを目指していました。

10時のスタートと同時に、予想通り猛牛のようにランナーが一斉に走り出しました。周囲のペースに巻き込まれないよう、マイペースで、マイペースで、と言い聞かせていましたが、どうも走ってみると周囲のペースが遅い気がしてきました。しかも予想通りハーフマラソンのランナーも入り交じり、大混雑状態。早くこの場を抜け出したい思いに駆られ、前半であまり飛ばしすぎないように、とはわかっていたものの、久しぶりのレースですし、せっかくならゴールした後倒れる勢いで...ということで、文字通りごぼう抜きのような状態でどんどんと足を進めていきました。

この日、天気予報は曇りだったのですが、スタート時には雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせていました。いや、むしろ雲を払いのけるようにどんどん日差しが強くなっているような感じでした。ただ、湿度が非常に高く、身体から流れ出る汗と相まって、どんどん不快指数が高くなっていきました。

往路の約3キロ地点、青森ベイブリッジあたりまで来ると、向かい風が結構吹いていましたが、これがまた暑いながらも心地よさを誘い、非常に軽快な足取りで進んでいました。1キロ毎に地点表示があるのでラップを計測していましたが、当初想定していた目標を遙かに上回るペース。むむむ、これはオーバーペースで後半失速するかも知れない...まぁ、10キロだし行けるところまで行ってみるか、と。

ベイブリッジの下り坂が終わり、程なく折り返し地点という手前に給水所があり、大勢のランナーが群がっていました。確かに暑いし、気持ちはわかります。しかし、今までの練習でも10キロ走って途中給水したことは一度もありませんでしたので、ここは敢えてスルーしました。時計を見ると22分30秒を少し回ったところ。想定を大幅に上回る、1キロ約4分半での走行ペースです。快調快調♪

ところが、程なく訪れた折り返し地点を通過したところで、給水しなかったことが失敗だったことに気がつきました。追い風になったと同時に日差しが照りつけ、それに高湿度も重なり、急に猛烈な喉の渇きが訪れてきたのです。

しまった...(凹)。

さっきまでのルンルン気分はどこへやら、しかし今更コースを引き返すわけにも行かず、再びベイブリッジの上り坂に突入。しょうがない、下り終えたところにあるはずの給水所まで頑張ろう。 走っているときは何も考えないつもりでしたが、このときばかりは、父に背中を押してくれ、とずっと祈っていました。

やがて7キロ地点。文字通り渇望していた給水ポイントで無事給水し、あとは残り3キロを何とか走り通せれば...。
前回は残り1キロで足が止まり、歩いたりもしながら何とかゴールしたのですが、今回それは避けたいところでした。 青森市内を流れる堤川に架かる橋(これもちょっとしたアップダウンがある)を超え、残り約2キロ。時計を見ると、まだ30分台。これは行ける!

しかしここから急激にペースが落ちたのがわかりました。ゴールが近づくと気が緩み、脱力してしまうという僕の悪い癖。足が前に出なくなっています。こうなるとあとは、完全に気力との戦い。あまりの暑さで意識朦朧になりかけながら、最後の給水(しかもただの水ではなく、スポーツドリンクだった...)を終え、父に牽引されるような思いで何とかゴールにたどり着きました。

記録計測用のRCチップを受付に返却すると、その場でその記録が打ち出され、完走証が渡されます。 記録は、45分04秒!何と29歳の自分に勝ちました!

AOMORIマラソン

しかしこうなると欲が出るもので、たった4秒が何とかならなかったのかな、と。あそこで給水我慢すれば良かったとか、ラストに備えてちょっとだけでも走力を蓄えておけば良かったとか、いろいろ改善すべき点も見えたレースでした。 ということで次回は45分切りを目指します!?ウソです。