2012年5月18日

「限界集落」は本当に限界なのか。


山下祐介著の「限界集落の真実-過疎の村は消えるか?」を読了。

著者の山下准教授とは、僕が30歳の時、弘前大学の修士課程を履修していたときに初めてお会いしたのだけど、当時「行政法」の教官に指導を仰ぎつつも、実際は「地域社会学」を専攻とする山下准教授はじめ他の教官から伺うお話や講義の方が正直言ってとても興味深く、修士論文を一生懸命作成する傍らで、他の院生の方々と一緒に山下准教授のフィールドワークのお手伝いもさせて頂いた。

僕がお手伝いをしたのは旧中津軽郡相馬村(現・弘前市)に赴いて行った「津軽選挙」の検証。これがまた非常に面白く、地元住民のライフヒストリーの聞き取りなどを経て、僕が修士課程を終えた後になってようやくその内容がレポートとしてまとめられ(まとめるまで紆余曲折があり、時間がかかってしまった)、その後学会でも発表するとかなりの好反応があり、最終的には他の論文と合わせて書籍という形でまとめ上げられた。
(↓本書の参考文献としても登場している。)

その後も「津軽学」や「白神学」の編纂編集に深く携わった山下准教授、首都大学東京へ転任されたことを機に細々と続いていたご縁が途切れかけているのだけれど(山下先生、元気かな。笑)、その准教授が今回発表した書籍のテーマが、「限界集落」。

昭和の市町村合併、そして平成の大合併を経て、「過疎」から「限界集落」という言葉がクローズアップされるようになった。

平成の大合併の際に問題視されていたのが、「行政サービスの均一化」だった。同一行政区域にありながら、同じサービスを受けられないのではないかという懸念はとりわけ、対等とはいいながらも事実上吸収される側の自治体から多く上がっていたように記憶している。

実際、合併という大風呂敷で一括りにされてみると、喉元過ぎれば熱さを忘れるではないが、やはり役所に近い周縁より末端にある地区に対する行政サービスは低下し、「元の役場があった方がまだ良かった」という不満の声は、複数の地域から上がったようだ。そして、整備の行き届かない、いわゆる末端の末端にあるような限界集落と呼ばれる地域は、他の地域とまとまった方がよいのではないか、という極論まで上がるようになってしまったのだ。

さて、「限界集落」と聞いて、皆さんは何を想像するだろうか。

限界集落(げんかい しゅうらく)とは、過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落を指す、日本における概念。(Wikipediaより)

...車で行くことすらままならない山間の集落。点在する家々は主を失ったまま荒廃し、細々とこの地で生活を営む腰の曲がった老婆が、意味もなく庭で火を焚いている。傾きかけた平屋の家の中を覗き込むと、2週間に一度やってくる医師の問診だけを心待ちにする爺さんが床に伏している。行政の手も行き届かないこの地域に暮らす最後の老夫婦。この二人がいなくなると、この集落からは人がいなくなり、廃墟だけが残ることに...。

どうだろう、「限界集落」と聞いたときの皆さんのイメージというのは、極端かも知れないがこんな感じではないだろうか。

青森県には、傍目からすると「限界集落」と呼ばれて不思議ではない地区が複数点在する。僕の住む弘前市の自宅から車で20~30分も走れば、本書にも登場する旧相馬村に行くことができるし、亡父が生まれた中津軽郡西目屋村に行けば、「定義上」の限界集落が複数存在する。

しかし、本書でも述べられているとおり、ではその集落がここ数年以内に消滅するかと言われれば、それはあり得ないだろう。
そこに住む人たちが生き甲斐を見いだし、(都会では味わうことができないであろう)そこで暮らすことへの優越感、更にはその次代がその地域への帰属意識を持ち続けている以上、その集落・地域が消えることはないと考える。
なぜそう言えるかは、本書を読み解いていくと明らかになると思う。

ところで、なぜ「限界集落」という言葉が注目を集めるようになったのか。それは、都会から見た地方に対する「偏見」のようなものなのではないだろうか。
個人的には、1990年代に提唱された「限界集落」という、衝撃的な印象を与えかねない言葉が一人歩きし、それが色んな形で歪曲されて、誤った概念で伝えられているのではないかと思っている。

もっとも、40年以上青森県を出て暮らしたことのない僕がこんなことを言うのも変な話だが、都会の方がよほど「限界」に達しているのではないか。誰にも看取られぬままこの世を去り、数か月後に発見されるというニュースが幾度となく報じられたが、こういった方々が発見されるのは、田舎ではなく都会ではないか。
そして、こういったニュースが立て続けに報じられたのは、ある地域でこのような事象が発生した際、他の行政機関が「うちの管轄ではそんなことはないだろう」と、それまで行き届かなかったところまで目を向けた結果として、複数の事象が出てきたのではないか、そんな穿った見方をしてしまう。

地方都市の周縁集落を「限界集落」と揶揄するのであれば、都会の片隅には、地域社会との接点すら損なわれた人たちが生活する「限界コミュニティ」が不特定多数存在しているのではないか。

山下准教授は、フィールドワークとして「限界集落」と言われる複数の現地に赴いて、その地に定住し生活を営む人たちの声に耳を傾けている。
だからこそ本書には、「限界集落」と言われている地域の現在と未来が詰まっており、「限界集落」の真実を伝えていることは間違いない。

田舎暮らしに辟易し、都会暮らしに憧れる人たちに、更に、地方を「田舎だ」と見下す都会暮らしの方々に、そして、田舎暮らしに誇りを持つ人たちに、是非読んで欲しい一冊。

2012年2月16日

【読書感想文】第146回芥川賞受賞2作読了


ちょうど1ヶ月前の1月17日、平成23年度下半期の芥川賞が発表された。テレビでご覧になった方も多いと思うけれど、強烈なインパクトを与えた受賞者の一人である田中慎弥氏による記者会見、とりわけ、某審査員を痛烈に批判するようなその記者会見を観て、溜飲を下げた人もいたのではないだろうか。 以前もつぶやいたことがあるが、芥川賞受賞作を読むなら単行本ではなく、文藝春秋を購入することをお勧めする。理由は3つ。 (1)時機を逸することなく、単行本より安価に購入できる。どうせ興味本位で読んでブック○フに二束三文の値段で売るぐらいなら、890円で購入した方が遙かにお買い得。 (2)選考委員の選評が掲載されている。受賞に至った経緯というよりも、各委員それぞれの選評がまた非常に興味深く、選から漏れた作品についてもコメントを寄せる委員も少なくない。ただし、作品の内容に踏み込んだ選評も多いので、まずは作品を読んでから選評を読んだ方がいい。 (3)芥川賞作品以外の内容が興味深い。今回は「テレビの伝説」と銘打った大型企画の他、解散総選挙を見込んだ選挙予測、日本の経済を憂う論評などが掲載されている。 芥川賞作品に興味のある方は、他の内容に興味があるかどうかは別として、是非書店で文藝春秋を手にしてみてはいかがだろうか。 さて、今回の芥川龍之介賞、受賞作は2作。 「道化師の蝶」円城 塔 「共喰い」田中 慎弥 受賞者には「正賞」として時計が、「副賞」として100万円が贈られる。 では、私個人として読み終えてみての感想なんぞを少々...。 【注意】以下ネタバレ含みます。【注意】

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2011年12月12日

【読了】心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣 / 長谷部誠


サッカー日本代表キャプテンを務め、現在はドイツのブンデスリーガ・ヴォルフスブルク所属のMF長谷部誠による著書。 テレビやマスコミなどでも大々的に取り上げられ、Amazonやその他の書評でも軒並み星が並ぶ良書。 東日本大震災に見舞われ、心のバランスを崩す人も多いと聞くが、そういった中で「心を整える」という言葉が、何か人々を惹きつけるものがあったのだろう、書店で平積みされると軒並み完売となったという。どれだけ素晴らしい書籍なのかと期待しながら手にしてみたが、読み終えるまでかかった期間は何と5か月...。 理由は、いろいろあるのだが、正直言うと途中で読み飽きてしまったのだ。 まず、この書籍は指南書ではない。それだけは断言しよう。こうあるべき、こうするべき...といった「べき」論を述べているのではなく、「私ならこうする」といった長谷部流のメンタル処方箋であり、その内容はむしろ「自伝」に限りなく近い内容だ。 彼の人となり、というか彼が真面目でいろんなことに真摯に取り組んでいることは、本書を読んでいくうちに十分伝わってきた。 が、本書に書かれていること全てに賛同できたかと言えば、残念ながらそういうわけではなかった。なぜならそれは、前述の通り著者が「私ならばこうする」と述べているだけであって、全ての人に当てはまる内容ではないからだ。 つまり、サッカーという競技の中で、ストイックさを求めるのであれば、これぐらいの指南書があってもいいのかも知れないが、じゃあ全ての人にこれがそのまんま当てはまるかと言えば、そうじゃないよな、ということだ。 最初は「ふむふむ」、中盤辺りから「ん?」、後半に入ると「うーん...」、最後は「...。(ペラペラ)←本をめくる音」、こんな感じ。 少なくとも、1年後2年後もう一度読み返したときに参考になるかと言えば、参考になる部分もあるかも知れないが、大概は「そんなことわかっとるわい!」ということになっちゃうかも知れない。 後半で触れられていた「長谷部かっ!」というオチは、笑うに笑えない。真面目すぎるがゆえにネタにされてしまっている著者。裏を返せば、自分にも厳しいが、他人にも厳し過ぎるということ。サッカーをこよなく愛し、サッカー一筋で過ごしてきた27年間、サッカーに人生を掛け、真摯に取り組む姿勢はわからないわけでもないが、どうも私生活を見ていても、いわゆる「遊び」の部分がほとんどないようで、隙がないというかつまらないというか。 まあ、そういうことからも途中で好きなミスチルの曲ベスト15を挟んでみたり(これだってあと2年もすればどうなっているかわからない、というか、著者自身が「しょっちゅう変わる」と言っているようでは参考にもならないのだが)、何となくおちゃらけてみようとする努力は汲む。が、それ以上のものは正直伝わってこなかった。 まあ、かなり話題になったのでこれからこの書籍を手に取る人は少ないのかも知れないが、あくまで長谷部誠というサッカー選手の「持論」であり、「自己啓発」といいながらもその主軸にある「自己」とは、長谷部自身であるということを念頭に、過度な期待はせずに読んだ方がよいかもしれない。 特筆すべきは、この書籍によって得られた印税を全て東日本大震災に寄附する、ということ。正直、その男気は素晴らしいなと思った。

2011年11月21日

僕の足は立ち、歩き、走るためにある。


2007年に出版された村上春樹氏の「走ることについて語るときに僕の語ること」を今頃になって読み終えた。 氏の本はこれまでたくさん読んできたけれど、この書籍については、何となく読む気が起きなかった。 多分それは、虚像と現実の混じり合った独創性ある非現実という村上ワールドとは異なる、いわば現実社会における著者の生き様を読んでもきっと面白くないだろうと感じたことが一つ。そしてもう一つは、僕自身が「走る」ということに特に積極的に取り組もうとしていなかった頃、数千分の1、いや数万分の1という中に埋もれた一ランナーとしての著者の走破記には、あまり興味が沸かなかったというのがもう一つの理由。 ちょうどこの書籍が発刊された年(2007年)に東京マラソンが始まり、それまで走ったことのない人たちのマラソンへの関心が一気に高まった。思えば僕も、この年の人間ドックで脂肪肝を指摘され、他の数値も一気に赤丸急上昇、このままだと成人病予備軍まっしぐらの宣告をされたんだった。 それを機に、(内臓脂肪を削ぎ落とすため)走ることに対する興味をちょっとだけ持ちはじめ、気がつくと弘前市内はもとより出張がてら八戸市や皇居の周り、被災地支援の時は早朝、宮古市の山間を走り始める一方、この本のことは存在すらすっかり忘れていた。 爆発的な売上げを記録した「1Q84」を発刊した著者が、「僕は走り続けてきた、ばかみたいに延々と」と題したインタビューに答え、その内容が「Number Do」に掲載されたのが今年3月。 折しも東日本大震災直後で、とても走ることなんて考える余裕なんぞなかったし、こういう書籍を手にすることすら憚られたのだが、8月になりようやくこの書籍を購入。そのインタビューを読みながら、にわか市民ランナーの僕は、無性に「走ることについて語るときに僕の語ること」を読みたい、いや、読まなければならないという衝動に駆られた。 このNumber Doに掲載されたインタビューは、いわば「走ることについて...」のバックグラウンドみたいな内容。なので、もし先に「走ることについて...」を読み終えている方には是非読んで欲しいと思う。まぁ、村上フリークであればきっととっくに読み終えていると思うけど。 実際「走ることについて...」を手にして読んでみると(文庫本が発刊されていたのは、財布にも持ち運びにも非常に助かった)、ランナーとしての体調管理はもとより、身体や脳に起こる変化など、読みながら「あー、なるほど...」と思うような、にわか市民ランナーの僕でさえも共感できるようなエッセンスがいろいろ鏤められていた。 そしてその内容は、僕が先入観で決めつけていたランナー・村上春樹の生き様だけではなかった。大げさな言い方をするならば、生きていく上での知恵。 人生を「走る」ことに例える人がいる。「人生の折り返し」なんて例える人もいる。「走馬燈のように駆け巡る」なんていう言い方もある。 そう考えると、「生きること」と「走ること」というのは密接な繋がりがあって、「走る」を「生きる」に置き換えると、いろんな場面で相通ずるところがあるんじゃないか、なんて、何か物凄く劇的な発見をしたような気分に浸っているバカがここに約1名(笑)。 とりわけサロマ湖100kmウルトラマラソンを走り終えた後の「ランナーズ・ブルー」という表現は、もはや人間の限界を超え、いわば「走る機械」と化してしまった著者が、ゴールを迎えた後から走る事への楽しみや意欲を失った独特な言い回しだ。 僕自身、まだ自分の限界を見たことがない(11月初旬に初めて練習でハーフを超える距離を走ってみたが、それが限界だとは正直思えなかった。)と思っているので、このランナーズ・ブルーという心境に陥ったことはないし、逆にランナーズ・ハイに陥ったこともないのだが、誰しも生きているうち、こういう限界というか壁を乗り越えなければならないときがやってくるのだ、ということをふと思った。自分自身がそういった壁を意図的に越えようとしないことに対しての戒めという意味合いも込めて。 ...まあ、僕みたいな邪な考えの持ち主は、一度何も考えず20キロぐらい走ってみて、歩けなくなるぐらいまでヘトヘトになりながら復路を戻ってくればいいのかも知れない。泣きながら「ごめんなさい」ってみんなに謝りながら、人に支えられながら生きているということを実感した方がいいのかも知れない。 さて、それはともかく「走ることについて...」を読み進めるうちにふと思ったことがあって、それは、今僕が走っている目的というのが、当初の目的からかなりズレはじめているということだった。 当初は、脂肪肝を含む内臓脂肪の軽減、体重の減少を目的として走りはじめたのに(翌年にはその効果が明らかとなったのだが)、今自分が走っている目的というのは、タイムとか距離とか、そういうところに重きが置かれていて、結果、どのようにしたら長距離を楽に走れるか、ということを脳で考えるようになっているようだ。 だからここ数か月、少しずつ走る距離を伸ばしているにもかかわらず体重はほとんど変わっていないし、体脂肪率も非常に怪しい数値(19~20パーセント)を常時指すようになった。それは多分、体力を温存しながら長距離を走る、あるいはそれ相応のタイムで走る、ということを頭で考えるようになっているのが理由なのだろう。要するに、何というか「足で走る」んじゃなくて、「頭で走る」ようになったというか...。何だろう、うまく言えないな。 他人に言わせると、走る前と比較して僕は結構「細くなった」らしい。ところが実際体重がそれほど変わっていないということは、脂肪が筋肉に置き換わったから、あるいは密度が濃くなったから、という都合のよい解釈をすればいいのだろうか。 まあ、いずれにせよ来月人間ドックがあるので、その結果如何では、雪解け以降の来春(降雪期間は雪かきに尽力し、ほとんど走る事はないのだ)にどういう取組をすればよいのかという方向性を改めて確認するいいきっかけになるかも知れない。 閑話休題。 著者が巻末で述べたような格好いい台詞を墓標に刻むことはできないが、ちょうどいいお湯に浸かりながらのほほんと暮らすような人生よりは、もう少し冒険してみてもいいのかな、とか思ったり。 きっとこの時期、このタイミングでこの書籍を手にしたことに、何か意味があるのだろうと思った。そして少なくともこの後も、2度3度と読み返す機会が来るだろう、そんな書籍だと確信した。 ちなみに僕、ここ2年連続で走ったアップルマラソン(10キロ)のゴールの時は、ゴール直前で必ず拍手してるんだけど、それって自分自身への拍手であると同時に、応援してくれた皆さんや僕を見守ってくれている色んな人たちへの拍手なんです。ホントはね。もっと感謝の気持ちを表に出さないとなぁ...。

2010年4月30日

村上春樹 『1Q84 BOOK3』を読了

今年もどうやらベストセラーは既に決まったようなものですが、一部ではハリー・ポッター並に盛り上がった村上春樹の『1Q84 BOOK3』を読み終えました。これから手にしようと考えている方、まだ読み終えていない方もいると思いますが、今日は僕なりの読書感想文を披露したいと思います。

当然ストーリーの核心に迫る部分も明らかになりますので、まだ読んでいない方、現在進行形の方は、この先ご覧にならないことをお勧めします。
あ、そうそう。この書籍に関しては、いきなりBOOK3からではなく、やはりBOOK1とBOOK2を読み終えてからBOOK3を読み始めることを、強くお勧めします。


では、以下短い読書感想文です。

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2010年3月 6日

自死という生き方 - 覚悟して逝った哲学者

ようやくこの書籍の感想を書く気になった。

とんでもない本を手にしてしまったな、というのが全て読み終えた後の感想だ。
というか、本書を読み終えて感想を述べている多くの人が、同じような感想を抱いているようだ。

本書の著者である須原一秀氏は、社会思想哲学を専門的に扱う学者であった。
しかし彼は、「一つの哲学的プロジェクト」として自らの命を絶つと家族以外の友人に宣言し、2006年4月、自らの手でこの世を去った。享年65歳。

本書は、その後に発見された遺稿である。
その内容は、「老い」を回避するため、その代償として「自死」を勧めるという非常に過激な内容だ。
事実著者は、取り立てて何の弊害もなく、快活で健康的な生活を送っていたようで(60代後半で体脂肪率一桁台を保っていたらしい)、突然の死により残された家族も、筆者が自死に至った理由がわからず、酷く狼狽したようだ。

本書の中で筆者は、ソクラテス、伊丹十三、三島由紀夫の三名が自死に至らなければならなかった理由を、過去の文献その他から探っている。彼らがすぐに死ななければならない理由などなかった。そして、ソクラテスの場合はいわば殉死だったかも知れないが、伊丹も三島も、既に人生を十分に謳歌しており、ちょっとしたきっかけが、自死に導いたのだ、と結論づけている(特に伊丹の場合、自らの著書で「楽しいうちに死にたい」と述べている、という)。これを筆者は、「積極的な死の受容」という表現を用いている。

また、ヌーランドという作家による「眠るような自然死の否定」を引き合いに出し、そもそも「安らかな死」や「眠るがこごとき」死、つまり「老衰」などというのはあり得ないことで、「死」に至るまでは、想像を絶するような痛みや苦痛を伴うのだということを説いている。
確かに病院のベッドの上でたくさんの器具やチューブを挿され、苦痛に喘いで死を迎える終末患者は大勢いることだろう。

筆者が言いたいのは、恐ろしいのは「死」そのものではなく、「死の直前に迎える苦痛」だということのようだ。果たして、そんな苦痛を強いてまで「生きる」必要があるのだろうか、ということを述べている。
そして、中高年者による自殺肯定論、下手をすれば自殺推奨論にもなりかねないような理論を説いているのである。

筆者の実母が病に倒れ死が近づいた時に、筆者は延命治療をするのではなく、医師に頼んで静かにかつ速やかに見送った。その時、何故延命治療を止めたのか、周囲から顰蹙を買ったが、全く後悔はなかったといったことを述べている。一方で、義父が病に倒れ、死の直前、長時間にわたり苦痛に晒されている姿を見て、延命治療を止めることが出来なかったことを悔やんでいる。そして筆者は、これを「二人称の死」と「三人称の死」と述べている。

筆者によると、死の直前にやってくる(誰もが経験しなければならない)痛みは、事故に遭った後長時間にわたる苦痛と同じだというのである。そんな苦痛を伴うような「死」を迎えるぐらいなら、「自死」という生き方を過ごした方がよい、というのが筆者の理論だ。

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2010年1月19日

村上春樹 東京奇譚集

昨年は『1Q84』がベストセラーとなり、今年春に発売される続編でも、恐らく今年のベストセラーの座を奪ってしまうのではないかと思われる村上春樹。

『海辺のカフカ』に見られた同時並行的な全く異質な次元で繰り広げられる二つの話が、徐々に融合していく過程。『1Q84』も、似たような描写で物語が進んでいくが、両者に共通するものは、何かこう、物が喉につっかえたままの状態、いや、もやしの髭が歯間に挟まったままになっているような違和感、居心地の悪さだった。

この『海辺のカフカ』と『1Q84』の間には短編が発表されていたことも知っていたし、実際『アフターダーク』については購入して読破したのだが、結局ここでも何とも言えぬ後味の悪さばかりが残った。村上ワールドの懐の深さ、引き出しの多さを思い知らされた、といった方がいいのかもしれない。

ただ、一つハッキリしていることは、僕にとって村上春樹の作品は非常に「面白い」のだが、その域を超えないということである。つまり、読んでいる最中は夢中になれるものの、読み終えた後の感動、胸に刻まれるような感銘、そういったことを感じたことがないのだ。

単に僕の読解力が不足しているに過ぎないだけなのかも知れない。

何かネガティヴな感じになってきたが、決して村上春樹が嫌いだということではない。
むしろその逆であり、普段ほとんど文学書を読まない僕にとって唯一といっていいほど読み続けている作家だ。

さて、『1Q84』発表の前に発売されていた『東京奇譚集』。今から5年も前の作品である。
『アフターダーク』の後に出た作品ということ、さらには短編集ということで正直購入を見送っていたのだが、先日書店に立ち寄り、たまたま文庫化されている本書を発見し、購入してみた。というか、07年末には文庫化されていたようだが...(苦笑)。

ここに出てくる5つの作品は、いわば『1Q84』や『海辺のカフカ』とは全く趣が異なる。
それぞれの作品に登場する主人公に起こる奇妙な時間軸のねじれが、ある時を境に突然事態が異なる方向に進んでいく、というものだ。ここでいう「ある時」とは、そのほとんどが「受け入れたくない現実を受け入れる時」である。物語はどれも、決してポジティヴな内容ではない。

しかし、そこに繰り広げられる悲哀を受け入れることでポジティヴになっていく過程が、ひょっとしたら初めて村上作品を読んで「心に残る」作品として、僕の中で受け入れようとしているような気がする。

案外それは、自分の置かれている(あるいは勝手に思い込んでいる)身を、それぞれの主人公に投影しているからなのかも知れない。

冒頭、村上氏のジャズクラブでの出来事に関する行がある。「この物語は実話です。」と書かれてある。しかし実際「実話」だったのはジャズクラブで起きた「偶然」であり、その後の物語はフィクションであるはずだ。
奇譚集ということで、ちょっと奇妙な話ではある。奇妙というより、奇遇なストーリーが続く。
しかし、いろんなレビューでも述べられているが、村上春樹の作品そのものは全て「奇譚」なのだ。ただここで繰り広げられる5つの話は、現実に起こりうる話でもあると、僕は思った。
恐らく2時間もあれば、一気に読み終えることができるだろう。しかし、『アフターダーク』の時に感じた何とも言えぬ嫌悪感というか、二度とこの本は読まないだろうという複雑な気持ちは、微塵も起きてこなかった。
むしろ、何かの拍子にもう一度読んでみてもいいな、そう思わせる作品だった。

彼の「長編」だと疲れる人というには、お勧めの作品である。


2008年11月10日

Murakami Diary 2009


ご存じ、ノーベル文学賞に最も近い日本人と言われる、村上春樹の2009年版ダイアリー的文庫本です。
この作品はUKからの輸入盤で、要するに洋書です。よって、内容はほとんど英字表記です。とはいっても英字表記が延々と続くかというとそうではなく、あくまでダイアリーということですから、365日のスケジュールを書き込むすることが出来ます。
ただ、これを「一作品」として見るか、あるいは「ダイアリー」として見るかによって作品の質が全く異なりそうな感じです。

私的には2008年という年そのものを、自分の人生の中から、いや全地球の歴史の中からも綺麗に抹消してしまいたいのですが、それはあまりにも非現実的。
いつまでも後ろを振り返るわけにも行かず、来年を過ごしていくのに何かヒントが隠されているのではないか思い購入したこの書籍。見方によっては和み系に化けそうな予感です。
内容をお見せすることは敢えて避けます。英国での版権を有しているVINTAGE社から発刊された村上氏の書籍の表紙が沢山登場しています。そして、本文の一部(全て英字)や、何ともまぁいい味を出している写真が織り込まれていますが、何よりも日本の主要な祝日や季節の催事が「日本語」で記されているのも魅力的です。一見すると紙質もかなり分厚く、重厚な仕上がりになっているようです。しかし、カバーの折り目がかなり適当だったり、製本の糊付けが怪しかったりと、いかにも洋書!みたいな雰囲気も醸し出しています。

とはいえまぁ、前述の通り恐らく「なごみ系」文庫本として開くことがあっても、このダイアリーに何かを書き加えるということはあり得ないでしょう。大体、村上春樹の作品に筆を加えるなんぞ、もったいないし恐れ多くて...(笑)


ダイアリーもちらほらと登場しているこの時期、そろそろ忘年会シーズンですか...。忘年会とは別に、ぼちぼち畏友の顔を眺めながら酒を酌み交わしたくなってきましたな...。
父が他界して2ヶ月が経ちましたが、やはり一部から「彼は父の後を継ぐのではないか。市政のために、2010年春の補選を見据えているんじゃないか。お通夜やお葬式でのあの堂々とした口ぶり、彼ならやっちゃうんじゃないか。」という、僕にまつわる「ある噂」が出始めているそうです。というか、これは予想の範囲内。家の中でも話題になるぐらいですから。
ま、いずれにせよ、衆院解散選挙の日程で世間がやきもきしている中にあっては、まだそのことを自分の口から話す時期ではないかな、とか思ったりして(笑)。

2008年1月 7日

「青森県ゆかりの文学」 斎藤 三千政


* 出版社 : 北方新社
* 出版年 : 2007.11
* ISBN : 9784892971129
* 税込価格 : 2,625円
* ページ数 : 412P
* 判型 : B6

今日は久しぶりに書籍を紹介しようと思う。
歴史や文学には人一倍疎いこの僕がこの書籍を紹介する理由は極めて明白。
僕が筆者と「知り合い」だからである。
否、「知り合い」というのは非常に馴れ馴れしい言い方だった。

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2006年8月24日

人生のほんとう

池田晶子著書の「人生のほんとう」という本を読み始めている。かなり売れているらしいが、売れているだけあってなかなか面白い内容だ。

哲学的なアプローチが多いので(ちなみに僕は哲学が大の苦手)、これはすぐ読み飽きる(挫折する)のかな?と思ってもみたけれど、これがまた意外にのめり込む。
帰りの電車の中、惰眠を貪るのをやめ、この本を読み進めることに熱中している。

偶然とは決して偶然ではなく、宿命だということ。
生きて死す。しかしその「死」の定義とは何か。人間は何故年老いるのを嫌がるのか。親とは。親戚とは。読み進めていくうちに、「自分」という存在を改めて認識すること必至。名前、性別、そして日本人であるという「属性」...その全てが、あまり意味のないものであることを悟ったとき、間違いなく「自分」はより強くそしてより大らかに生きていけるような気がする。

何度でも読み返す、という人が多いのも頷ける。

どういった内容かを垣間見るにピッタリのインタビュー記事がありました。
http://www.nttcom.co.jp/comzine/no011/wise/index.html


人生のほんとう 人生のほんとう
池田 晶子


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