2016年6月 7日

さようなら、ハナ

3分の1の欠落。一度は覚悟を決めていたので、そんなに辛くないハズだと思っていましたが、やはり辛いです。 DSC_0426 我が家で一番の古株だった愛犬ハナ(♀・16歳)が、6日午後9時45分、静かに息を引き取りました。 先日の脱走騒動からちょうど1週間。まあ、最後の最後にやりたいことがやれたんだから、それはそれで良かったのかな...。 彼女の生き様は、脱走に始まり、脱走に終わった、そんな感じです。別に逃げる必要なんてないのに。 DSC_2072 6日の夜、何か胸騒ぎがして20時30分頃に帰宅すると、ハナは既に骨が浮き上がった身体を自分の脚で支えることができず、這いつくばったような格好で、か細くなった声を絞り出し、吠えていました。それは、今まで僕が見たことのないハナの姿でした。既に目の焦点が合っていないような感じで、水も食事も受け付けてくれませんでした。 その日の朝家を出る時には、こんな姿になっているとは想像もしていませんでしたので、あまりの急激な衰えぶりに、少し狼狽してしまいました。人間の年齢に換算すると、犬の場合3年目以降は4歳ずつ年を取るといわれていますが、衰える時も同じスピードで衰えていった、そんな感じです。 その姿を目の当たりにし、僕はいよいよ「その時」が近いことを悟ったものの、それからわずか1時間後、ハナはあまりにもあっけなく旅立ってしまいました。妻が帰宅して程なくのことだったので、それだけがせめてもの救い。多分、帰ってくるのを待っていたんだろうな。 徐々に吠える声が聞こえなくなるとともに呼吸が大きく深くなり、最後はピンと伸ばした四肢から、まるで残された魂の糸が1本ずつ抜き取られるように3度深呼吸、そのまま全身の力が抜け、息を引き取りました...。七転八倒して苦しむようなこともなく、本当に穏やかな最期でした。残された他の2匹も、まるでその時を見守るかのように、静寂な時間が流れていきました。 彼女に変化が現れたのは、今年に入ってからだったかな。普段寝床にしている2階の階段から転げ落ちたのが、一つの転機でした。足腰が徐々に弱くなっている兆候はありましたが、その日以来、階段の上り下りは危ないということで彼女を2階に上げるのをやめ、1階の居間で僕と一緒に寝るようになりました。 土曜日ともなると、ランニングクラブの朝練から帰ってくる僕を待っていて、クールダウンを兼ねて「町内パトロール」と称した散歩に連れ立っていました。時には2キロ以上を平気で歩くので、僕は勝手に「散歩マスター」と呼んでいました。 DSC_9791 しかし、その頻度も徐々に減り、5月中旬にやっと散歩をしたのが最後となりました。 たかが犬。されど、犬。室内犬として飼っていたこともあり、寝食を共にしていたようなものなので(食事の内容はもちろん違いますが)、ペットというよりは家族に近い感じ。飴と鞭を使い分けていたわけじゃないけど、叱る時は叱り、褒める時は褒める、ということを心掛けたつもりではありました、が...。 晩年はどうしても徘徊癖や痴呆の気配が見られて、その姿に声を荒げることが多かったかも知れないです。多分それは、その状況からハナを救い出して上げることができない、自分自身に対する憤りだったのかも知れないし。 こういう言い方は良くないのかも知れないけれど、これからやらなければならないであろう、介護の練習というか心構えを身に付けさせてもらったような感じ。 脱走騒動を起こしたのが5月30日。家に帰ってきたのが、6月1日。それからわずか5日で旅立つなんて、あまりにあっけないというか、ちょっと先を急ぎ過ぎですよね。そりゃないぜ、ハナ...。でも、全員で最期を看取ることができて、正直ホッとしているところもあります。最期までハナらしさを貫いたというか、なんというか。脱走した時点である程度の覚悟もできたので、取り乱すこともなく冷静に最期を受け入れることができました。まあ、ハナにとってそれが本意だったのかどうかは、知る由もないのですが。 目がクリッとしていて小型だったので、散歩に行くと、色んな人からよく「可愛い!」って声を掛けてもらいました。しかし、他人から触られることは大人だろうと子どもだろうと絶対ダメ。手を近づけた途端に牙をむき出しにして、警戒心をあらわにし、美人がすっかり台無し。美人なんだけれど、ハッキリ言ってツンデレの性悪女。まさにツンデレラ。臆病なくせに虚勢を張る、気分屋。飼い主に似て、ひねくれ者。 DSC_0038 ...でも、憎めないんですよ。いい犬だったんですよ。毛艶も良くて、変な話ですが年齢を感じさせない犬でした。 DSC_0228 実は僕、小さい頃のトラウマがあって、それまでは犬があまり得意じゃなかったんです。だから最初うちでハナを飼うことになった時に、心の底から賛同できませんでした。あの頃は、猫が一緒に住んでいたからね。でも、不思議なぐらい仲良く共存していたハナと猫たち。その後2匹の猫がいなくなると、うちは犬3匹に占拠されることになりましたが、気づいたら僕の犬に対するトラウマも完全に払拭されていました。 何の因果か、初めて写真展に出品した一枚に、彼女の写真を入れておいてよかったな、と思っています。彼女の美形をみんなに見てもらうことができたしね。 DSC_1523 思い出は尽きないけれど、今はただ、安らかに眠って欲しい。それだけです。大丈夫だ、ハナは独りじゃない。虹の橋の向こうで、みんなが待ってるよ。 僕らもハナのことは一生忘れないし、忘れるわけがないから。 約16年間、うちの家族でいてくれて本当にありがとう。楽しかったよ。美人薄命っていうけど、あれウソだね。ハナは美人だったけど、16年も生きられたんだから。 今はまだ、心の中に穴が空いたような感じですが、徐々に埋めていこうと思います。 ハナのことを気に掛けて下さった皆さん、今まで本当にありがとうございました。心から感謝申し上げます。 DSC_0475 まあでも、家族で最期を看取るという、飼い主としての最低限の役割は果たせたのかな、と思っています。ここ1週間はちゃんと眠れなかったこともあり、僕も今は少しゆっくり休みたい、というのが正直な気持ちです。ただ、うちには3分の2、あと2匹要介護犬がいるんだよね。メソメソ寂しがっている場合じゃないんだよな。うん。

2016年6月 1日

ハナの脱走顛末記

Moldiv_1464612611583[1] ハナ(雑種・16歳・♀)。我が家に貰われてきてから15年は経つだろうか。まだ小さく耳も立っていない頃はとにかくイタズラが大好きで、床に置いてあるものは何でも噛むという悪いクセの持ち主だった。テレビのリモコンにMDプレーヤーのイヤフォン、スリッパ、携帯電話、新聞など、破壊されたものは数知れず。ただし、人間に歯を剥けないことだけが唯一の救いだった。 走り回るのが大好き、散歩も大好き、でも実は臆病者。トイレのしつけや「お手」「おかわり」「待て」といった一通りの動作を覚えたが、実は従順のかけらもない、気分屋。嫌いなものは、雨と雷と、獣医。 以前、狂犬病の予防接種をした時、まるでこの世の終わりとばかりに絶叫し、周囲を呆れさせたことがある。 うちに貰われて来て早々に脱走事件を起こし、翌日、隣にあった蕎麦屋に「迷い犬」の貼り紙が出されていたのをきっかけに、何度脱走したか分からないぐらい脱走事件を起こした。 印象に残っているのは、脱走した小さい頃に道路の真ん中を疾走し、クラクションを鳴らされまくりながらサンダル履きで追いかけたこと、そしてほぼ1週間丸々脱走を図り、雨に打たれるのがイヤになったのかこっそり帰宅、開けていた玄関から家の中に入り、仏壇の前で何事もなかったかのごとくちゃっかり寝ていたこと。 しかし寄る年波には勝てず、次第に老化が始まり、今年に入ってからは、あれほど好きだった散歩にも行かなくなってしまった。 それに呼応するかのように足腰はどんどん弱まり、やがて耳もほとんど聞こえない状態に。お陰で、大嫌いだった雷鳴が耳に入らなくなったのは、不幸中の幸い。視力も衰え、自分の餌入れや水やりの瓶に足を突っ込むこともしばしば。 そしてそれは、トイレにも影響を及ぼすこととなり、粗相の頻度も増えていった。あちらこちらに頭をぶつけながら歩いたり、夜中に徘徊したり(しかも寝ている僕の顔を踏んづけていくこともある)、もはや完全なる介護犬状態。 食もどんどん細くなり、すっかり痩せこけ、薄い皮膚に骨が浮き出るぐらいになってしまった。 まあ、仕方ない。あとは残り少ない余生を過ごして貰おうと...思っていた矢先に、事件は勃発した。 5月30日。夜に来客があるため、定時で仕事を切り上げ、帰路に就いた。先に帰宅する母にその旨を伝え、応接間の整理をお願いした。 帰宅すると、母が青ざめ、狼狽していた。 「ハナが...。ハナが逃げてしまった...。」 「え?...えーっ!?」 母は、ハナが入って来ないように柵を立てて応接間の整理をし、玄関を開けて空気の入れ換えをしながら、車に置いたままの荷物を取りに行き戻ってきたところ、ほんの僅かな柵の隙間から外に出て行ってしまったらしい。 そして、母が気づいた時にはハナの姿はなく、既に時遅しだった。 慌てて家の外に出て周囲を探してみるが、既に暗くなり始めており、ハナの姿は見えない。聞き耳を立ててみても、物音一つ聞こえない。 さて、どこに行ったんだろう...。名前を呼んでも、耳が聞こえないので声が届くはずもなく、最悪の事態(例えば、フラフラと道路に出て自動車に轢かれてしまうといったこと)も頭をよぎった。 ...だが待てよ。あの弱った足腰で、遠出ができるはずがないのだ。 そういえば最近、やたらと狭いところや暗いところを見つけてはそこに行きたがるという一連の行動をふと思い出した。 近所の猫と一緒に、家の軒下にでも潜り込んでしまったのだろうか。 いや、ひょっとして死期を悟って人目のつかないところにでも行ってしまったのだろうか...。 20時頃、僕は何事もなかったかのように来客の対応をしていたが、まさに気もそぞろ、といった状態だった。 来客が帰宅後、母は独り居間で噎び泣いていた。 「私が気をつけていれば、こんなことにはならなかったのに...。ハナに本当に申し訳ない...。」 母は涙と鼻水を流しながら詫びるが、もう起きてしまったことは仕方がないのだ。 「そんなことを言っても仕方がないじゃない...。」 母をなだめるにも、次の言葉が出てこなかった。 来客をこの時間に招いたのは、他ならぬ僕なのだ。だから元を正せば、僕が来客を呼ばなければ、こんな事態にはならなかったのだ。誰も責めることはできない代わりに、母と僕はそれぞれ自分自身を責めていた。 結局その夜は、玄関を少しだけ開けたままにし、ハナがいつでも帰ってこられるようにした。ちょっとした物音で目が覚めた。夜中に何度も目が覚め、玄関を見てみる。しかし、ハナの姿はなかった。 結局朝4時に起床、まさかと思いジョギングがてら周囲を見てみたが、当然ハナの姿を見つけられなかった。電線の上で鳴くカラスの姿に、怯えた。 31日の午後は雨の予報だった。ハナは雨に濡れるのが大嫌いだ。帰ってくるとすれば、このタイミングしかないと思った。予報通り午後から雨が降り出した。しかも、弘前市内はかなり激しい雨脚だったようだ。 夕方、母からの「朗報」を期待したが、結局電話もメールも来なかった。青森市内も19時頃にはそれまで降っていた雨が上がったようだ。 やはり、ハナはもう最期を悟っていなくなってしまったのだろう。もはや万事休す。もう、ハナのことは諦めるしかない。気持ちを早く切り替えよう...。 この日は残業していたのだが、19時50分過ぎにふと、スマートフォンに着信があったことに気がついた。 母ではなく、妻からだった。悪い予感がした。 こちらからかけ直す。いつになく暗い声の妻が電話口に出た。 「やはり、そうだったか...。」 と、こちらから話を切り出す前に、妻が突然切り出した。 「ちょっと!保健所のホームページに、迷い犬でハナが出てる!ハナ、生きてるよ!」 僕が耳にしていたのは、いつになく暗い声ではなく、上ずった声だった。キツネにつままれたような気分だった。 「わ、わかった。すぐ見てみる!」 すぐに電話を切り、動物愛護センターのホームページを見る。「迷子動物」の一番上に、うなだれたハナらしき犬が掲載されていた。 Moldiv_1464694014239 (画像をコラージュしています。削痩の文字が切ない…。) 「ハ、ハナ...。生きていてくれたか!」 思わず涙が零れ、鼻水も垂れそうになるのをグッとこらえる。 程なく帰路に就き、スマートフォンに出るハナらしき姿を何度も確認する。ハナに間違いない。発見(捕獲)された場所は、家から600メートルほど離れた隣の町内。 そういえば以前ハナと散歩していた時に、「この犬、前にうちに迷い込んできたことがあったよね?」と言っていた家族がいたのを思い出した。その家の隣では、老犬2匹が飼われている。ハナは、散歩で何度も通っていたそこを訪れていたらしい。そして今回も、恐らくハナはそこまで歩いて行ったのだろう。そして、すっかり痩せこけたハナを見かねたその家族の誰かが、保健所に通報してくれたのだろうと考えた。 いずれにしても、妻がそのサイトを見なければ、ハナが保護されたことには誰も気がつかず、ハナは家の軒下かその辺で息絶えた、と決めつけていたはずだ。 先入観というのは、実に恐ろしいものだと思った。 帰宅すると、母がまた目を真っ赤に腫らしていた。妻から母にも情報は届いていたらしい。 「良かった...。本当に良かった。明日、必ず迎えに行く。」 実は一つ、身震いするような情報を目にしていた。 qanda ここに記述されているとおり、犬を保護した場合、「狂犬病予防法」の規定に基づき、犬を捕獲(保護)した場所を所轄する市町村又は保健所が、2日間のみ公示すること。そして、公示期間満了後1日以内に飼い主が犬を引き取らない場合、処分できることとされていること。 つまり、保健所で保護された後、最短3日で「処分」されてしまう、ということになる。 今回は偶然、妻がホームページを見てハナが保護されていることに気づいたが、もしもこれに気づいていなければ、我々はまだ生きられたはずの命を縮めてしまった、ということになる。 ふと頭をよぎったのは、7日間に渡って彷徨っていた時のこと。あの時は、ハナが家の周辺にいるのを見ていたのであまり気に留めていなかったが、万が一どこかのタイミングで保健所に保護されていたら、ハナはもうこの世にはいなかったかも知れない。 財布や大事なものを紛失した時にはすぐに警察に届けるが、大事なペットが行方不明になった時にはすぐに保健所に届けるべきだということを、強く強く感じた今回の出来事だった。 さて、ハナは無事に帰還し、何事もなかったかのようにまたウロウロし始めている。 これが今の我が家にとって、当たり前の光景なのだということを感じながら、最後までしっかりと看取ってあげようと思う。 それが、動物を飼う者の責務なのだから。 --- 最後に、今回の騒動に巻き込んでしまった皆さん、監督不行き届が招いたこのような事態に、私たちも深く深く反省しています。ハナは何も悪くありません。本当に申し訳ありませんでした。

2016年5月 8日

憩室炎のこと

僕の身体の中には「憩室」があります。 憩室とは...
腸管の内壁の一部が外側に向かって袋状にとびだしたもの。 内視鏡でみると、くぼみのようになっています。 憩室の数はさまざまで、頻度は年齢とともに増加しますが、大腸検査を行うと10人に1人くらいの頻度で見つかります。 keishitsu
この憩室、我が家では亡父、妹、そして僕とかなり保有率が高いという。 僕は8年ほど前に内視鏡検査を行った際に、憩室持ちであることを知らされました。普段はおとなしくて何もしないけれど、何かあるといたずらするから、そんな感じのお話を医師から聞かされました。ポリープは内側に出てきて切除するけれど、憩室を切除する人は少ないということも伺いました。 その数年後、極度の腹痛に見舞われ病院に駆け込むと、その原因が「憩室炎」であると判明しました。発熱、食欲不振、激しい腹部の痛みを繰り返し、抗生物質の投与などでようやく快方に向かった、そんな感じでした。 おとなしくしているうちはいいのですが、憩室炎に気付かずに重症化すると長期入院とか色々厄介なことになるので、早期発見が大事になります。(これは病気全般に言えることではありますが。) 玉置浩二が憩室炎のため緊急入院 5公演を中止に 今年の4月は雪解けが進むのが早かったこともあり、初旬からランニングの環境はバッチリでした。 毎年この時期は過度の走り込みが祟って怪我をするというパターンでしたが、今年は怪我もなく順調に調整が進み、4月のハーフマラソンで自己ベスト更新と順調にシーズンインしたところで待ち構えていた最初の落とし穴が、腰痛でした。たぶん、いよいよ老化現象が顕著となってきた愛犬のハナを気遣い、かなり窮屈な姿勢で寝ていたのが災いしたのでしょう。2戦目の10キロを回避し、3戦目の「八戸うみねこマラソン」でまた頑張ろう...と思っていたのですが。 違和感を覚えたのは5月2日の辺りから。どうも走っていて腹部に力が入らないというか、すぐ疲れてしまうという症状が出始めました。そんなに走りこんでいるわけじゃないのに、どうしたんだろう。疲れかな?と軽く考えていましたが、そもそも連休中で大して疲れるようなこともしていません。 翌3日。走る距離を短めにしてみましたが、状況はあまり変わりませんでした。そして、何か微熱のようなものがあるのを感じました。まあいい、7日までに整えて8日を迎えよう。 ところが、僕の思惑とは裏腹に、状況は悪化するばかりでした。 4日。妻と出かけた先で突然腹痛に襲われ、歩くのも辛い状況に。しかしその時点で僕は、この症状は憩室炎ではなく、もっと違う症状のような気がしてなりませんでした。例えば、膵臓とか腎臓とか、下手をすれば心臓とか。帰り道、大きめの病院に立ち寄りましたが、あいにく小児科しか受け付けていないといわれ、一気に萎えました。 結局、時々服用している漢方胃腸薬を購入し、帰宅。4日午後から5日にかけて、すっかり弱った病人のように寝ていました。 6日は通常勤務でしたが、症状があまり改善されずないため、翌7日、ようやく病院で診察を受けたところ、「憩室炎の疑い」と言われました。 一度同じ症状で苦しんでいますので特に指示はありませんでしたが、基本的に安静にしていること、刺激のあるものを口にしないこと、この二つを遵守しながら、1週間様子を見ることになりました。 ひとまず7日そして今日8日は日曜日ではありますが、さきほど点滴を投与してきました。明日も点滴。どうやらしばらくは、点滴が主食となりそうです。 あわよくば八戸で行われるハーフマラソンでの完走をもくろんでいたぐらいですから、まだこれでも軽症だったのかも知れません。ひとまず炭酸飲料やアルコールを口にするのをやめ、香辛料の類は極力排除、脂っこい料理ももちろん取らず、一人前のお粥を一人でこしらえるという、昨日からはそんな感じです。それでも、食べられるだけまだいいんですから。重症になると絶食ですから。 しかし、安静ということはもちろんランニングやジョギングも×。よって、体調が落ち着くまでは、当面走ることから距離を置きます。 今まで大会にエントリーして参加できなかった(しなかった)ことは幾度かありましたが、さすがに2戦続けでのDo Not Start、それもそうなった要因が違うというのは、正直かなりショックが大きいです。今朝もバスで八戸に意気揚々と向かうメンバーを笑顔で見送りましたが、内心は複雑でした。悔しさ、虚しさ、腹立たしさ...まあ、最近いろんな伏線があったとはいえ、かなりネガティブな感情が渦巻いていたのは間違いありません。 とはいえ、憩室が体内から消えることはありませんし、むしろ年齢を重ねることでさらに増えるとも言われています。 ですから、暴飲暴食を避ける(食物繊維が多い、というか多すぎるぐらいの山菜はあまり得意ではないので、特に根菜を中心とした野菜を多く摂る)、余計なストレスを溜めない、こんなところでしょうか。まあ、走らないというか、安静にしなきゃならないため、天気がいい休みの日も走れないことがストレスの一つになっている、ということも言えるかも知れませんが...(苦笑)。 特に僕の場合、心身のストレスから暴飲暴食に走ることが多いで...。 この状況を逆手に取ったメンタル強化が、これから憩室炎を予防する一つの対策になり、ランを強くするのかもね。ま、また暴れることがないように、上手に付き合いたいと思います。

2016年4月 8日

勝者と敗者

誰が考えたのかは分かりませんが、数年前には外資系企業で新入社員向けに配られたという、結構有名な教訓をたまたま目にしました。(グリーンとバンカーの例えになっているものもあり。) 勝者と敗者という分類が正しいかどうかは別として、改めて読み返してみると、悲しいかな僕は圧倒的に敗者寄りなのかも知れないなあ、と思ったところです。内容、そのままパクリます。 ふんいき
勝者は、常に問題解決に寄与する。敗者は、常に問題を引き起こす。 勝者は、常に企画計画を持ち語る。敗者は、常に言い訳を考える。 勝者は、常に“引き受けた”と言う。敗者は、常に“私と関係ない”と言う。 勝者は、常に解決法を考える。敗者は、常に問題を指摘する。 勝者は、常に“難しいが可能だ”と言う。敗者は、常に“可能かもしれないが、難しすぎる”と言う。 勝者は間違ったときには「私が間違っていた」と言う。敗者は「私のせいではない」と言う。 勝者は勝因は「運が良かった」と言う。例え運ではなかったとしても。敗者は敗因を「運が悪かった」と言う。でも、運が原因ではない。 勝者は敗者よりも勤勉に働く。しかも時間は敗者より多い。敗者はいつでも忙しい。文句を言うのに忙しい。 勝者は問題を真っ直ぐ通り抜ける。敗者は問題の周りをグルグル回る。 勝者は償いによって謝意を示す。敗者は謝罪をするが同じ間違いを繰り返す。 勝者は戦うべきところと妥協すべきところを心得ている。敗者は妥協すべきでないところで妥協し、戦う価値がない所で戦う。 勝者は「自分はまだまだです」と言う。敗者は自分より劣るものを見下す。 勝者は自分より勝るものに敬意を払い学び取ろうとする。敗者は自分より勝るものを不快に思い、アラ捜しをする。 勝者は職務に誇りを持っている。敗者は「雇われているだけです」と言う。 勝者は「もっと良い方法があるはずだ」と言う。敗者は「何故変える必要があるんだ?今までうまくいっていたじゃないか」と言う。 勝者たれ
勝者になっていった人をこれまでたくさん見てきました。じゃあ、お前はどうなんだ?と自問したときに、まさに「言い訳」を考えようとする自分がいるわけで。この時点で既に敗者ってことだ。 そしてもう一つ。僕の中では仕事のことも私事のことも全部ひっくるめて、胸にグサリと刺さった言葉を紹介したいと思います。
努力が効果をあらわすまでには時間がかかる。多くの人はそれまでに飽き、迷い、挫折する。 -ヘンリー・フォード
ローマは一日にして成らず、ですか。今日はちょっと自分の立ち位置というものをマジメに考えてみました。 ...あ、そうそう。「ふいんき」じゃなくて「ふんいき」ですから。

2016年2月27日

「ヤマシン」のこと

僕の人生の中で、最初の「闇」の時期は、社会人になって3年目に突然やって来た。 その辛い時期から抜け出そうとしていたときに、友が旅立った。 僕は、その友の旅立ちを見送ることすらできなかった。 そして今日、その友と、約23年ぶりとなる再会をようやく果たした。 今晩は、今まで誰にもほとんど話すことなく、自分の中で封印していた、約20年前の頃のお話を赤裸々と。 でも、赤裸々過ぎて毎度のことながらちょっと長いよ。(約1か月かけて推敲したら、原稿用紙22枚分以上、約9,000字に膨れちゃった。) ~~~ これまでも何度も口にしているのだけれど、高校時代を過ごした3年間は僕の人生の礎を築いた、といっても過言ではないぐらい充実した3年間だった。学校環境、級友をはじめ同期の仲間、先輩後輩、恩師の方々、全てに恵まれた。 1456457808679 高校3年秋の三者面談で、地元大学ですら入学するのが難しいと言われるぐらい僕の成績は落ちこんでいた(というかずーっと低空飛行を続けていた)が、逆にそのことが発奮材料となり、一気に巻き返しを図った結果、何とか無事に弘前大学人文学部経済学科に現役で入学することができた。 当時のクラスメイトからは、「何でオレらが落ちてお前が合格するんだ!」と言われた(中には僕が合格したことが悔しくて泣いていた人もいた)ぐらいなので、いかに僕の高校時代の成績が酷いものだったのかは、想像するに難くないだろう。 一度目の人生の運を使ってしまった。 結局、小学校から大学まで、自宅から半径2キロ以内で収まるところに通うこととなった。まあ、そのことが自堕落な生活を送る諸悪の根源になったのかも知れないが、事実、大学進学後も学業はそっちのけで、やれバイトだパチンコだ飲み会だと、まるで放蕩者のような生活を送っていた。 ここで、今日の主人公に登場してもらおう。 高校3年の時に同じクラスだった「ヤマシン」。 黒縁のメガネに色白で、華奢。どちらかと言えば地味な存在で、お世辞にも目立つタイプではなかった。言わば、スポーツマンタイプとは真逆の、「オタク系」のキャラクター。高校3年の時に県の将棋大会で優勝を果たし、一躍スポットライトを浴びたこともあったが、そのことを自慢げにひけらかすことはせず、むしろ謙遜する、そんな「いいヤツ」だった。 高校時代はそんなに親しいワケではなかったのだが、大学に進学してみると、彼も同じ学科に入学していた。180人ほどいた新入生は名字の五十音順で3つのクラスに分類され、ヤマシンと僕は同じ「E3」に属することとなった。なにせ地元の大学、高校同期の連中が数多いる中にあっての数少ない同級生ということで、講義のコマとコマの間の休み時間には、一緒の時間を過ごすことが多くなった。お互い、大学に進学したからといって性格が劇的に変わるはずもなく、彼は相変わらず奥手なタイプというか受動的というか、自ら積極的に何かをするというワケでもなく、むしろ非社交的。飲み会に誘ってもほとんど来ることはなく、ホイホイとどこにでも顔を出すお調子者みたいな僕とは相反するようなタイプの人間だった。マジメといえばマジメだったのかも知れないが、お互いに1年次から教養部の単位を取りこぼすなど、彼も僕も成績優秀というワケではなかった。 ◆◆◆ 2年次の後期になると、3年次からの所属ゼミの選択に向けた履修案内があった。どういうわけか僕は「経営史」を選択することにしていた。確か、教官の人柄に惚れてのことだったような気がする。 そして、各ゼミの履修案内を聞いた直後にヤマシンが、「のんべ、何のゼミ選択するの?」と聞いてきた。 「経営史にするつもり。ヤマシンはどうすんの?」 「うーん...どうしようか悩んでる。」 そんなヤマシンが選択したのも、結局「経営史」だった。大して気にはしていなかったが、もしかして、オレがこのゼミを選択するって言ったからなのかな...なんてことをその時は考えた。 3年次になり、ゼミがスタート。前期はほとんど毎週ゼミにやってきたヤマシンの姿を、後期に入る頃からあまり学内で見かけなくなった。僕自身、積極的に付き合っていた友だちが県外や市外から来た人達メインだったグループ(このグループには、ヤマシンも顔をちょこちょこ出していた)から、県内出身者のグループに変わったりして、徐々にヤマシンとの付き合いも疎遠になっていった。大学にいれば誰かに会う、ということも徐々に減り始める一方、求人票の貼られたブースに行くと誰かがいるという状況に、いよいよ就職活動に向けてみんなが少しずつ動き始めたことを悟るようになった。 僕はといえば、大学を卒業した後で何をしたいとか何をしようとかいった夢も希望もあるわけではなく、相変わらずバイトとパチンコとデートに明け暮れる日々。学業面もパッとせず、順風満帆で有意義な学生生活を送っていたとは言い難かった。 やがて、3年次のゼミ生の中からゼミ長を決めることとなった。その日のゼミには、確か3年次の学生と4年次のゼミ長らが出席していたものの、そこにヤマシンをはじめとする数名の姿がなかった。 「今日来ていないヤツにゼミ長をやらせよう!欠席裁判だ!」と鼻息を荒くするく輩もいたが、この先1年をともに過ごすゼミ生同士、後で軋轢が生じるのもイヤだし、とにかく不毛な議論を早く終わらせたいという思いが先行し、思わず自らゼミ長に立候補してしまった。他のゼミ生にしてみれば誰もこんな面倒臭い役割を担いたいなんて考えないだろう。言わばダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ!」の状態であっさりと僕がゼミ長になることに決まった。 しかし、いよいよ就職に向けた活動が本格化する中にあって、ゼミなんていわば前半戦のみ、実際蓋を開けてみると、各ゼミ生の就職活動の状況報告ばかりが行われるようになった。 更にその直後、担当教官から衝撃の事実が伝えられた。 何と、担当教官は我々が4年次となった年の後半(10月)から渡米することが決まったため、卒論の提出を求めない、というのだ。確かに他にも、卒論不要のゼミがあるらしいという噂を聞いたことがあった(今となってはそれが本当だったのかどうなのか、知る術もない)が、まさかこのゼミが卒論不要となるとは...。衝撃というよりも、正直言ってニヤニヤするしかなかった。と同時に、3年次のゼミ生の受け入れもしないことが明らかとなった。つまり、後輩不在の寂しいゼミになることが決まった。 ゼミが終わったあと、教官に呼ばれた。 「マカナエくん、悪いんだけどさ、後でみんなの電話番号教えるから、今日来ていない人たちに連絡してもらえないかな。」 当時はまだ携帯電話が普及していない世の中、連絡を取るのはもっぱら固定電話が主流。幸い、ゼミ生の中に欠席者といつでも連絡を取れる人がいたため、その方の分についてはお任せすることとし、僕はヤマシンの自宅に電話を入れた。 「はい、もしもし××です。」 ヤマシンのお母さんと思しき人だ。 「私、弘大で同じゼミに所属しているマカナエと申しますが、ヤマシンくんはおられますか。」 「はい、少々お待ち下さい。」 (しんちゃん!しんちゃーん!マカナエさんから電話!) 「...もしもし。」 いつもの低い声が受話器の向こうから聞こえてきた。 「あ、マカナエなんだけど。あのさ...」と用件を伝える。 「あ、それからさ、先生がたまにゼミに顔を出せって。」 「...うん。わかった。...ところで、のんべ就職どうすんの?」 「...いや?まだ何も考えてないけど?」 「...ああ、そう。じゃあ、また。」 その後もヤマシンとゼミで顔を合わせたのは数える程度でしかなかったが、ひとまず大学には時々来ていたらしい。 もっともこの頃は、ヤマシンよりもむしろ、留年が決定した後にほとんど大学で姿を見なくなったマサキがどうしているのかを気にしていたんだけど....。 ◆◆◆ そして、いよいよ就職活動が本格化し、早々に内定を獲得する輩も現れた。一方、首都圏に「出稼ぎ」と称して長期間滞在し、面接のための「旅費」を稼ぐ不届き者もいた。ちょうどバブル崩壊の兆しが見え始めた時期で、厳しい就職戦線が予想された。 僕はといえば相変わらず何の仕事に就くかも考えていなかったし、大学4年となった直後に「東京に行って就職活動してくる」とウソを言って上京、プリンスのコンサートを観て帰った後に親の大目玉を食らったり、とにかく何とかなるさ、と実に呑気に構えていたものだった。 「そんなに就職先が見つからないなら、公務員試験でも受けてみれば?」という父の一言で一念発起、無謀にも4年次になったばかりの4月から突如公務員試験の勉強を始めた。それも、過去問を購入しての、対象を重点的に絞った勉強。こんな付け刃みたいな勉強だけで公務員になんかなれるはずがないと端から決めつけていた。 既に卒業に必要な専門の単位を取得する目途は立っていたが、実は卒業までには教養の単位が2つ足りなかった。恥ずかしいとか何とか言っているわけにも行かず、教養部の一番大きな教室の最前列で2単位を取るだけのために大学に出向いていた。 結局、尻に火が付かなきゃ行動しないという性格は、今も昔も変わらないらしい。 青森県庁と弘前市役所の採用試験が一週ずれていたため、とりあえず双方の採用試験試験に臨むことにした。合格なんかするわけないと思っていたので、ジーンズにサンダル履きというかなりふざけた出で立ちで受験会場に向かった。 試験会場には、ヤマシンも来ていた。 「おう。ヤマシン、どうだった?」 「うーん、どんだべ...。」 目を泳がせながら歯切れの悪い回答に終始するヤマシン。んだよなあ、大学でほとんど見かけなかったお前が公務員になったら、きっとみんなビックリするよな。ま、それはオレも同じなんだけどな、ハハハ...と内心思いながら、何とか一つだけ内定を頂いていた地元の会社へと徐々に思いを募らせ始めていた。(しかし、その会社は約10年後に倒産。) ◆◆◆ 7月下旬。郵便局の配達人が簡易書留を持ってきた。見慣れた字は、僕が書いた自分自身の宛名だった。 ...えっ!...えっ?これって...! 慌てて開封すると、青森県の採用試験一次に合格した旨の通知が封入されていた。あまりの突然のことに動揺を隠せない僕。 程なく、急に雲行きが怪しくなり、雷鳴が轟き、ザーッと雨が降り始めた。 そこへ一本の電話。 「おばあちゃんが...死んじゃった。」 当時付き合っていた彼女からの突然の電話だった。僕は、嬉しいんだか悲しいんだかよくわからないまま、封筒を握りしめて母と泣いた。 二度目の人生の運を使ったような気がした。 数日後、珍しくヤマシンから電話があった。 「あ、のんべ。オレだけど。県の一次、合格だった。」 「おお!やったじゃん!オレも合格したよ!」 合格とは意外な電話ではあったが、多分彼も僕が合格したことを聞いて同じことを思っているに違いない。 「どうする?」 「...いや、どうするって...まだ決めてないんだけど、今のところ県の採用試験一本に絞ろうかなって考えてる。二次試験もあるしさ。」 「そっか、んだよね。うん、せばまだ。(※津軽弁で「じゃあ、またね」の意)」 そんな奇妙な内容の電話に、ちょっと首をかしげた。 ...が、確かヤマシンからかかってきた電話は、これが最後だった。 結局、強運に恵まれたのか実力なのかは定かではないが、これまた一次試験を突破した弘前市職員ではなく青森県職員を目指すことを決意した僕。青森市にある面接会場では、意外な顔ぶれとも会うこととなったが、結局ヤマシンには会わなかった。 「ヤマシン、市役所に絞ったかな...。」 あまり気にはしていなかったが、それから数か月後、僕は無事に青森県職員の合格通知を受け取った。 あとは卒業に向けて教養の単位を取得すれば、それでいい。 相変わらず4年次の身分ながら1年次の多い教養学部に足を運んでいたが、単位の取得は絶対大丈夫だと確信していた。そして、予定通り無事に単位の取得が終わり、無事大学の卒業が決まった。 しかし、4年次の後期ともなると既にみんなが方々に散らばり始め、一堂に会するという機会もほとんどなくなった。誰がどこへの就職が決まったという情報は風の便りに聞く程度であったが、正直言ってあまり興味はなかった。むしろ、これから公務員として身を律して行かなければならないという気持ちが徐々に強くなっていった。 ◆◆◆ 迎えた大学の卒業式(学位授与式)。数ヶ月ぶりに顔を合わせる輩ばかり。 「どこに就職決まった?」 「そうか!県外に行っちゃうのか!」 僕が青森県職員に採用されたという話は、さほどの驚きをもって迎えられたわけではなかった。 「...ところで、ヤマシン見ないね。」 「あれ?ホントだ。」 久しぶりにヤマシンの名前を耳にした。そういえば、彼がその後どうしたか、全然聞いていなかった。確か単位は全て取得していたはずなので、卒業できるはずだったけれど...。 大して気にもせずに卒業式に臨み、平成5年3月、何とか無事に大学を卒業した。 平成5年4月、青森県職員として採用され、青森市内で行われた辞令交付式に臨んだあと、僕は衝撃の事実を耳にすることとなる。 それは、新採用で同じ部に配属となった高校の同級生Tからの話で知ることとなった。 「ヤマシン、去年秋から入院しているらしいよ。」 「...え!?何で?初耳なんだけど。」 「何かさ、県の採用試験で二次の面接の前に健康診断やったでしょ。あれで引っかかったらしいんだよ。」 「どっか悪いの?」 「うん。...どうも白血病らしいんだ。」 白血病という言葉を耳にしたとき、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。 白血病...不治の病ではないのかも知れないが、決して楽観視できる病でもない。しかも、同じ試験を受けたヤマシンが入院していたことを知らなかったなんて...。 「ヤマシンが、白血病...。」 正直、自分がピンピンしてこの場にいることに対する罪悪感すら感じた。 しかしそれから新人1年目、2年目と過ごしていくうちに、また僕は「ヤマシン」のことを忘れかけていた。 ◆◆◆ やがて新採用から3年目を迎えたとき、僕自身が心身の不調に見舞われることとなった。 差し障りがあるので詳細を語ることはできないが、3年目となった4月以降、職場は変わらずとも周囲の環境が180度変わった。そしてこのことで、職場にいること自体が、自分の中でただただ苦痛だった。正直言って、辛かった。何が楽しくてこんな仕事をしているんだろう、と思うようになった。これまでも何度か仕事を投げ出したい、辞めたいという思いがよぎったが、この時が一番その思いを強くした。やがて、心身のバランスを大きく崩した。が、ここで崩れては「負け」を認めるようなものだと、そのことを隠して頑なに出勤し続けた。 そんな中にあって、僕は前述の彼女との結婚を決意した。交際して7年が経とうとしていた。4月にはきっと異動になる。それも大方の予想では、県南地方の八戸市への異動となる。その前に、何とか婚約だけはしておきたかった。 3月、みんなの予想通り八戸市にある勤務公所への異動内示が発令、4月に着任。その月の28日に、弘前市内で結婚披露宴を行った。が、肝心の妻は僕にはついてくることはなく、結婚早々別居で単身赴任という奇妙な新婚生活がスタート。週末に自宅のある弘前市と八戸市を往復するという生活を送っていた。僕の精神状態はどん底で蠢いているような状況ではあったが、そのことを新たな職場でもひた隠しして、医者から処方された薬を投薬する生活を続けた。今思えば、よくもまああんな状態で仕事を続けられたものだ。 やがて別居生活も4か月が過ぎ、8月に突入。弘前のねぷたまつり、青森のねぶたまつりが始まり、県内がまつりムードに包まれ始めた頃、僕はまたしても衝撃を受けることとなった。 何気なく職場で見た新聞の朝刊に、思わず目を疑った。 黒縁の広告の中に、ヤマシンの名前を発見したのだ。 ヤマシンが...死んだ? 住所、名前、享年。どれを拾っても、ヤマシンに間違いなかった。 ヤマシンが...死んだ...。 最初にヤマシンが入院していることを教えてくれたTに慌てて電話をする。Tは、ヤマシンの自宅のすぐそばに住んでいて、小学校から高校まで一緒だった。 「そうなんだよ。ヤマシン、亡くなったんだよ...。」 暗い声で話すT。 しかし、通夜の日も葬式の日も、僕はどうしても抜け出すことのできない説明会が八戸市で行われることになっていた。 Tは、弘前市で行われるヤマシンのお通夜に参列するとのことだったので、僕の分の香典も代わりに届けてくれるようお願いして、受話器を置いた。 その日は、激しい動揺で何も手に付かなかった。文字通り走馬燈のように、ヤマシンとの思い出がフラッシュバックしていた。 そんなに深い付き合いではなかったが、少なくとも高校3年から大学を卒業するまで彼と一緒に過ごしたことは、事実なのだ。 ヤマシン、お別れに行けなくて本当にゴメン。オレさ、ヤマシンの分も頑張るから...。夕日が沈みかけた北西の空に手を合わせる。それは、八戸市から弘前市に向けた、せめてもの弔いの気持ちだった。 しかし僕は、その後も彼の自宅を訪れることができなかった。ひょっとしたら同じ職場に勤務していたかも知れないヤマシンのことを考えると、彼の親御さんや身内の方々にどう接していいのか、何をどうお話ししていいのかわからず、行かなければならないと考えるだけで足が重くなった。ヤマシンやご家族に対する、自分が県職員としての立場であることの後ろめたさ。そんなオレが果たして彼に、そして彼のご家族に合わせる顔なんかあるのだろうか。時が経過すればするほど、その葛藤はどんどん膨らんでいった。 ...今思えば、単なる思い過ごしだったのかも知れないが。 ~~~ ...そして気がつくと、約20年の月日が経過。 ヤマシンのことをふと思い出すのは、2月が彼の誕生月だということを思い出したとき、そして、8月の弘前ねぷたが始まったとき。高校時代の同級生で和尚になったシンスケと時々顔を合わせる。シンスケも彼のことは忘れていない(ヤマシンの命日の前後に墓参りに行くことも少なくないらしい)そうだが、ヤマシンの名前が出てくるのは、高校同期のメンバーが集まったときでも頻度は少なくなっていった。 そんな中、先日、偶然にもヤマシンの身内の方と接する機会があった。あまりに突然過ぎる出来事で、僕は初対面だったその方に対して、一方的に「すいません、本当にすいません...」と半泣きになりながら謝った。それは、ヤマシンのお通夜やお葬式に行けなかったことの非礼、そして、その後一度たりとも仏前に手を合わせるためにご自宅を伺うことすらしなかったことに対する、懺悔にも似た謝罪だった。 「いいんです。気にしないで下さい。覚えてもらえているだけでもありがたいですから...。」 その言葉に、また涙が溢れた。僕の心の中にずっと引っかかり続けていた棘が、ちょっと動いたような心境だった。 そしてこの日、身内の方と一つ約束をしたことがあった。 近日中に必ずヤマシンのご自宅を訪問し、仏前に手を合わせること。 それは、僕自身の気持ちを整理するという意味でも、絶対に避けて通れないことなのだと確信した。 しかし、いざ本人を前にして何を話そうか、悩んだ。もしかしたら、この間みたいに涙が止まらなくなって話にならないかも知れない。楽しみな反面、あのボソボソっとした低い声で、「のんべ、今頃何しに来たのよ。」とヤマシンから怒られそうな気もして、正直言って怖かった。 1456457723003 しかも、今週月曜日には、ヤマシンと小学校時代から一緒で、僕自身もヤマシンとほぼ同時期に一緒の時間を過ごした高校時代の同級生・ミキオの訃報に接したばかり。(奇しくも卒業アルバムに写った二人が、亡くなってしまった...。) 何もこのタイミングで...とも思ったが、同級生が旅立つということに対する動揺と悲しみは、今も昔もそのズシリと響く重みに全く変わりなかった。 しかし、家も近所同士、小学校からずっと一緒で高校時代も仲の良かった二人が病に倒れ、そして旅立ってしまったことを思うと、僕の心中は全く穏やかではなかったが、今回のこの約束だけは絶対に反古にするわけにはいかず、ヤマシンの自宅へと出向いた。 ご両親と初めてお目にかかった。ご挨拶もそこそこに、仏壇へと向かう。 久しぶりに対峙した写真のヤマシンは、僕が知らない丸坊主姿だった。発病してから撮影したとのことだった。何となくその表情が、「来るのが遅いんだよ!」と怒っているようにも見えた。やっぱりね... 「ホント久しぶりだね。」...彼に話しかけるように、ゆっくりと手を合わせる。静かな時間が流れていった。 ...その後、ご両親とお話をさせていただいた。発病から壮絶な闘病生活、そして迎えた最期。幾度となく僕は、言葉を失った。一方、たぶん同級生の誰もが知らないような話も...まあ、どんな話をしたかについては、あくまで当事者の話なのでここでは触れないでおこう。 こちらからも、これまで綴った内容をかいつまんでお話しさせていただいた。涙は、出なかった。そしてお話ししながら、長い間ずっと心の中で燻っていたモヤモヤ、釣り針の返しが刺さったような胸の奥の引っかかりが、ようやく外れたような気がした。 帰り際、もうヤマシンの遺影に一度手を合わせた。 写真の向こうのヤマシンが、なんとなくほくそ笑んだように見えた。それはまるで、23年前まで当たり前のように見ていた、あの頃と同じような表情だった。 若い頃、彼が抱いていた野望や願いは、今となっては知る術もないのだが、ひょっとしたら同じ仕事に就いていたかも知れないということは、今の仕事をしながら時々心に思い起こしている。 さすがに僕は二人分の仕事をこなすほど能力に長けた人間ではないけれど、せめて与えられた仕事をきちんとこなすことが、少しでも彼に対する弔いになればいいな、なんて都合のいいことを考えてみたりすることもあるのも事実だ。 人生って色んなタイミングで歯車がガッチリ噛み合ったり、全く噛み合わなくて空回りしたり色々あるんだけど、それもこれも宿命だ運命だ、という一言で片付けるには、25年という生涯だとあまりに短すぎだよね。 それにしてもシンちゃん、本当に久しぶりだったな。この世に別れを告げてもう20年経つのか...。そっちはどう?また一人そっちに行っちゃったなあ。 まあ、遅かれ早かれみんなそっちに行くことになるからさ、少しの間みんなでうちらを迎え入れる準備でもして待っててちょうだい。 今まで足を運べなくてホントごめん。遅くなって、申し訳なかった。また会おうな! 合掌

2016年2月24日

無題

今日、高校時代からの友達に、最後のお別れをしてきた。いくら水泳で鳴らそうとも、病に打ち勝つことはできなかったらしい。泣くまいと思っていたが、最後に涙は勝手に流れてきた。 裏方のように子どもたちの教育環境の充実に尽力した友。病と闘い、志半ばでこの社会とお別れしなければならなかった彼の無念を思うと、やりきれない気持ちに包まれた。 彼が思い描いていた理想の社会像はわからない。だがきっと、今の社会は彼が描いていた理想の社会とは言えなかったはずだ。 未曽有の震災によりトーンダウンしたが、「社会が悪い」「世間が悪い」という都合のよい解釈で様々な悪行がまかり通っていた昨今。 …社会が悪い、の裏返しは自分が正しい、ってか?世間が悪い、の裏返しは自分は間違えていない、ってか? そんなことを口にするあんたらは、社会を変えるために何をした?世の中を変える手段は、何だった? 結局は自分さえ良ければいいんだよな。自分の住んでいるところがお花畑なら、その周りが焼け野原でも別に関係ない、ってことだよな。違うか? 年寄りは年寄りなりに、次の世代に何を残していくか振り返る。 若い奴は若い奴なりに、次の社会をどう築いていくか考える。 中間世代は中間世代なりに、次の一手をどう打つべきか思案する。 利己主義は捨てよう。隣人と、一言でもいいから話そう。 まずは、あんたが生きていることを示すために。 点と点を繋げば線になる。線と線を繋げば面になる。面の角を削れば、円になる。その円はきっと、縁になる。 日本は、昔みたいに家庭が幸せに満ち溢れた社会を取り戻す力があるはず。 みんながちょっとだけ勇気を絞れば、きっと素敵な社会ができる。僕はそう信じたい。

2016年1月29日

45歳、初日。

不惑といわれる世代に突入して早5年。45歳の誕生日。四捨五入すると50歳。 正直、自分が45歳の誕生日を迎えることを想像したことがなかった。 他人事のように、客観的に見た45歳のイメージ。 中年。オヤジ。オジさん。オッさん。 ...まだオジーさんじゃないだけヨシとするか。 ozzy (オジーさんといえばこの人、オジー・オズボーン) 昭和46年1月29日、僕はこの世に逆子で生まれてきた。どうやら生まれた時からひねくれていたらしい。 母によると、臍の緒が首に絡まっていたため、全身真っ黒の仮死状態で生まれ、尻を叩かれてようやく堰を切ったように泣いたそうだ。 程なく、母方の祖父が僕の斜頸を見抜いた。治療のため、しばらく病院通いが続いた。無理繰り首を引っ張られて泣き叫ぶ姿を、母は見ていられなかったという。ちなみに、写真を撮影すると、今でも多少その名残があることを、今だから明かそう。 生まれてこれまで、何か大きな足跡を残したことはないし、記録に残るような大層なこともしていない。でも、それでいいと思う。日本人はやたらと平均とかを気にして自分と周りを比較したがるけど、そんな枠ばかり気にするつまらない生き方だけはしたくない。 記録より記憶に残るような人間、それが僕の目指す理想の人物像。 最後は、みんなから感謝されながら、ありがとうと言われながら黄泉へと旅立つのが、最大の夢。 だから、自尊心だけではなく、他尊心も大事にしたい。 幸いにして僕は、本当に家族や友人、仲間に恵まれた。 僕を生み、育ててくれた親に、ありがとう。 色々苦楽を一緒に見てきた妹に、ありがとう。 気がついたら20年、付き合い始めてから4半世紀以上も側にいる妻にも、ありがとう。 見守ってくれた爺ちゃん婆ちゃん親戚の皆さんにも、ありがとう。 これまで切磋琢磨してきた友だちに、ありがとう。 骨を拾い上げるまで心友で居続けるであろういつものメンバーに、ありがとう。 それぞれの目標のために高みを目指す仲間に、ありがとう。 それぞれの地域のために頑張り続ける同志に、ありがとう。 45歳。さすがにもう人生は折り返しちゃったかな。 他人から後ろ指を指されるようなことをしないよう、謙虚に生きていこうと思います。 でも、どうせなら他人が羨むような、格好いい年の取り方をしたいと思います。 皆さん本当にありがとうございます。 45歳になっても少年マカナエの心持ちは何も変わりません。 IMG_20150610_205006

2016年1月14日

【机上の私物】ゼムクリップ容器

僕は一般事務職なので普段はもっぱらデスクワークなのですが、ふと気がつくと机上にゼムクリップが転がっていることがよくあります。更によく見ると、机の下や椅子の脇に落ちていることがあります。更に更に脇机の引き出しを開けると、そこには無造作に散らばったゼムクリップが...。 というのは、私だけでしょうか。 物を片付けられない(片付けない)、そして捨てられない(捨てない)性格らしく、机上が散乱することは日常茶飯事。...でした。 ひとまずデスクを綺麗にしなければ!そのためには、綺麗にしたくなるような雰囲気を作れば良いのだ!...という都合のよい結論に達しまして、まずは今年のカレンダーも昨年同様「赤い岩木山の絵」卓上暦にしました。このカレンダー、ホントいいっすよ。 平成28年 赤い岩木山の絵 カレンダー そして、雑誌か何かで見たのですが、ペン立てとして無印良品の「磁器歯ブラシスタンド」を4つ購入し、万年筆と三色ボールペンを立てました。もう一つには普段使用している印鑑を立てています。 そしてもう一つ、これがゼムクリップを綺麗に収納するアイテムに化けるわけですよ。 用意する物は、次の二つ。

無印良品 磁器ブラシ用スタンド(色つき・限定) 250円(無印週間の際に購入したので、225円) Seria 超強力丸マグネット(直径約13㎜) 4P 108円

底面

このマグネットが超強力といいますが、超強力どころではないです。最強です。剛力彩芽もビックリです。どれぐらい剛力...いや最強かというと、この磁石がお互いにくっつく時、あまりに力が強すぎて割れることがあるそうです。そして、一度くっつくと簡単には離れません。それはまるで、誰かと誰かみたいです。 どうすれば離れるかというと、LINEのスクリーンショットをキャプチャして週刊誌に...じゃなくてですね、マグネット同士を横にスライドさせます。それでも、簡単に離れるものではありません。それぐらい、磁力が強いのです。 で、この最強マグネットを、歯ブラシ用スタンド(購入した際に底に貼られている値札というかシールは剥がさないで、これにマグネットを粘着させます。)に落とし込みます。 たったこれだけです。 そしてできあがったのが、これ。というか、磁石を落としただけなんですけど。ハッキリ言って、小学生の工作以下。 容器 何となくりんごみたいな感じでしょ。今回は無印良品の歯ブラシ用スタンドを使ってみましたが、他に容器を用意してマグネットを置くだけでも充分使えると思いますし、僕の場合はデスクの天板がたまたまスチールだったので、デスクマットを敷いた上からでもこのマグネットが作用して、結果的にマットが固定されるというメリットもありました。(というぐらい強力なんだから!) また、ゼムクリップだけじゃなく、例えば画鋲や釘、そんなものでも使えると思います。 ...まあ、一般事務の方がデスクで画鋲や釘を必要とする機会なんてそんなにないとは思いますが。 そして、Seriaのマグネットは13㎜以外にも種類が幾つかありますので、色んな応用ができるような気がしています。 さて、僕の机上は綺麗になったのでしょうか...。ま、それとこれとは話が別ということで(苦笑)。

2016年1月13日

【続報】古い記事を過去のアーカイブ(ブログ)へ移動しました。

ここ数年はブログ記事を投稿する頻度がどんどん低下していて、月に1~2本投稿できるだけでもマシ、という時期もあったぐらいでした。時折画像だけを投稿しているときがありますが、あれは完全にお茶濁しです。 昨日もお話ししていたとおり、以前はMovableTypeというブログ構築のプラットフォームを利用していたのですが、記事のボリュームが増えるにつれ再構築に相当の時間を要し、挙げ句の果てにエラーが頻発するという事態に見舞われ、更には書いていた記事を消失するというトラブル(といってもこれは自分が悪い)にも見舞われたため、WordPressというプログラムに乗り換えた、という経緯があります。 その際に、MovableTypeをサーバーから削除するのも何だかもったいないな、と思い、だったら過去の記事はそのまま残しておこう、という結論に至りました。 まあ、所詮僕のブログなんて日記と大して変わりがないので、他の方にご覧頂くようなものでもないですし、現に自分の「過去の振り返り」として記事を残しているというぐらいのものではありますが、三十路から四十路へと馬齢を重ねるうちに、それなりに記事らしい記事を書けるようにはなったのかな、と自負しているところです。...って、自分史でも発刊するつもりなのか?オレは(笑) ただ、昨日のような事態に見舞われたときに、ああ、そういえばバックアップを取っていなかったな、と慌てふためき、そして積もり積もった記事の量に辟易するということを、数年に1度繰り返しているわけでして、そういう点ではナンボ年を取っても全っ然学習してねえな、と自己嫌悪に陥ってしまうのであります。 さて、そんなこともあり改めて生き返った334件というブログ記事の数を見て、一体いつから整理をしていないんだろう、と思ってみたら、何と2010年12月を最後に全く手をつけていないことがわかりました。要するにこのブログには、まだ三十路の頃に投稿した記事が残っていたわけです。 そんなこともあって久しぶりに一念発起し、過去の記事の整理をしてみました。とはいえWordPressからMovableTypeへの記事の移行は初めて。これもまた四苦八苦しながらの作業となりました。 以下、備忘録。 WordPressからXMLをエクスポート。→MovableTypeにインポートする記事のみをチョイス(テキストエディタでXMLを加工処理)。→MovableTypeでインポート。記事の量が多すぎて途中で止まる。→インポート済の記事を確認し、XMLから削除。→MovableTypeで残りをインポート。→再構築。(1時間ぐらいかかる)→ブログに記事が反映され...ていない?→インポートした記事がデータベースに保存されているのを確認。おー...しまった。記事がかなり重複してるし。削除削除。→もう一度再構築→あることに気づいた。そういえば記事一覧にある「公開」をチェックしていなかった。→「公開」をチェック→再構築がスタート。

2016年1月 3日

2016年、始動。

2016年が始まりました。 のっけから申し訳ありませんが、諸般の事情により新年のご挨拶は辞退させていただくということでご容赦を。今年もよろしくお願いします。 それにしても、年末年始をこんなに楽に過ごせたのはいつ以来でしょう。ここ数年、正月返上で雪かきをしていたという記憶しかないため、すごく楽でした。いや、2016年の年始は三が日が土日と思い切り被っているので、きっと楽をさせてくれたのでしょう。そういうことにしましょう。 さて、これだけ天気に恵まれていれば、走りたくなるのがランナーの心情。 ということで今年の走り初めは、なんと母の実家がある北秋田市でスタート。 実は、これまで何度も足を運んでいるのに、北秋田市内を自分の脚で走るのは初めてだったんですね。 2駅ランということで、秋田内陸縦貫鉄道合川駅~米内沢駅間の約6キロを往復。これがまた風景に変化がほとんどない道路でして、しかも、5キロ過ぎから雨が降り出す始末。正月早々から心折れそうになりましたが、何とか走り終えました。走り終えた後に北秋田市役所のMさんが車で追いかけてくるというサプライズもあり、今年はなんかまた楽しそうなことがいろいろありそうな予感です。 秋田内陸10Kマラソンゴール (秋田内陸10kmマラソン・ゴーーーール!!) 初めてついでにもう一つ。 今月21日(木)から24日(日)まで、弘前市の百石町展示館でTSUGARU PHOTO MEETINGというグループによる「第2回写真展 記憶録」という写真展が開催されます。無謀にも私、この写真展に4枚も出品してしまいました。素人の画像ですので、皆さんからすれば何にも響くものがないかも知れません。ただ、「記憶録」という名に恥じないような画像を出品したつもりです、一応。撮影の技術も知識も何にもないのに、かなり無謀な試みだとは思いましたが、まあ、これも経験と割り切って、恥を忍んで出品しました。 もしかしたら他の皆さんの作品が素晴らしすぎて、最初で最後の出品、ということになるかもね。 ということで、もしお暇なら是非会場に足を運んでみてください。 TPMポストカード