2010年7月20日

僕の病歴

高校時代の友人が、急性ストレス障害を起こして苦しんでいるという。こういう時、何をしてやれるわけでもなく、「あまり無理するなよ」ぐらいしか声を掛けてやれないのが何だか空しい。そういえばここ数年、心の病を抱えて苦しむ仲間が増えているような気がする。

状況は全然違うけれど、以前僕も似たような症状に襲われたことがある。今日は、その症状についてここに記そうと思う。


僕は青森市内の職場に勤務して3年目の時に、急な環境の変化(職場は変わらず、周囲の人間がみんな異動になった)がきっかけで、パニック障害を発症した。

その伏線にあったのは、職場内のパワハラだった。ちなみに当時、セクハラは話題になっていたが、パワハラなんて言葉はまだ存在していなかった。

4月の異動でやって来た「ヤツ」にとって、初めて経験するその仕事は、不本意この上なかったらしく、「何で俺がこんなことやらなきゃならないんだ」といいながら、他の人のやることなすこと全てにケチを付ける同僚。そんな「ヤツ」と毎日顔を合わせるのがイヤでイヤで仕方がなかった。
書類の在処等は、取りあえず在籍3年目の僕に聞くしかなかったのだが、それすらも癪だったらしく、やがて「ヤツ」から僕に対する「言葉の暴力」が始まった。誰がそんなこと決めたんだ。お前に仕事を教えたヤツはろくでもないヤツだ。何でお前がそんなことを言えるんだ。等々...

しかも当時の上司は、そんな状況を見て見ぬふりだった。

そういう状態が半年ほど続き、実家に戻っていた時のこと。ヒマな時間をもてあました僕は、パチンコ屋に車を走らせた。
座って程なく大当たりを引き当て、ラッキー♪とほくそ笑む僕に、突然言いようのない圧迫感が押し寄せた。

何の前触れもなく、いきなり心臓が激しい動悸を起こしたのだ。こんな症状に陥ったことは今までなく、あまりの苦しさに店員を呼び、「トイレに行きたいので...」と事情を告げた。もちろんそんなのはウソで、ホントはトイレで気持ちを落ち着かせるためだったのだ。

何なんだ?これは。何が起きているんだ?

全く事態を飲み込むことができなかった。

気を落ち着かせ、高ぶる鼓動を押さえるため、トイレで深呼吸(爆)をしたあと席に戻ると、代わりにハンドルを握ってくれていた店員がいぶかしげな表情を浮かべていた。さて、出玉を交換して早いところ家に帰ろう。これは何かがおかしい...と盤面を見ると、4つの保留玉からリーチが掛かり、何とまたしても大当たり。更に心臓の動悸が続き、再び店員を呼ぶ僕。

さすがに店員から「大丈夫ですか?」と声を掛けられるが、気丈に「大丈夫です」と言うしかない。

結局3連チャンで箱を3つまで積み上げた僕、逃げるようにパチンコ屋を後にした(しかもその店は等価交換だったので、3万円近くが財布の中に収められた)。
おかしい。何かがおかしい。これは大変なことになるぞ...。依然として断続的に動悸が続いている。
やっとの思いで車のハンドルを握りしめ、通りがかりの薬屋に駆け込む。

「す、すいません。宇津救命丸を...。」

僕はここで大きな誤りを犯したことに気づくことなく、家に這うような気持ちで帰宅(ちなみに途中から、どこの道を走って家にたどり着いたかは記憶なし)。

たまたま居合わせた妹に「頼む、病院に連れて行ってくれ...。」
後で聞いた話では、この時の僕の顔は、青ざめるのを通り越し、土のような色をしていたらしい。

その前にクスリを...宇津救命丸を取り出すと、すぐにそれが間違った薬だったことに気づいた。僕が欲しかったのは子供の夜泣き、疳の虫に効く「宇津救命丸」じゃなくて、「救心」だったのだ。嗚呼...。

妹の運転でかかりつけの病院に行くと、尋常ではない僕の姿に看護婦が「すぐに診察しますからね」と声を掛けてくれたが、その後のやりとりは全く覚えていない。妹も何かを言っていたようだが、意識が遠のいていて、全くわからない。

横に寝かされ、肩口に見たこともないような太い注射を打ち込まれたことだけはうっすらと記憶している。しかし心臓のバクバクはすぐには収まらなかった。そんな僕に医師が一言。

「一人で抱え込んじゃ駄目なんだって。」

その言葉を聞いた途端、別に泣きたくないのに、目からポロポロと涙が溢れてきた。

その場での所見は「自律神経失調症」だった(やがてそれが「パニック障害」であることを知るんだけど)。

病院での会計を済ませる際、妹は何で兄がこんな大金を財布に入れているのか、不思議に思ったそうだ。そりゃそうだ、パチンコの勝ち金で財布がふくれたんだから。

結局入院することなくそのまま帰宅。余りに激しく動いた動悸のおかげで、胸が本当に痛かった。その時は、妻とはまだ結婚していなかったのだが、仕事を終えて家に立ち寄った妻は、横になって動けぬままの僕の姿に、事情がよく飲み込めなかったようだ。

その日以来、長時間の移動が困難になってしまった。幸い青森まで約1時間のところにアパートを借りていたのだが、アパートに戻る時は何度も車を停め、呼吸を整えるという有様。電車に乗ることさえも怖くなってしまったのだ。

それでも翌週、僕は何事もなかったかのように出勤した。動悸が引き起こした胸の痛みはまだシクシクと続いていたし、あのイヤな「ヤツら」(この時点で「ヤツ」と歩調を合わせる同僚が現れていた)と顔を合わせなければならないこともわかっていたが、まさか彼らが大なり小なりの影響を与えていたとは気づいていなかったし、それに、ぶっ倒れたなんて聞いたら、彼らがますますつけ込んでくることは目に見えていたのだ。

結局その後、念のため心電図を取ったり精神安定剤やらを処方された。だが、症状はあまりよくなっている感じがしなかったし、突如襲ってくる「あの感覚」の恐怖は、なかなか払拭することができなくなってしまった。

それ以来、仕事も満足に手に付かなくなった。外業がメインのその職場にとって、車に乗ることへの恐怖が払拭できず、内業ばかりを続ける僕は異質に見えたらしい。それを見た同僚のパワハラはエスカレート。周囲には「仕事をしないヤツ」と吹聴されるようになり、冷淡な視線ばかりを感じるようになった。この時、初めて「仕事を辞めたい」という思いに苛まれた。

数ヶ月後、ようやく地獄のような環境から脱出することが決定。八戸市内への異動が決まったのだ。

ところが、八戸市内に異動になった後も、異動先に電話が掛かってきて、引き継いだ内容の確認が続いた。捨て台詞のように、「お前のやったことは全然なっていない。」と言われるなど、散々罵倒され続けたが、やがて連絡は来なくなった。

しかし、しばらくクスリへの依存は続いた。しかも、かかりつけの医師から紹介状を書いてもらった八戸市の医院で処方された薬は、頭がガンガンするほど強い薬で、この時ばかりは具合の悪さに仕事を休んでしまった(その時も自律神経失調症だと言われたが、当時パニック障害という病気はまだ市民権を得ていなかった。僕は、自分の症状が大分和らいだ頃に、パニック障害を発症していたことを知るんだけど)。それでも、以前と比べると症状は大分和らぎ、自分で車を運転することも支障なく行えるようになったし、電車に乗っても切迫感を感じることはなくなった。大嫌いだった飛行機にも乗れるようになった。でも、八戸市と弘前市の医院、2件のはしご状態はしばらく続いた。ちょうどその頃、妻と函館を訪れているのだが、今振り返って当時の写真を見ると、あの頃の表情はまるで覇気がなかった。

ようやく症状が緩和されてきたのは、次の職場に異動した後だった。見たくもないヤツが、たまに職場にやってきたが、僕も向こうも完全に知らん顔だったし、特に話をすることがあるわけでもないので、ハッキリ言えば無視を決め込んでいた、といってもいいだろう。

クスリを手放したのは、発症してから6年目のこと、次の職場に異動してからのことだった。三十路を迎えるに当たり、記念受験ではないが、一つの区切りとして10キロマラソンに初挑戦したが、もう大丈夫なんだ、という自信を得たくて挑戦したという一面もあった、ということを今だから明かそう。

僕が何とか立ち直れたのは、職場を転々と異動したこと、つまり環境が変わっていったことに他ならないだろう。これでもしも最初の職場にあの連中とずっといたらと考えると、虫酸が走る。イヤ、その前に仕事を辞めていたかも知れない。

もう一つは、次の職場から転々と異動した先での理解があったことだ。病名は明かさなかったのだが、20代半ばの若い男が大量の薬を服用する姿はやはり奇妙だったようで、具合が悪くて休んでも、それを咎めるものは誰もいなかった。

もう一つは、家族の理解があったこと、そして良き伴侶を得たこと。僕がここまで立ち直れたのは、これに尽きると思っている。

心の病に、例外はない。「自分だけは大丈夫」と思っている人が、ひょんなことをきっかけに発症する。

最初は、自分がそういう病に冒されたことへのショックと失望で、何も手に付かなくなるかも知れない。でも、心の病は一朝一夕で元に戻ることではなく、長い付き合いを覚悟しなければならない。

なので、そういう自分を受け入れることが、まずは重要になってくる。

早く治そうと焦らないこと。焦りは絶対禁物なのだ。焦れば焦るほど自分を追い込むことになるから、どんどん辛くなる。

そして、これが今の自然体なのだと開き直ること。

病気も仕事も私生活もガチンコで取り組むんじゃなくて、程々にちょうど良くやればいいんだって、ちょうど良く。

今でこそあの頃の話は笑って話せるけれど、当時を思い起こすと苦々しいこともあるのも事実だ。
それに、今でも時々「ヤツ」と出くわすことがあるが、会釈程度ならできるようになった。それが大人の対応ってものだ。

いずれにせよ、あの頃の(病気も含めた)辛い経験は、今の僕の血となり肉となっていることだけは、ハッキリ言っておこう。

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コメント(3)

何事も一生懸命適当に生きてます。

大変だったですね。
胸がつまりました。
屈折して物事を(自分の都合のよいように)受けとめたりなさらないあなたの素直でまっすぐなお人柄が深く胸に迫ってまいりました。

皆様ありがとうございます。所詮僕の経験話ですので、一般論ではないという前提で読んで頂ければありがたいです。

でも、あの時文字通り「死ぬ思い」をしたから、今こうやっていられるのかも知れません。

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