2013年11月26日

「彼女」のこと

彼女は、派手な色の衣装が好きだった。 どこで売っているのかもわからないような、赤や黄色そして緑といった派手な色の衣装を、季節に合わせて衣替えをするのが大好きだった。でも、なぜか彼女はいつも同じ色の衣装を身に纏っていた。 ...僕は、そんな彼女のことが好きだった。 秋も深まったある日のこと。彼女がぽつりと呟いた。 「もういい加減、この衣装にも飽きてきたわね。というかこの色、私には似合わないわよね...。」 その頃の彼女は、くすんだ赤色の衣装を身に纏うようになっていた。お世辞にも年相応とは言えないような、どこかどんよりとした色の衣装だった。 「...そ、そんなことないよ。似合っているよ。」 僕は慌てふためきつつも、苦し紛れに言った。 「ふふ...。自分でもわかってるから、いいのよ。気を遣わなくても。」 冷たい秋風の吹く中、彼女はそっと僕に微笑んだ。 翌週は台風がやってきたり、かと思えば初雪が降ったりと、散々な天気だった。彼女に会う時間も作れぬまま、イライラが募るばかりだった。 ようやく時間を作って彼女に会いに行くと、なぜか彼女は全裸で僕を迎えた。 一糸まとわぬその身体に目を向けると、年齢よりもずっと老けこんでいて、全身に皺が寄っていた。何となくたるんでいるような、そして色白というよりはむしろ、どす黒いような感じだった。 目のやり場に困った僕は、ただただ彼女から目を背けるしかなかった。 「やめろ!頼むから何か身に纏ってくれ!見ているこっちが恥ずかしいじゃないか。」 「あら、別にいいじゃない。私に似合う衣装なんて、もうないんだから。身体だってどす黒くてしわしわで、誰も見向きなんてしてくれない。だったら、裸になろうが何だろうが、あなたにも誰にも関係ないじゃない!」 吐き捨てるように言い放つ彼女。 「いや、でも...。」 困惑する僕に対し、彼女は次の言葉を制するようにピシャリと言い放った。 「うるさいわね!...でも、ありがとうね。今に見てて!私、貴方かビックリするぐらい美しくなってみせるから。ダイエットもするし、ひょっとしたら整形だってするかも知れない。...とにかく絶対に、貴方の、いや、みんなの注目を浴びるような姿に生まれ変わるわ!だから...だから、しばらく会うのはやめましょう...。」 その日から、彼女と会うことをやめた。 ...その年の冬はとても寒く、雪が多かった。雪が降るたびに、全裸の彼女のことを思い出した。 彼女のことは結局、一度たりとも忘れることができなかった。でも、いつかまた再会できるという、確信めいたものが僕の中でずっと燻っていた。 …そんな彼女と再会したのは、4月末のことだった。 「あら、お久しぶりね。」 …その姿に僕は、思わず息を飲んだ。 彼女は、醜い全裸を晒していた晩秋の姿とは、まったく異なる姿に生まれ変わっていた。 淡いピンク色の衣装を纏い、僕だけではなく、そばを通る人たち皆が、驚嘆の声を上げていた。 「何と美しい...。」「綺麗ね...。」 彼女の名は、「さくら」。 --- 来春も弘前公園に行くと、冬期間の剪定を経て、美しい花を誇らしげに身に纏う「彼女」たちと出会うことができます。 春が来るのが待ち遠しい。

2013年11月20日

国際標準化機構、「恥ずかしさ」の国際規格策定に本格着手

【11月20日20時00分配信】 (一部地域では記事が重複します。) 国際標準化機構(ISO)は、スイスのジュネーブにある本部で定例の委員会を開催し、「恥ずかしさ」の国際的な標準となる国際規格の策定に向けた検討を始めることを決定した。 ISOではこれまでも、フィルムの感度や環境マネジメントなど、さまざまな国際標準を定めてきた。 一方で、人間の感性や感触に踏み込んだ国際標準は、痛みの標準単位となる「ハナゲ(hanage)」、その場が凍り付くような発言の後の静けさの標準単位「カエレ(kaere)」、快楽の標準単位「アハン(ahan)」などが国際基準として適当か議論されたが、いずれも策定までには至らず、今回も最終的な合意形成までに及ぶかは不透明だ。 「恥ずかしさ」の単位については14年前にも一度、策定に向けた検討が行われている。 当時は、見知らぬ人の前でおイナリさんを露出してしまったときの恥ずかしさを「1ポロイナリ」とする国際規格を検討、補助単位としてブルマー着用時にパンツがはみ出してしまったときの「ハミパン」の策定も検討されたが、委員の間から「単位が大きすぎる」との声が上がったほか、異論を唱えた国連女性の地位委員会から「ハミチチ」が対案として提出され、更なる対抗基準として、当時世間のお父さんの間で密かに人気を博していた「ドキッ!女性たらけの水泳大会」でのお約束シーン「ポロチクビ」を推す声が上がるなど議論は迷走、結局「イナリ」と「チチ」の溝が埋まらぬまま委員会は紛糾、規格の策定が見送られた経緯がある。 ISOの関係者は「インターネットの普及や情報化社会の急激な発展により、社会情勢は日々大きく変化している。時代に合った国際社会からの要請に応えるのが、我々の責務だ」と、再度検討が決まった新たな国際規格の策定に自信を見せる。 また、委員の一人は「近日中に幾つかの基準案が委員会に示されることになるだろう」と、既に具体的な検討に着手するという見通しを示す。今後は「恥ずかしさ」の基準をどこに置くかが焦点となるが、当紙が独自に入手した情報によると、水着のインナーと誤って母親の下着を持参した時、鍵をかけ忘れた和式トイレのドアを開けられた時、公衆の面前でクシャミをした際に一緒に放屁してしまった時、それぞれの「恥ずかしさ」の度合いについて分析を行うことが検討されている模様。しかし、この他にも複数の規格案が候補として取りざたされており、委員会での調整は難航を極めそうだ。 定例記者会見で羽田官房長官は、閉め忘れた自分の社会の窓に気づかぬまま「恥を忘れつつある全世界の人間にとって、羞恥心を今一度見直す良いきっかけとなる」と、前面の恥ずかしい姿を気にすることもなく全面的な支持を表明。委員会の動向を見守る姿勢を強調しながらも、国際規格の早期策定に期待感をにじませた。

2013年11月19日

【青森中央学院大学特別公開講座】『自治体の広聴広報戦略を考える』~SNSが拓く未来の自治~

行政側から住民に対して発信される情報は、ここ最近かなり内容が変わってきている気がする。いや、内容は変わっていないのかも知れないけれど、文字ばかり羅列されたいかにも事務的で機械的な情報発信から、画像やデザインにも凝った、視覚に訴えるような情報発信。 これまでの紙媒体のみによるものから、動画やSNSの活用といったものまで手を広げるようになり、発信媒体も多種多様化している。 そんな中、市のWebサイトをFacebookページへと移行してしまった佐賀県武雄市。図書館の管理運営をレンタル大手の「TSUTAYA」に任せ、中にスターバックスまで設置してしまったという奇抜な「市立図書館」を持ったことでも有名。同じ行政機関の間からは「一目置かれた自治体」として注目を浴び続けている。 そんな武雄市では、何と市役所の組織として「つながる部 フェイスブック・シティ課」なるセクションを設置している。どこまでが真面目で、どこからが不真面目なのかはわからないが、当の本人たちは至極マジメに取り組んでいるらしい。 そのフェイスブック・シティ課を取り仕切る課長の山田恭輔さんが、ご縁あって青森中央学院大学において特別公開講座を行うというので、これまたFacebook上でのひょんなことがきっかけで約20年ぶりに再会することとなった、同じ行政職の新採用研修を受けた同志、平川市役所の齊藤さんに誘われ、青森中央学院大学まで出掛けた。 僕自身、これまで業務としての広聴や広報に一度も携わったことはないけれど、例えばこうやってブログなんかを利用して(大して中身のない)情報発信をするに当たっても参考になるんじゃないか、なんてことを思ったからだ。(←この時点で本来の開催趣旨からずれています。) 以下、Facebookのイベントページより抜粋。
開催日時:11月16日(土) 15:00~18:00 開催場所:青森中央学院大学 712教室 対象  :一般(地方議員、自治体職員等) 100名程度 開催趣旨: 行政と住民とのコミュニケーション手法として注目されているのが、ツイッターやフェイスブックなどのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービズ)です。 佐賀県の武雄市では、市のホームページを全面的にフェイスブックに移行し、市民との双方向のコミュニケーションを行うほか、フェイスブック上に「FB良品」という通信販売サイトを市が自ら立ち上げ、市内の事業者の特産品などの販売を応援しています。そうした武雄市のSNSを活用した全国最先端の実践の中心的な役割を担う「つながる部フェイスブック・シテイ課」の山田恭輔課長に青森にいらしていただき、その取り組みを紹介してもらうとともに、青森県内の自治体でのその応用の可能性を考えていきます。 ≪基調講演≫ 『フェイスブックが未来の自治を拓く ~武雄市つながる部フェイスブック・シテイ課の実践~』 山田 恭輔 武雄市つながる部フェイスブック・シテイ課長 1968年佐賀県江北町生まれ。1991年九州大学卒業。 1992年佐賀県庁入庁。在職中、早稲田大学大学院公共経営研究科 で学び、2006年修了。2008年衆議院議員逢坂誠二 (元ニセコ町長)秘書。2009年武雄市入庁、現在に至る。 ≪パネルディスカッション≫ 『自治体の広聴広報戦略を考える』 パネリスト 宮下 順一郎 むつ市長 五十嵐 雅幸 弘前市財務部長 (前広聴広報課長) 山田 恭輔 武雄市つながる部フェイスブック・シテイ課長 コーディネーター 佐藤 淳 青森中央学院大学経営法学部 専任講師
会場となる712教室の扉を開けると、各地において行政に携わる方々はもちろん、地方議員の方々、そして一般の方まで多種多様な顔ぶれが集まっていた。 2013_11_16_14_59_57 今回の講演を開催する場を設けた青森中央学院大学経営法学部の佐藤淳専任講師から、今日の講師を務める山田さんの簡単な略歴が紹介された後、いよいよ講演が始まった。 以下、残したメモとともに、備忘録として。 ○「つかみ」が、凄い。 冒頭、聴講者の緊張を解き、場を和ませるアイスブレイクは、聴講者の「うさうさ」脳診断。 身体を動かし、頭を動かし、笑いを取る。まさにツカミが完璧。「うさうさ」脳診断は以前テレビで観たことがあったけれど、実際やってみると、これだけで一気に話に引き込まれる。 ちなみに私、「うう脳でした」。 ○「講演内容」も、凄い。 たった1時間なのに、広聴広報だけではなく、「カイゼン」にも繋がりそうな重要なキーワードがたくさん。 ネーミングを変えるだけの情報発信が、インパクトを与える(→注目が集まる) 情報発信の一方通行から、キャッチボールへ 公私一体(公私混同ではない) 失敗を隠さず公表する→失敗したことは責められても、公表したことを責められることはない。 漫然と情報発信することではなく、そのボリュームが大事 (投稿数、投稿の時間帯など、いわば戦略的な情報発信ということか) できない理由を考えるのではなく、どうすればできるかを考える。 ・それはできないという「思い込み」 ・それはしてはいけないという「思い違い」 ・それをしたくないという「思い上がり」 まちづくりを支える3つの「シップ」 ・リーダーシップ ・フォロワーシップ ・メンバーシップ →これらがお互いに補完し合う。 そして、「まじめにふざけて仕事する」 この言葉が、ガツンと胸に響きました。 ○講演の「資料」が、更に凄い。 約1時間でのスライド数が100枚以上! 行政にありがちな、作成した者の満足度しか高めることのできない、文字ばかりが羅列したプレゼン資料ではなく、脳と視覚を刺激するインパクトのある資料。文字のみだったり、画像のみだったり。あの内容では、強烈なインパクトとして残るので、当日コピーして配付する必要がない(これも行政にありがちな意味のないプロジェクターへの投影。紙に印刷するんだったら投影する必要ないのに、とか思ったり。) →これだけでも、何となく話を聞いている、聞かされているのではなく、文字通り聴講しようという姿勢に変わる。 ...といった感じで、1時間の講演プラス30分間の質疑応答なのに、凄く濃厚なお話を伺うことができた。文字通りあっという間の内容。 DSC_0700 講演慣れしている、という言い方は失礼かも知れないが、山田さんのソフトで滑らかな語り口を聞いていて、いつも歯切れが悪く噛みまくりの僕は、是非とも山田さんにあやかりたいと思ったのであった。 諸般の事情で後半のパネルディスカッションの前に退席したが、パネルディスカッションも盛り上がりを見せたとか。 「まじめにふざけて仕事する」。 これって多分、オンタイムもオフタイムも同じことを求められているのかな、と思ったり。その切り替えが上手くできる人間って、絶対懐が深い人物だと思うんです。 ...でも、これがまたできそうで、なかなかできないんですよね。僕ももう少しまともな発信ができるよう、頑張ります。...あ、違うか。

2013年11月15日

市街地の中の「限界集落」

隣に住む一人暮らしの男性が、亡くなった。80歳と聞いて驚いた。とても80歳には見えないぐらいピンとしていて、若々しさがあるオジさんだった。 今年の夏頃にガンが見つかり、抗がん剤投与を始めたと聞いていた。「酒もタバコもとっくの昔にやめたのに。」と嘆いていたという。外に出ては庭いじりや色んなことをしていたオジさん。昔はいかにも頑固親父といった感じで、口を利くのも憚られるぐらい、他人を寄せ付けないオーラを発していた。まるで社交性がなく、見かけてもほとんど挨拶すら交わすこともなかったそのオジさんが僕に声を掛けてくるようになったのは、僕の父が亡くなってしばらくしてからのことだった。 冬になると、自宅前の広い駐車場の敷地(車4台を駐車することができるため、お隣の蕎麦屋に貸していた)を一人で雪かきしていたオジさん。 「いやあ、今日も随分積もったなあ!」 寝坊した僕が外に出て雪かきを始めると、必ず声を掛けてくれたオジさん。 時には、うちの敷地の一部まで雪かきしてくれていたこともあり、平日の早朝に除雪車が去った後、家の前に残された雪をどける際に、せめてものお礼とばかりに、オジさんの敷地の前に置かれた雪をちょっとだけ寄せていた。 今年の春、まだ雪が残っていた頃のこと。 「ちょっと、入ってお茶でも飲んでイガネガ。さあさあ...」 道路端の駐車スペースの雪を片付けていた僕に、オジさんが突然声を掛けてきた。 これまで、幾度となく母が「隣のオジさんに声掛けられて、お茶を何杯も飲んできた...。」と苦笑いしていたことがあったが、まさか僕が声を掛けられるとは思わなかった。 独り暮らしの寂しさということもあったのだろう、招かれるがままにオジさんの家に上がり込み、湯飲みから溢れんばかりに注がれたお茶と大胆にカットされた羊羹、そして自宅裏で採れたブドウで作ったというジュースをごちそうになった。もっとも、ジュースは既にかなり熟成が進んでいて、ワインになりかけていたんだけど...。 ご自身の話、遠方に住む息子さんの話、そしてお孫さんの話...オジさんの話は尽きなかった。多分、僕が「そろそろ...」と言わなければ、オジさんはずっと語り続けていただろう。それだけ人恋しく、誰かと会話をしたかっただけなのかも知れないが、なぜ僕を招き入れたのかは、結局聞くことができなかった。 季節は過ぎ、秋頃から、夜になってもオジさんの家の明かりが消えたままの日が多くなった。 母がオジさんから直接聞いたところでは「数日間検査入院していた」「抗がん剤の治療をしていた」と、体調が思わしくなかったようだ。 あれほど庭いじりが好きだったオジさんの姿をあまり見かけなくなり、たまにこちらから「こんにちは」と声を掛けても、後ろを向いたまま「ああ、どうも...。」と、こちらを避けるようになったオジさん。 先週金曜日(8日)のあたりから、またオジさんの家の明かりが消えた。 そしてその明かりは、二度とつくことはなかった。 ...遠方に住む息子さんとともに、無言の帰宅をするまでは。 オジさんは、自宅でひっそりと息を引き取っていた。 いわゆる、孤独死だった。 「抗がん剤の治療に来るはずの患者さんが姿を見せない」という一報が病院から関係機関に寄せられ、オジさんの家には救急や警察の車両などが駆けつけたそうだ。 僕がオジさんの自宅に明かりが灯っていないと気づいた金曜日から5日後、水曜日昼前の出来事だった。 うちでは「また電気ついてないね。入院したのかな。」という話になったが、何となくイヤな予感がしていた。 あの几帳面なオジさんの家の風除室に、無造作に長靴が置かれていたことが、妙に気になったのだ。ついでに言えば、何となく誰かがいるような、気配のようなものを感じていたのだ。 なので、水曜日の昼過ぎに、母から訃報を聞いたとき僕は、思わず「やっぱり!」と口走ってしまった。そしてあの時、次の行動を起こせなかった自分を責めた。オジさんが、自宅で亡くなっていたなんて...。 鈍器で頭を殴られた後に鳩尾に打撃を食らったような、そんな激しい心の痛み。 気になったあの時、呼び鈴を押していたら、家の中へ声を掛けていたら、ひょっとしたらオジさんの異変にいち早く気づけたかも知れないのに。 そうしたらオジさんは助かったかも知れないのに...。 ...しかしこれまでも、こちらからの好意をやんわりと拒絶し、そして社交的な付き合いを拒み続けてきたオジさんにとって、僕らがオジさんの聖域(自宅)にずけずけと乗り込むことは、オジさんのプライドが絶対に許さなかったことだろう。今更「たられば」の話をしても、キリがないのだ。 実は先週金曜日の頃から、僕はひどく落ち着かなかった。心も体調も万全ではなく、文字通り心身ともにスッキリしない日が続いた。しかし、オジさんが自宅で見つかり、無言の帰宅をした後は、不思議とまた落ち着きを取り戻しつつある。 今思えば、あれはオジさんからのサインだったのかも知れない。 オジさんは今日、息子さん一家の手によって、ひっそりと荼毘に付されたという。 最後までオジさんらしさを貫き通した旅立ちだと思った。 合掌 DSC_0667 ...また、町内から一人いなくなった。 ふと、町内を見渡してみる。 お年寄りだけではない。若い人たちもどんどんいなくなっている。 向こう三軒両隣と言われていたのは過去の話、近所同士のコミュニケーションも薄くなり、すっかり町内が高齢化しかけていることに気がつく。少なくともうちの両隣の家は、まさに今、もぬけの殻になろうとしている(実際、うちから信号までの間にある2軒の家は、今、誰も住んでいない)。 ここ10年の間に、我が家を含む近所のほぼ毎戸で誰かが亡くなった。しかし、誰かが引っ越してきた、帰ってきた、という話を聞いたことがない。 幼かった頃に一緒に遊んだ近所の子どもたちは皆いなくなり、そして今後も、恐らくこの町内に戻ってくることはないだろう。つまり、僕が馬齢を重ねていくにつれ、この町内からは確実に人が減っていくのだ。 かつて溜まり場だった駄菓子屋、小売店、文具店、遊び場にあった遊具も、今は昔。 ...店は消え、遊ぶところもなくなった。 高齢者ばかりが生活する町。 一時期、地方、とりわけ中山間部に存在する「限界集落」がクローズアップされたことがあったが、それと同じような状況が、今まさに市街地でもひっそりと始まっているのだ。「限界集落」のみならず、急加速する「限界市街地」の拡がり。 高齢者同士が手を取り合い、見回り隊を結成し、お互いの生存を確認し合うという時代。 やがて町内には、主(あるじ)を失い廃墟となった家が増え、荒廃した土地が拡がり、目も向けたくないような光景が広がるかも知れない。恐らく、久しぶりに自分の生まれ故郷(町内)を見た人たちは皆、きっとビックリするはずだ。 ...既に始まっている地方でのドーナッツ化現象が、ごくごく身近な範囲で起こり始めていることに気づいたら、何か背筋がゾッとするような思いがした。

2013年11月13日

冬将軍、トラブルを謝罪 「降雪機の老朽化が原因」

【11月13日12時00分配信】 11月11日から続いた強い冬型の気圧配置の影響で、季節外れの寒波に襲われた北日本。青森市では12日午後9時現在で積雪が38センチに達し、この季節としては32年ぶりとなる大雪に見舞われた。 11月11日の天気図 13日午後からは寒気が抜け、冬型は次第に緩む見込みとなっているが、市街地では慢性的な渋滞の発生や交通機関が乱れるなど、市民生活に大きな影響を与えている。予期せぬ雪かきに追われた住民の間からは「いくら何でも早すぎる」といった不満の声や「これでは今年の冬を乗り切る自信がない」といった悲鳴の声が上がるなど、冬将軍への批判が相次いだ。 これを受けて急遽ロシアから冬将軍が来日、同日午前11時から羽田空港において、強い冬型の気圧配置に関する緊急記者会見を開いた。 会見場に姿を現した将軍は冒頭、今回の強い冬型の気圧配置により各地の市民生活に大きな支障を与えたことを陳謝した。また、今回の季節外れの寒波が降雪機の不具合によってもたらされたものであるが、降雪機の老朽化がそもそもの原因であることを明らかにした。 一方で、降雪機の運転から修理までを将軍一人で行うなど、降雪機のずさんな管理の実態も明らかになった。 将軍によると、11月初旬に今季の降雪機の設定を行った際、前年の降雪量を入力するプログラムに不具合が発生し、今月の降雪量の水準が、今年1月の降雪量を基準とする設定から切り替わらなくなっていたという。しかし将軍は、1月と11月の誤りに気づかず試運転を開始し、冬型の気圧配置が強まったことに気づいたのは11日の夕方になってからだったという。 現在はプログラムの不具合を応急処置したため、徐々に冬型の気圧配置は弱まっているが、除雪機は既に32年にわたって世界各地に降雪をもたらしており、耐用年数を大幅に経過していることから、「いつ故障してもおかしくない」状態だったという。 会見で将軍は、みぞれのような大粒の涙を流しながら「32年前に購入した降雪機も既に耐用年数を大幅に経過しているが、なかなか新たな降雪機を購入できないのが実情」と釈明。「今回の突然の寒波で、北日本の皆様に多大なるご心配とご迷惑をおかけしたことを改めてお詫びしたい」と陳謝した。 また、「32年前の強い冬型はどのように発生したのか」という記者からの質問に対しては「当時はまだ機械の操作に不慣れだったため、冬型のプログラムの設定を誤った」と、人為的ミスがあったことを正式に認めた。 しかしその一方で「地球温暖化によって猛暑にばかり注目が集まるようになり、冬将軍としての意地を見せつけたかった」などと強気の発言も。自らの辞任については「毎年、冬らしい冬を送り続けるのが私の使命。今後各国の関係機関とも相談しながら、降雪機の更新も念頭に、適切な冬の管理と運営に努めたい」と早期辞任を否定するとともに、今年も例年どおりの冬がやってくることを暗に示した格好となった。 記者からは、今冬の雪の見通しや今後の去就などに関する質問が相次いだが、将軍は突如荒れ始め、「寒い!その質問、寒すぎる!」などと暴言を繰り返したため、急遽会見は打ち切りとなった。 その後も将軍は大荒れ、突然本紙記者に「お前、三大将軍を知っているか?」と逆質問、記者が戸惑いを隠せずにいると「いいか、俺様と北の将軍様、そして将軍KYワカマツだ!ガッテム!」と意味不明なことを言い放ち、カメラのレンズも凍り付くような氷点下42度以下の冷酷な笑みを浮かべながら、偏西風に乗って会見場を後にした。 この会見について気象庁に問い合わせたところ、「将軍が緊急会見を行うことは一切聞いていなかった。担当者が不在のためコメントできない」と困惑顔だった。 また、国土交通省の関係者は「日本のみならず世界全体に大きな影響を及ぼす重要な地位であり、それだけの重責も担っている。降雪機のトラブルのみを理由にするのはいかがなものか」と将軍の会見に冷ややかな反応。降雪機の更新については「それだけの予算を確保するメドすらも立っていないし、そもそも日本だけに雪を降らせているわけではないのに。どこの将軍も傍若無人な振る舞いは今に始まったことではない」と呆れた様子だった。 -このニュースはフィクションです。

2013年11月10日

映画『ふるさとがえり』のこと。

いきなりだが、僕はあまり映画を観る方ではない。なので、正直言うと映画館に足を運ぶのは、数年に1度といったところ。 ちなみに、ここ最近映画館で観た映画は何ですか?と聞かれるならば、「『THIS IS IT』です。」と即答。それぐらい、映画館には足を向けていない。 なので、大御所と言われている映画監督、例えばK澤監督とかK野監督、M崎監督などが指揮を執った映画全てが名作かといわれれば、僕にはよくわからない(大人映画ファンの皆さん、M西監督の名前を出さずに申し訳ない)。 むしろ、そういったメジャーな映画より、どちらかといえばマイナーというかアングラというか、あまり知られていないけど実は名作!みたいな映画の方が何となく興味を惹かれる、というのが正直なところだ。 そんな僕が、一度どうしても観たいと思っていた映画がある。 タイトルは、『ふるさとがえり』。(映画『ふるさとがえり』公式サイト) 青森県内でこの映画の存在を知る人、実際に観たことがあるという人はどれぐらいいるだろうか。 監督は林弘樹氏。 黒沢清氏や和田誠氏、北野武氏らの元で助監督を務めた経験を持ち、企業や自治体、最近は図書館や医療業界のブランディング戦略のプロデュースに関わり、要望に応じた講演会活動や映画ワークショップ等も行っている映画監督である。(出典:Wikipedia) 昨年10月に弘前市で行われた「東北オフサイトミーティング」において、他県からやってきた行政職員の方々がこぞってこの映画のことを話題にしていた。ほとんどの方がこの映画のことを賞賛し、そして「一度は観た方がいい」と口を揃えていた。 その後、青森県在住の行政職員の間でもこの映画を観てみたい、上映会を開いてみたいという機運が徐々に高まっていたのだが、なかなかそのきっかけを掴むことができぬまま約1年が経過。 ところがきっかけというのはどこから突然舞い降りてくるかわからないもので、お隣の秋田県藤里町で町制施行50周年を記念し、『ふるさとがえり』の上映会が行われることを知り、平川市役所のSさん、弘前市役所のEさんと僕の3名で、この映画を観るために藤里町を訪れた。 たかが映画を観るためだけにわざわざ隣県の藤里町へ?と思うなかれ。 この日は前述の林監督も藤里町にやってくるということで、直接監督から映画にまつわるお話を伺うことができる、絶好の機会だったのだ。 12時30分過ぎに藤里町に到着した我々を待ち受けていたのは、振る舞い鍋だった。舌鼓を打とうとしたそこへやって来たのは、何と林監督ご本人! ご挨拶もそこそこに、寒空の下に置かれたテントで一緒にテーブルを囲みながら、林監督から直接、色んなお話を伺うことができた。 そしてその中で、「ふるさとがえり」の上映会(試写会を除く)が行われていないのが、実は青森県と岡山県のみであることを聞かされた。 ...あ、そうそう。ここで秋田県山本郡藤里町の簡単な紹介を。 秋田県の北端、世界自然遺産白神山地の南側に位置し、能代市、大館市、北秋田市、そして青森県中津軽郡西目屋村などと隣接している。いわゆる「平成の大合併」が行われた際、秋田県内では数少ない、敢えてどの市町村とも合併しない道を選択した町の一つ。人口は4,000人弱と、お世辞にも大きいとは言えない町である。 実は、僕の父は西目屋村の出身、母は北秋田市(旧:北秋田郡合川町)の出身ということで、言ってみればこの藤里町は、僕の両親の「ふるさと」の中間地点に位置するのだ。 そんな土地で「ふるさとがえり」を鑑賞するという機会を頂くという、何とも不思議なご縁を一人で勝手に噛みしめながら、上映会の会場となる、藤里町総合開発センターの建物へと足を進めていった。 DSC_0677 2階に設けられた、1日限りの映画館「シネマ★フジサト」。 映画館の開場は13時30分、上映時間は14時からなのに、13時過ぎから人が集まり始めていた。「映画館」にはつき物ということで、入り口前では50円のポップコーンが手売りされていた。 「映画館」の後方には椅子が並べられ、何と前列にはゴザが敷かれている。 DSC_0678 入場者の大半は地元のお年寄り。少なくとも40代の人は、Sさんと僕ににスタッフを加えても数える程度しかいないようだ。あとは小中学生。彼らがどんな思いでこの映画を観るのかもまた、気になるところである。あっという間にお年寄りで椅子が埋まり、遅れてやって来た小中学生は、ゴザに行儀よく座り始めた。 DSC_0681 いよいよ14時、上映開始。 ...映画の内容は、ここでは触れないでおこう。でも、ちょっとだけ(笑)。 ...ジャブのように僕の涙腺を揺さぶるシーンの連続。とりわけ後半は、目から流れ出ようとする汗をとどめるのに、必死だった。多分、それだけ僕の心を揺さぶる、素晴らしい作品に僕は出会ってしまったようだ。 16時過ぎ、終映。 予想はしていたが、エンドロールが流れ始めた途端、一斉に観客が席を立つ。 ...おい!それはないだろう!?と思わず口に出しそうになった。 映画はエンドロールが終わるまでが作品なんだ。別に映画を積極的に鑑賞しているわけじゃないけど、最後まで見届けるのが最低限のマナーじゃないの?...と思ったが、所詮1日限りの映画館で、観客は小中学生とお年寄りが圧倒的。まあ、やむを得ないんだろうな...。 既に観客は7割以上がいなくなっていた感があるが、16時30分からは林監督自らが登場し、観客とのトークセッションが始まった。 2011年から全国各地で上映会が始まり、藤里町での上映が914回目であること、作品の完成まで6年を要したこと、最初の上映は日本消防協会で2011年3月12日を予定していたこと(その前日に、東日本大震災が発生)、映画を撮影したカメラマンが秋田県の方で、最近他界されたこと、映画のサブタイトルが持つ意味...などなど。 観客からもいろんな感想や質問が飛びだし、監督が一瞬たじろぐような質問があったりして...。 そんなこんなで17時30分にトークセッションも終わり、この日の上映会が終了した。 スタッフの方々に挨拶を済ませ、僕の運転で一路青森県へ。 帰りの車中では、『ふるさとがえり』談義で大いに盛り上がった。 ...が、その内容もネタバレにつながるので、申し訳ないけどここでは割愛(笑)。 実はトークセッションの中で、こんな感想を漏らした方がおられた。 「大変素晴らしい作品で感動しました。早いうちに是非とももう一度観たいと思いました。例えば...弘前などで上映会をやられるのであれば、是非行きたいと思いました。」 それを聞いた我々3名は、思わずその方に拍手を送っていた。 そして多分3名とも、同じ思いを抱いていたはずだ。 是非この作品を多くの方々に観て頂きたい。その機会を青森県で、津軽で、そして我々の手で作りたい! ...ちょっとだけ目を腫らしながらハンドルを握る僕をはじめ、みんなの口から、映画の感想が次から次へと溢れ出すように出てくる。 「いい作品だった。面白かった。」 そんな薄っぺらい感想ではない。 もっと具体的で、もっと熱く、そして感動的な、思い起こしただけで落涙しそうな、例えて言うならば、そんな感じの感想がどんどん溢れてくるのだ。 ...以前、サムライとヨッパライが集い、一つのプロジェクトが水面下で動く気配があったのだが、どうやらその動きを進める大きなきっかけを掴んだような気がする。 百聞は一見にしかず。 できるだけ早くこの作品を皆さんとともに鑑賞しながら、感動の涙を流す機会を設けることができるよう、サムライとヨッパライとその仲間たち、何となくギアがニュートラルからローに入れ替わったような気がします。 DSC_0682

2013年11月 7日

来年1月19日は、「ヒロロスクエア」に集結!

私事ですが、単なる興味本位がきっかけで、今年7月から、青森県総合社会教育センターが主催する「パワフルAOMORI!創造塾」というネットワークに参加しています。 青森県総合社会教育センターが掲げる目的は「新たな活動者の発掘と育成、仲間づくりの促進やネットワーク(つながり)の形成・強化、活動の活性化を目的とし、対象地域を絞り2年間をかけての理論学習や活動実践等の研修を通して、地域づくりに取り組む活動者を育成します。」というものですが、個人的には、リアルな人付き合いに興味があったといいましょうか、一体どんな人が集まるんだろうかという方への興味があったといいましょうか、どちらかといえば一歩引いた、第三者的な立場から参画させていただいています。 ...のはずだったのですが。 一歩引いていたのは、ホントの最初だけでした。 「創発からのまち育て」という基調講演に始まり、弘前市内での「まち歩き」の実践、お目にかかれるだけでもワクワクしそうな講師陣による研修...。 そして、津軽地方の各地で、色んな分野において活躍している塾生の面々...。 目から鱗が落ちる講義内容、そして造詣が深い講師や塾生の方々と接していくうちに、不肖42歳の私、恥ずかしながらこれは本腰を入れて自己研鑽しないと、とスイッチが入りました。 ということで、なるべく行政色を前面に出さないようにしつつ、青森県職員と弘前公園RCの一員という二枚看板を武器に、メンバーの一人として色んな研修に参加すること3か月。 時間のことは何も考えず研修を受けていたのですが、実はこの研修結果をカタチにするまでの時間が非常に限られていることに気づいたのが、9月下旬。 研修を終えたその夜、2度目となる塾生同士の飲み会の場で色んなことが語られ、そこからは文字通りトントン拍子で、そしてあれよあれよの間に話が進んでいきました。 なぜならば。 来年1月19日、弘前市大町にある「ヒロロスクエア」の3階が、既に会場として押さえられていたから。 とはいえ、朧気ながら描く塾生のイメージは、それぞれバラバラ。こりゃこのベクトルを一つの方向に向けるのは、相当大変だな...誰がその音頭を取るんだろう。と、まさに他人事のように遠巻きに見ていたのですが...。 DSC_0633 数回に渡って行われた勉強会や会議を経て、徐々に塾生同士のベクトルが同じ方向を向き始めていることに気づきました。 これは、きっと凄いことになる...。 塾生の個々の力、エネルギーは、僕が想像していたそれを遙かに凌駕するもの。それだけ本当に素晴らしいメンバーが集まっていました。そのエネルギーが一つにまとまり、同じ方向を向いた時のことを考えると...。 もう、その中の一人に加えてもらっているだけで、身震いする思いでした。 そして現在、「津軽クエスト?1月19日だけの大冒険? inヒロロスクエア」というタイトルでイベントを開催する方向で計画が進んでいます。 DSC_0664 もう少し情報提供するならば。
1月19日だけの大冒険? 来たる2014年1月19日。 ヒロロスクエアに津軽市町村が集結する! パーティーを組み仲間と協力して津軽地域を楽しみながら学べるクイズとゲームをクリア 必要なアイテムを集めゴールの岩木山を目指せ! 集え!100人の勇者よ! たか丸くんからのお宝をゲットしよう!
現時点では小学生を対象としたイベントとなる予定ですが、初めての開催ということもあって、どんな結末が待ち受けているのかは、実のところわかりません。 ただ、幾つか言えることは、恐らく誰もが1回限りのイベントとして終わらせるにはもったいない!...と思えるようなイベントになるであろうこと(もっとも、我々塾生も一回で終わらせるつもりはありません)。 そして、子どもだけでなく大人も楽しめるような要素がふんだんに含まれていることから、いかようにでもアレンジが可能だということ。 つまり、実はこのイベント、とんでもない可能性を秘めているんじゃないか、という自画自賛(笑)。 そして、第三者的な立場で傍観しているはずだった私、どう巡り巡ってのことなのかはわかりませんが、何と今回のイベントの実行委員長を仰せつかることとなりました。 最初、実行委員長のご指名を受けたときは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして驚いたのですが、きっとそういうお鉢が回ってくることになっていたんだと割り切り、快諾することとしました。 まあ...とはいえ(ご存じの方はご存じのとおり)実に頼りない、名ばかりの実行委員長ですので、多少の粗相があっても目をつぶってください。 青森県の魅力を最大限に拡げるため、目指すはヒロロスクエアから青森県武道館へ!(爆) まずはFacebookページへの「いいね!」をよろしくお願いします! 津軽クエスト?1月19日だけの大冒険? inヒロロスクエア