2010年8月 3日

ねぷたバカの三回忌

弘前市内はこの時期になると、あちらこちらからねぷた囃子の音が聞こえてくる。ねぷたまつり2日目の昨晩も、22時過ぎに隣の町内会のねぷた囃子が響いてきた。今朝になって知ったことだが、この町内会は8年連続で「県知事賞」(ねぷたまつりの最高賞)を今年も受賞したそうだ。恐らくこれから6日までの連日、22時過ぎにはねぷた囃子が響いてくることだろう。

うちの町内会もねぷたを出陣させているが、賞などお構いなし、もはや出ることに意義がある、といった雰囲気だ。僕自身、ねぷた自体は嫌いではないが、かれこれ20年以上町内のねぷたには顔を出していない。厳密に言えば、ねぷたそのものを10年以上まともに鑑賞していないのだ。

町内のねぷた小屋ではまつりに向けて、平日は夜間、土日となると昼夜問わず作業が続いていた。
しかし、父の遺志を胸に何かお手伝いしたい反面、作業をしている人がある程度高齢化かつ固定化されてくると、逆に入る余地がないというか、敷居が高くなりすぎているというか...。(という都合のいい言い訳。)

ちなみにうちの父は、バカがつくほどねぷた好きだった。いや、「まつり」が好きだった。「まつりごと」も好きだったようだが(笑)。

ねぷたの運行期間ともなれば、連日のようにあちらこちらのねぷたに顔を出してはビールを浴びるだけ飲む。要するに、ねぷたが好きなのではなく、ねぷたに乗じて大手を振ってビールを飲む機会が与えられるということが、父をねぷたに駆り立てる一番の理由だったのだろう。

その一方で、肩書きだけではあったが、町内のねぷた愛好会会長という役職も頂いていて、ねぷた運行の際には「運行責任者」なんていう仰々しい襷を肩から提げつつ、運行が終わり、ねぷた小屋の清掃や片付けが始まる頃にはベロベロに酔っ払っていたであろう父。

かといって何か作業を手伝うといったことはほとんどなく、僕の記憶では僕が高校生の頃に、出陣のために待機場所までねぷたを牽引していったことが一度あったかどうか(ちなみにうちの町内は待機場所まで比較的近いため、当時は人力で牽引して行った)。

そう考えると、父は恐らく相当数の方々にご迷惑を掛けたことだろうと思うし、相も変わらぬ暴言で大勢の方々を不快な思いにさせたことだろう。長男として、まさに忸怩たる思いだ。

しかし僕自身、弘前市民でありながらここ最近はねぷたを鑑賞する機会がほとんどなくなった。青森市内の職場と家の往復で、しかも青森市ではねぶた祭りも開催されている。ねぶたの観覧客に紛れ、職場から青森駅にたどり着くまでも一苦労、電車に揺られて帰るのもやっとなのに、わざわざねぷたを観に行こうという気分にならないのだ。
もっとも、弘前駅に到着し家に向かうと、小屋に戻る途中のねぷたと遭遇する機会はあるものの、ドッカリと腰を落ち着かせ、次から次へとやってくる扇に描かれたねぷたに拍手喝采、という機会がなくなったのだ。

...いや、前述のとおり、敢えてそういう機会を避けているといってもいいだろう。
ただ、理由は他にもある。

父が居なくなってから、ねぷたを観る気はますます失せてしまったし、優雅に進むねぷた運行の列に、缶ビール片手に喜色満面の笑みを浮かべる父の幻影を求めてしまいそうな気がしてならないのだ(もっとも、晩年はそういうこともあまりなかったようだが)。

弘前ねぷたは、18世紀初頭以降、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆灯籠などから変化して、華麗に発展してきたというのが定説となっている。

しかし、バカがつくほどねぷた好きだった父のことだ。
ねぷた囃子の音色に誘われるがまま、お盆が待ちきれなくなってどこかの町内会に紛れて缶ビール片手に一杯引っかけているかも知れない。いや、一杯と言わず、ベロンベロンになっているかも知れない。

ねぷたは、津軽地方の夜空を焦がす短い夏の風物詩。
ねぷたが終わると、一気に秋めいてくる。

そして、もうすぐ父の三回忌がやってくる。

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