2016年6月16日

2015年の総括(ランニング篇)

2015年の走行距離は、(室内ランも含めて)だいたい1,900キロでした。 月平均すると158キロぐらいですか。 まあ、この数字が多いのか少ないのかはよくわかりませんが、仕事の関係でグループの閉鎖という大仕事を背負った1月から3月までの超繁忙期を鑑みると、まあまあ頑張った方かも知れません。...あ、でも1月~3月は外を走る機会がガクンと落ちるんだった。 今シーズンはランニングを始めて8年目だったのかな?大きな飛躍はなかった一方で、怪我は大きくも小さくもちょこちょこやらかしました。 4月末の花巻ハーフマラソン前日に軽い肉離れを起こしたらしく、翌日の本番は10キロまで自己ベストペースで走ったものの、その後右脚ふくらはぎに痛みが生じて撃沈。 5月末の五所川原市走れメロスはコースが短かったらしいけれど、非公式ながら自己ベスト更新。 6月の平川市たけのこマラソンの直前、歩くのも辛いぐらいの痛みを発症し、診察の結果「アキレス腱周囲炎」、大会前日に初めて足首に注射をぶち込むという強行に出た結果、コースでの自己ベストを更新。 8月、メロンだけのために出場した男鹿市の日本海メロンマラソンは、東京からやってきた某Y氏とおしゃべりラン、27度という気温の中で最初から記録は狙わず100分でゴール。 8月の北海道マラソンは、昨年辛酸を舐めたということで、何とか自己ベスト更新!という意気込みとは裏腹に、折り返し後の向かい風にやられ、それでも昨年の記録より15分縮めてゴール。 9月の田沢湖マラソン、北海道の勢いをそのままに、と走り出したのはよかったものの、30キロから大失速、昨年のサブ3.5の再現どころか、今季ワーストのタイムで撃沈。 10月、弘前・白神アップルマラソンで4時間30分のペースセッターを務め、初めて走るペースに戸惑いを覚えつつも、サブ4.5を狙うランナーを最後まで鼓舞しながらゴール。この時に、最後までフルマラソンを走り切るにはどうすべきかという感覚を思い出した感じ。 続く岩木スカイラインを舞台にしたチャレンジヒルクライムランは、標高差800メートルということで脚への負担も考えて、約10キロを80分という超ゆっくりラン。 11月、満を持しての第1回さいたま国際マラソン、制限時間4時間、細かいアップダウンの続くなかなか厳しいコースと言われながら、最初から最後までほとんどペースを変えることなく自己ベストでゴール。 ...といった感じで、とにかく今年はムラがありすぎました。調子がいい時と悪い時の差が、ちょっと酷かったですね。 その中で、ハーフ、フルともにひとまずベストタイムを弾き出すことができたのはラッキーでした。 まあ、ハーフやフルを生まれて初めて走った時がちょっとちょっと...だったので、その時から比べたらハーフは5分、フルは10分しか縮んでいないんですけど...。(ちなみに昨年からはハーフで3分、フルでも3分縮んだだけです。) いずれにせよ、「あせらずあわてずあきらめず」、楽しく最後まで走りきることを心掛けながら、新しい年を迎えようと思います。 さて、来年の目標は...心のうちに秘めておこうと思います。そんなの他人様にベラベラ話すものじゃないな、ということを悟った今年のランニングでした。 強いて挙げるなら来年は、一から土台を作り直しかな。リフォームではなく、新築するぐらいの気持ちで出直そうかと思っています。 余談ではありますが、今月60キロしか走っていません。大会が終わっちゃうと、所詮そんなものです。 _20151228_161204

2015年の総括(音楽篇)

クリスマスが終わった途端、すっかり年越しムード。飾られていたクリスマスツリーは門松に置き換えられ、街の喧騒が一層激しさを増しています。 さて、2015年も残り僅か。いろいろ今年を振り返る時期に差し掛かっておりますが、個人的には今年は積極的な活動をしなかった年だな、と思っています。 恐らく一番の要因としては、5年間勤務した部署から異動となり、新しい職場での仕事の内容を叩き込むのに必死で、自分自身の感覚をなかなか掴めなかったことが挙げられます。まあ、こういう職種に就いた以上、40代半ばになろうとも50代になろうとも、それまで見たことも聞いたこともないような仕事に就くことはやむを得ないこと。取りあえず来年3月までは、年度単位で考えたときにどういう流れで仕事が進んでいくのかという、いわゆる時流を捉えることが肝要になってくるはず。まして県内全域を相手にしているとなればなおさらです。いつ何時どこの土地に行こうとも、そういう時流をいち早く捉えて自分のペースを合わせていくことが必要になるということを、これまでも幾度となく経験してきました。 それにしても、もうすぐ45歳となるにあたり、僕は時流を捉えるという作業をこの先何度経験することになるのでしょうか...。 閑話休題。 今年聴いた音楽を振り返ってみたいと思います。温故知新とは言いますが、結局今年も昔から聴いていたアーティストが中心となってしまいました。 浜田省吾 / Journey of a Songwriter 旅するソングライター 約10年ぶりとなるオリジナル・アルバム。僕の中では既に名盤と呼ぶに相応しい一枚だと確信に変わりつつあります。不思議なリズムのドラムからスタートするこのアルバムは、これまで築き上げてきた揺るぎない彼の信念というか、「優しさ」や「暖かさ」に包まれたアルバムだと僕は感じています。10年という月日は、長くもあり短くもあり。戦後70年という節目の時を迎え、10年の間には東日本大震災という未曾有の天災も経験しました。志半ばにして命を落とした人達に対する鎮魂の思いや、どん底から少しずつ立ち上がろうとしている人達への激励、そんなことを感ぜずにはいられない一枚。このタイトルを冠したツアーが行われており、青森でその公演を観ましたが、そちらも凄く良かったです。 佐橋佳幸 / 佐橋佳幸の仕事 1983‐2015 Time Passes On プロレスで言うならば藤原喜明か木戸修か。主役にはなれないが、ギラリと光るいぶし銀のような存在。佐橋佳幸とは、そんな人物だと思います。誰とタッグを組んでも、どんな楽曲でも対応できる...だからこそこのアルバムが斬新だったのだと思います。世の中、色んなオムニバスアルバムやトリビュートアルバムが発表されていますが、多分ここまでバラエティに富んだアルバムは、唯一無二ではないかと。ただ、惜しむらくは、発売元が限られていることでしょうか。 佐野元春 & THE COYOTE BAND / Blood Moon 1980年代をザ・ハートランド、1990年代後半をホーボーキング・バンドという、名うてのミュージシャンで固めたバンドを従えてきた彼が、2000年代半ばになって新たに組んだのは、新進気鋭の若手ミュージシャンで構成されたザ・コヨーテ・バンドでした。(ちなみに前出の佐橋さんは、ホーボーキング・バンドの一員でした。) 佐野元春 & THE COYOTE BANDでは3作目となるこの作品、メッセージ性の強いクセのある楽曲も多い中、個々の作品のクオリティの高さは、バンドとして成熟したことを端的に示すものだと思いますし、曲も歌詞も、しっかり時流を捉えていると思います。最初聴いたときは地味なアルバムだなあ、と思いましたが、地味な中に光る何かがあります。 Janet Jackson / UNBREAKABLE 7年ぶりに発表された通算11枚目のアルバム。「Control」そして「Rhythm Nation 1814」で彼女を一気にスターダムへとのし上げた盟友ともいうべきプロデューサー、ジャム&ルイスと久しぶりにタッグを組んだ快作です。一時期は何をやっても今ひとつパッとせず、近い将来「過去の人」に落ちぶれてしまうのではないかと危惧していましたが、いろいろ紆余曲折を経ながら辿り着いた「原点回帰」。これ、正解だと思いました。 もう、逆に「Rhythm Nation 2015」でいいんじゃないですか?と言いたくなるぐらい、どこか懐かしさすら感じるようなサウンドである一方で、他のミュージシャンとのコラボレーションがあったり、あれやこれやのエッセンスが詰まっていて、多分あの頃の彼女の曲が好きな皆さんならば、聴いてみる価値アリです。 しかし、自ら立ち上げたレーベルの名前が「Rhythm Nation」ですか...。なかなか呪縛から逃れることができないようですね。 Babyface / Return of The Tender Lover そういう意味では、ジャネット同様なかなか過去の栄光から抜け出せずにいるといってもいいアーティスト、Babyface。こちらはソロ名義の前作から8年ぶり、Toni Braxtonとの共作から1年ぶりというインターバルでの新作。まず、タイトルを見て驚きました。自身の過去の大ヒットアルバム「Tender Lover」を冠に据えた、まるで自身の作品に対するオマージュのようなタイトル。前回の共作アルバムを聴いたときに、さてこの人は一体この先何をやらかすんでしょうか...なんてことを思っていたら、何とこちらも「原点回帰」してしまいました。これだけでも充分驚きましたが、前述のジャム&ルイスやテディ・ライリーと並んでの敏腕プロデューサーの一角として君臨していたLaFaceの頃を彷彿させる、キャッチーでどこかAOR的なサウンドに、更に驚き。とりわけ80年代後半~90年代前半の洋楽ファンであれば、きっと懐かしさを感じるはず。40分強という、このご時世にしては非常に短い収録時間のアルバムではありますが、逆に濃縮されているような感じがして、実に心地良いです。 Prince / HITnRUN Phase One Prince / HITnRUN Phase Two 締めくくりはやはりこの方。前にもレビューしているので、こちらは簡単に。蓼食う虫も好き好きとは言いますが、彼ほど海外と日本とでの賞賛の差が激しいアーティストもいないのではないでしょうか。好きな人はとことん好き、嫌いな人は反吐が出るほど大嫌い。マイケルやマドンナのような華やかなシンボル的存在ではなく、どちらかと言えば毒々しくもありどこか気味の悪い存在として扱われ続けていることが、日本国内での彼の評価を下げている一因ではないかと思います。 そんな彼が未だに第一線に君臨している理由...それは、まさに時流を捉えているからなのだと思います。だって彼の楽曲って、皆さんの知らないうちに色んな番組で使われているんですよ。 そんな彼が今年の後半に入って立て続けに発表したアルバム。Phase OneはEDMを多用したどこかチープな仕上がりなのですが、聴けば聴くほど駄作というほどではないのかな?と思うようになってきました。そうして耳に馴染んできた頃に突如発表されたPhase Two。この2つはセットですね。互いに相容れないところはあると思うのですが、両輪として捉えた方がいいです。本当は最初から2枚組で発表したかったんだけど、Oneについてはちょっと実験的な要素もあったので様子見で、Twoの方はOneに対する反応や混沌とする社会情勢を踏まえたアンチテーゼみたいな感じで。...あ、全然簡単じゃなかったですね。すいません。

2016年6月13日

「第4回弘前城リレーマラソン」参戦記

当初、昨年に引き続いての仕事の都合で、参加を見送っていた今年の弘前城リレーマラソン。 ところが今年はその仕事が直前で立ち消えとなり、参加することが可能になりました!...とはいえ弘前公園ランニングクラブ本隊からは2チームがエントリーしていましたが、僕は既に参加できない旨を伝えていましたので、今回はからかいがてら応援をしに行こうかな、と思っていたのですが...。(いや、ホントに) 母校の弘高応援団が大会を盛り上げるということを知ったのは、Tキャプテンからの一報。応援団OBとして居ても立ってもいられなくなり、大会長のSさんに「オレも手伝いたい」と連絡を入れると、「お願いしたいことがもう一つある」と逆依頼。 それは、全盲ランナーとして弘前市内では知らない人がいないであろう、秋田修さんの伴走をして欲しいというものでした。 秋田さんはうちの父のことを知っており、アップルマラソンの時はフルマラソンの折り返し地点で父に声を掛けられたことなどを話していました(確かに当時、手伝いに駆り出されていたんです)。そして、ご本人から「是非今度一緒に走りましょう」と言われたことがありました。その時は軽い気持ちで「良いですよ!いつか一緒に走りましょう」とは言ったものの、伴走されている方々を見て、ただただ凄いなあ、という感想しか出てこず、自分に務まるはずがない、と思っていたのですが...。 ひとまず伴走についてSさんに「オレができるのであれば...」と了解した直後に、秋田さん本人から直接連絡があり、まずは一度試走してみたいということで、4日に約1時間半ほど弘前公園内を伴走してみました。正直、うまく務まったかどうかは分かりませんが、秋田さん直々に正式な伴走のオファー。元々リレーマラソンには出る予定もなかったので、快諾することとしました。 一方の応援団のお手伝い。表向きは「5人しかいない応援団と一緒に、エールを送って選手を応援したい。」というものでしたが、本心は「大会を盛り上げる一助になりたい。」という、それだけの話。 親子以上の年の差がある現役高校生の中に混じって、45歳のオッサンがエールを送る。以前から地元を盛り上げたいという思いを持っていましたが、その機会を得て舞台に立つということは、非常に名誉なのではないか、しかも、現役高校生と一緒にエールを送ることなんて、そんな簡単にできることではないんじゃないか、と考えるようになりました。 ただしこのことは誰にも口外せずに、当日のサプライズにしようということで、TキャプテンやS大会長らと口裏を合わせることにしました。 大会2日前の金曜日夕方に弘前高校へ出向き、現役の応援団員と初対面。話を聞くと決して安定的な活動ができているわけでもないらしく、昨年はほとんど活動を行わなかった、とのこと。我々の頃(といっても28年前)とは違って、応援練習の内容も変わってしまったらしく、応援歌も全部覚えていないのだそう。実際この日演舞を見たのは、外ではなく科学室の中でした。しかも試験期間中でのお手伝いということで、かなり恐縮してしまいましたが、30分ほどで当日の段取りについて大枠を決めました。 しかも、実行委員会の側でわざわざこの日のために学ランを用意してくれることに。 面白いことになるのかドン引きされるのかは、やってみなきゃわからない、ということで。 大会前日は秋田さんと2度目の試走。リレーマラソンのコースを走ってみようということで試走したところ、「もう1周、もう1周」のおかわり連発。恐らく秋田さんとの試走は12キロ程度だったと思いますが、家に戻ってみたらハーフマラソンを越える距離を2時間30分以上に渡って走っていました。しかし、一緒に走っているときのお話しは本当にハッとさせられることが多いです。なんか新しい気付きの扉をしらみつぶしにノックされているような、そんな感じなのです。考えてみると、父と同世代の人と一緒に走ることなんてないわけですよ。それが、同じ歩調同じスピードで一緒に走っているということ自体が、僕にとっては凄い経験というか、糧になるんです。 さて、大会当日は何かさっぱりしない天気。8時30分過ぎに会場に到着、まずは秋田さんのチームの皆さんに御挨拶。平均年齢60歳を越えたチーム構成、45歳の僕でも十分若手でした。実はこのチームのメンバーには、秋田さん以外にもうちの父が生前お世話になった方が何人かおられまして、僕が誰なのかを知った途端、そりゃビックリされたといったら、もう...。「小学生の頃、何回か会っているんだよなあ。」と感慨深げに語る皆さん。そして何より、僕の伴走がどんな感じなのか、興味津々の様子でした。というかですね、メンバーがたった6名って、ちょっと少なすぎるんですけど...。 本当は単独で走りたいところもありましたが、今回はあくまで秋田さんの伴走に徹することに。 まずは2走目で2周4キロ、そして最後21周目のアンカーで1周2キロの計6キロを伴走することになりました。秋田さんは僕以外のお二方の伴走により、計5周することになっていました。 しかし、10時のスタート直前には応援団のお手伝いをしなければならず、更に11時のハーフコーススタートでも、同じくエールを送らなければなりません。 かなりハードなスケジュールとなることが予想されましたが、受けた以上はやりきらなければならないという義務感が湧いていました。 それにしても、今まで色んな大会に出場していますが、この日はこれまでで一番緊張したかも知れません。 大会本部側でIさんから借りた短ランに袖を通し、下は自前の礼服、更に足下は雪駄、腰には手ぬぐいという蛮カラスタイル。現役高校生は皆さん袴姿ですので、僕の方が目立ってもやむを得ない格好でした。更衣室となったテント内で演舞の内容の最終確認と振りを合わせ、9時40分過ぎにテントを出ます。おもむろに外を闊歩すると、雪駄の音に好奇の目が向けられるのが分かります。が、当の本人は全く意に介することもなく、まるで現役学生のように準備。 FB_IMG_1465726832228 あ、そうそう。応援団の参加が決まった時に、僕も実行委員の中に名を連ねていましたので、演舞を行う場所をどこに確保しているのか、どういった内容で行えばいいのか、といったことを他のスタッフと打合せ。...しかし、普通の格好をしているスタッフと学生服に雪駄というスタイルの僕が打合せを行っている姿も、なかなか奇妙だったようです。 この間、僕の姿に気づいたランニングクラブや他のチームのメンバー、更にはスタッフまでもが驚きの表情でこちらを見ていますが、程なくそれは、笑顔に変わりました。そう、これでいいんです。こういう形で大会を盛り上げることができるのが、僕にとって本望なのですから。 DSC_0503 さて、演舞はいたってマジメに行いました。9時55分から都合2回。(なぜ2回行ったかというと、予想以上に演舞が早く終わり、間が持たなくなったという主催者側の事情がありました。) 後輩よりも大きな声で、エールを送ることができたんじゃないかと自認していましたが、周囲から沸き起こる拍手が実に気持ち良かったです。 FB_IMG_1465768142189 10時のスタートを見送ったあと、すぐに秋田さんを連れだって更衣室へ。学ランを脱いでTシャツ、ランパンのランニングモードへ切り替え。そして、襷受け渡しゾーンへと急ぎます。 10時20分過ぎ、2周を走り終えた第1走のランナーがやって来ました。いよいよ秋田さんの伴走、スタートです。伴走は3回目となりますが、練習の時とは雰囲気がまるで違います。襷を受け取り、秋田さんへ手渡し。秋田さんが御自身で襷を身につける間、足下の状況や進む方向の指示を出します。この間も、秋田さんに対する声援があちらこちらから聞こえています。意識したのは「危険回避」。しかし、緊張からか何度か的確な状況報告を行うことを忘れてしまったり、何よりも腕を上げて大きく振りすぎてしまったため、それが秋田さんに緊張感として伝わったらしく、「腕!腕下ろして!」と注意される場面もありました。 今回は(も?)コースが変わっており、アップダウンの他にカーブ(というかクランク)がたくさんあったり、砂利を踏む区間が多かったり、結構難儀しました。1周目が5分45秒とかなり早めでしたので、2周目はなるべく落ち着かせるよう走ったつもり。あとは、時々尋ねられる「角まであと何メートル?」との質問に、なるべく誤差が生じないように距離感を掴みながら走りました。 akitasan 僕の時計では平均6分を切っていましたので、最初はまずまずだったかな、と思っています。 ここから次の伴走までは相当時間が空くので、11時前の応援団活動を無事に終え、現役応援団にお礼と別れを伝えた後は、駆け抜ける仲間に声援を送り続けていました。 今回は、ランニングクラブの練習に参加している皆さんがいろんな他のチームで出場していたため、間髪入れずに目の前を駆け抜けていき、声援しているのが楽しくて仕方がありませんでした。 そうそう、いくら他のチームのお手伝いをしているとはいえ、「No Apple, No Life」の看板を捨てる気にはなれません。秋田さんが「No Appleの黒を着用する。」と前日に仰っていたので、僕は敢えて白のTシャツを着て参加しました。 最も早いチームでは、2時間30分程度でゴールしたようですが、うちのチーム(チーム名が「風前の灯」って、おい。笑)相変わらずゆっくりと歩を進めていました。本当にゴールできるんだろうか...という一抹の不安が。 結局14時過ぎ、僕の伴走による最終周回がスタート。既に大半のチームはゴールを終え、記念撮影をしていましたので、すっかり終わったような気分なんでしょうね。表彰式を終えた安堵感からか、まだコースを走っているランナーがいるのに自由気ままにコースを横断されるのは、かなりハラハラドキドキでした。 実際、コースを我が物顔で横断する人がたくさんいたため、結構な剣幕で「道を空けてください!」と声を荒げながら走路の確保に懸命でした。だって、ケガをさせたら元も子もないわけですよ。これぞ危険回避、安全確保ですよ。 事実、応援している目の前で接触した事案が2件。双方ともに転倒しかけました。(毎回のことなのでしょうけれど)1周目で既に襷受け渡しゾーンと周回ゾーンが応援と選手とでゴチャゴチャになっていたようなので、この辺もできれば整理をお願いしたいと思いました。 気になったことがもう一点。土手に上る大人子どもが今回やたらと目につきました。信じられないかも知れませんが、親子で土手から滑って転げ、木に衝突した人達を見かけました。一歩間違うと負傷していたと思います。それぐらい凄い勢いで転がってきました。この点も含め、事前周知を徹底した方が良いと思います。ヒマになった子どもたちにとっては土手は格好の遊び場なのでしょうけれど、もしも堀に転げ落ちていたらと思うと、ゾッとします。 話を戻します。秋田さんもさすがに5周目ということで相当辛いらしく、かなり息が上がっていました。ちなみに僕は3周目、しかもかなり間が空いているので肉体的な疲労感はないし、ペースは上がっていないので楽なものです。ただ、緊張から来る汗の量と精神的な疲労感は凄かったですが。 秋田さんを励まし、鼓舞し、ちゃんとゴールさせる。これが僕の本日最後の役割。下が砂利になること、左手に擬木があり、その奥に鎮座する岩木山はうっすらとしか確認できないことなどを伝えます。 多くの声援が送られる中、秋田さんもそれに応えます。いよいよトラックが近づき、更に声援が多くなります。送られているのは秋田さんに対するものですが、伴走しているこちらも嬉しくなります。ゴールゲートが近づくと、チームの皆さんが待ち構えていました。秋田さんはメンバーから手渡された幟を握りしめ、ついにゴール。 秋田さんと握手を交わし、僕の役目は終わりました。 タイムは4時間18分、前回は制限時間の4時間30分以内にゴールすることができなかったということですから、これだけでも凄いと思います。そして、順位は下から3番目。ブービーを狙えたなあ、と口々にしていましたが、確か最後の周回で一人抜いてしまったんですよね...。ああ、僕のせいだ。どうもすいません。 場所を変えて行われた反省会では、何と来年の大会では、伴走のほか、一選手として走って欲しい、との要請が。まあ、前述のとおり父が繋いだご縁なのかも知れないし、弘前公園RCから出なくとも、同じところにいるのは一緒なので、それでもいいのかなあ、と思っている次第です。 「だったら4時間切り、100番以内を目指しましょう!」と、酔った勢いで思わず放言してしまいましたが、さて、どうなることやら...。 最後に、弘前公園ランニングクラブでの集合写真。弘前公園ランニングクラブの2チームは既にゴールし、この写真に至ったのですが、実は僕の最終走はこの直後でした。でも、みんなと一緒で楽しかったです。 集合写真 キャプテン、写真撮影ありがとう!

2016年6月 7日

さようなら、ハナ

3分の1の欠落。一度は覚悟を決めていたので、そんなに辛くないハズだと思っていましたが、やはり辛いです。 DSC_0426 我が家で一番の古株だった愛犬ハナ(♀・16歳)が、6日午後9時45分、静かに息を引き取りました。 先日の脱走騒動からちょうど1週間。まあ、最後の最後にやりたいことがやれたんだから、それはそれで良かったのかな...。 彼女の生き様は、脱走に始まり、脱走に終わった、そんな感じです。別に逃げる必要なんてないのに。 DSC_2072 6日の夜、何か胸騒ぎがして20時30分頃に帰宅すると、ハナは既に骨が浮き上がった身体を自分の脚で支えることができず、這いつくばったような格好で、か細くなった声を絞り出し、吠えていました。それは、今まで僕が見たことのないハナの姿でした。既に目の焦点が合っていないような感じで、水も食事も受け付けてくれませんでした。 その日の朝家を出る時には、こんな姿になっているとは想像もしていませんでしたので、あまりの急激な衰えぶりに、少し狼狽してしまいました。人間の年齢に換算すると、犬の場合3年目以降は4歳ずつ年を取るといわれていますが、衰える時も同じスピードで衰えていった、そんな感じです。 その姿を目の当たりにし、僕はいよいよ「その時」が近いことを悟ったものの、それからわずか1時間後、ハナはあまりにもあっけなく旅立ってしまいました。妻が帰宅して程なくのことだったので、それだけがせめてもの救い。多分、帰ってくるのを待っていたんだろうな。 徐々に吠える声が聞こえなくなるとともに呼吸が大きく深くなり、最後はピンと伸ばした四肢から、まるで残された魂の糸が1本ずつ抜き取られるように3度深呼吸、そのまま全身の力が抜け、息を引き取りました...。七転八倒して苦しむようなこともなく、本当に穏やかな最期でした。残された他の2匹も、まるでその時を見守るかのように、静寂な時間が流れていきました。 彼女に変化が現れたのは、今年に入ってからだったかな。普段寝床にしている2階の階段から転げ落ちたのが、一つの転機でした。足腰が徐々に弱くなっている兆候はありましたが、その日以来、階段の上り下りは危ないということで彼女を2階に上げるのをやめ、1階の居間で僕と一緒に寝るようになりました。 土曜日ともなると、ランニングクラブの朝練から帰ってくる僕を待っていて、クールダウンを兼ねて「町内パトロール」と称した散歩に連れ立っていました。時には2キロ以上を平気で歩くので、僕は勝手に「散歩マスター」と呼んでいました。 DSC_9791 しかし、その頻度も徐々に減り、5月中旬にやっと散歩をしたのが最後となりました。 たかが犬。されど、犬。室内犬として飼っていたこともあり、寝食を共にしていたようなものなので(食事の内容はもちろん違いますが)、ペットというよりは家族に近い感じ。飴と鞭を使い分けていたわけじゃないけど、叱る時は叱り、褒める時は褒める、ということを心掛けたつもりではありました、が...。 晩年はどうしても徘徊癖や痴呆の気配が見られて、その姿に声を荒げることが多かったかも知れないです。多分それは、その状況からハナを救い出して上げることができない、自分自身に対する憤りだったのかも知れないし。 こういう言い方は良くないのかも知れないけれど、これからやらなければならないであろう、介護の練習というか心構えを身に付けさせてもらったような感じ。 脱走騒動を起こしたのが5月30日。家に帰ってきたのが、6月1日。それからわずか5日で旅立つなんて、あまりにあっけないというか、ちょっと先を急ぎ過ぎですよね。そりゃないぜ、ハナ...。でも、全員で最期を看取ることができて、正直ホッとしているところもあります。最期までハナらしさを貫いたというか、なんというか。脱走した時点である程度の覚悟もできたので、取り乱すこともなく冷静に最期を受け入れることができました。まあ、ハナにとってそれが本意だったのかどうかは、知る由もないのですが。 目がクリッとしていて小型だったので、散歩に行くと、色んな人からよく「可愛い!」って声を掛けてもらいました。しかし、他人から触られることは大人だろうと子どもだろうと絶対ダメ。手を近づけた途端に牙をむき出しにして、警戒心をあらわにし、美人がすっかり台無し。美人なんだけれど、ハッキリ言ってツンデレの性悪女。まさにツンデレラ。臆病なくせに虚勢を張る、気分屋。飼い主に似て、ひねくれ者。 DSC_0038 ...でも、憎めないんですよ。いい犬だったんですよ。毛艶も良くて、変な話ですが年齢を感じさせない犬でした。 DSC_0228 実は僕、小さい頃のトラウマがあって、それまでは犬があまり得意じゃなかったんです。だから最初うちでハナを飼うことになった時に、心の底から賛同できませんでした。あの頃は、猫が一緒に住んでいたからね。でも、不思議なぐらい仲良く共存していたハナと猫たち。その後2匹の猫がいなくなると、うちは犬3匹に占拠されることになりましたが、気づいたら僕の犬に対するトラウマも完全に払拭されていました。 何の因果か、初めて写真展に出品した一枚に、彼女の写真を入れておいてよかったな、と思っています。彼女の美形をみんなに見てもらうことができたしね。 DSC_1523 思い出は尽きないけれど、今はただ、安らかに眠って欲しい。それだけです。大丈夫だ、ハナは独りじゃない。虹の橋の向こうで、みんなが待ってるよ。 僕らもハナのことは一生忘れないし、忘れるわけがないから。 約16年間、うちの家族でいてくれて本当にありがとう。楽しかったよ。美人薄命っていうけど、あれウソだね。ハナは美人だったけど、16年も生きられたんだから。 今はまだ、心の中に穴が空いたような感じですが、徐々に埋めていこうと思います。 ハナのことを気に掛けて下さった皆さん、今まで本当にありがとうございました。心から感謝申し上げます。 DSC_0475 まあでも、家族で最期を看取るという、飼い主としての最低限の役割は果たせたのかな、と思っています。ここ1週間はちゃんと眠れなかったこともあり、僕も今は少しゆっくり休みたい、というのが正直な気持ちです。ただ、うちには3分の2、あと2匹要介護犬がいるんだよね。メソメソ寂しがっている場合じゃないんだよな。うん。

2016年6月 5日

【盛会御礼】青森●日の丸扇子隊Presents プリンス追悼会を開催しました。 #Prince #RIPPrince

時々思うことがあります。 同じ日本の中で、青森っていったい、どういうイメージを持たれているんだろう、って。 どちらかと言えばネガティヴな印象の方が強いんですかね。 寒い。遠い。田舎。日本語が通じない。実は円が使えない。そもそも何もない。人間が暗い。テレビがない。ラジオもない。お巡りさんが毎日グールグルしている。 ...うん、半分は当たりかな。完全に外れもいくつかあるけどね。 そりゃ都会となんか比較にならないのかも知れないけれど、でも、青森じゃなければ味わえないものだって、たくさんあるんだぜ。 4月21日に衝撃のニュースが世界中を駆け回ってから、日本国内でも追悼に向けた様々な動きがありました。過去の映画の映画館での再上映、プリンス・パーティー(通称「プリパ」)と呼ばれるイベントの開催をはじめとするファンの集いが最たる例。 でも、それだけのために青森から足を運ぶというのは、実は結構大変なのであります。それは、時間的にも金銭的にも。...だったら青森でやればいいべ。うちらには土台があるべ。 なぜ仙台でもなく札幌でもなく、青森なんだろう、と訝しがる声が聞こえてきても不思議ではありません。 所詮は青森、たかが青森で何ができるっていうんだ? 数の中には、そういう見方をされていた人だっていたかも知れません。 MCを置かなければならない?DJがいなければならない?ダンススペースがなければならない? いやいや、そんなことはないでしょう。その気になれば、誰かの家にファンが集まって彼について語らう。僕はこれでも十分「イベント」として成立していると思うんです。 彼が亡くなってすぐに、プリンスの誕生日の直近の休前日である6月4日の土曜日にこの企画をやろうと思いつきました。僕たちにとってプリンス最後のライブとなった仙台で一緒だった佐藤さんと舘山さんに声を掛けたところ、水面下で話がトントン拍子で進んでいきました。 「プリパとはこうでなければならない」という定義は、所詮あってないようなもの。だから思ったんです。 うちらはうちらがやれる内容、楽しめる範囲でやろう、と。それが「AOMORI Style」なんだ、と。そしてどうせならば、他ではなかなかマネのできない内容にしてやろう、と。 三人寄れば文殊の知恵ですよ。...自分で言うな、ってな。 僕はFacebookにイベントページを立ち上げ、絶対に来ることができないであろう全国のファン(それぞれの発信のツールを持ち、かつプリンスファンの間でも有名な方々)も含めて招待。あれから10年以上の月日が経ち、実は青森県内に熱いファンが潜在的にいることを、僕は知っていました。だから、そういう方々にも是非来ていただこう、と。 佐藤さんはイベント全体の企画と構成に着手。何やら色々仕掛けを考えたようです。 この日会場を貸してくださることになった、青森市安方にある「大衆酒場コンフィ」の店主でもある舘山さんは、当日提供する料理メニューの検討に着手。 僕は、小出しに情報を発信しながら、見ず知らずの人が単独でやってきても楽しめるような雰囲気をどう作り上げればいいかを考えつつ、国内外から追悼本などの入手に着手。 この間、TUNAさんやDr.FことTakkiさんには本当にお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。 さて、こうしてそれぞれがそれぞれの思惑で作業を進めていった結果、何とか開催日を迎えたわけですが、前述のとおりDJもMCもいないイベントは、果たしてどうなったのでしょう。 では、これが青森なんだよ、というのをご覧いただきましょう。 DSC_0479(壁一面プリンス) DSC_0480(追悼本など。一部は販売。) DPP_0005(トイレのディスプレイ) DPP_0009(ワイングラスと、アフロ) まず、参加者は13名で全員青森県人。女性3名男性10名という構成でしたが、個人的には女性3名の行動力とバイタリティに圧倒されました。造詣が深すぎます。オレの知らないプリンスをたくさん知っておられた。ちなみに青森県にはもっとディープなファンがいます。でも、なかなかこういう場には出てこないので、こちらから押しかけてやろうと思っていますが。 19時過ぎに佐藤さんが開宴を告げ、僕から今回の経緯と青森●日の丸扇子隊の馴れ初めとこれまでの歩みを簡単に説明した後、村岡さんの発声により、不謹慎ながら声高らかに「献杯!」とグラスを天に掲げ、宴が始まりました。 基本的にはお手製の超(?)大型スクリーン(といっても白い模造紙を張り合わせたもの)に、佐藤さん編集のDVDを投影し、それを観ながら飲んで食べて談笑する、という感じ。無心で汗だくになってダンスすることもなく、まさに彼に対する思いをそれぞれが語らうという場になりました。 そして、これぞ「AOMORI Style」。 舘山さん考案の料理はなんと、全てプリンスの曲名が付いています!ほかの地域の皆さんには申し訳ないけれど、これはなかなか真似ができるものじゃないと思います。ちなみにこの日の会場としてジャックした「大衆酒場コンフィ」は女性客も多い人気店で、なんとこの日の貸切りのせいで、約25名の予約を断ったそうな...本当に申し訳なかったです! ちなみにこれからその料理をご紹介しますが、そのほとんどがメニューにない料理ばかりだということで、まさにワン・アンド・オンリー! それでは、舘山さん渾身の料理を、ご本人の解説とともに紹介します。 【CREAM】 白レバーのクリームペースト&クリームチーズとアンチョビのディップ。 DPP_0011 【KISS】 紫色のセロリのピクルス。紫キャベツの色素をワインビネガーで抜いてセロリを漬け込みました。 DPP_0008 【7】 7種類の有機野菜とイタリア産プロシュートのサラダ。 DPP_0014 【Endorphinemachine】 覚醒系ガーリックシュリンプ。滋養強壮に良い沖縄の紫芋のお塩を使いました。 DPP_0007 【Mountains】 むつ湾ベビーホタテの瞬間スモーク パープルスティック(紫人参)のマリネと パープルスプラウト添え。 DPP_0016 【Batdance】 骨付きチキンのコンフィ&紫マスタードソース。小悪魔風のソースをカシスマスタードでアレンジ。 DPP_0010 【Raspberry Beret】 洋風モツ煮込み。5種類のトリッパ(モツ)をラズベリーとデミグラスソースで柔らかく煮込みました。 DPP_0061 【Paisley Park】 ガーリックトーストをペイズリー柄に見立てました。 DPP_0062 【Purple Rain】 ドライ紫蘇パウダー、紫玉ねぎ、紫キャベツと紫色に染めた昆布を使った和風パスタ DPP_0063 今回はエントリー料が5,000円と、他の地域にはないぐらい高めの価格設定だったのですが、なぜ高かったのか、これらの料理の質でお分かりいただけたのではないかと思います。むしろ安いぐらいでしょう? 19時にスタートし、結局23時近くまで騒いでいたんですかね、なぜか普通であればどこかの家で観るような結婚式の余興DVD(でも、これがみんな大爆笑だった)を観た後、最後はTUNAさんから提供されたDVDを観ながら、この日の宴に幕を下ろしました。(...といってもその後、2次会の会場となったソウルバーに10名も押しかけ、午前2時頃まで飲んで語っての大騒ぎでしたが。) DPP_0075 僕らはイベンターではないし、所詮は素人集団。だからこそ、どちらかと言えば参加した皆さんが和気あいあいと楽しめる環境、場の雰囲気を作り出し、僕らも一緒に楽しみたいと考えていました。お手製のポスターを持参したり、書籍やCD、DVDを持ち寄ったり。最初から手探りの中で始めた今回の企画でしたが、終わってみると参加した皆さんが楽しんでくださったようで、それだけでも十分なんじゃないかな、と思いました。 「青森で何ができるんだ?」と思われた方も、きっと一部にはおられたと思いますが、どうでしたか?いい意味で期待を裏切られたでしょう(笑)。まあ、青森はいつもこんな感じです。きっとこれからも、この姿勢は変えない、変わらないと思いますし、こんな感じでやるんだと思います。しつこいけどもう一回言います。これが青森なんです。It's AOMORI Style なんです。 次回はいつになるのかわかりませんが、興味がございましたら、是非一度遊びにいらしてくださいね。お待ちしてまーす! DPP_0105

2016年6月 3日

【いよいよ明日開催】青森●日の丸扇子隊Presents プリンス追悼会

NHKより。
ことし4月に亡くなった歌手、プリンスさんの死因について、アメリカの検視当局は、鎮痛剤などとして使われ、日本では麻薬に指定されている薬物フェンタニルを過剰摂取したことが原因だったと発表しました。 世界的に活躍した歌手のプリンスさんは、ことし4月、アメリカ中西部ミネソタ州の自宅で亡くなっているのが見つかりました。 死因について、地元の検視当局は2日、鎮痛剤などとして使われる薬物フェンタニルを過剰摂取したことが原因だったと発表しました。フェンタニルは、医療現場で鎮痛剤や麻酔薬として使われる薬物で、効き目が強く、日本では麻薬に指定されています。 プリンスさんは亡くなるおよそ1週間前、体調不良を訴えて医療機関に運び込まれ、代理人などは「インフルエンザが原因だった」などと説明していましたが、薬物の過剰摂取を疑う声が上がっていました。 アメリカでは、医療用の麻薬の乱用が大統領選挙に向けた候補者選びでも議論されるなど、大きな社会問題となっていて、今回、プリンスさんが薬物の過剰摂取によって死亡したことが明らかになったことで、薬物の規制を巡る議論にも影響を与えそうです。
ああ、そうですか。だから、何?といった感じ。あまりに痛いのでついつい鎮痛薬をたくさん飲んでしまった、そうしたら命を落としてしまった。...感情のこもっていない言い方かも知れませんが、端的に言えばそういうことですよね。 ここぞとばかりに「日本では麻薬に指定されている」というのをやたらと強調しているのが、凄く気分悪い。プリンスの死をネタに大統領選の議論にするって?ジョーカー...いや、何とか候補には語って欲しくないですな。実に感じが悪いぞ国営放送。 それともあれですかね? 「プリンス=ジャンキー」だというイメージを植え付けたいのかな。 だとしたら違いますよ。 「プリンス=ファンキー」。言葉を取り違えないように。 さて、なぜか青森という地で行われるプリンス追悼イベントが明日に迫りました。主催者の気合いがハンパなく、非常に個性的かつ特徴的なイベントになりそうです。それが青森らしいかどうかは、ともかくとして。 例えばアレとか、ナニとか、××とか、もう言いたくてウズウズしているんですが、明日のイベントが始まるまで絶対言いません。恐らくこういうのは、全国には他に類を見ないんじゃないかと思っています。 「青森、すげえじゃん!」というよりも、「青森のイベント、次は行きたい!」と思わせるような、そんなイベントになることを個人的には願っています。 ちなみに私はといえば、一応主催者の一人に名前を連ねていますが、強いて言えば裏方の文芸部門担当、みたいなものです。_20160524_224112 実のところ、主催者となっている3人はメッセンジャーでしかやり取りをしていないため、一体どんな会場になるのかは、当の本人それぞれの頭にしか入っていません。 なので、とんでもなくショボいものになってしまうのかも知れないし、単なる雑多なものになってしまうのかも知れないし、とんでもなく凄いものになってしまうのかも知れないし。 プリンスを勝手に応援する「青森●日の丸扇子隊」は、今まで内輪で2度集まったことがありますが、実はこういう改まった企画は今回が初めて。いや、改まったと思っているのは私だけかな...。 とにかく蓋を開けてみなければ分からないということで、プリンスの音楽が流れているオシャレな大衆酒場での語らいに期待よりも不安で一杯ではありますが、参加した皆さんに「また集まりたいね!」と感じていただき、そして、参加しなかった皆さんに「参加すれば良かった!」と地団駄を踏んでいただく、そんなイベントになることを期待しつつ。単なる内輪ウケになることだけは避けないと...。 会場:「大衆酒場コンフィ」(青森市安方2-17-8) 時間:19時スタート(予定では3時間程度) 会費:5千円(状況によって追加の可能性あり) ※会場は完全貸切、入場は完全予約制のため、当日突然の参加は御遠慮下さい。どんなものなのか参加してみたいという方は、4日午後12時までコメント又はメッセージ、プリーズ。 メッセージの送信先

2016年6月 1日

ハナの脱走顛末記

Moldiv_1464612611583[1] ハナ(雑種・16歳・♀)。我が家に貰われてきてから15年は経つだろうか。まだ小さく耳も立っていない頃はとにかくイタズラが大好きで、床に置いてあるものは何でも噛むという悪いクセの持ち主だった。テレビのリモコンにMDプレーヤーのイヤフォン、スリッパ、携帯電話、新聞など、破壊されたものは数知れず。ただし、人間に歯を剥けないことだけが唯一の救いだった。 走り回るのが大好き、散歩も大好き、でも実は臆病者。トイレのしつけや「お手」「おかわり」「待て」といった一通りの動作を覚えたが、実は従順のかけらもない、気分屋。嫌いなものは、雨と雷と、獣医。 以前、狂犬病の予防接種をした時、まるでこの世の終わりとばかりに絶叫し、周囲を呆れさせたことがある。 うちに貰われて来て早々に脱走事件を起こし、翌日、隣にあった蕎麦屋に「迷い犬」の貼り紙が出されていたのをきっかけに、何度脱走したか分からないぐらい脱走事件を起こした。 印象に残っているのは、脱走した小さい頃に道路の真ん中を疾走し、クラクションを鳴らされまくりながらサンダル履きで追いかけたこと、そしてほぼ1週間丸々脱走を図り、雨に打たれるのがイヤになったのかこっそり帰宅、開けていた玄関から家の中に入り、仏壇の前で何事もなかったかのごとくちゃっかり寝ていたこと。 しかし寄る年波には勝てず、次第に老化が始まり、今年に入ってからは、あれほど好きだった散歩にも行かなくなってしまった。 それに呼応するかのように足腰はどんどん弱まり、やがて耳もほとんど聞こえない状態に。お陰で、大嫌いだった雷鳴が耳に入らなくなったのは、不幸中の幸い。視力も衰え、自分の餌入れや水やりの瓶に足を突っ込むこともしばしば。 そしてそれは、トイレにも影響を及ぼすこととなり、粗相の頻度も増えていった。あちらこちらに頭をぶつけながら歩いたり、夜中に徘徊したり(しかも寝ている僕の顔を踏んづけていくこともある)、もはや完全なる介護犬状態。 食もどんどん細くなり、すっかり痩せこけ、薄い皮膚に骨が浮き出るぐらいになってしまった。 まあ、仕方ない。あとは残り少ない余生を過ごして貰おうと...思っていた矢先に、事件は勃発した。 5月30日。夜に来客があるため、定時で仕事を切り上げ、帰路に就いた。先に帰宅する母にその旨を伝え、応接間の整理をお願いした。 帰宅すると、母が青ざめ、狼狽していた。 「ハナが...。ハナが逃げてしまった...。」 「え?...えーっ!?」 母は、ハナが入って来ないように柵を立てて応接間の整理をし、玄関を開けて空気の入れ換えをしながら、車に置いたままの荷物を取りに行き戻ってきたところ、ほんの僅かな柵の隙間から外に出て行ってしまったらしい。 そして、母が気づいた時にはハナの姿はなく、既に時遅しだった。 慌てて家の外に出て周囲を探してみるが、既に暗くなり始めており、ハナの姿は見えない。聞き耳を立ててみても、物音一つ聞こえない。 さて、どこに行ったんだろう...。名前を呼んでも、耳が聞こえないので声が届くはずもなく、最悪の事態(例えば、フラフラと道路に出て自動車に轢かれてしまうといったこと)も頭をよぎった。 ...だが待てよ。あの弱った足腰で、遠出ができるはずがないのだ。 そういえば最近、やたらと狭いところや暗いところを見つけてはそこに行きたがるという一連の行動をふと思い出した。 近所の猫と一緒に、家の軒下にでも潜り込んでしまったのだろうか。 いや、ひょっとして死期を悟って人目のつかないところにでも行ってしまったのだろうか...。 20時頃、僕は何事もなかったかのように来客の対応をしていたが、まさに気もそぞろ、といった状態だった。 来客が帰宅後、母は独り居間で噎び泣いていた。 「私が気をつけていれば、こんなことにはならなかったのに...。ハナに本当に申し訳ない...。」 母は涙と鼻水を流しながら詫びるが、もう起きてしまったことは仕方がないのだ。 「そんなことを言っても仕方がないじゃない...。」 母をなだめるにも、次の言葉が出てこなかった。 来客をこの時間に招いたのは、他ならぬ僕なのだ。だから元を正せば、僕が来客を呼ばなければ、こんな事態にはならなかったのだ。誰も責めることはできない代わりに、母と僕はそれぞれ自分自身を責めていた。 結局その夜は、玄関を少しだけ開けたままにし、ハナがいつでも帰ってこられるようにした。ちょっとした物音で目が覚めた。夜中に何度も目が覚め、玄関を見てみる。しかし、ハナの姿はなかった。 結局朝4時に起床、まさかと思いジョギングがてら周囲を見てみたが、当然ハナの姿を見つけられなかった。電線の上で鳴くカラスの姿に、怯えた。 31日の午後は雨の予報だった。ハナは雨に濡れるのが大嫌いだ。帰ってくるとすれば、このタイミングしかないと思った。予報通り午後から雨が降り出した。しかも、弘前市内はかなり激しい雨脚だったようだ。 夕方、母からの「朗報」を期待したが、結局電話もメールも来なかった。青森市内も19時頃にはそれまで降っていた雨が上がったようだ。 やはり、ハナはもう最期を悟っていなくなってしまったのだろう。もはや万事休す。もう、ハナのことは諦めるしかない。気持ちを早く切り替えよう...。 この日は残業していたのだが、19時50分過ぎにふと、スマートフォンに着信があったことに気がついた。 母ではなく、妻からだった。悪い予感がした。 こちらからかけ直す。いつになく暗い声の妻が電話口に出た。 「やはり、そうだったか...。」 と、こちらから話を切り出す前に、妻が突然切り出した。 「ちょっと!保健所のホームページに、迷い犬でハナが出てる!ハナ、生きてるよ!」 僕が耳にしていたのは、いつになく暗い声ではなく、上ずった声だった。キツネにつままれたような気分だった。 「わ、わかった。すぐ見てみる!」 すぐに電話を切り、動物愛護センターのホームページを見る。「迷子動物」の一番上に、うなだれたハナらしき犬が掲載されていた。 Moldiv_1464694014239 (画像をコラージュしています。削痩の文字が切ない…。) 「ハ、ハナ...。生きていてくれたか!」 思わず涙が零れ、鼻水も垂れそうになるのをグッとこらえる。 程なく帰路に就き、スマートフォンに出るハナらしき姿を何度も確認する。ハナに間違いない。発見(捕獲)された場所は、家から600メートルほど離れた隣の町内。 そういえば以前ハナと散歩していた時に、「この犬、前にうちに迷い込んできたことがあったよね?」と言っていた家族がいたのを思い出した。その家の隣では、老犬2匹が飼われている。ハナは、散歩で何度も通っていたそこを訪れていたらしい。そして今回も、恐らくハナはそこまで歩いて行ったのだろう。そして、すっかり痩せこけたハナを見かねたその家族の誰かが、保健所に通報してくれたのだろうと考えた。 いずれにしても、妻がそのサイトを見なければ、ハナが保護されたことには誰も気がつかず、ハナは家の軒下かその辺で息絶えた、と決めつけていたはずだ。 先入観というのは、実に恐ろしいものだと思った。 帰宅すると、母がまた目を真っ赤に腫らしていた。妻から母にも情報は届いていたらしい。 「良かった...。本当に良かった。明日、必ず迎えに行く。」 実は一つ、身震いするような情報を目にしていた。 qanda ここに記述されているとおり、犬を保護した場合、「狂犬病予防法」の規定に基づき、犬を捕獲(保護)した場所を所轄する市町村又は保健所が、2日間のみ公示すること。そして、公示期間満了後1日以内に飼い主が犬を引き取らない場合、処分できることとされていること。 つまり、保健所で保護された後、最短3日で「処分」されてしまう、ということになる。 今回は偶然、妻がホームページを見てハナが保護されていることに気づいたが、もしもこれに気づいていなければ、我々はまだ生きられたはずの命を縮めてしまった、ということになる。 ふと頭をよぎったのは、7日間に渡って彷徨っていた時のこと。あの時は、ハナが家の周辺にいるのを見ていたのであまり気に留めていなかったが、万が一どこかのタイミングで保健所に保護されていたら、ハナはもうこの世にはいなかったかも知れない。 財布や大事なものを紛失した時にはすぐに警察に届けるが、大事なペットが行方不明になった時にはすぐに保健所に届けるべきだということを、強く強く感じた今回の出来事だった。 さて、ハナは無事に帰還し、何事もなかったかのようにまたウロウロし始めている。 これが今の我が家にとって、当たり前の光景なのだということを感じながら、最後までしっかりと看取ってあげようと思う。 それが、動物を飼う者の責務なのだから。 --- 最後に、今回の騒動に巻き込んでしまった皆さん、監督不行き届が招いたこのような事態に、私たちも深く深く反省しています。ハナは何も悪くありません。本当に申し訳ありませんでした。