2013年4月18日

オトンへのバースデーメッセージ

オトン、66歳の誕生日おめでとう。
...なんて、あんまりメグセクテ、面と向かってコッタゴト喋ったの、結局一度もネガッタな(苦笑)。

早いもので、オトンが61年の生涯サ幕を引いてから、5年の月日が流れでマッタ。

実はオラ、毎年オトンの誕生日が来るたびに思い起こすことあるんだジャ。
オトンが今のオラの年齢の時って、何してらンだっけ?ってね。

オラ、今年42歳サなったんだ。オベデラ?
オトンが42歳サなった頃ってオラ、18歳だった。ちょうど大学サ進学した頃だったな。

そういや高校の三者面談の後、オトン「浪人は絶対させられネ。浪人するんダバ、ここサ行け。」って、四国とか静岡とかの会社のパンフレット、ボンッとテーブルの上サ置いダよな。

あれで尻サ火が付いたオラは、焦って猛勉強して、結局弘前大学サ入学決まったんだよ。

合格発表の日、掲示板サ自分の番号見つけて、高校サ寄った後に、オトンとオカンのいる会社サ、羽根でも付いたように小躍りしながら向かったんだよな。

会社の窓の向こうサ、オトンとオカンの顔見えて、小さくガッツポーズしたッキャ、オカンは堰を切ったように歓喜の涙流して、オトンも赤ら顔でニヤニヤしながら、うんうん、って頷いてあった。

普段、家族サ対してあまり口を開ガネ人だったけど、あの時はホントに嬉しかったな。

...でさ、オトン。

あの時一言こう呟いたんだよ。
「よし、これでオラごと、越えダな。」

オラ、あの一言ダバ一生忘れられネ。


あのさ...オトン。

今、自分でこの年齢サなってみて、今の今までオトンのこと越えられたなんて思ったこと、一回もネよ。

オトンいなくなる前も「凄エ人だな」って思ってダバッテ、いなくなってガラ、ますますその思い強くなったジャ。

越えたいと思っても絶対に越えられない人。

理想サはしたくネけど、イヅまでも背中ゴト追ッカゲデいたい人。

上手く喋レねけど、ソッタ感じだ。

今頃生きデれば、まだきっと、毒吐イデ悪態ツイデ、みんなガラ顰蹙買ってランダベナ。

たまにフッとオトンのゴト思い出してはニヤニヤしてみたり。

そういえば、大分そっちサ行った人も増えてきたハンデ、まだ楽しグやってランダベナ...。

オトン。
もう少しで弘前の桜ッコ、咲くってよ。
まだビール、ハガイグノ。

こっちもそれなりに頑張ってみるハンデ、オトンもあんまり飲み過ぎダリ、これ以上周りサ迷惑かけたりしねえようにノ。

ヘバ、マダノ。

2013年3月20日

「日展」のこと

青森県内で発行されている東奥日報の創刊125周年を記念して、第44回日展青森展が今年の6月15日から7月7日まで弘前市の青森県武道館で開催されることを今日の朝刊で知った。

青森県ではこれまでも日展の巡回展が何度か開催されているが、初めて県内で日展が開催されたのは今からちょうど10年前、平成15年に開催された「第34回日展弘前展」だった。
この日展の巡回展を初めて本県で開催するに当たり尽力したのは、亡父だった。
そして、この日展を無事に終えることができたのは、紛れもなく亡父の功績によるものだと、僕は今でも確信している。

折しも父の母校であり、僕の母校でもある弘前高等学校の創立120周年記念事業として、父は同窓会が主体となってこの日展を開催したい、とぶちまけたという。それまで日展といえば、今回のように新聞社が主催するか、あるいは日展自らが主催するかが主流であり、同窓会単位で開催したことなどなかったそうだ。

青森県での初開催、しかも会場は美術館や文化施設ではなく武道館、更に主催者が一高校の同窓会という初物づくし、日展サイドでも同窓会サイドでも、少なからぬ異論や反対の声があったらしい。

ところが、そんな不安の声をかき消すかのように、いざ始まってみると平日休日問わず県内各地から大勢の方が訪れ、中には秋田県からわざわざ足を運んで下さった方がいたことを覚えている。

父の片棒を担いだわけではないが、僕もボランティアの一人として会場内の巡回をお手伝いさせて頂きつつ、会場内に並べられたたくさんの作品を何度も何度も堪能させてもらった。
34nitten.jpgのサムネイル画像

その成功を足がかりとして、日展巡回展は、その後も幾度となく青森県武道館を会場として開催されている。平成18年開催の際も、日展サイドから父に打診があり、この時も父は家業を顧みることなく日展の開催に心血を注いだ。それぐらい父の日展開催に懸けた思いは、半端ではなかった。

だから、今もこうやって青森県で日展巡回展が開催されるたびに、僕は父のことを思い出す。

もちろん今回の巡回展についても、開催された暁には、亡父の思いと一緒に県武道館に足を運ぶつもりだ。

2012年9月 8日

4年目の9月7日

4年前の9月7日。父はこの世に突然自ら別れを告げ、黄泉の国へと旅立った。

父にとって、こうなることは本意ではなかったのかも知れないが、これも父が選んだ道なのだ。僕はそう言い聞かせながら、ただその現実に直面するしかなかった。一方で、自分の父親に起きたことではなかったかのように。

僕が父と対面したのは翌日、つまり4年前の今日、9月8日だ。突然の父の死に直面して慟哭する母に、僕はそっと手を添えてあげることしかできなかった。

現職市議のセンセーショナルな死というニュースはあっという間にこの弘前市内を駆け巡り、無言の父が帰宅した直後から、報道記者と思しき人たちが家の周りを行ったり来たりするのが見えた。事情を聞かせて欲しいという電話もひっきりなしに鳴り響いた。もっとも、数の中にはこちらの悲痛とはお構いなしにずけずけと家にやってきて「事情をお聞かせ願えませんでしょうか。」なんていう「強者」もいたが。まぁ、どこの記者かはハッキリと覚えているが、あの日以来僕は、無神経なマスコミという存在が心底大嫌いになった。

しかし、あの日も暑かった。9月とは思えぬ暑さだった。いや、思えば今日も続くこの暑さは、あの頃から既に始まっていたような気がする。
あまりにあっという間のことで、あの時何が起きて、そして自分が何をしたのかは、あまり記憶にない。いや、むしろその方がいいのかも知れないが、いずれにせよ、失意と怒りと深い悲しみに暮れながら、何とか父を見送ることはできた、はずだ。

父の命日を迎えるたびに「ああ、今年もこの日が来たか...。」と思うが、もう何年経った、という感覚は微塵もない。むしろ、あの日の鮮烈な記憶が蘇ってくる。父に対して何もしてあげられなかった僕が、そうやって父のことをまた思い出す、9月7日はそんな特別な日だ。

気がつくと厄年を迎え、今年は既にいろんなことがあった。大好きだった祖母や恩師との別れ、妹の結婚...喜怒哀楽色々続いているが、今は、残り4ヶ月弱を無事に過ごすことができればそれでいいと思っている。
国地方問わず昨今の政治のドタバタ劇を傍目で観ながら、「父が今居なくて良かったな...」なんて不謹慎なことを思うこともしばしば。
父はあまりにも人が良すぎた。口や態度は悪かったが、本当に純粋な人間だった。そんな父は、僕にとって今でも誇りだ。

今日9月8日が過ぎると、また気分的に一つ区切りがつくことになるのだろうか。
いや、父が生き抜いた61年という年月に一歩一歩近づくにつれて、むしろ父への思いがますます強くなっていくのだろうか。

2012年4月18日

亡父の誕生日


今日4月18日は、4年前に亡くなった父の誕生日である。
生きていれば今年65歳になった父。
65歳になった父というのを見てみたかった、というのが今の率直な気持ちだ。

思えば父が誕生日を迎えようとも、家族が取り立てて何かお祝いをしたという記憶がまるでなく、せいぜい大好きだったキリンラガービールを多めに冷蔵庫に冷やしてみるとか、その程度のお祝いしかしなかったように思う。

しかし父亡き今、喪失してみて初めて気づくことがあったり、二度と戻らないものを執拗に求めてみたり、過去をずっと振り返ってみたり、そんなことを延々と繰り返しているような気がする。

事実、生前の頃の父と、遺影となった父を比較してみると、圧倒的に後者の方が尊重されている。

実は父が亡くなる直前、僕は父のことを相当蔑ろにしたような気がして、そのことは未だに僕の中で懺悔として残っている(そして多分僕は、一生そのことを後悔し、懺悔し続けるであろう)。

父に対する懺悔として今できることといえば、残された家族で支え合いながら、この世知辛い世の中を、何とか生きている姿を示すことぐらいだろうか。

ふと、昨年の今頃のことを思い出した。
昨年は、「今僕ができる精一杯の」こととして岩手県宮古市へ災害応援に向かい、その途中で父の誕生日を迎え、そして、改めて家族の絆というか、命の重みというか、そういったことをひしひしと感じていたんだった...。

僕と震災の被害に遭われた方々では、置かれていた環境がまるっきり異なる。
そして、震災で突然家や家族を失った方々の喪失感というのは計り知れないと思う。
でも、突然父を失った、という点においては、何となく家族を突然失ったという喪失感を共有することができるのではないか、なんてことをふと思ってみたり...。

父の仏前に、大好きだったキリンラガービールを供える。
ささやかながら乾杯。いや、献杯。

貴方の遺志は、僕の中で、静かに脈々と滾らせていきます。これも、僕が今できることの一つです。

父さん、誕生日おめでとう。

2011年2月 9日

父よ!

帰りの電車で、以前見かけたことのある、父にそっくりな男性が僕の真向かいに座った。まるで何かに引き寄せられるかのように、僕の真向かいに座った。年の具合、髪の毛の色、そのボリューム、皮膚の色、質感、眼鏡のフレームまで、まるで父がこの世にまた現れたような錯覚に捕らわれる。 父と異なる点を幾つか見いだすとすれば、父ほど髪の毛が縮れていないこと、父より幾分背が低く、そして痩身だという点だ。 そして、僕を虚ろな夢から目覚めさせる決定的な相違点。それは、父は決して赤い色のジャンパーには身を包まないということだ。 そんな父にそっくりな男性と対峙した僕は、まるでその男性の背後にある何かに興味があるかのように視線を送る。決して怪しまれぬよう、決してその男性と目が合わぬよう、男性の向こうにある窓の外の景色に向けるふりをして、父に似たその男性のディテール一つ一つを確認するように、遠巻きな視線をチラリと送る。 混雑する電車内、僕とその男性を遮るものはない。しかし、2メートルにも満たないその距離は、僕と父ではない赤の他人のその男性との間に、深く決して越えることのできない大きな溝を築く。 そう、これでいいのだ。父はもうこの世にはいないのだから。 しかしその男性は、一体どこからやってきてどこに帰るのだろう。そんな下世話なことを考えながら、そっと目を伏せる。 とめどなく溢れる父への思い。決して僕の中から消えることのない、父の残像...。 父よ!僕たちは慎ましやかに、そして健気に生きています。願わくば、父よ!一度でいいから!もう一度あなたに会いたい。そして父よ!もう一度あなたとじっくり膝を交えて話がしたい。 二度と叶う事のないそんな儚い夢を抱きながら、父への思いをそっと心に秘めながら、僕たち家族は父の分まで生きている。 いや、見えない父の後押しを受けながら、僕たちはこの世で生かされているのかもしれない。

2010年9月 7日

父の命日

今日、9月7日は父の命日である。あっという間の2年間のだったような、ついこの間のことだったような、何とも言えぬ感覚、そして間隔だった。

日曜日に三回忌法要を終えた後の会食の席上で、施主として一言挨拶を述べさせて貰った。

本当はもっと言わなければならないことがたくさんあったのだが、来て頂いた方々を待たせていたということもあり、手短に済ませた。なので、本当に言いたかったことの半分も言えなかったような気がする。

光陰矢のごとしとはいうものの、未だ心に空いた穴が塞がることはなく、父の影(陰)ばかりを追いかけていること。しかし、三回忌という節目を機に、父が導こうとしている一筋の光明を見いだすとともに、心に空いた穴を少しずつでも埋めて行かなければならないこと。

ただ、今日一番の主役なのに、その主役が不在ということには、やはりどうしても違和感を覚えてしまうこと。

残された我々家族は大きな幹を失い、細い枝葉ばかりが残ってしまったが、これからも各々が細いながらも支え合いながら、前を向いて進んでいくこと。
そのためにも、これまで同様、いや、これまで以上のご厚情やご指導を皆さんから賜らねばならないこと、などなど...。

本当はもう一つ言いたいことがあったのだが、あまりにも生々しく、かつシュールな話なので、そっと胸の内にとどめておこう。

2年前、突然父が亡くなってから怒濤のごとく続いた日々はあまりにもハード過ぎて、一部記憶が欠落している部分もあるのだが、一生忘れることはないだろし、一生忘れられないだろう。
そして、いつか心に空いた穴が埋まる日が来るのかと言われれば、それは父に対してのいろんな思いが埋まるということであり、一生あり得ないことだと思っている。

せめて命日ぐらいは一日ゆっくり父への思いを馳せても誰も文句は言わないだろうが、生前の父が行ってきた数々の行動を思えば、父に対する哀悼の思いを仕事で紛らわすということもアリかも知れない(もっとも今日は、あまり仕事が手に付かなかったというのが正直なところではあるが)。

根が生真面目だった分、酒の勢いに任せて数々の失言暴言を繰り返し、信頼も損ねた父。

しかしながら残された僕たちは、その父が築き上げた人脈によって支えられているというのも事実だ。

父の生き方は、誰が何と言おうと胸を張って誇れるものだし、我々家族誰しもがそういう思いを抱いている(はずだ)。

最近また、やたらと父の遺志を継ぎたがっている人、いや、既に継いでいるという人も弘前市内に大勢いるようだが、本当の意味で父の遺志を継ぐことが出来るのは、我々家族でしかない。

そのことだけは、もう一度この場を借りてハッキリと言わせて頂こう。

2010年8月 3日

ねぷたバカの三回忌

弘前市内はこの時期になると、あちらこちらからねぷた囃子の音が聞こえてくる。ねぷたまつり2日目の昨晩も、22時過ぎに隣の町内会のねぷた囃子が響いてきた。今朝になって知ったことだが、この町内会は8年連続で「県知事賞」(ねぷたまつりの最高賞)を今年も受賞したそうだ。恐らくこれから6日までの連日、22時過ぎにはねぷた囃子が響いてくることだろう。

うちの町内会もねぷたを出陣させているが、賞などお構いなし、もはや出ることに意義がある、といった雰囲気だ。僕自身、ねぷた自体は嫌いではないが、かれこれ20年以上町内のねぷたには顔を出していない。厳密に言えば、ねぷたそのものを10年以上まともに鑑賞していないのだ。

町内のねぷた小屋ではまつりに向けて、平日は夜間、土日となると昼夜問わず作業が続いていた。
しかし、父の遺志を胸に何かお手伝いしたい反面、作業をしている人がある程度高齢化かつ固定化されてくると、逆に入る余地がないというか、敷居が高くなりすぎているというか...。(という都合のいい言い訳。)

ちなみにうちの父は、バカがつくほどねぷた好きだった。いや、「まつり」が好きだった。「まつりごと」も好きだったようだが(笑)。

ねぷたの運行期間ともなれば、連日のようにあちらこちらのねぷたに顔を出してはビールを浴びるだけ飲む。要するに、ねぷたが好きなのではなく、ねぷたに乗じて大手を振ってビールを飲む機会が与えられるということが、父をねぷたに駆り立てる一番の理由だったのだろう。

その一方で、肩書きだけではあったが、町内のねぷた愛好会会長という役職も頂いていて、ねぷた運行の際には「運行責任者」なんていう仰々しい襷を肩から提げつつ、運行が終わり、ねぷた小屋の清掃や片付けが始まる頃にはベロベロに酔っ払っていたであろう父。

かといって何か作業を手伝うといったことはほとんどなく、僕の記憶では僕が高校生の頃に、出陣のために待機場所までねぷたを牽引していったことが一度あったかどうか(ちなみにうちの町内は待機場所まで比較的近いため、当時は人力で牽引して行った)。

そう考えると、父は恐らく相当数の方々にご迷惑を掛けたことだろうと思うし、相も変わらぬ暴言で大勢の方々を不快な思いにさせたことだろう。長男として、まさに忸怩たる思いだ。

しかし僕自身、弘前市民でありながらここ最近はねぷたを鑑賞する機会がほとんどなくなった。青森市内の職場と家の往復で、しかも青森市ではねぶた祭りも開催されている。ねぶたの観覧客に紛れ、職場から青森駅にたどり着くまでも一苦労、電車に揺られて帰るのもやっとなのに、わざわざねぷたを観に行こうという気分にならないのだ。
もっとも、弘前駅に到着し家に向かうと、小屋に戻る途中のねぷたと遭遇する機会はあるものの、ドッカリと腰を落ち着かせ、次から次へとやってくる扇に描かれたねぷたに拍手喝采、という機会がなくなったのだ。

...いや、前述のとおり、敢えてそういう機会を避けているといってもいいだろう。
ただ、理由は他にもある。

父が居なくなってから、ねぷたを観る気はますます失せてしまったし、優雅に進むねぷた運行の列に、缶ビール片手に喜色満面の笑みを浮かべる父の幻影を求めてしまいそうな気がしてならないのだ(もっとも、晩年はそういうこともあまりなかったようだが)。

弘前ねぷたは、18世紀初頭以降、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆灯籠などから変化して、華麗に発展してきたというのが定説となっている。

しかし、バカがつくほどねぷた好きだった父のことだ。
ねぷた囃子の音色に誘われるがまま、お盆が待ちきれなくなってどこかの町内会に紛れて缶ビール片手に一杯引っかけているかも知れない。いや、一杯と言わず、ベロンベロンになっているかも知れない。

ねぷたは、津軽地方の夜空を焦がす短い夏の風物詩。
ねぷたが終わると、一気に秋めいてくる。

そして、もうすぐ父の三回忌がやってくる。

2010年4月27日

最近見た夢と父の影

発売日前日に発送メールが届いたにもかかわらず、3日もかかってようやく配達された村上春樹著の『1Q84 BOOK3』は、いよいよ佳境に入ろうとしています。相変わらず現実と非現実が交錯した世界といいましょうか、不思議な村上ワールドに引き込まれたまま、僕も今過ごしている世界が現実なのか非現実なのか、よくわからなくなってきました。夢かうつつか幻か。
というわけで最近変な夢ばっかり見ているのですが、いつもであれば目覚めた途端に夢なんて忘れてしまっているのに、妙に頭に残る夢が続いています。

例えば...

・いかにも腕の悪そうな歯医者に行き、診察室のいすに座った途端、強面の男性二人が僕を取り囲み、いきなり鼻毛を切り始めた、という夢。
・仕事をしていると電話が鳴り、受話器を取ると知り合いの方からの電話だった。妙に明るい声で「○○さんがさっき亡くなったんだよ。」と言い始める夢...。
・気がつくとプロレスのリングに立っていて、タッグチームを編成している。相手は見たこともない外人レスラー。いきなり僕をターゲットに襲いかかり、羽交い締めにされたのだが、何故か耳元で何かを囁き、それ以外の技を掛けてこないという夢。

これが何を暗示しているのかはわかりません。ただ、実は父が亡くなる1年ほど前から、やたらと葬式の夢を見ていたので、ひょっとしたら来年の今頃僕は、歯の悪い鼻毛の伸びたプロレスラーになっているかも知れません。

で、その父の話なのですが、最近父のそっくりさん目撃情報を耳にしまして...。つい先日、僕自身も弘前に向かう電車の車内で、白髪の増えた髪型、赤みがかった頬の質感、目の奥行き(プラス眼鏡)と、父を断片的に貼り合わせたような、何か微妙なんだけど、とても父によく似た人を目撃しており、手に持っていた本を思わず落としそうになった、ということがあったばかり。
日曜日に家を訪れてきたその人も、助手席に女性を乗せ、車を運転する父のそっくりさんとすれ違い、思わず前の車に追突しそうなくらい狼狽した、とのこと。

おそらく同じ人だとは思うのですが、僕が見た人は、父と違って非常に小柄だったので、それで急に現実に戻った、というオチがありました。まさか、父が生き返るわけもないし...。

ただ、最近僕の身の回りではちょっと不思議なことが起き始めておりまして(それが何なのかは、お話しできませんが)、これも何か最近見ている変な夢とかそういうことと繋がっているのかなぁ、と思ったりして。

もうすぐGWですね。妹も帰省予定ですので、また父の思い出話に浸ってみたいと思います。

2010年1月12日

自己表現

最近、自己表現が物凄く下手になったと思う。
ついでに言えば、何かの壁にぶち当たって、萎縮してしまっているような感じ。
眼光鋭い猛獣に睨まれ、行き場をなくした小動物のような...。

父が亡くなった直後から僕は、表面上は他人事のように平静を装いつつ、内面では父への思いを巡らせては塞ぎ込んでいたのだが、どうも未だにその殻を脱ぎ捨てることができずにいるらしい。

亥年生まれの父は、自分の行動を都合よく「猪突猛進」と称していた。要するに向こう見ずで、他人の助言には耳を傾けようとはせず、とことん我を通そうとするスタイルだったし、その中にあっていつも余計な一言が多いタイプだったので、その分理解も得られず、敵も多かった。

同じく亥年生まれの僕も、少なくとも柳のように、あっちへフラフラこっちへフラフラというタイプではなく、どちらかと言えば我を曲げないタイプ。更に、父同様根っからの天の邪鬼で、肝っ玉が小さい。
こんな調子なので、世渡りが下手くそ。上司からすれば物凄く扱いにくいタイプなのだろう。
一人出世街道の裏通りで、迷走を続けている。

強者と弱者がいれば、強者に荷担するのではなく、弱者に手を差し伸べたくなる。長いものには巻かれたくない。持論を押しつけられるのはとにかく苦手。圧倒的過半数で物事が決められた時は、少数に目を向ける。
群れで行動するのはどうも苦手。右手をご覧下さいと言われると一斉に右を向いて「ほほー!」と驚嘆の声を上げる観光バスなんて、もってのほか。群れからちょっとだけ距離を置いて、全体を眺めているのが好きだった。かといって、社会のルールも守れないような連中は大嫌い。
組織という大きな器の中では、社員は一つの歯車であるということを言われるが、僕みたいなヤツは居ても居なくても歯車が狂い出すことなんてないし、組織なんて所詮そんなものなんだと、妙に醒めた目で見てしまう。

父と僕が大きく異なる点は、父が率先していろんなことに取り組んだのに対して、僕はどちらかと言えば取りあえず静観するという姿勢にあることだ。

僕にとって父は「反面教師」であり、一生追いつき、追い抜くことのできない存在だった。
いい意味でも悪い意味でも「ああいう生き方はしたくない」と思わせるような男だった。
ただ、生前の父のことを「男らしい」と思ったことは、よく考えてみると一度としてなかったような気がする。でも、父の生き様を振り返ると、自己を犠牲にしてまで他人に尽くし、一貫して信念を曲げなかったこと、その中において父という存在をきちんと自己表現していたことは、男らしいと感じさせるに十分だった。

この世に別れを告げた父は、今どんな思いで僕のことを見ているのだろうか。
今年に入り、僕は自問自答を繰り返している。
ぶち当たっている壁は自分が作ったものではないのか。睨みをきかせている眼光鋭い猛獣は、実は自分自身ではないのか。結局自分自身の殻を破れない、いや破らないだけではないのか、と。

どうやら雪解けの頃には、得体の知れないビッグウェーヴがやって来そうな気がする。
ただ、その波が乗るべき波なのか、あるいは飲み込まれてしまうような大津波なのかは、今のところわからない。

このまま僕は自己表現もできず、悶々と裏通りで迷走を続けるのだろうか。
あるいは、敷かれたレールの上を黙々と走り続けるのだろうか。
ただこれは、一番楽な方法でもあり、この先も特段苦労することはないだろう。
しかし、敷かれたレールそのものは、僕の意志とは違う方向へと誘っているのかも知れない。
そのことに気づいた時、果たして僕は軌道修正できるだろうか。

2009年9月 8日

父の一周忌

9月7日は、父の一周忌だった。しかし僕の中では、父と対面したのが翌8日だったということもあって、なんとなく今日の方が一周忌という感覚がある。

この日曜日(6日)に、父の一周忌法要をとり行った。親戚や友人など60名近くの人が集まり、父の在りし日の姿に思いを馳せた。読経が流れる中、ぼんやりと父の遺影を眺めながら、ふすまの横からガニ股の父が、何かはにかんだような表情で、ニヤニヤしながらこちらを覗いているような錯覚にとらわれた。
多分、父の懇意にしていた人たちが大勢集まってくれたことを、父も喜んでいるのだろう。

お寺本堂でのおつとめを終え、ある方が僕にかけてくださった何気ない一言が、ジッと耐えていた僕の心を激しく揺さぶった。不覚にも僕は、その場で大粒の涙を零してしまった。
いや、でもこれは僕の涙ではなく、父の涙なのかも知れない。そう思うと溢れ出る涙を止めることはできなかった。
一年経つと落ち着く。いろんな人から言われてきたことだ。しかし、実際この一年はあまりに早すぎて、まるでついこの間のことのように思えてならない、というのが実情だ。正直言って僕は、全然落ち着いてなんていなかった。

法事を終え、会食の場に席を移し、施主として挨拶を述べさせていただいた。例のごとく何を話したのかはあまり覚えていない。どうやらこの時ばかりは、父が憑依するらしい。

その後、急きょご指名となったK先生の献杯を終え、会食が始まった。この時も僕はK先生の挨拶に耳を傾けながら、涙を流していた。

お礼を兼ねて各席を回ったが、相変わらず父を巡る推測や憶測は一部で燻っているようだ。
だが僕はもうそういった話には一切耳を貸さないことにした。

ここにある真実はただ一つ。それは、誰にも真実はわからないということだ。

それにしても、自分たちで全てをこなそうとするには、あまりにも無理があった。
そりゃそうだ。一周忌法要なんてやったことないんだから。
ある方から、事前に何も相談しなかったことをやんわりと咎められながらも、何とか無事に一連のセレモニーを終えることができた。

父のことを話し出せば多分、一冊の本ができちゃうぐらいの思い出があるし、一冊の本でも足りないぐらいいろんな記憶を残していった人だった。残された僕たちができることは、そういった父を巡る記憶や記録の点と点を繋ぎ合わせていくことで、いつまでも父のことを心にとどめておくことだと思っている。そして、そのことが父にとって最良の供養になると確信している。

また、駆け足の一年が始まった。