2010年1月18日

大学は人生のバケーション?

先日のナンの話には若干名から好反応があった。気が向いたらまた近々続きの話を披露しようと思う。若干名の皆さん、お楽しみに(笑)。
さて、今日は続・続編というわけではないが、大学の頃を振り返ってみようと思う。

僕の出身大学は地元の国立大学だ。自宅からだと自転車で10分ほどの距離にある。高校の頃も自宅から至近距離にあったため、遠距離通学をしていた同級生からは「お前の家は学校の庭にあるようなものだ」と言われたが、大学も同じようなものだった。しかも大学内を歩くと、必ずといっていいほど高校時代の同期の連中と顔を合わせる。僕にとっての大学は、何か高校の延長みたいで、新鮮味の欠片も感じられなかった。

今思い返せば、どちらかと言えば理系肌だったのかも知れないが、迷うことなく文系に進み、日々研鑽を続け...るはずだった。ところが実際は連日バイトやデートに明け暮れ遊び呆ける始末、勉強の「べ」の字もしなかった。
高校時代の同期が「大学って、人生のバケーションだよな!」と言っていたが、なるほど確かにそういわれてみればそうだ。
教育学部に在籍していた彼、バケーションの度が過ぎたのか、結局教員にはならなかったけれど...。

僕が在籍していたのは経済学科。高校の時に政治経済の授業を一つも受けなかったのにこの学科を選択したのは、入学のしやすさがあったことは否定しないが、それ以外に、就職の際に何かと有利だと思い込んだからだ。

気がつくと既に卒業年次。何故か専門の単位数は既に取得しているのに、残ったのは教養の単位だけ。学科によってはこの時点で留年なのに、僕は大学4年の後期まで、まだ初々しい1年に紛れて教養の単位を取るのに必死になっていた。

このことについては未だに夢に出てくることがあって、「単位が足りないので再度講義を受けて下さい」と、大学内をウロウロする自分の姿。しかも、大体受講票の提出を忘れて、単位が取れなくなるというオチ。何度ハッと目が覚めたことだろう。

それはともかく、大学4年の途中でゼミの担当教官の海外留学が決まり、その時点で卒論の提出がなくなった(レポートの提出のみで単位取得)。なので、大学4年の後期は週一回教養学部に通った程度。今思えば凄いゼミにいたものだ。
結局、他の人たちが必死になって卒論の作成に勤しんでいる頃、僕はといえば、のほほんとバイト三昧。バブル崩壊直後ではあったが、大した就職活動もせず、何も考えずに受験したところ、運良く合格した職場に就職、結果今の僕がある。ちなみに余談ではあるが、僕はもう一つ同じ業種を受験していて、そちらも一次試験はクリア。10倍を軽く超える難関だったようだが、後で聞いた話では、一次試験の成績は片手に入るぐらいの順位だったらしい。ちょっとした自慢ではあったが、関係者から又聞きした話なので、それがホントかウソか知る術もなく、結局そちらの業種については二次試験を辞退した。
そして実は、もう一つ民間企業の内示も頂いていたのだが、後にこの会社は事業整理に追われることとなった。
なので、今となってはこの取捨選択は間違いではなかったと思うし、もしも選択を変えていたならば、僕の労苦というのは想像を絶するものになっていたことだろう。

今勤めている業種には、同期の輩が10人ぐらい受験していたのだろうか。その中で、たまたま同じ部に配属になった3名は、今も当時のままの縁で結ばれているし、そのうち一人は、現在同じ課の同僚でもある。

本当はもう一人いたはずなのだが、思い半ばで断念せざるを得なかった輩もいる。

Y君は僕の高校時代からの同級生だったのだが、僕以上に大学に姿を現さない男だった。どちらかといえば消極的で影も薄く、同期の連中の中でもY君のことを鮮明に覚えている人は少ないようだ。
4年次にゼミの代表を任された僕は、ゼミの教官に呼ばれ、高校時代の同級生でもあるY君の出席をゼミ長として促すようお願いされた。しかし、それでもY君は大学に姿を現す回数は少なく、出席率はきわめて低かった。今思えば、その頃から「前兆」が合ったのかも知れない。
結局僕もY君については匙を投げる格好になり、少しずつ疎遠になっていった。

そのY君も、今僕のいる職場の一次試験に合格したことを本人からの電話で聞いた。あのY君も一次試験合格?一瞬耳を疑ったのだが、一次試験に合格したことで、てっきりY君も同じ業種にやってくるものと思いきや、Y君は二次試験を受験しなかったことを後になって人づてに聞いた。一次試験終了後の身体検査で引っかかり、そのまま病院に入ったというのだ。
その後、正直言ってY君のことなどほとんど忘れていたのだが、久し振りに彼の名前を見たのは、弘前ねぷたまつりが始まった平成9年の8月初旬、地元新聞のお悔やみ欄だった。検査の結果白血病と診断された彼は、4年にわたり闘病生活を続け、結局一度も社会に復帰することなく、この世に別れを告げてしまったのだ。

まさにこのことを青天の霹靂というのだろうか、新聞に彼の名前を見つけた途端、絶句したままその場から動けなくなった。Y君が、死んだ?同じゼミの仲間として、もっと積極的に彼を大学に呼び込まなかったこと。彼の見舞いにも行かなかったこと。彼に対して忸怩たる思いばかりがこみ上げるとともに、彼とのわずか6年ほどの思い出が走馬燈のように駆け巡った。

当時八戸市にいた僕は、結局仕事の都合でお葬式に行く時間も作ることができぬまま、八戸の空を見上げ、合掌するしかなかった。
あの日Y君に誓った約束を、今一度思い返さなければ...。

ということでY君を含め、この頃の友人とは、それほど深い付き合いをしているつもりはなかった。まあ、年に一度、年賀状でお互いの安否を確認するぐらいといったところだろう。
それでも、思いがけぬところでバッタリ出くわしたり、ふと思い出した頃に突然電話がやって来たりと、僕が思っている以上に何か見えない縁があるらしい。

人生のバケーションを過ごした面々とは、幾度となく「一度みんなで集まろう」という話が持ち上がっては消え、また立ち上がっては消えで、かれこれ15年以上が過ぎた。この頃の仲間の中には既に厄年を過ぎてしまった人もいる。今までなかなか皆が一堂に会することがないのは、一番最年少で地元にいる僕が動かないからだ、と言われていたのだが、今年2月にようやく集まる機運を高めたら、何と今週末に別メンバーが既に予定を組んでいたらしく、年賀状に「23日よろしく。」とだけメッセージが書かれていた。

ということで今週末、懐かしい人では卒業以来約17年振りの再会となるイベントに出席予定。
さて、各々方は当時の面影が残っているのか、それとも...。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://nonvey.oops.jp/cgi/mt/mt-tb.cgi/1086

コメントする