2010年9月 3日

S係長との思い出

今から約10年前のこと、本店を追い出され西津軽郡鰺ヶ沢町で2年間勤務したことがある。正直、赴任当初は「何で僕が...」と、かなりふてくされていたのだが、上司や同僚に恵まれた事も幸いし、非常に充実した2年間を送ることができた。

何よりもこのあと、僕は無理を言って弘前大学大学院への派遣研修公募に申し出、上司や同僚の方々の後押しもあって、次の2年間を「大学院生」として過ごすことになるという、ある意味仕事においても人生においても、いろんな岐路に立った時期であった。大学院での2年間は、正直言って胸を張れる程の実績を残したワケでもないし、何となく消化不良気味に終わってしまったことがちょっと心残りではあったが、この時に得た知識と人脈は、多少なりとも今の僕の中で息づいている。

さて、鰺ヶ沢町の話に戻るのだが、この時の上司は僕にとって本当に「拾う神」ばかりと言っても過言ではないぐらい、いろんな面でサポートして頂いた。

とりわけ直属の上司であったS係長は、いろいろとご面倒を掛け、そして迷惑を掛けられた一方、最後まで大学院への派遣を後押しして下さった方だ。

そのS係長が、57歳という若さで亡くなった。

早大卒のS係長は、その知己と見聞を生かし、冷静沈着な判断をされる方だった。「あれ」さえなければ、恐らくそれ相応の要職に就けるぐらいの方だった、かも知れない。

S係長の足を引っ張り続けた「あれ」とは、自身の酒癖の悪さだった。といっても鰺ヶ沢に異動してから始まったことではなく、八戸で勤務していた時も、職場こそ異なってはいたが一緒に仕事をする機会が幾度となくあり、その日その日で機嫌が良かったり最高に不機嫌だったりと、非常にムラのある方だという印象を強く抱いた。そしてその後、それが「酒」によるものだということを知ることになる。

当時はまだ東北新幹線が盛岡までしか開通しておらず、青森・盛岡間は特急「はつかり」が走っていた時代だ。聞いたところによると、青森市から八戸へ通勤していたS係長は、二日酔いで幾度となく寝過ごすこととなり、気がついたら八戸を過ぎ、三戸、二戸、一戸、時には終点盛岡で目が覚めるということもよくあったらしい(もちろん休み扱い)。

人間、そんなに簡単に変わるものではない。鰺ヶ沢に異動になった時も酒癖の悪さは変わらず、しかも鰺ヶ沢町内に部屋を借りていたS係長は、ほぼ一日おきに深酒するという癖を掴んだ。月曜日に機嫌が悪ければ、水曜、金曜日も機嫌が悪い。火曜日に機嫌が悪ければ、木曜日も機嫌が悪い。しかも、顔を真っ赤にして(要するにまだ酔っ払っている)やってくるため、まるで赤鬼のような姿。それも、タクシーに乗って。いっそ出勤して貰わない方がよいのだが、出勤したが最後、電話や周囲に当たり散らし、憎まれ口を叩くこともしばしば。口なら誰にも負けないとばかりにあちらこちらで理不尽も含め挑発的な態度で相手を指弾し、泣かされた人がいたことも知っている。こういう日は当たらず障らずが一番ということで、電話を取り次ぐ以外は会話しないこともしばしば。

そんな姿に見かねた他の上司がS係長の勤務態度を咎めた事もあったが、プライドが高かったこともあってか聞く耳を持つはずもなく、S係長のいない場で「悪いな...」と謝られた、なんてこともあった。

笑ったのは、職場の裏に自動車学校があり、真顔で「免許、取ろうかな...。」と言った時だった。あんな毎日酒臭を漂わせている人が免許を取れるはずもなく、結局企画倒れに終わったようだが、その後も免許を持たぬまま、各地を転々としていたらしい。

職場の忘年会の時は「いいからうちに泊まっていけ。」と散々連れ回され、夜中2時頃にようやく係長宅に到着すると、奥様がご丁寧に三つ指をついて待っていた、ということがあった。自宅に上がっても飲まされ続け、結局僕は3時にはギブアップしたのだが、その後独酌で朝方まで飲み続けていたことを、僕は知っている。

次の職場、つまり大学院派遣が決定した時は、誰よりも喜んでくれたS係長。
「一度出る以上、この部には戻って来ちゃダメだ。」
相変わらず顔を真っ赤にし、座った目で説教された日が懐かしい。

どうやらその後、その奥様とも離婚されたらしく、最近はお母様と二人で暮らしていたようだ。

まあ、恐らく酒か煙草で身体を壊したのだろうけれど、僕にとっては数少ない反面教師のような存在だった。
プライドが高い反面、毎日を酒に頼らなければならないぐらい弱い一面も持ち合わせていたのだろうか。

明日、お通夜が営まれるという。最後のお別れをしてこようと思う。

合掌

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