2016年2月29日

東京マラソンに垣間見たマラソン代表選考の考察

みんな生身の人間だし、精密機械じゃないんだから、日々体調が変化するだろうに。天気一つで状況も変われば、その土地との相性だってあるだろうし...。 ...いや、何のことかといいますと、例のリオ五輪の代表選考に係る男女マラソンを巡る日本陸連のゴタゴタ。日本陸連だけじゃないな、なかなか伸びない選手層の頭打ちも問題なのかなあ。 昨日開催された「東京マラソン2016」は、国内外から注目を集める中で行われましたが、日本陸連の思い描いていた青写真はきっと、これまでも「実績」のある選手が、誰もが驚くような好タイムで駆け抜け、リオ五輪に内定...という光景だったのでは。ましてや東京マラソンはこれまでも高速レースとして結果が出ている大会、実力伯仲の日本人選手が奮起することだろうという、相当な期待を寄せていたことでしょう。 ところが蓋を開けてみると、日本人選手は並み居る外国人選手に大きく後れを取っているにもかかわらず、30キロあたりまでずーっと互いを牽制し続けるというレース展開、外国人のトップ集団に食らいついていた学生選手も(予想通り)足のマメが潰れたらしく後半みるみる失速、結局終わってみたら、名前すら挙がっていなかった一般参加の伏兵選手が2時間10分台の記録で日本人1位となる、恐らく陸連が一番危惧していたパターンの結果となってしまった、といってもいいでしょう。 しかもこの選手も「気がついたらトップだった。これから2時間8分台7分台の練習をしないと。」とコメント、偶然が生んだ結果であることと、そもそもが力不足であることを露呈した感は否めませんでした。実際、こんなに平凡な記録になるとは思っていなかった陸連側も歯切れが悪かったようで。 日本陸連の期待を一身に背負った人や事前に高い注目を浴びていた人たちが、レースを引っ張るどころか牽制し過ぎたあまりペースを上げることができず、結局のところ箱根駅伝を走る現役大学生陣、とりわけ原監督率いる青山学院大勢にかき回されてしまった、といったところでしょうか。 恐らく、日本陸連の腹の中には「この選手に代表になって欲しい。」という考えが根強くあるんでしょうね。 逆に、「この選手だけには絶対代表になって欲しくない。」という選手もいるのかも知れませんね。 これまでも世界レベルの大会に向けたマラソン選手の選考基準は何度も疑問が呈されているにもかかわらず、一向にその考えを変えない(いや、少しは変えている?)からこういう事態になるんじゃないかな。 現に、女子代表の選考に関しては、最初の選考レースとなったさいたま国際マラソンで日本人トップだった吉田香織選手の「よ」の字も聞こえてこない状況で(まあ、確かにあのタイムでは仕方ないけれど)、もしも次の最終選考レースとなる名古屋ウィメンズが、今回の東京マラソン、もといさいたま国際マラソンのような平凡なタイムでのレースとなったらどうしよう、という事態を、本気で危惧しているんでしょうか陸連は。...まあ、そうなると大阪国際女子を制した福士加代子選手だけが当確、かな。 ちなみに福士選手が、選考記録をクリアしているにもかかわらず陸連からのリオ五輪内定が出ないということを理由に名古屋にも強行出場することを表明していますが、吉田選手も名古屋に出場する予定です。 つまりですよ、名古屋ウィメンズには、本来内定をもらってもいいはずの福士選手や、内定には手が届かないけれど条件一つはクリアしている吉田選手をはじめ、実力者の皆さんがエントリーしているというわけですよ。 ...だったら、選考レースは名古屋ウィメンズ一つでいいじゃん。 男子はもっと酷い状況で、福岡国際を制したこちらも一般参加の佐々木選手が2時間8分台を出して日本人トップとはいうものの、記録だけ見ると、はて、これはどうなんだろう、といった感じ。 今回の東京マラソンで日本人トップだった高宮選手がすんなりと選ばれるとは考えにくく、選考を巡っては混沌というか、殺伐としてきた感も否めず...。 市民マラソンが既に一つの文化として根付いている中、強さを強烈に印象づけるのは招待選手のうち外国人選手ばかり。 現に今回もそうでしたが、実業団選手とはいえ一般参加の選手が日本人トップになるという事態を、日本陸連はどう見ているのでしょうか。恐らく今後は、力をつけた市民ランナーが台頭し、実業団選手を喰ってしまう、という事態だって充分あり得るわけで。(どっかの公務員ランナーが典型的な例) 日本新を記録した選手には1億円払います、なんていう安易な「エサ」ではなく、その1億円を注いで選手強化に本腰を入れないと、世界を舞台にしたマラソン競技では入賞どころか10位以内も難しいんじゃないかな。 かつては絶対的な強さを持つ選手が男子にも女子にもいましたが、今はどうでしょう?男子も女子も、「この人なら期待を寄せられる!」という選手がいないというのが現実なんじゃないのかなあ。 何か、毎回こんなレース展開を見せられるのも辛いし、こんなことが続くようでは、市民マラソンに出るのは好きだけど競技としてのマラソンは嫌い、という人も増えそうな気がしなくもないわけで。 2016daihyo_02(リオ五輪代表選考基準) いつもいつも日本陸連の選考基準の曖昧さが指摘されますが、そもそも複数の大会で順位だけではなくタイムも比較するということ自体に無理があるのでは?と思ってしまうわけです。気象条件やコースの難易度によってもタイムは全然異なるんだし。 だったら、思い切って選考レースを一本に絞るとか、逆に選考レースを決めることなく、年間を通じた陸連公認コースでの大会出場記録をポイント換算するとか(フィギュアスケートのグランプリシリーズみたいな感じで)、あるいは前走、前々走の記録を参考にするなどしてみればいいと思うんですが、どうでしょう。 私もマラソンランナーの端くれですが、一発勝負で雌雄決したところで、それが本番の結果に結びつくとは到底考えられないんですけれどね。まあ、そうでもしないと選考できない、という事情もあるのでしょうけれど。(日本陸連の選考基準では「初回の選考レースの結果を評価対象とする」とのことですが。) いずれにしても男女ともに選考レースは残すところあと1つのみ。 結果がどうなるにせよ、日本陸連はこれからの選考基準どころか、実績を積んだエリート選手が初めてマラソンに挑戦した学生選手の後塵を拝したことで、選手強化に向けた取組みにも課題を突きつけられた、といったところでしょうか。しばらくは、マラソン代表選考を巡る揉め事が続きそうな予感...。 この混沌に紛れて、オレも2020東京五輪を目指してみようかな...。 さいたま国際M 30K ウソだよ。

2016年2月27日

「ヤマシン」のこと

僕の人生の中で、最初の「闇」の時期は、社会人になって3年目に突然やって来た。 その辛い時期から抜け出そうとしていたときに、友が旅立った。 僕は、その友の旅立ちを見送ることすらできなかった。 そして今日、その友と、約23年ぶりとなる再会をようやく果たした。 今晩は、今まで誰にもほとんど話すことなく、自分の中で封印していた、約20年前の頃のお話を赤裸々と。 でも、赤裸々過ぎて毎度のことながらちょっと長いよ。(約1か月かけて推敲したら、原稿用紙22枚分以上、約9,000字に膨れちゃった。) ~~~ これまでも何度も口にしているのだけれど、高校時代を過ごした3年間は僕の人生の礎を築いた、といっても過言ではないぐらい充実した3年間だった。学校環境、級友をはじめ同期の仲間、先輩後輩、恩師の方々、全てに恵まれた。 1456457808679 高校3年秋の三者面談で、地元大学ですら入学するのが難しいと言われるぐらい僕の成績は落ちこんでいた(というかずーっと低空飛行を続けていた)が、逆にそのことが発奮材料となり、一気に巻き返しを図った結果、何とか無事に弘前大学人文学部経済学科に現役で入学することができた。 当時のクラスメイトからは、「何でオレらが落ちてお前が合格するんだ!」と言われた(中には僕が合格したことが悔しくて泣いていた人もいた)ぐらいなので、いかに僕の高校時代の成績が酷いものだったのかは、想像するに難くないだろう。 一度目の人生の運を使ってしまった。 結局、小学校から大学まで、自宅から半径2キロ以内で収まるところに通うこととなった。まあ、そのことが自堕落な生活を送る諸悪の根源になったのかも知れないが、事実、大学進学後も学業はそっちのけで、やれバイトだパチンコだ飲み会だと、まるで放蕩者のような生活を送っていた。 ここで、今日の主人公に登場してもらおう。 高校3年の時に同じクラスだった「ヤマシン」。 黒縁のメガネに色白で、華奢。どちらかと言えば地味な存在で、お世辞にも目立つタイプではなかった。言わば、スポーツマンタイプとは真逆の、「オタク系」のキャラクター。高校3年の時に県の将棋大会で優勝を果たし、一躍スポットライトを浴びたこともあったが、そのことを自慢げにひけらかすことはせず、むしろ謙遜する、そんな「いいヤツ」だった。 高校時代はそんなに親しいワケではなかったのだが、大学に進学してみると、彼も同じ学科に入学していた。180人ほどいた新入生は名字の五十音順で3つのクラスに分類され、ヤマシンと僕は同じ「E3」に属することとなった。なにせ地元の大学、高校同期の連中が数多いる中にあっての数少ない同級生ということで、講義のコマとコマの間の休み時間には、一緒の時間を過ごすことが多くなった。お互い、大学に進学したからといって性格が劇的に変わるはずもなく、彼は相変わらず奥手なタイプというか受動的というか、自ら積極的に何かをするというワケでもなく、むしろ非社交的。飲み会に誘ってもほとんど来ることはなく、ホイホイとどこにでも顔を出すお調子者みたいな僕とは相反するようなタイプの人間だった。マジメといえばマジメだったのかも知れないが、お互いに1年次から教養部の単位を取りこぼすなど、彼も僕も成績優秀というワケではなかった。 ◆◆◆ 2年次の後期になると、3年次からの所属ゼミの選択に向けた履修案内があった。どういうわけか僕は「経営史」を選択することにしていた。確か、教官の人柄に惚れてのことだったような気がする。 そして、各ゼミの履修案内を聞いた直後にヤマシンが、「のんべ、何のゼミ選択するの?」と聞いてきた。 「経営史にするつもり。ヤマシンはどうすんの?」 「うーん...どうしようか悩んでる。」 そんなヤマシンが選択したのも、結局「経営史」だった。大して気にはしていなかったが、もしかして、オレがこのゼミを選択するって言ったからなのかな...なんてことをその時は考えた。 3年次になり、ゼミがスタート。前期はほとんど毎週ゼミにやってきたヤマシンの姿を、後期に入る頃からあまり学内で見かけなくなった。僕自身、積極的に付き合っていた友だちが県外や市外から来た人達メインだったグループ(このグループには、ヤマシンも顔をちょこちょこ出していた)から、県内出身者のグループに変わったりして、徐々にヤマシンとの付き合いも疎遠になっていった。大学にいれば誰かに会う、ということも徐々に減り始める一方、求人票の貼られたブースに行くと誰かがいるという状況に、いよいよ就職活動に向けてみんなが少しずつ動き始めたことを悟るようになった。 僕はといえば、大学を卒業した後で何をしたいとか何をしようとかいった夢も希望もあるわけではなく、相変わらずバイトとパチンコとデートに明け暮れる日々。学業面もパッとせず、順風満帆で有意義な学生生活を送っていたとは言い難かった。 やがて、3年次のゼミ生の中からゼミ長を決めることとなった。その日のゼミには、確か3年次の学生と4年次のゼミ長らが出席していたものの、そこにヤマシンをはじめとする数名の姿がなかった。 「今日来ていないヤツにゼミ長をやらせよう!欠席裁判だ!」と鼻息を荒くするく輩もいたが、この先1年をともに過ごすゼミ生同士、後で軋轢が生じるのもイヤだし、とにかく不毛な議論を早く終わらせたいという思いが先行し、思わず自らゼミ長に立候補してしまった。他のゼミ生にしてみれば誰もこんな面倒臭い役割を担いたいなんて考えないだろう。言わばダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ!」の状態であっさりと僕がゼミ長になることに決まった。 しかし、いよいよ就職に向けた活動が本格化する中にあって、ゼミなんていわば前半戦のみ、実際蓋を開けてみると、各ゼミ生の就職活動の状況報告ばかりが行われるようになった。 更にその直後、担当教官から衝撃の事実が伝えられた。 何と、担当教官は我々が4年次となった年の後半(10月)から渡米することが決まったため、卒論の提出を求めない、というのだ。確かに他にも、卒論不要のゼミがあるらしいという噂を聞いたことがあった(今となってはそれが本当だったのかどうなのか、知る術もない)が、まさかこのゼミが卒論不要となるとは...。衝撃というよりも、正直言ってニヤニヤするしかなかった。と同時に、3年次のゼミ生の受け入れもしないことが明らかとなった。つまり、後輩不在の寂しいゼミになることが決まった。 ゼミが終わったあと、教官に呼ばれた。 「マカナエくん、悪いんだけどさ、後でみんなの電話番号教えるから、今日来ていない人たちに連絡してもらえないかな。」 当時はまだ携帯電話が普及していない世の中、連絡を取るのはもっぱら固定電話が主流。幸い、ゼミ生の中に欠席者といつでも連絡を取れる人がいたため、その方の分についてはお任せすることとし、僕はヤマシンの自宅に電話を入れた。 「はい、もしもし××です。」 ヤマシンのお母さんと思しき人だ。 「私、弘大で同じゼミに所属しているマカナエと申しますが、ヤマシンくんはおられますか。」 「はい、少々お待ち下さい。」 (しんちゃん!しんちゃーん!マカナエさんから電話!) 「...もしもし。」 いつもの低い声が受話器の向こうから聞こえてきた。 「あ、マカナエなんだけど。あのさ...」と用件を伝える。 「あ、それからさ、先生がたまにゼミに顔を出せって。」 「...うん。わかった。...ところで、のんべ就職どうすんの?」 「...いや?まだ何も考えてないけど?」 「...ああ、そう。じゃあ、また。」 その後もヤマシンとゼミで顔を合わせたのは数える程度でしかなかったが、ひとまず大学には時々来ていたらしい。 もっともこの頃は、ヤマシンよりもむしろ、留年が決定した後にほとんど大学で姿を見なくなったマサキがどうしているのかを気にしていたんだけど....。 ◆◆◆ そして、いよいよ就職活動が本格化し、早々に内定を獲得する輩も現れた。一方、首都圏に「出稼ぎ」と称して長期間滞在し、面接のための「旅費」を稼ぐ不届き者もいた。ちょうどバブル崩壊の兆しが見え始めた時期で、厳しい就職戦線が予想された。 僕はといえば相変わらず何の仕事に就くかも考えていなかったし、大学4年となった直後に「東京に行って就職活動してくる」とウソを言って上京、プリンスのコンサートを観て帰った後に親の大目玉を食らったり、とにかく何とかなるさ、と実に呑気に構えていたものだった。 「そんなに就職先が見つからないなら、公務員試験でも受けてみれば?」という父の一言で一念発起、無謀にも4年次になったばかりの4月から突如公務員試験の勉強を始めた。それも、過去問を購入しての、対象を重点的に絞った勉強。こんな付け刃みたいな勉強だけで公務員になんかなれるはずがないと端から決めつけていた。 既に卒業に必要な専門の単位を取得する目途は立っていたが、実は卒業までには教養の単位が2つ足りなかった。恥ずかしいとか何とか言っているわけにも行かず、教養部の一番大きな教室の最前列で2単位を取るだけのために大学に出向いていた。 結局、尻に火が付かなきゃ行動しないという性格は、今も昔も変わらないらしい。 青森県庁と弘前市役所の採用試験が一週ずれていたため、とりあえず双方の採用試験試験に臨むことにした。合格なんかするわけないと思っていたので、ジーンズにサンダル履きというかなりふざけた出で立ちで受験会場に向かった。 試験会場には、ヤマシンも来ていた。 「おう。ヤマシン、どうだった?」 「うーん、どんだべ...。」 目を泳がせながら歯切れの悪い回答に終始するヤマシン。んだよなあ、大学でほとんど見かけなかったお前が公務員になったら、きっとみんなビックリするよな。ま、それはオレも同じなんだけどな、ハハハ...と内心思いながら、何とか一つだけ内定を頂いていた地元の会社へと徐々に思いを募らせ始めていた。(しかし、その会社は約10年後に倒産。) ◆◆◆ 7月下旬。郵便局の配達人が簡易書留を持ってきた。見慣れた字は、僕が書いた自分自身の宛名だった。 ...えっ!...えっ?これって...! 慌てて開封すると、青森県の採用試験一次に合格した旨の通知が封入されていた。あまりの突然のことに動揺を隠せない僕。 程なく、急に雲行きが怪しくなり、雷鳴が轟き、ザーッと雨が降り始めた。 そこへ一本の電話。 「おばあちゃんが...死んじゃった。」 当時付き合っていた彼女からの突然の電話だった。僕は、嬉しいんだか悲しいんだかよくわからないまま、封筒を握りしめて母と泣いた。 二度目の人生の運を使ったような気がした。 数日後、珍しくヤマシンから電話があった。 「あ、のんべ。オレだけど。県の一次、合格だった。」 「おお!やったじゃん!オレも合格したよ!」 合格とは意外な電話ではあったが、多分彼も僕が合格したことを聞いて同じことを思っているに違いない。 「どうする?」 「...いや、どうするって...まだ決めてないんだけど、今のところ県の採用試験一本に絞ろうかなって考えてる。二次試験もあるしさ。」 「そっか、んだよね。うん、せばまだ。(※津軽弁で「じゃあ、またね」の意)」 そんな奇妙な内容の電話に、ちょっと首をかしげた。 ...が、確かヤマシンからかかってきた電話は、これが最後だった。 結局、強運に恵まれたのか実力なのかは定かではないが、これまた一次試験を突破した弘前市職員ではなく青森県職員を目指すことを決意した僕。青森市にある面接会場では、意外な顔ぶれとも会うこととなったが、結局ヤマシンには会わなかった。 「ヤマシン、市役所に絞ったかな...。」 あまり気にはしていなかったが、それから数か月後、僕は無事に青森県職員の合格通知を受け取った。 あとは卒業に向けて教養の単位を取得すれば、それでいい。 相変わらず4年次の身分ながら1年次の多い教養学部に足を運んでいたが、単位の取得は絶対大丈夫だと確信していた。そして、予定通り無事に単位の取得が終わり、無事大学の卒業が決まった。 しかし、4年次の後期ともなると既にみんなが方々に散らばり始め、一堂に会するという機会もほとんどなくなった。誰がどこへの就職が決まったという情報は風の便りに聞く程度であったが、正直言ってあまり興味はなかった。むしろ、これから公務員として身を律して行かなければならないという気持ちが徐々に強くなっていった。 ◆◆◆ 迎えた大学の卒業式(学位授与式)。数ヶ月ぶりに顔を合わせる輩ばかり。 「どこに就職決まった?」 「そうか!県外に行っちゃうのか!」 僕が青森県職員に採用されたという話は、さほどの驚きをもって迎えられたわけではなかった。 「...ところで、ヤマシン見ないね。」 「あれ?ホントだ。」 久しぶりにヤマシンの名前を耳にした。そういえば、彼がその後どうしたか、全然聞いていなかった。確か単位は全て取得していたはずなので、卒業できるはずだったけれど...。 大して気にもせずに卒業式に臨み、平成5年3月、何とか無事に大学を卒業した。 平成5年4月、青森県職員として採用され、青森市内で行われた辞令交付式に臨んだあと、僕は衝撃の事実を耳にすることとなる。 それは、新採用で同じ部に配属となった高校の同級生Tからの話で知ることとなった。 「ヤマシン、去年秋から入院しているらしいよ。」 「...え!?何で?初耳なんだけど。」 「何かさ、県の採用試験で二次の面接の前に健康診断やったでしょ。あれで引っかかったらしいんだよ。」 「どっか悪いの?」 「うん。...どうも白血病らしいんだ。」 白血病という言葉を耳にしたとき、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。 白血病...不治の病ではないのかも知れないが、決して楽観視できる病でもない。しかも、同じ試験を受けたヤマシンが入院していたことを知らなかったなんて...。 「ヤマシンが、白血病...。」 正直、自分がピンピンしてこの場にいることに対する罪悪感すら感じた。 しかしそれから新人1年目、2年目と過ごしていくうちに、また僕は「ヤマシン」のことを忘れかけていた。 ◆◆◆ やがて新採用から3年目を迎えたとき、僕自身が心身の不調に見舞われることとなった。 差し障りがあるので詳細を語ることはできないが、3年目となった4月以降、職場は変わらずとも周囲の環境が180度変わった。そしてこのことで、職場にいること自体が、自分の中でただただ苦痛だった。正直言って、辛かった。何が楽しくてこんな仕事をしているんだろう、と思うようになった。これまでも何度か仕事を投げ出したい、辞めたいという思いがよぎったが、この時が一番その思いを強くした。やがて、心身のバランスを大きく崩した。が、ここで崩れては「負け」を認めるようなものだと、そのことを隠して頑なに出勤し続けた。 そんな中にあって、僕は前述の彼女との結婚を決意した。交際して7年が経とうとしていた。4月にはきっと異動になる。それも大方の予想では、県南地方の八戸市への異動となる。その前に、何とか婚約だけはしておきたかった。 3月、みんなの予想通り八戸市にある勤務公所への異動内示が発令、4月に着任。その月の28日に、弘前市内で結婚披露宴を行った。が、肝心の妻は僕にはついてくることはなく、結婚早々別居で単身赴任という奇妙な新婚生活がスタート。週末に自宅のある弘前市と八戸市を往復するという生活を送っていた。僕の精神状態はどん底で蠢いているような状況ではあったが、そのことを新たな職場でもひた隠しして、医者から処方された薬を投薬する生活を続けた。今思えば、よくもまああんな状態で仕事を続けられたものだ。 やがて別居生活も4か月が過ぎ、8月に突入。弘前のねぷたまつり、青森のねぶたまつりが始まり、県内がまつりムードに包まれ始めた頃、僕はまたしても衝撃を受けることとなった。 何気なく職場で見た新聞の朝刊に、思わず目を疑った。 黒縁の広告の中に、ヤマシンの名前を発見したのだ。 ヤマシンが...死んだ? 住所、名前、享年。どれを拾っても、ヤマシンに間違いなかった。 ヤマシンが...死んだ...。 最初にヤマシンが入院していることを教えてくれたTに慌てて電話をする。Tは、ヤマシンの自宅のすぐそばに住んでいて、小学校から高校まで一緒だった。 「そうなんだよ。ヤマシン、亡くなったんだよ...。」 暗い声で話すT。 しかし、通夜の日も葬式の日も、僕はどうしても抜け出すことのできない説明会が八戸市で行われることになっていた。 Tは、弘前市で行われるヤマシンのお通夜に参列するとのことだったので、僕の分の香典も代わりに届けてくれるようお願いして、受話器を置いた。 その日は、激しい動揺で何も手に付かなかった。文字通り走馬燈のように、ヤマシンとの思い出がフラッシュバックしていた。 そんなに深い付き合いではなかったが、少なくとも高校3年から大学を卒業するまで彼と一緒に過ごしたことは、事実なのだ。 ヤマシン、お別れに行けなくて本当にゴメン。オレさ、ヤマシンの分も頑張るから...。夕日が沈みかけた北西の空に手を合わせる。それは、八戸市から弘前市に向けた、せめてもの弔いの気持ちだった。 しかし僕は、その後も彼の自宅を訪れることができなかった。ひょっとしたら同じ職場に勤務していたかも知れないヤマシンのことを考えると、彼の親御さんや身内の方々にどう接していいのか、何をどうお話ししていいのかわからず、行かなければならないと考えるだけで足が重くなった。ヤマシンやご家族に対する、自分が県職員としての立場であることの後ろめたさ。そんなオレが果たして彼に、そして彼のご家族に合わせる顔なんかあるのだろうか。時が経過すればするほど、その葛藤はどんどん膨らんでいった。 ...今思えば、単なる思い過ごしだったのかも知れないが。 ~~~ ...そして気がつくと、約20年の月日が経過。 ヤマシンのことをふと思い出すのは、2月が彼の誕生月だということを思い出したとき、そして、8月の弘前ねぷたが始まったとき。高校時代の同級生で和尚になったシンスケと時々顔を合わせる。シンスケも彼のことは忘れていない(ヤマシンの命日の前後に墓参りに行くことも少なくないらしい)そうだが、ヤマシンの名前が出てくるのは、高校同期のメンバーが集まったときでも頻度は少なくなっていった。 そんな中、先日、偶然にもヤマシンの身内の方と接する機会があった。あまりに突然過ぎる出来事で、僕は初対面だったその方に対して、一方的に「すいません、本当にすいません...」と半泣きになりながら謝った。それは、ヤマシンのお通夜やお葬式に行けなかったことの非礼、そして、その後一度たりとも仏前に手を合わせるためにご自宅を伺うことすらしなかったことに対する、懺悔にも似た謝罪だった。 「いいんです。気にしないで下さい。覚えてもらえているだけでもありがたいですから...。」 その言葉に、また涙が溢れた。僕の心の中にずっと引っかかり続けていた棘が、ちょっと動いたような心境だった。 そしてこの日、身内の方と一つ約束をしたことがあった。 近日中に必ずヤマシンのご自宅を訪問し、仏前に手を合わせること。 それは、僕自身の気持ちを整理するという意味でも、絶対に避けて通れないことなのだと確信した。 しかし、いざ本人を前にして何を話そうか、悩んだ。もしかしたら、この間みたいに涙が止まらなくなって話にならないかも知れない。楽しみな反面、あのボソボソっとした低い声で、「のんべ、今頃何しに来たのよ。」とヤマシンから怒られそうな気もして、正直言って怖かった。 1456457723003 しかも、今週月曜日には、ヤマシンと小学校時代から一緒で、僕自身もヤマシンとほぼ同時期に一緒の時間を過ごした高校時代の同級生・ミキオの訃報に接したばかり。(奇しくも卒業アルバムに写った二人が、亡くなってしまった...。) 何もこのタイミングで...とも思ったが、同級生が旅立つということに対する動揺と悲しみは、今も昔もそのズシリと響く重みに全く変わりなかった。 しかし、家も近所同士、小学校からずっと一緒で高校時代も仲の良かった二人が病に倒れ、そして旅立ってしまったことを思うと、僕の心中は全く穏やかではなかったが、今回のこの約束だけは絶対に反古にするわけにはいかず、ヤマシンの自宅へと出向いた。 ご両親と初めてお目にかかった。ご挨拶もそこそこに、仏壇へと向かう。 久しぶりに対峙した写真のヤマシンは、僕が知らない丸坊主姿だった。発病してから撮影したとのことだった。何となくその表情が、「来るのが遅いんだよ!」と怒っているようにも見えた。やっぱりね... 「ホント久しぶりだね。」...彼に話しかけるように、ゆっくりと手を合わせる。静かな時間が流れていった。 ...その後、ご両親とお話をさせていただいた。発病から壮絶な闘病生活、そして迎えた最期。幾度となく僕は、言葉を失った。一方、たぶん同級生の誰もが知らないような話も...まあ、どんな話をしたかについては、あくまで当事者の話なのでここでは触れないでおこう。 こちらからも、これまで綴った内容をかいつまんでお話しさせていただいた。涙は、出なかった。そしてお話ししながら、長い間ずっと心の中で燻っていたモヤモヤ、釣り針の返しが刺さったような胸の奥の引っかかりが、ようやく外れたような気がした。 帰り際、もうヤマシンの遺影に一度手を合わせた。 写真の向こうのヤマシンが、なんとなくほくそ笑んだように見えた。それはまるで、23年前まで当たり前のように見ていた、あの頃と同じような表情だった。 若い頃、彼が抱いていた野望や願いは、今となっては知る術もないのだが、ひょっとしたら同じ仕事に就いていたかも知れないということは、今の仕事をしながら時々心に思い起こしている。 さすがに僕は二人分の仕事をこなすほど能力に長けた人間ではないけれど、せめて与えられた仕事をきちんとこなすことが、少しでも彼に対する弔いになればいいな、なんて都合のいいことを考えてみたりすることもあるのも事実だ。 人生って色んなタイミングで歯車がガッチリ噛み合ったり、全く噛み合わなくて空回りしたり色々あるんだけど、それもこれも宿命だ運命だ、という一言で片付けるには、25年という生涯だとあまりに短すぎだよね。 それにしてもシンちゃん、本当に久しぶりだったな。この世に別れを告げてもう20年経つのか...。そっちはどう?また一人そっちに行っちゃったなあ。 まあ、遅かれ早かれみんなそっちに行くことになるからさ、少しの間みんなでうちらを迎え入れる準備でもして待っててちょうだい。 今まで足を運べなくてホントごめん。遅くなって、申し訳なかった。また会おうな! 合掌

2016年2月26日

ブログ喪失騒動・その後

今年1月、このブログを設置しているサーバーの更新に端を発したブログの喪失騒動。 一応何とか前のデータベースを呼び出して事なきを得たものの、このブログを構築するWordpressのプラグインがうまく動作しない、という状況が相変わらず続いておりました。(Wordpressそのものではなく、サーバー側の問題であると考えておりますが。) そんな中、SNSのアカウントを少し整理しようと約3年ぶりにTwitterにログインしたところ、それまでの間にFacebookに投稿していた画像が、アプリの連携によって全て勝手に投稿されていたという事実を知り、お友達も含めてみんなでTwitter上で顔出し全開やっちゃってたのねぇ...。本当に申し訳ありません(大汗) ひとまず原因の基となるアプリを次から次へと停止し(というか知らぬ間に複雑な構造でアプリが連携されていた)、一旦様子見を決め込むことにしました。 その時にふと思ったのです。 ...そうか、WordpressからFacebookの連携は、IFTTTを介して行う際に、Wordpress直接からではなく、WordpressのFeedやRSSを読ませればうまく行くかも知れない。 ...ハイ、この時点でちんぷんかんぷんな皆さんゴメンナサイ、今日はそういう話です。 案ずるより産むが易し。まずはやってみようと、IFTTTに登録されているレシピの中から、元凶となっていたWordpressとFacebookタイムラインとの連携レシピを削除。 実際このレシピでは、トリガーのエラーが発生しているとかいうメッセージがずーっと表示されて、このレシピをいくらオンにしてもエラーになって反映されず、やがて自動的にオフになるという状態が続いていたのであります。 これにより、ブログ投稿のお知らせは、WordpressのプラグインであるJetpackに登録しているブログのFacebookページとGoogle+のみで自動的に投稿されるのを確認しましたが、自分のFacebookのタイムライン上では、ブログ投稿したお知らせを手動で行うハメになってしまいました。 ...まあ、今回もそうですがそんな大した中身じゃないので別にいいか、と思ってみたものの、さすがに閑古鳥が鳴くような状況はイヤだなあ、と。 そんな中でふと思い立ったのが、前述のFeedを読み込ませるというレシピ。 早速IFTTTでレシピを作成し、反応を見たところ、うまく行きました。これで手動でブログ投稿したお知らせをすることもなくなります。 ...あ。アカウントを削除しようと思っていたTwitter、まあ、フォロワーは350人ほどしかいないアカウントではありますが、せっかくなら使わない手はないな。 そう思い、IFTTTのレシピでFeedからTwitterへの連携機能を作成。 むふふ。これでブログ投稿した後で手を煩わせることはないし、最小限のお知らせはできるな、と。 そういえば以前、FacebookでもFeedを読み込ませるということをやっていたんでした。 WordpressからFacebookへの直接の連携ができず、ずーっと悶々としていましたが、これで手間が一つ省けます。 _20160226_00 はー!何で今まで気づかなかったんだろう。ホントさっぱりしました。 あとは、過去の記事を別のアーカイブにどうやって移動させるかだな。 もうこのブログを運営して10年以上経っていますが、こんな感じで試行錯誤は未だに続いているのであります。

2016年2月24日

無題

今日、高校時代からの友達に、最後のお別れをしてきた。いくら水泳で鳴らそうとも、病に打ち勝つことはできなかったらしい。泣くまいと思っていたが、最後に涙は勝手に流れてきた。 裏方のように子どもたちの教育環境の充実に尽力した友。病と闘い、志半ばでこの社会とお別れしなければならなかった彼の無念を思うと、やりきれない気持ちに包まれた。 彼が思い描いていた理想の社会像はわからない。だがきっと、今の社会は彼が描いていた理想の社会とは言えなかったはずだ。 未曽有の震災によりトーンダウンしたが、「社会が悪い」「世間が悪い」という都合のよい解釈で様々な悪行がまかり通っていた昨今。 …社会が悪い、の裏返しは自分が正しい、ってか?世間が悪い、の裏返しは自分は間違えていない、ってか? そんなことを口にするあんたらは、社会を変えるために何をした?世の中を変える手段は、何だった? 結局は自分さえ良ければいいんだよな。自分の住んでいるところがお花畑なら、その周りが焼け野原でも別に関係ない、ってことだよな。違うか? 年寄りは年寄りなりに、次の世代に何を残していくか振り返る。 若い奴は若い奴なりに、次の社会をどう築いていくか考える。 中間世代は中間世代なりに、次の一手をどう打つべきか思案する。 利己主義は捨てよう。隣人と、一言でもいいから話そう。 まずは、あんたが生きていることを示すために。 点と点を繋げば線になる。線と線を繋げば面になる。面の角を削れば、円になる。その円はきっと、縁になる。 日本は、昔みたいに家庭が幸せに満ち溢れた社会を取り戻す力があるはず。 みんながちょっとだけ勇気を絞れば、きっと素敵な社会ができる。僕はそう信じたい。

2016年2月23日

第2回弘前城リレーマラソン 冬の陣

昨年に引き続き2度目の開催となった冬のリレーマラソン。 青森県内や近隣地域で2月にマラソン大会が行われることはほとんどない一方で、全国に目を向けるとシーズン真っ盛り。毎週のようにあちらこちらで大会が開催されておりまして、弘前公園ランニングクラブ(弘前公園RC)からも、全国各地で開催されている大会にたくさんの人が出場しています。 昨年開催された冬のリレーマラソンでは、弘前公園RCからも5人1チームで2組がエントリーしたのですが、今回の開催に当たり参加者を募ったところ、前述の事情もあってか、はたまた他の事情があってか、それとも単に冬は走りたくないだけか、参加希望者がゼロという非常事態に。 おい!どうしたんだみんな!弘前公園RCなんだぞ!うちらが参加しないでどうするんだ!と憤慨しましたが、まあ、確かに寒い中をわざわざ走るのはイヤだわな。 ということで、今回は出場辞退しまーす...。 ...のはずだったのですが、いつも練習や大会で仲良くさせていただいているチーム「honeygood」からお誘いがあり、弘前公園RCの看板を背負って(←大げさな)出場することになりました。まあ、実際蓋を開けてみると、他のチームにも弘前公園RCのメンバーが出場していたんですけどね。 honeygoodは元々弘前城リレーマラソンで入賞することを目指して集まった仲間で構成され、メンバーはみんな健脚揃い。フルマラソンではサブ3ランナーを二人輩出しているほか、サブ3.5で走ることのできる実力を備えたランナーがたくさんいます。そのチームから2チームがエントリー、僕は「速い方」のチームであるAに加えていただくことになりました。 今回は44チームが参加して行われたのですが、昨年は雪灯籠まつりと同時期に開催されたこともあり、公園内にある護国神社前を起点にしたコースだったのが、今回は陸上トラックをメインにした1周約1キロの折り返しコースに変更されていました。昨年と変わったところを整理すると、ざっと以下のとおり。 ・スタート地点及びコースが大きく変更されていた。 ・スタート方法が一斉スタートからウェーブ方式に改められていた。 ・昨年参加者限定で配給された汁物(蟹汁)が今年はなかった。 ・コース上に観客がほとんどいなかった。 今年は2月とは思えぬ少雪で、既に路面が現れているような状況の中、大会当日の天気は何と、季節外れの雨。 10時半前に会場に到着すると、各チームともにテントやターフを張り出し、準備万端。 しかし何せ雨が降っているため、コースの状態はぬかるみか水たまりか足場の悪い雪という最悪のコンディション。 honeygoodの面々も明らかに走りたくないといった顔をした人ばかりで、さて、これはひょっとしてここに来ての出走中止か?と思ったら、Mさんの発案で「走りたい人、走りたくない人」の多数決で決めることに。 全員が目をつぶり、「走りたい人、挙手!」の声で何人かが手を挙げたようです。何人かは...言えません。 ...あ、オレは「助っ人」として呼ばれている以上責務は果たさなきゃならないと思い、「走りたい」で手を挙げましたよ。ホントに。 「OK。じゃ、走ります!」といった途端、周りの人の表情が明らかに曇ったのがわかりましたので、ここはMさんの配慮勝ちといったところでしょうか。...まあ、当のMさんが走りたかったのかどうかはわかりませんが(笑)。 皆さん渋々準備を済ませ、11時にいよいよスタート。今回は一斉スタートではなく、新たに10チーム毎のウェーブ方式が採用されました。スポネット弘前の鹿内葵理事長の号砲で、20秒おきに各チームがスタート。ちなみにこの時点でもまだ雨がちらついていました。 が、西の空が大分高くなってきましたので、じきに雨が上がるのではないか...という淡い期待を抱いていたのですが...。 いざ走り始めると渋々参加することにした面々、みんなスイッチが入ったらしく、これがまた速い速い! 少なくともコース上にアスファルトなどが見えている場所はほとんどなく、襷受け渡しゾーンは雨と高い気温で融けかけた雪が積もり(ちなみに私、足を取られて転倒しました)、トラックは雨と雪融け水で泥だらけ、そこを抜けると再び中途半端に融けた雪で足を取られ、更には融けた雪と雨で水たまりができ...といった状態が延々と続くわけですよ。 これを4分切って走ってくるんだから、みんなどんだけ足腰強いんだ...と感嘆するばかりなのでありました。 さて、「助っ人」の私はといえば、巨人が大金を注ぎ込んで補強した外人選手のような状況でして、むしろチーム全体の足を引っ張っていた感じでしたかねえ...。 都合4度走らせていただきましたが、速くても1キロ4分20秒までしかペースを上げることができませんでした。 しかも、時間が経つにつれて、足首より深い水たまりができた護国神社の鳥居前を通過するたびに、足の中が水浸しに。しかも後半は雨が雪に変わり(それもアホみたいな吹雪)、テントやターフが飛ばされそうになるほどの強風も吹き始めます。こうなると、どんどん身体も冷えていくことになりまして、ハイ。 最初は上下ウィンドブレーカーを脱いで走っていましたが、寒さに耐えられず4周目は着用のままラン。 上から下まで蛍光カラーだったのは、雪の中や堀に落ちても見分けがつくように、という自己防衛意識からでした。 もちろんそんなのウソですけど。 12744003_948379498586988_4910913167925408950_n 昨年はあり得ないぐらいの晴天に見舞われ、今年はあり得ないぐらいの雨天に見舞われるという状況の下、もはや3時間耐久レースの様相。みんなの願いはただ一つ。 「早く14時になれ。」 そして迎えた14時。周回のたびにメンバーが受け取ったチョコの数は、何と42個。つまり、約1キロのコースを42周したということなので、ほぼフルマラソンと同じ距離を繋いだことになるわけですね。...と考えると、悪条件ではありましたが、3時間でフルマラソンを走りきることの凄さを何となく垣間見たような気がしました。 もっとも私の平均ペースはキロ4分30分でしたので、これだとフルマラソンで3時間は切れないんですが、はい。まあでも、天候、路面ともに昨年より悪条件の下でもほぼ昨年同様のペースで走ることができたというのは、ひょっとしたら走力がちょっと上がったのかな?なーんて思ったりもしているのですが。 天候には今ひとつ恵まれませんでしたが、他のチームにも大勢知り合いの方が参加していましたので、とても楽しいイベントでした。 結局私が参加したチームは、全体の4位という好成績を収めることができました。 まあ、いざ走ればそれはそれで楽しいし、うちのチームは何だかんだ言いながら、みんな本気で走っていましたからね。 12741863_1166855336681645_663172259240870732_n ただ、一つ不安要素を上げるとするならば、今回気象状況に恵まれなかったという災難を踏まえると、来年は参加を見合わせるチームがまた出てきそうな気がしました。 実際のところ、私が参加したチームが開始前に行った多数決、実は「参加したくない」人数が圧倒的多数だったらしいですから(笑)。 最後に、関係者の方も恐らくこのブログをご覧になるはずなので、改善要望を幾つか。 ・スタート時間を10時又は10時30分からの3時間に繰り上げできないか。 (全て終わりが15時頃は、この時期だと意外と遅く感じられます。) ・飲食物の販売ブースがあれば良いなあ。特に暖かいものが凄く欲しいと思った。(カップラーメンの販売がありましたが、走る身体にカップラーメンはなかなか酷なものがありまして、はい。) ・コースについて、今回はやむを得ないけれど、来年も同様の気象状況であれば、再考の余地あり。 (雪像を壊して雪がたくさん残っているところを走るのは、正直かなり辛かった。) ・ウェーブ方式のスタートはナイス。今年もお手伝いしてくれた弘工の生徒たちは、もっとナイス。 ・天候次第では勇気ある撤退という選択肢も考慮した方がいいです。 皆さま、本当にお疲れさまでした。

2016年2月14日

20160210 東京駅にて

先日、今年度最後となる東京への出張がありました。4県合同での復興フォーラムの事務局ということで、展示ブースの設営管理と会場での撮影などを行う役割を与えられ、10日は自分のカメラ持参で会場へと出向きました。 フォーラムそのものは(いろいろ細かな点を除けば)大過なく無事に終了、ブースの撤収など全て終わったのが午後6時。外に出ると既に暗くなりはじめていましたが、打ち上げなどは別途行うことが決まっており、その場で解散となったため、有楽町駅で職場の人たちと別れました。 そして、向かう先は東京駅。...いや、正確には東京駅丸の内南口にある、KITTE。 先月、自らも出展した写真展で拝見した、とある方の作品に感銘を受け、出張したときに東京駅の写真を撮影してみようと考えていました。だから、今回のフォーラムで撮影係をお願いされたときは内心ガッツポーズしたし、フォーラム終了後の打ち上げをやらないということが決まった時にも、思わずニヤリとしてしまいました。...すいません、ちゃんと仕事はしましたので。 山手線で一駅、その気になれば歩いて行ける距離ではありましたが、前日夜遅くまで高校時代の友達と飲み笑い、そして目が覚めたら予想通りの二日酔い。にもかかわらず皇居2周というバカなことをやらかし(というかこれも予定通りだったんだけどね)、約13キロをラン。午後12時半頃からずーっと立ちっぱなしだったということに気付いたのは、山手線に乗車した時でした。たった一駅ながら空いている席を見つけて着席。わずか3分足らずの至福の時間。 東京駅に到着し、KITTEを目指します。春節の時期ということもあり、中国人らしき人たちの往来が激しいです。ふと見上げると、2月の寒空が広がり、空気が澄んでいるのがわかります。 KITTEの6階にある展望庭園に向かうと、人影はまばら。そして、ここにも外国人の影。いやはや、恐るべし東京。 最良のポジションを確保し、カメラを構えます。ちなみにここ、三脚(一脚も含む)の使用はできないため、手すりを利用してカメラとレンズを固定。時折吹く北からの風に翻弄されつつも、撮影完了。この間15分ぐらいだったでしょうか、一心不乱にカメラとにらめっこしながら撮影したのが、こちら。 IMG_1362 設定はF8.0、ISO800、シャッタースピードは0.8と、8並び。基本的にここの数値はこの後ほとんどいじりませんでした(絞りを7.2にしてみたのもありますが、そちらはボツ)。 ホワイトバランスは太陽光だったり白熱電球だったり色々変えて撮影してみました。 でも、これだけでは足りない!一番やってみたかったことは、帰ってきてからこの画像をHDRツールで加工すること。 で、明るさを+2.0のものと-2.0のものを用意し、HDRツールであれやこれやと加工してみたのが、こちら。 1362_3 1362_2 1362 ノイズがちょっと出てしまっているようですが、面白いです。またカメラの楽しみを一つ知ってしまいました。 ...で、昼の東京駅も撮影してみたいということで、なんと翌日の昼頃にまた同じ場所を訪れ撮影し、HDRツールで加工したのがこちら。 1413 建物や橋梁、鉄塔といった構築物を加工するのがよさそうな感じですが、過度にやりすぎると非現実的社会の画像になってしまうので要注意ですね。

2016年2月 5日

いつかきっと...

秋口から冬にかけて、毎週のようにマラソンの大会が各地で開催され、ランナー仲間が各地で健脚を披露している。 国内最大のハイライトは、リオ五輪の選考レースも兼ねた今月28日の「東京マラソン」かと思われるが、正直言ってあの人数を見ると、どうしても走ってみたい、何が何でも走ってみたい、かと問われれば、さて、どうだろう...という感じ。 もっとも、11月のレースを終えたあと、4月まで大会の予定がない中、この時期は自分のモチベーションをどう維持していくかがとっても大事。実際、練習量の低下に反比例して体重が増加。次のシーズンに向けた準備はもうしっかりしておかないと、また怪我に泣かされることになるので...。 そんな僕が今一番出場してみたいと思う大会は、「別府大分毎日マラソン」である。このマラソン大会に出ることが、自分がマラソンというのを始めてみたときの一つの大きな目標になっているような気がしている。(3月には「びわ湖毎日マラソン」というのもあるけれど、あちらは2時間30分以内でフルマラソンを走れることが出場資格。そんなの無理に決まってるべ。) 「別大」は残念ながらリオ五輪の選考レースにはなっていないものの、世界陸上の選考レースともなるこの大会、ゴールまでの制限時間が3時間30分以内に設定されているほか、各ポイントの関門もかなり厳しい設定となっている。 当然のことながら、出場資格もハードルの高いものに設定されている。
20歳以上(1996年2月7日以前の出生者)で、フルマラソン3時間30分以内の記録(2014年1月1日以降。グロスタイム。日本陸連公認またはAIMS公認コースでの記録)を持つ男女の競技者
僕の場合、一昨年から日本陸連に登録していた(というか、別大の出場資格を得たかったので登録した)ことにより、必要最低限の出場資格を得ており、実は昨年春から虎視眈々と出場することを狙っていた。(事実、昨年の4月に異動したばかりの職場でも「2月の別大に出ます。」と宣言していたことを今だから明かそう。) ...が、しかし。 今年の開催は2月7日。タイミングがあまりに悪すぎた。 その日のうちに帰れるのならまだしも、翌8日に青森に帰ってくるとなると、10日に都内で開催されるフォーラムの準備のため9日から上京しなければならず、超ハードスケジュールとなることは火を見るより明らか。 九州まで遠征するにはあまりにもタイミングが悪すぎるため、早い時点で出場を諦めた。 今年もまた、スピードに磨きをかけたランニングクラブのステイヤーの面々が勝負の地・大分へ向かう。正直言うと、僕も出場してみたい。出場して、自分の実力を試してみたい。足切りを食らってもいい、逆にそれが励みになるはずだから。 そういう思いがどんどんどんどんどんどん湧いてくる...。 いつか、自分の手でその機会を掴み取ろう。そしてそれまでに、しっかりと脚を作ろう。きっと願えば叶うはず。 そのために何をしなければならないか。うん、そうなのだ。そういうことなのだ。 来年以降に向け、最終的な目標は既に決まっている。 ええ、こうなったら一皮剥けますよ。ビックリするぐらい剥けてやりますよ。 _20160205_153558