2010年8月27日

民主党党首選に思う

折角の週末なんだから何か楽しくなるような話題を提供したいと思ったんだけど、何かもの凄くつまらない記事になってしまった。先に謝っておきます。ごめん。

民主党の党首選に小沢一郎氏が出馬する意向を固め、菅首相との激しいつばぜり合いを始めている。菅vs小沢の「権力闘争」だそうな...。

おいおい、ちょっと待ってくれよ。国内に目を向けると、景気への不安、金融情勢の流動化、対米、対アジア政策など、今すぐにでもやらなければならない問題は山積しているのに、何が党首選なの?と敢えて苦言を呈したい。ロクに金融政策にも取り組めないくせに何が党首選だ!本当に日本はおめでたい国になったものだ。

それにしても、民主党自体が依然として小沢氏中心に回っているという事実(そもそも、小沢派、反小沢派という言い方をするが、菅派、反菅派とは言わない)。これから脱却できない限りは、国民が期待していたような政権運営を民主党が担うことは無理だろう。裏を返せば約3か月前、政治と金を巡る疑惑が小沢氏に突きつけられた時に、幹事長職を辞する程度で矛先を収め、誰一人として引導を渡すことができなかったということが、民主党にとって手痛い誤算だった、といってもよいだろう。

かといって「脱小沢」を掲げて登場した菅一族を見ると、権力を得た途端、暴君よろしく他人の言うことに耳を傾けることなく、自分の信念(いや、思いつき)だけでここまでやって来た、というのが実情ではないだろうか。権力の使い方を知らない人間に権力を持たせると、恐ろしいことになるということを、十分叩き込まれたこの3か月。

まあそれはともかく、今回、政治と金を巡る問題から陰に引っ込んだはずの小沢氏が、僅か3か月というインターバルをもって党首選に出てきたのは、勝算あっての事と思われるし、煮え湯を飲まされ続けてきたフラストレーションが一気に爆発したんだと考えられる。

ただ、どうなんだろう。
仮に小沢氏が党首選で勝利するとなると、それはすなわち、再び首相が交代するということになるわけで。
鳩山政権は、「長い目で見て欲しい」といいながら、僅か一年足らずで首相の座を負われた。正しくは、自爆しただけの話だが。

鳩山氏から首相の座を奪い取った菅氏も、短命政権で終えるのだろうか。

仮に小沢氏に党首交代となると、僅か1年で3人の首相交代である。自民党の短命政権を鋭く批判し続けた民主党の影はいずこへ。与党になった途端この有様。もはや与党慣れしていないとか、そういうレベルじゃない。もしものことになるようなら、自民党よりも酷いぞ。

しかし、仮に小沢氏が党首の座に上り詰めたとしても、自身の身の潔白を全く説明していない(というか、次から次へとネタがありすぎなんですけど)以上、長期政権は期待できないし、むしろ政局は流動化する可能性も孕んでいる(つまり衆議院の解散もありうるということ)。

一方、菅氏が党首の座を守り抜いたとしても、民主党はもはや一枚岩ではなく、結果次第では分裂も現実味を帯びてきそうな雰囲気だ。

いずれにしても、この党首選の後、政界再編も含め、政局が混迷に陥る予感。これでは景気回復だ何だと期待するだけ無駄なのかも。

しかし何が腹立たしいって、この期に及んで敵失を手をこまねいている野党の面々。すっかり民主党の主導権を握られ、まるで存在感がない。どこの党とは言わないが、「ドラマを見るより面白い」と、すっかり有権者と同じ視線で傍観者気取りの党首もいたようで...。あーあ、駄目だこりゃ。そして、この党首選を含め民主党のゴタゴタを面白可笑しく伝えるマスコミ連中。とりわけ新聞や週刊誌はこぞってこのネタに貪り付いている。もっと他に紙面を割く記事がないのか?

そんな状況を醒めた目で見ている国民。自民党だとダメだ、民主党なら何かやってくれそうだ。そんな期待感をもって投票し、今になって後悔している人は少なくないはずだ。自民党を完膚なきまで叩きつぶし、圧勝したあの衆院選の勢いはどこへやら。

何が問題かというと、こういう内輪もめで政治のブレが生じ、国民に不利益が生じていることが一番の問題じゃないのかな。

何かと言えばすぐ解散だ選挙だって話になるけど、その選挙の金って、元を辿れば一体誰が出してるんでしたっけ?

この際だから言わせて貰うけど、税金のバラマキやるぐらいなら、不利益が生じないように均等に減税してくれよ。高速道路だって、使う人はちゃんと使うんだから、無料化の検証なんていらないんだって。

ホント、いつからこの日本はこんな嫌気のさす国になったんだろう。

2010年8月24日

あの話の続き

1月に披露した、僕の人生の中で殿堂入りを果たしている約20年前の「仙台・ナン事件」の続きを綴るのをすっかり忘れていた。

(前回までのあらすじ)
仙台の某私大受験のため、生まれて初めて独りで仙台市を訪れた僕。下見を終えて腹ごしらえしようと入った店は、本格的なインドカレーの店。インド人との訳のわからぬ会話とスパイスにKOされ、ホテルに到着した後、いよいよ悲劇が僕を襲う...。
(詳細はこちら)

ホテルのフロントでバウチャー券を差し出すと、夕食も朝食も付いた券だという。夕食は2階のレストランで午後6時から提供するとのことだった。

部屋に入ると、さすがにドッと疲れが出てきた。
眠いわけではないのだが、何やら疲れが襲ってくる。この倦怠感は、何なんだろう...。
とその時、何やら胃のあたりから逆流してくるものを感じた。

ん?どうした?

これはおかしい。何かがおかしい。慌ててトイレに駆け込む。程なく、マーライオンよろしく...(以下自主規制)。

鏡を覗き込むと、顔面蒼白。尋常ではない顔色になっている。疲れただけ?うん、きっとそうだ。疲れたんだ。取りあえずベッドに横になる。しかし、さざ波のように寄せては返す吐き気の連続。眠れるどころではない。

結局ようやく落ち着きを取り戻したのが18時30分頃。血色も大分よくなった。

一体何だったんだろう?

僕はその時、カレーのスパイスに胃をやられていたことには全く気がつかなかった。

ああ、マーライオンしたおかげで腹も減ったしなぁ...。
ということで、まだ体調が元に戻ったわけではないのに、そそくさとホテル内のレストランに向かったのだった。

それなりのホテルのレストランということもあり、いきなり入ろうとしたら、席に案内するので待て、と制止された。程なく係の人がやって来て、僕独りを4人掛けのテーブルに案内した。周囲を見ると、白髪の紳士とその令嬢だろうか、ワインを傾けながら談笑している。一方では、金髪の女性と日本人男性が、英語でペラペラと話をしている。これは、えらいところに来てしまったぞ...。

渋い声のボーイがやってきた。「いらっしゃいませ。本日の夕食は、ステーキでございます。」

ステーキ!!!!!!!

ああ、何という美しい響き。未熟な18歳の少年の頭の中では、ステーキを巡る妄想スイッチオーン...。

「焼き方はどのようにいたしましょうか。」

ハッと我に返る18歳。焼き方?ええと、ミディアムとレア、あと何だっけ、ショウガ焼きじゃないし...。体調も今ひとつだし、血の滴るような生肉は絶対食えないな。ええと、きつめに焼いてくださいなんて言うのも何か恥ずかしいし...。

と、口を突いて出た言葉に委ねるしかなかった。

「レアで、お願いします。」

自信満々にレアを注文する18歳。確かこれが一番きつく焼いてくれるんじゃなかったっけ?うん、確かそうだよ。間違いない。
テーブルマナーよろしく沢山のナイフ・フォークを目の前に、半分パニック状態に。

程なく、スープが運ばれてきた。コーンスープだ。ああ、胃に優しいぜ。ありがとう。ゆっくりとスプーンですくい、音を立てないようにすする。それも出来るだけ早く。何せ今晩は、ステーキですから。

スープの皿が下げられ、ついにステーキがライスと一緒に登場。

おおお...久しぶりにこんなステーキを見たぜ。

ゆっくりとステーキにナイフを通す。うーん、柔らかい!
しかし、ナイフで肉を持ち上げた次の瞬間、目が点になった。

したたり落ちる肉汁。生焼けの真っ赤な肉。

ガーン!!!!

そう、格好つけて「レア」なんて頼んだからこんなことになってしまったのだ。だったら最初から「ちょっと強めに焼いてください。」って言えばよかったじゃないか。何やってるんだ、自分...。

猛烈に凹みながら、責めて責めて責めまくる。そしてこうなると、もはや自暴自棄。
もう、なるようになるがいいさ!

白い脂身だけはどうしても口に運ぶことができなかったが、空腹には勝てず、何とか赤身のステーキとライスを平らげた。しかしもはやこうなると、味すら記憶から消去したくなるものなのだ。

傷心のまま部屋に戻り、一応明日に備えて参考書に目を通す。といっても、あまりの衝撃に何を勉強しようとしたのかもよくわからなくなっていた。
こういう日は早く就寝するに限るのだ。そうだ、そういうことなのだ。

というわけで、21時頃には就寝....。

1時間もしないうちにハッと目が覚めた。先ほどのマーライオンだけではない、今度は下からのゲリラ攻撃がやってきたのだ。寝ては七転八倒、起きては七転八倒の繰り返し。
上から下から出るものは全て出した。そして、やがて朝が近づいてきた。目の下にはしっかりと隈が縁取られていた。

もはや予定していた朝食を口にする元気はなく、ホテルをチェックアウト。受験会場に向かう。
もう大丈夫。絶対大丈夫...。

自己暗示のように心の中で呟く。

受験会場に到着すると、既に大勢の人が受験開始を待ち構えていた。ふと周囲を見ると、何と八方を女性に囲まれている。むむむ...これで合格したら...。よからぬことばかりが頭をよぎる中、試験開始。体調は、もう大丈夫?

最初の科目は英語。
何だ、こんなの楽勝楽勝♪と余裕をかましていると、ギュルギュルーっと...。

嗚呼、何てこったい。また腹が奇っ怪な音を出し始めたのだ。

結局試験開始から30分後、退席可能時間になるのを待って退室。ちなみに答案用紙はその時点で全て埋まっていたので、問題はなかったはず。
その後の科目についてもそつなく答案用紙を埋めたが、もはや身はズタズタで心もボロボロ。結果、案の定不合格となった。いや、いろんな意味で不合格になってくれた方が、今となってはよかったのだ。

最大の不運は、盛岡から弘前に向かう帰りのバスで、現在新潟県の某大学で教鞭を執る某S氏と鉢合わせになったことだろう。絶対口外しないことを条件に事の顛末を話したのだが、翌朝学校に行くと、ニヤニヤしながら僕に向かって「ナン」「ナン」と呟く輩が沢山いるのだ。何てことはない、S氏から漏れ伝わった話が、あっという間に広がってしまったらしい。

まあ、これも今となっては笑い話なのだが、実は今年2月まで、あの日のことがトラウマとなり、なかなかナンを口にすることが出来なかったことを今だから明かそう。

2010年8月23日

山下達郎・青森公演に行ってきた。

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ということで、予告通り山下達郎公演に行ってきた内容をちょこっとだけ。
ただし、紳士協定によりステージ上の様子やセットリストは、ほとんど公開していませんのであしからず。
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21日土曜日。この日も朝から残暑が厳しく、身体が怠い。夕方は青森に出かけなければならない。2度目となる山下達郎公演が待っているのだ。
午前中、軽めにジョギングしてきたのが祟ったのだろう、午後になり、疲れからドッと睡魔が襲う。
...zzzzzzz

ハッと目が覚めるともう16時近くだった。しまった。開演が18時からであることを考えると、駐車場の確保も考慮して、出来れば16時20分頃には家を出たい。

ところが、こういう時は大体何事もうまく運ばないもの。相場は大体決まっている。
案の定、家を出る時間は大幅に遅れ、16時30分になっていた。しかも道中、某コンビニのペースカーが道を塞ぎ、60キロ走行可能なところでもずーっと50キロのまんま。長い車列、募るイライラ...。それでも、青森市内に入ると車道は比較的スムーズに流れていた。それでも、会場に到着したのは18時05分。開演時刻を5分過ぎていて、入り口付近には係員以外、誰もいなかった。

係員にチケットを渡すと、席まで案内するという。まだコンサートは始まっていないようだ。今回は階下、しかも通路のすぐ横だったため、難なく椅子に座ることができた。
...とほぼ同時に、アカペラが流れはじめ、場内が暗転。ああ、僕たちがやってくるのを待っていてくれたんだね、と勘違い。

内容については、山下達郎本人が「まだツアー7本目だし、ご配慮を頂きたい。」ということだったので、詳細について語るのはやめよう。

ただ、今回のツアーが山下達郎のデビュー35周年(シュガーベイブからの通算で)に託けて行われていること(本人はそういうのはあまり気にしないといいながら、結構そのことを強調していたような気が...)、このツアーのおかげで新しいアルバムの発売が遅れていること、今後はアルバムの発表とツアーは連動しないこと等をおっしゃっていた。来年もまた来るとか来ないとか!?

で、セットリストは今回明かすことを控えようと思うが、ヒントだけ。
レコードデビューから35周年。新旧織り交ぜた構成(ここ最近発売されたシングルはもちろんセットリストに含まれていたけれど)。一曲目は、ええ!?それから来るか!?みたいな。二曲目は、もっとビックリだったんだけど。それから、残暑厳しい夏なのに冬の定番、やりました。クラッカーも、もちろん必須(すっかり忘れてたけどな)。開演6時10分頃、終演まで約3時間。達郎さんは御年57歳、バンドメンバーはほぼ変わらず(佐橋さんは何度青森で観たことか)。

僕らの周り、というか会場全体を見渡しても、40台後半から50台と思しき年齢層が相当数占めている(もちろん満席)。このため、僕たちは2曲目からいきなり「うぉ!!」という感じで立ち上がったが、周囲は誰も立ち上がらず、静かに手拍子を送るだけ...。結局3曲目からまた座る羽目になり...嗚呼。
結局終盤になってようやく皆さん立ち上がったが、半分イヤイヤながら立ち上がった人も多くいたような雰囲気。ダメだよ、寄る年波には勝てないとか言っちゃ...。あと、冷房も若干きつめだったのだろうか、トイレに立ち上がる人も数知れず(苦笑)。

しかし、57歳にしてあの声量には驚かされる。誰とは言わないが、誰かさんにも見習って欲しいものだ。

決して予定調和的ではない構成を、メンバー全員が楽しんでいるというのが、ステージ上の雰囲気を観ていても伝わってくるし、それが会場全体を包み込むような感じ。肩の力を抜いて楽しむことの出来る、「大人のためのステージ」みたいな雰囲気だったな。

8,000円払う価値はあったよ、絶対に。

2010年8月17日

お盆休み

ここ最近はネタ不足に苦しんでいるというか、ネタを見つける余裕もなく、ブログ更新が滞っている。何かネタがないかと思ったが大したネタもないので、お盆のグダグダな内容をお届け。

昨年は父の新盆だったこともあり、お盆期間に合わせて2日間の休みを頂いた。

しかし今年は7月に夏季休暇4分の3を消化してしまったため、残る夏季休暇は1日。これは9月の父の三回忌法要に合わせて取ることとし、結果的に今年のお盆は暦通りの出勤となった。
もっとも、今月に入ってからも多忙な日々が続き、12日になってようやく落ち着きを取り戻し始めたぐらい。なので、この選択は間違いではなかった、ということにしておこう。

12日から休みに入っていた妻は、墓前に持参するための供花供物を購入するため大混雑の弘前市内を一人で駆け回ったそうだ。僕が帰宅する頃には既にほとんどの支度が終わっていて、あとは翌朝を迎えるだけだった。我が家の前は寺院街だけに、盆の時期は大混雑することが目に見えている。なので、僕が仕事に向かう前に墓参りを済ませてしまおうという魂胆だった。

翌朝は5時に起床。しかし、悪夢にうなされ4時前に目が覚めた。結局そのまま悶々としながら朝を迎えた。

程なく妻と母も起床。
「おはよう...。」
寝ぼけ眼をこすりながら挨拶すると、聞き覚えのある声がもう一人。

「おはよう...。」と母の背後からヌッと姿を現したのは、帰省を見送っていたはずの妹だった!

一瞬事情が飲み込めなかったのだが、母と妹の仕掛けたドッキリにまんまとはめられてしまった。やられた!

聞くと前日、仕事を終えてから東京駅に直行し、弘前まで戻ってきたらしい。しかし、途中で秋田新幹線運転見合わせの煽りをまともに食らい、新花巻あたりで足止めされ、弘前に着いたのは0時頃。
母だけが事情を知っていたのだが、もう一匹、玄関が開く音をを察知したチョコが、か細い声でワンワン吠えたらしい。しかし、チョコの一番近くにいたはずの妻は爆睡、結局我々にバレることなく家の中に入ったということらしい。

とんだサプライズではあったが、僕の仕事の予定は変わらないので、急いで支度をして6時過ぎに家を出発。墓参りを済ませて駅に直行、普段通りの仕事と相成った。まぁこれが忙しかったの何のって(笑)。13日とは思えぬほどの来客、電話...。おかげで大分仕事がはかどりましたのよ、ええ...。

翌14日は夕方から高校時代の同期のメンバーが数名集まっての飲み会。蓋を開けてみると集まったのは12名。ただ「同期」というだけで、あとは何の接点もないようなメンバーが12名。本来であれば、同期会そのものを開催しなければならないのだが、会長曰く「のんべ君に不幸があったため」開催が見送られたのだそうだ。余計なお世話だっつうの(苦笑)。

しかし、同級生だった女性2人と久しぶりに再会し、2年前のお礼やら何やらを直接伝えることができたのは、せめてもの救いだった。

15日。この日は母と妹が北秋田の祖母に会いに行くということで早々に起床、出発...しているはずだったのだが、僕が起床した7時の時点でまだ出発できる状態にもなっていなかった。

何となく一緒に行きたい気分になりかけたのだが、日帰りでの往復は結構ヘヴィである。前日の酒はさほど重たくはなかったが、ここは留守番を決め込むことにした。

前日の疲れが残っていたらしく、午前中からうたた寝をはじめ、気がついたら昼に。外出するタイミングを逸し、家で昼食を済ませたら、再び睡魔が...。
そこへ妻がポツリと一言。

「長谷川牧場までって、どれぐらい掛かるんだろうね。」

西津軽郡鰺ヶ沢町にある長谷川自然牧場。
何度となく足を運ぼうとしたが、場所がわからず断念したところ。
そういえばここしばらく、市内から外に出た記憶がない。家でゴロゴロしているぐらいなら、外の空気を吸った方がお互いのためだろう。今回は用意周到に場所を確認し、14時過ぎに家を出発した。

...にもかかわらず道に迷い、結局15時頃到着。
出迎えてくれたのは、放し飼いにされている無数の鶏と、二匹の犬。
ところが、肝心の人影が見当たらない。「売店」と書かれた建物に行っても誰もいない。燻製を作っているのだろうか、もうもうと煙が上がっているのだが、人影が全く見当たらないのだ、足を踏み入れようにも立入禁止の場所となっており、結局鶏に囲まれながら建物を眺めるだけ。

仕方がない。場所はわかったのでまた来るべ。

歯がゆい思いに駆られながらも、鰺ヶ沢町内でちょっとだけ買い物をして帰路についた。
帰る途中、珍しく妻が「温泉に寄りたい」と言っていたこともあり、久しぶりに温泉に立ち寄った。ただ、残念なことに湯上がりのさっぱり感が全く感じられなかった。多分井戸水か何かが混じっているんだろうな、って感じで。どこの温泉なのかは教えない(笑)。知りたい人は直接お問い合わせを。

ホントは旧岩木町にある「新岡温泉」に行きたかったのだが、湯から上がったあと、大変なことになりそうだったのでやめた。

というか、ここのお湯はいいです。建物のひなびた感もまた、かなりお勧め。ただし、浴場から外が丸見えだったり(裏を返すと外から浴場が丸見え!?)、浴場の男女の仕切りが曇りガラスだったりと、女性にはあまり優しくない(?)温泉なんだが...。

...って、何の話をしてるんだかワケわかんなくなってきました。
ね、だからグダグダだって言ったでしょ。

次回は「山下達郎公演に行ってきた」をお届けする予定です。

2010年8月11日

タクシーを巡る事情

東北新幹線全線開業を4ヶ月後に控え、二次交通としての役割を果たすことになるバス会社やタクシー業界は、集客に向けてにわかに色めき立っている。

乗合タクシーや禁煙車の導入をはじめとするサービス向上にも取り組んでいるようだが、その一方で6月下旬にはこんな記事が出ていた。

青森と弘前 タクシー3~4割減車へ

 東北運輸局青森運輸支局は29日、タクシー台数が過剰とされる青森市、弘前市を中心とした2交通圏のタクシー事業適正化・活性化協議会を青森市内で開いた。事業者や運転手の労働組合などでつくる協議会は、圏域の現行台数を3~4割削減することが望ましいとする地域計画を策定した。今後、各事業者が減車目標やサービス向上策などを盛り込んだ「特定事業計画」を自主的に策定する。
(2010年6月30日付け Web東奥)

青森や弘前のタクシーが既に飽和状態を通り越していることは、それぞれの駅前周辺や繁華街を見るとよくわかる。下手をすれば一人も乗客を掴めぬまま一日が終わるタクシーだってあるはずだ。しかし、今の台数を減車するということはタクシー運転手を解雇するか、あるいは更に緩いシフトでローテーションを組むしかない。
それでなくてもタクシー運転手を巡る労働条件は、厳しい状況にあるのが実態だ。

厚生労働省の賃金構造基本統計調査によると、全産業労働者の年間賃金平均とタクシー乗務員のそれとは、約200万円以上の差があるそうだ。しかも、平均労働時間を見るとタクシー乗務員が全産業労働者を上回っている。

しかし、青森県内における雇用情勢を鑑みると、一度手にした職を手放すというのは、実に勇気の要ること。そう考えれば、食い扶持の確保のために「致し方なく働いている」タクシー乗務員も少なくないのではないだろうか。

その反動ではないだろうが、タクシーのマナーの悪さは目も当てられないぐらい酷い。

青森市内。数字のついた某大型掲示板では、青森市内のタクシー運転手のマナーの悪さを指摘する声が少なくないようだ。また、交通違反や歩行者の安全を無視した横暴な運転(大体こういう時は客を乗せていない)はもちろん、乗車した時の挨拶どころか、行き先確認もしないといった苦言が、つい最近まで新聞の読者欄を賑わせていた。

また、前述の交通障害を生み出していることもあってか、「青森のタクシーは多すぎる。○○と○○(いずれも会社名)だけでいいだろう。」という声もあるぐらいだ。

通勤のために僕が毎日利用している弘前駅前を見ても、駅前にある外資系ホテルや7の字の看板のある大型スーパー付近では、片側2車線の1車線が客待ちのタクシーで埋め尽くされ、中には交差点の中に堂々と停車し、歩行者や車の往来を妨げるといった交通障害を生み出している。これでは、何のための2車線なのかわからない。それとも弘前駅前の2車線のうち1車線は、「タクシー専用レーン」だったのだろうか。

もっとも、こういったことは青森や弘前に限ったことではないと思う。実際どこの地域に行ってもタクシーというものは、なくてはならない存在でありながら、時としては邪魔でもある存在なのだ。
それが「なくてはならない存在」なのか「邪魔な存在」なのかは、利用者の都合一つで判断されるのだが...。

いずれにしても、タクシーを見る世間の目は全般的に見ても温かいとは言えないだろう。

タクシー会社やタクシー協会としても、乗務員のマナー向上に向けいろいろと取り組んでいるが、それが果たして乗務員の身についているのかは疑問視せざるを得ない。

先日目撃した光景。
電車からの乗客が弘前で下車し、正面口から方々に歩き出そうという時に、タクシー乗り場に停めてある先頭のタクシーの前で、3~4人の乗務員がしゃがんだまま話し込んでいた。しかも、客の姿が見え始めているにもかかわらず、話をやめる素振りさえ見せなかった。一種異様な光景。さながらそれは、年を食った不良どもがたむろしているようだった。その後の顛末は見届けていないが、ハッキリ言ってあれでは客が近寄りがたい。

でも、今朝はもっと凄い光景に出くわしてしまった。

弘前市内のタクシーは最近「禁煙車」を導入しているが、今朝弘前駅のタクシー乗り場で見たタクシーには思わず失笑してしまった。
何と、「禁煙車」とステッカーが貼られたタクシーの乗務員が、車内で乗務員席のドアを開けっ放しのまま、堂々と煙草を燻らしていたのだ。「これは禁煙車だが、俺は運転手だから適用除外」ということだろうか。それとも「乗務員席のドアは開いているから煙の臭いはしないはずだ」という判断だろうか。そういう意味では、実に自覚に欠けた堂々とした行為だな、と。

しかし、たった一人によるあのようなマナー違反が、タクシー業界全体に悪影響を及ぼすこともあるいうことを、タクシー乗務員は今一度自覚すべきだ。

少なくとも「青森県で会った最初の地元民」になりうるタクシー乗務員の皆さん、青森県の心証を悪くするような行動だけはしないで下さい。

2010年8月 9日

酷寒のみぎり...

土日そして今日月曜日をまとめて一言で済ますならば、間違いなく「停滞」という言葉がぴったり当てはまる3日間だった。特に昨日は酷かった。朝、墓の清掃に出かけた後、身体が怠くなり、ひたすらクーラーの前で惰眠を貪る始末。何をすることもなくどこへ出かけるでもなく、ダラダラダラダラと家の中で1日を過ごし、食って飲んで寝て...何か全く生産性の上がらない3日間だった。何をしたかと問われれば、墓の清掃(それも30分程度)と、せいぜい三回忌法要の案内状を作成したことぐらいだろうか。

土曜日。前日、猛暑日に見舞われた青森市内、扇風機一つで日中をしのいだ疲れがドッと出てきたのか、まずもって何かをしたいという気力が全く出てこなかった。

しかし、かといって何もせずにゴロゴロしているわけにもいかず、取り急ぎ来月初旬に差し迫った三回忌法要の案内状作成に取りかかった。

案内状を出す相手はほぼ決まっていたし、案内文の素案も既にできあがっていたので確認してもらい、字体や大きさなど了解を得て、作成から約1時間で印刷、完成。ハイ、一丁上がり。

...ところが、妻から「ねぇ、これって違うんじゃ...」と指摘を受けるまで全く気づかなかった凡ミス発覚。

なんと、「酷暑のみぎり」と入力したつもりが、「酷寒のみぎり」と入力していたのだ。

一枚一枚葉書を読み返した途端、暑さでゆるゆるだった股間が縮み上がるような思いだった。

弘前市は朝から気温が上昇し、日中も35度近くまで気温が上昇している中、「酷寒」はないよな...とかなり凹みながら、修正ペンで「寒」を「暑」に修正。作業している間、あまりの自分の凡ミスに呆れるあまり、頭から湯気が上っていたらしい。くそー。誰か確認したときに気づけよ、と責任転嫁したくなったが、そもそも間違いに気づかず入力した僕が悪い。
「イラ菅」ならぬ「イラのん」なのだ。

で、45枚の往復葉書全ての修正を終え、無事投函。
暑さのあまり、思考回路も判断力も停滞している、といいたいところだが、僕の力量のなさを露呈した格好に。要するに、そんな凡ミスにも気づかないほど要領を得ないということなのだろう。嗚呼、反省...。

2010年8月 6日

北国の春

僕の携帯電話の中には、多くの画像に紛れて数本の動画が収められている。
動画の中心となっているのは、推定年齢92歳の祖母キノだ。

祖母は80歳代前半まで、自らの足で歩き、北秋田からわざわざ電車に乗って(それも乗り換えまでして)弘前まで一人でやってきたこともある。
さすがに年とともに足腰が弱り始め、外出も控えるようになった(いや、正確には外出を控えるよう制止された、といっていいだろう)。
現在は、ほぼ寝たまんまの状態に近い(寝たきりではないので、ここは敢えて「寝たまんま」という微妙な表現とさせて頂く)。
ただ、弱っているのは足腰だけで、頭の回転は多少ずれてはいるものの、まだまだといった感じだ。

実際、耳が遠いわけでもなく、こちらからの問いかけにも即答するし、足腰と多少のボケを除けば、まだまだ十分行けそうな感じだ。

しかし寄る年波には勝てず、また、介護する家族の負担も大変であるため、現在は老健施設に入居している。

さて、祖母の動画は、今年の正月に撮影されたものだ。
1月3日に誕生日を迎える祖母。親戚が集まり、お祝いしてもらったことがよほど嬉しかったのか、突然車いすに座ったまま「北国の春」を歌い始めた。
誰に口添えをされることもなく、自然とわき起こった手拍子の中、祖母は一人で、そして最後まで「北国の春」を歌い通した。なぜかつられて歌い出す一同。笑いと涙が交錯し、祖母が歌い終わった途端、親戚からは歓声と万雷の拍手がわき起こったが、恐らく誰もが祖母の健気に歌うその姿に心打たれ、感動したはずだ。いや、少なくとも携帯電話を手に撮影していた僕は、涙を抑えるのに必死だった。諸般の事情でお見せできないのは残念なのだが、多分ずっと消去することのない、大事な一本になったことは間違いない。

先日、祖母の入居する老健施設で夏祭りが開催された。
母もその場に行く予定だったのだが、あいにくの悪天候(その日北秋鹿角地方では大雨洪水警報が発令され、いわゆるゲリラ豪雨のような雨が降っていたのだ)で行くことを断念。結局、近くに住む伯父夫婦が祖母の見舞いがてら夏祭りに足を運んだそうだ。

お年寄りによる他愛のないアトラクションの後、職員が「カラオケ歌いたい人!いますか?」と声を掛けた途端、いの一番に手を挙げたのが何と祖母。
そして、歌うは十八番の「北国の春」。

一時は入院で「ひょっとしたら...」の手前までいった祖母が、相変わらず大きな声で、歌詞も見ずに歌い上げる姿に、伯母は人目も憚らずボロボロと涙を流したそうだ。

祖母がどういう思いを抱きながら歌っているのかは知る由もない。いや、ただ「歌いたい」という「意欲」があっただけで、多分何も考えていないのだろう。

そういえば正月以来、祖母とは顔を合わせていない。最近は記憶の回路がショートを起こしているみたいで、ずれた発言をすることもよくあるようだが、顔を忘れられないうちに祖母の見舞いに足を運んでみたい。

祖母の「老いても生き、楽しむ」という意欲を、見習わなければならない。

2010年8月 3日

ねぷたバカの三回忌

弘前市内はこの時期になると、あちらこちらからねぷた囃子の音が聞こえてくる。ねぷたまつり2日目の昨晩も、22時過ぎに隣の町内会のねぷた囃子が響いてきた。今朝になって知ったことだが、この町内会は8年連続で「県知事賞」(ねぷたまつりの最高賞)を今年も受賞したそうだ。恐らくこれから6日までの連日、22時過ぎにはねぷた囃子が響いてくることだろう。

うちの町内会もねぷたを出陣させているが、賞などお構いなし、もはや出ることに意義がある、といった雰囲気だ。僕自身、ねぷた自体は嫌いではないが、かれこれ20年以上町内のねぷたには顔を出していない。厳密に言えば、ねぷたそのものを10年以上まともに鑑賞していないのだ。

町内のねぷた小屋ではまつりに向けて、平日は夜間、土日となると昼夜問わず作業が続いていた。
しかし、父の遺志を胸に何かお手伝いしたい反面、作業をしている人がある程度高齢化かつ固定化されてくると、逆に入る余地がないというか、敷居が高くなりすぎているというか...。(という都合のいい言い訳。)

ちなみにうちの父は、バカがつくほどねぷた好きだった。いや、「まつり」が好きだった。「まつりごと」も好きだったようだが(笑)。

ねぷたの運行期間ともなれば、連日のようにあちらこちらのねぷたに顔を出してはビールを浴びるだけ飲む。要するに、ねぷたが好きなのではなく、ねぷたに乗じて大手を振ってビールを飲む機会が与えられるということが、父をねぷたに駆り立てる一番の理由だったのだろう。

その一方で、肩書きだけではあったが、町内のねぷた愛好会会長という役職も頂いていて、ねぷた運行の際には「運行責任者」なんていう仰々しい襷を肩から提げつつ、運行が終わり、ねぷた小屋の清掃や片付けが始まる頃にはベロベロに酔っ払っていたであろう父。

かといって何か作業を手伝うといったことはほとんどなく、僕の記憶では僕が高校生の頃に、出陣のために待機場所までねぷたを牽引していったことが一度あったかどうか(ちなみにうちの町内は待機場所まで比較的近いため、当時は人力で牽引して行った)。

そう考えると、父は恐らく相当数の方々にご迷惑を掛けたことだろうと思うし、相も変わらぬ暴言で大勢の方々を不快な思いにさせたことだろう。長男として、まさに忸怩たる思いだ。

しかし僕自身、弘前市民でありながらここ最近はねぷたを鑑賞する機会がほとんどなくなった。青森市内の職場と家の往復で、しかも青森市ではねぶた祭りも開催されている。ねぶたの観覧客に紛れ、職場から青森駅にたどり着くまでも一苦労、電車に揺られて帰るのもやっとなのに、わざわざねぷたを観に行こうという気分にならないのだ。
もっとも、弘前駅に到着し家に向かうと、小屋に戻る途中のねぷたと遭遇する機会はあるものの、ドッカリと腰を落ち着かせ、次から次へとやってくる扇に描かれたねぷたに拍手喝采、という機会がなくなったのだ。

...いや、前述のとおり、敢えてそういう機会を避けているといってもいいだろう。
ただ、理由は他にもある。

父が居なくなってから、ねぷたを観る気はますます失せてしまったし、優雅に進むねぷた運行の列に、缶ビール片手に喜色満面の笑みを浮かべる父の幻影を求めてしまいそうな気がしてならないのだ(もっとも、晩年はそういうこともあまりなかったようだが)。

弘前ねぷたは、18世紀初頭以降、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆灯籠などから変化して、華麗に発展してきたというのが定説となっている。

しかし、バカがつくほどねぷた好きだった父のことだ。
ねぷた囃子の音色に誘われるがまま、お盆が待ちきれなくなってどこかの町内会に紛れて缶ビール片手に一杯引っかけているかも知れない。いや、一杯と言わず、ベロンベロンになっているかも知れない。

ねぷたは、津軽地方の夜空を焦がす短い夏の風物詩。
ねぷたが終わると、一気に秋めいてくる。

そして、もうすぐ父の三回忌がやってくる。