2010年3月 6日

自死という生き方 - 覚悟して逝った哲学者

ようやくこの書籍の感想を書く気になった。

とんでもない本を手にしてしまったな、というのが全て読み終えた後の感想だ。
というか、本書を読み終えて感想を述べている多くの人が、同じような感想を抱いているようだ。

本書の著者である須原一秀氏は、社会思想哲学を専門的に扱う学者であった。
しかし彼は、「一つの哲学的プロジェクト」として自らの命を絶つと家族以外の友人に宣言し、2006年4月、自らの手でこの世を去った。享年65歳。

本書は、その後に発見された遺稿である。
その内容は、「老い」を回避するため、その代償として「自死」を勧めるという非常に過激な内容だ。
事実著者は、取り立てて何の弊害もなく、快活で健康的な生活を送っていたようで(60代後半で体脂肪率一桁台を保っていたらしい)、突然の死により残された家族も、筆者が自死に至った理由がわからず、酷く狼狽したようだ。

本書の中で筆者は、ソクラテス、伊丹十三、三島由紀夫の三名が自死に至らなければならなかった理由を、過去の文献その他から探っている。彼らがすぐに死ななければならない理由などなかった。そして、ソクラテスの場合はいわば殉死だったかも知れないが、伊丹も三島も、既に人生を十分に謳歌しており、ちょっとしたきっかけが、自死に導いたのだ、と結論づけている(特に伊丹の場合、自らの著書で「楽しいうちに死にたい」と述べている、という)。これを筆者は、「積極的な死の受容」という表現を用いている。

また、ヌーランドという作家による「眠るような自然死の否定」を引き合いに出し、そもそも「安らかな死」や「眠るがこごとき」死、つまり「老衰」などというのはあり得ないことで、「死」に至るまでは、想像を絶するような痛みや苦痛を伴うのだということを説いている。
確かに病院のベッドの上でたくさんの器具やチューブを挿され、苦痛に喘いで死を迎える終末患者は大勢いることだろう。

筆者が言いたいのは、恐ろしいのは「死」そのものではなく、「死の直前に迎える苦痛」だということのようだ。果たして、そんな苦痛を強いてまで「生きる」必要があるのだろうか、ということを述べている。
そして、中高年者による自殺肯定論、下手をすれば自殺推奨論にもなりかねないような理論を説いているのである。

筆者の実母が病に倒れ死が近づいた時に、筆者は延命治療をするのではなく、医師に頼んで静かにかつ速やかに見送った。その時、何故延命治療を止めたのか、周囲から顰蹙を買ったが、全く後悔はなかったといったことを述べている。一方で、義父が病に倒れ、死の直前、長時間にわたり苦痛に晒されている姿を見て、延命治療を止めることが出来なかったことを悔やんでいる。そして筆者は、これを「二人称の死」と「三人称の死」と述べている。

筆者によると、死の直前にやってくる(誰もが経験しなければならない)痛みは、事故に遭った後長時間にわたる苦痛と同じだというのである。そんな苦痛を伴うような「死」を迎えるぐらいなら、「自死」という生き方を過ごした方がよい、というのが筆者の理論だ。

確かに誰にとっても「死」は恐ろしいものだろう。ひょっとしたら明日目が覚めぬまま、身体が硬直し、冷たくなっているかも知れない。突然車がぶつかってき て、死に至るかも知れない。乗っていた飛行機がたまたま墜落することだって考えられる。

しかし、何故「死」が恐ろしいのか、誰にも説明することは出来ないはずだ。かつて丹波哲郎が「死後の世界」を肯定したように、ひょっとしたら「あちらの世界」だって存在するのかも知れないが、それを証明できるものは、今の社会にはない(宗教とかそういうのは別として)。そう考えると筆者が説くように、我々が真に恐れているのは、「死」そのものではなく「死の直前の想像を絶する苦痛」だというのも、一理あるような気がするのだ。

ただ、釈然としないのは、筆者が徹底して老いることを否定する一方で自死を肯定すること、さらには自らの死という形でそれを証明し、かつ本書で裏付けなければならなかった理由がわからないということだ。

本書の最後では、筆者が自死を決断し、それに向かうまでの日記が綴られている。その内容は、死を決断した人とは思えないほど極めて淡々としている。しかも、時にはユーモアを交えたような、まるでそれは「三人称の死」を傍観しているようにも受け取れる。さらに不思議なことに、自らの死、すなわち「一人称の死」を淡々と綴っている一方で、周囲の友人にその決意を告げると、ビックリしながらもみんな真正面から受け入れてくれた、と言っている。しかし、僕はそう思わない。それは、筆者の都合の良い解釈だと思う。

実は筆者が本気で自死を考えているなどと、誰も思っていなかったのではないだろうか。もし「本気で自死を考えている」と告げられたら、それをやめさせるよう説得するのが本当の友人であり、人間として当然すべきことと思う。それを、「死にたい?どうぞどうぞ」と理解を示したなんて解釈するのは、もはや狂気の沙汰としか思えない。哲学的なプロジェクト、とは言いながら、筆者が「その日」と決めた日に近づくにつれて焦りを覚え始めているということが、「死ななければならない」と精神的に追い込まれている論拠ではないか。

しかし筆者は、何故それを「一つの哲学的プロジェクト」と位置づけ、自死に至らなければならなかったのだろう。死の直前、精神状態を極限まで追い込むことに、苦痛は生じないのだろうか。結局その理由だけは、最後まで見出すことができなかった。

一つ付け加えておかなければならないことがある。何故僕がこの書を手に取り、購入に至ったか。
決して興味本位という思いだけでこの本を手にしたのではない。

少し話が逸れるが僕は、国や地方自治体が掲げる自殺予防対策が果たして何の効果を及ぼしているのか常々疑問を抱いている。ハッキリ言って、「自殺予防対策否定論者」だ。
つい先日まで青森県内でも、生きているから...と暢気に唄っているCMが流れていたが、あんなのが自殺予防に繋がるというのであれば、CDを全国発売すれはいい。そして、その対策が本当に効果を表しているのであれば、人口が減っているのに自殺者が増え続けているという現実を、どう説明するのか。自殺防止の啓蒙活動そのものを否定するつもりはないが、パンフレットを作りました、ポスターを作りました、そんなことで自殺者が減るのであれば、もっと予算を増やせばいい。結局のところ、国や自治体がいうところの自殺予防対策というのは、「三人称の死」を見据えたものであり、「二人称の死」を知らない人たちがああだこうだといったところで、そんなのは「頭ではわかっているけど...」のレベルでしかないのだ、と僕は思う。

本当に死に気持ちが向いている人は、そんな目先のことには目もくれないということだし、逆に軽々しく「死」を口にする人は、そんな簡単には死なない、ということだ(極論すれば、腹がよじれるほど笑い転げ、涙を流しながら「死ぬ~」と口走った人が、本当にそのまま死んだのを見たことがありますか?)。

結局、所詮国や地方自治体のいう自殺予防対策なんて、「一応こんなのもやってますよ」みたいなパフォーマンスでしかないし、抜本的な自殺予防の方法なんて、エイズの治療薬と同様に今はまだ開発されていないだろうというのが事実ではないのか?そんなに自殺予防に力を入れるのであれば、インフルエンザみたいに自殺予防のワクチンでも作ればいい。そんなことはできるはずがないし、できないこともわかっている。だからこそ、軽々しく「自殺予防」と連呼されるのが歯痒くもあり、癪なのだ。

そこまでいうのであれば、一つ間違えば自殺を推奨すると捉えられるような本書は、発禁にすべきなのではないか。そんなことまで考えながら本書を手に取った。

1年半前の父の死。へぇ、大変でしたね...なんていう「三人称の死」ではない。僕にとって、紛れもなく「二人称の死」だ。
父がこの世を去るまで、その兆候に薄々気づいていながら止めることが出来なかったことを、僕は今も悔いている。
父が地位も名誉もかなぐり捨て、自らの死をもってまでして守り通したかったものは何だったのか。父にとってそれは、「積極的な」死の受容だったのか。単に我々家族を守るためだったのか。今となってそのことを知る術は、ない。
僕が本書を手に取った理由、それは、改めて父の死を受容したいという思い、ただその理由からだ。社会的には忌み嫌われる自死という行為が、父にとっても家族にとっても「大きな意味」を持つものだったのだと肯定したかったからだ。

この書籍を読破するまでは、相当のエネルギーを費やすことになったことを申し添えておく。
そして、本書を読み終えて、本書を手にした目的が叶ったかどうかは、今はわからない。

ただ、父の死を止められなかったのは自分のせいだと背負い込むことは、以前よりなくなったような気がする。

最後に。

これから本書を手に取る人たちにお願いがあります。

この本は、自殺指南書ではありません。
どうか、周囲や家族を悲しませるようなことはしないで下さい。
死して何かを証明できるということは、ありません。
あなたがこの世に生きていることには、必ず意味があるはずです。
どうか、生きて下さい。

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コメント[2]

お疲れ様です。
わたしもこの本が出たときひどく狼狽して、目を背けるのに必死な思いでした。
読んでないので何ともですが、自死への衝動というのは「生」とかけ離れた全く別の衝動だと思います。
ただ、家族が苦しまないように存在のうちにそれさえも配慮し、日々を生きた彼女をわたしはすごいと思います。

なんというのか、、、こういう話もいずれ出来たらいいですね。
時間は過ごすものだなと思います。
守られたとしたなら尚のこと、ちゃんと過ごそうと思います。

テレビや新聞で「自殺」という言葉を目にするたびに動揺していましたが、日常のように氾濫している現状では、どうにもならないことを悟りました。最も我が家の場合、テレビや新聞でも大きく取り上げられてしまったわけで、そのことが逆に「開き直り」にも繋がっているのかも知れません...。

この筆者の凄いところは、衝動的ではなく、計画的な「自死」だったということです。ただ、哲学的な云々、ということなのであれば、死して何を証明したかったのかというところがしっくり来ません。

大丈夫。時が経てば、こういう話も出来るようになってきますよ。時間って無情でもあるけれど、妙薬でもあるのです。

あ、そういえば新年会どうする?(笑)

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